明治から平成を駈けた女 第28章 


 葉は枝を離れ、風はイクの心を震わせる。

 秋も深くなってくると、庭の木々から一枚一枚と木の葉が落ちて、柔らかな太陽の光が小さな縁側に直接入る様になった。その光の中で、イクは庭を眺めていた。
 イクは、自分自身、少しずつだが、気が付いていた。生きる力が少しずつ減少している事に。だから、最近、生きる力とは何だろう、と考える。単に生きる力の意味を世のため人のために一生懸命働く事を意味するならば、働かないイクは生きていないと言えるのかもしれない。病人や老人を除いた、この世に存在する多くの人々は、それなりに一生懸命働き、生きている。死に至るまで、生命のある限り、生きていると言うのかも知れない。それ故、彼らは、十分、存在していると言えるのだろう。では、自分は、どうなんだろうか。イクは深く沈み込みながら考えた。
 生きるとは、単に、息をする事を意味しているのではない。仕事を辞めるまでイクは、逞しく生き、誰にも負けずに生き抜く力を持っていたではないか。その意味で、イクは、意志、意欲、勤勉、努力、責任、忍耐等をもって生活し、強く生きてきたと言えた。しかし、今のイクには、昔の様な生きる力は、ない。これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために、生きる力は、逞しさは必要と言う事にイクは十分理解できた。今の自分には、その力が無い事に気が付き、不安になった。

 イクは、自分の衰えを決して認めようとはしなかった。その一つに、頭髪に白髪がない事に拘った。
 白髪のない事が、イクの生きる為の条件であり、まだ若いという事の証明だと思い込もうとした。毎日、白髪を徹底的に取り除いた。誰が何を言おうが、イクは、自分の白髪を毎日せっせと毛抜きで抜く事に専念した。どんな小さくて短い白髪も、上手に見つけて毛抜きで抜いた。その後に、毛生え薬をたっぷりと振りかけた。
 イクは、希望のない時間との戦いに疲れていたのかもしれない。
 しかし、その疲れを家族には決して見せようとはしなかった。毎日が絶望との戦いであった。無為な時間だけが目の前に横たわっていた。今は、この白髪退治を生きがいにすら感じた日々であったのだろう。

 夜、イクは空を見上げて、月の明るさを見つめていた。希望のない時間だけが過ぎ去っていった。
 イクの顔の皺は、深く彫りこまれ、その皺の深さがイクの人生の苦闘と共に、思いの深さを物語っていた。イクは、涙脆くなって、人が居なければ涙が落とす毎日であった。悲しみの涙ではないはずだと思っていた。辛かった人生への涙でもないと思う。世の中や家族の仕打ちに対しての恨みの涙でもない。
 イクは、疲れていたのだろうか。
 振り返った人生には、多くの恨みがあった。多くの関わった人々に対して、イクは、真面目に自分なりの愛情を持って接してきた積りであった。関わりもなければ恩義もない人々に、看護婦や保健婦として誠実に接してきた積りであった。
 戦地から日本に帰ってきたばかりの時は、大いなる怒りと共に陰鬱な気分に浸った時もあった。自暴自棄になったり、無茶苦茶に暴れたいと何度思った事だろう。自分は真摯に従軍看護婦として働いてきただけだ。人の命をいとおしいと考えて、兵隊どころか、現地の人々にも限りない看護奉仕を惜しまなかったはずである。敗戦以前には、どんな人々もお互いの敬愛と尊敬があった。そんな仕事に従事しているイクを家族や妹達、親類縁者も誇りに思っていたではないか。
 ただ敗戦と言う事実が、従軍看護婦として働いてきただけのイクを、まるで戦争犯罪者のように、疎ましく考えた親や妹達の事を思い出すと今でも心が煮え立った。思い出しては、何故と考える。いつも、イクは、虚しく自分の心に向かって問い掛けるのであった。分かっていても、やはり問い掛けずにいられなかった。答えは分かっているのだが、やはり、今のような時間の経過を待つ身には、昔の事を思い出しては、同じ問答を繰り返す。
 そして、問い掛けても虚しかった。自分の老後は、薔薇色のはずだった。楽しいはずだった。あれも、これもしようと、楽しみにしていたはずであった。
 イクは、夫の矢助には、力では負ける。確かに客観的には、負けるが、人生を捨てないで今日まで頑張ってきた。矢助と違って、自分は立派だと、胸を張る時もある。男と違って、女はストレスに強く、打たれても立ち上がる力を持っているからだろう。矢助は、毎日、愚痴と無気力の中で生きていたように思う。私は、そんな矢助とは違うんだと思っては、しかし、今は、矢助とどれほどの違いがあるのだろうか、と、考えた。


 息子の太郎の転勤で、イク達も一緒に東京に出る事になった。

 東京に出てきた事によって、イクの生活は、大きな変化があった。以前のような、虚しさは、暫く影を潜めた。
 イクは、東京の社宅が思ったより広いので、ご機嫌が良かった。しかし、古かった。夜になると、壁や天井の隙間から星が見える。雨が降ると、バケツで雨漏りを受ける。会社にその事を話すと、その内に見に来ると言って、中々見に来てくれなかった。しかし、前の社宅の広さから見ると、畳の間が6畳、4.5畳、それと、6畳の板の間と台所があった。床の間付きの6畳は、イクと矢助の部屋とし、その部屋続きの4.5畳は太郎の部屋にした。勿論、板の間は嫁の部屋とイクは決めた。誰も文句は言わなかった。この時には、産まれたばかりの孫が居たので、嫁と孫は、板の間で寝る事に決めた。
 庭が広かったので、矢助は、花を植えた。相変わらず、酒を楽しむ生活は、変わらなかった。イクは、満足であった。雨漏りのする部屋は、嫁が寝る板の間であって、自分達の畳の部屋は、大丈夫だった。風通りも良い快適な部屋であった。相変わらず、粗末だが、美味しい食事が出てきた。嫁は、太郎の転勤と共に仕事を辞めた。しかし、倹約家の嫁は、貯金を持っていたので、イクや矢助は、食事代も出す事をしなかった。

 もう一つ、大きな変化があった。それが、娘の登場であった。東京に住む娘の登美子が、ちょくちょく訪ねて来ては、イクや矢助の年金を当てにしていた。浪費家の登美子は、夫が高給取りであっても、まだ足りなかった。登美子の夫の半分ももらっていない太郎の給料では、二人の親の食事を加えると、十分でなかったので、嫁は自分の貯金を取り崩して、何とか、苦しい家計を遣り繰りしていた。登美子は、子供が一人の3人の核家族であったので、自分の趣味や旅行、買い物を楽しんでいた。着ている物もブランド物で、自慢げに嫁に見せびらかした。装飾品も、指輪にネックレス、それとイヤリング等、見せながら、その値段を自慢していた。
「夫の朝食は、チョコレートとコーヒーがあれば、十分なのよ。」登美子は得意そうにイクに言った。
「へ〜え、それで、文句、言われんのかね。」イクは、心配して登美子に聞いた。
「今まで、文句を言われた事はなかったのよ。勿論、夫は、それで十分だと、言っているわ。」心配するイクに対して、からからと笑いながら、言った。
「今度、利穂子と一緒に京都へ遊びに行くから、お餞別を出してね。」登美子が言った。「何か、美味しいものをお土産に買ってくるからね。」
「お土産はいらないけど、お餞別は、出してあげようね。」イクは優しい声で、登美子に言った。年金が、昨日入ったので、懐は暖かかった。又、その事を登美子は十分知っていた。
「これは、あんたの分ね。これは利穂子の分だよ。」
「有難う。助かるわ。」登美子は、嬉しそうにイクから小遣いを貰って、そのお金を自分の財布に入れた。
「あんたも、自分の親から小遣いを貰ってきなさいよ。」と、お茶を運んできた嫁に、イクが言った。
「彼女は、自分の親から貰うにも、親の家に行けないから無理よ。」登美子が、冷ややかに言った。
「そっか、遠すぎるから、行くとなると、泊りがけだから、出すわけには行かないもんね。」イクも、登美子と同じく冷ややかに言った。
「……。」嫁は、お茶とお菓子を置くと、何も言わず、頭を下げてから部屋を出て行った。
「相変わらず、ぶすな嫁だよね。」登美子は吐き捨てるように言った。
「おとなしいだけが取り柄だよ。」イクも登美子に合わせて言った。
「でも、あんなのが、意外と気が強いのかもしれないから、お袋さんも気をつけたほうが良いかもね。」登美子の声が、台所に居る嫁の耳にも届いた。
「ほんとだよ。」イクは、さらに声を上げながら、登美子に言った。「近頃では、ふくれっ面をしている事が多いのだよ。」
「いよいよ本性が出てきましたか。」登美子の声は、面白そうだった。「これから、嫁姑の力くらべだね。」
「わしは、あんなもんには、負けんわい。」イクは、力をこめて言った。「今まで、しっかりと嫁教育をしてきたから、あんたは心配しられんな。」
「お袋さん相手なら、勝つ人は、誰も居らんかもね。」登美子は、大声で笑いながら、音を立ててお茶を飲み、お菓子を食べていた。


 最近のイクは、毎日が面白くなかった。

 この頃の働く人達の所得は、総理府統計局の家計調査によると、1世帯当り年間実収入は105万円(月平均 8万7600円)と言われていた。ボーナスも1世帯当り夏期が6万2400円、年末が11万3900円で、前年に対して伸びていた。
 太郎の給料は、その平均よりも下回っていた。やっと7万円を超えたばかりの給料になっていた。そのうち3分の1は太郎の小遣いとして引かれていた。そればかりか、その残りの半分は矢助に渡していたので、その残りでは、5人の生活は厳しかった。だから、食べるのが精一杯であった。イクは、以前のような贅沢の出来ない食生活が不満であった。世の中は、空前の大型景気だというのに…と、呟いた。
 1965年11月から始まったいざなぎ景気は、69年になっても上昇を続けた。これは1958年から始まった岩戸景気を上回る戦後最長の記録であり、空前の大型景気の年でもあった。自動車会社も低価格の大衆車を発売し、マイカーブームが起こり、東京オリンピックを機会にカラー放送が本格化した事からカラーテレビの普及率が急速に高まった。車(カー)、エアコン(クーラー)、カラーテレビが、3Cといって新・三種の神器と呼ばれ、消費の大幅な伸びも見られた時代であった。
 イクの家ではクーラー所か、カラーテレビも買えなかった。世の中景気が良いというのに、イクの周りは、しみったれた空気しかなかった。

「あんたの切り盛りが下手なんだよ。ちゃんと遣り繰りをしなさいよ。」イクは苛々して嫁をしかりつけた。
「おかあさんは、そうおっしゃいますが、お米も10キロ1250円から2070円になりましたし、その他の物も2倍近く値上がりしてきています。太郎さん一人の給料だけでは、5人の食費は厳しいのです。」珍しく嫁は、イクに口応えをした。「せめて、太郎さんの給料が、物価の半分でも上がってくれれば良いのですけど…。」
「少ない給料だったら、少ないなりに、キチンとやるのが主婦の仕事だろう。」イクは、非常に腹が立った。口応えも許せないし、太郎の給料が少ないから5人が食べれないとは…、自分達二人が邪魔だと言われた様で、心が波立ってきた。「あんたは、自分の言っている事が分かって言っているのか。」
「分かっています。だから、少しでも協力をお願いしたいのです。例えば、おとうさんが飲んでいらっしゃる900円のお酒代は、おかあさん達に出していただきたいと考えているのですが…。」嫁は、覚悟の上の言葉を出した。
「酒ぐらい、お前が出してもたいした問題ではないねか。たった900円だろう。」矢助が聞き捨てならないと二人の間に割り込んで怒鳴った。
「そうおっしゃいますが、1週間に1本、ひと月で4本、3600円は太郎さんの給料の5%以上になります。食費は、全く足りず、毎月赤字です。このままでは、私は家計を切り盛りしていく自信がありません。何とか、お酒代だけでも協力して頂きたいのです。」従順だと思っていた嫁の言葉とは思えなかったが、きっぱりと言った嫁にイクは怒りを覚えた。
「わしの好きな酒を止めろというのか。」矢助は、嫁に向かって、怒鳴った。
「そうは、申していません。せめて、お酒代を出して頂きたいとお願いしているのです。」今にも、殴りかかろうとした矢助の様子に、嫁は、怯えながらも畳に手をついて言った。「おかあさんは、おねえさんの登美子さんに、何万円もお小遣いを上げられます。それからみると、たった3600円なんか、安いものではありませんでしょうか。」言葉は丁寧だが、言葉の調子は厳しかった。
「……。」イクは、嫁の理屈に大きな腹立ちを覚えた。暫く、考え込んでいた。
「お前は、親を馬鹿にするのか。」矢助は、嫁に向かって拳を上げた。
「もし、私を殴られるのなら、私は、この家を出ます。」嫁は、拳を受ける覚悟もあったが、家を出るという覚悟もしていた。というのも、イクは酔った矢助に良く殴られているのを見ていたからだった。
「む、む…。」絶句したまま、矢助は、振り上げた拳を下ろした。
「生意気な嫁だよ、あんたは…。」イクは悔しさのあまり、声を荒げた。
「私は間違っている事を言っておりますでしょうか。」嫁は、冷ややかに言った。「毎月、太郎さんが給料の3分の1をおとうさんにお渡ししておりますでしょう。その分だけでもお返しくだされば、どんなにか助かりますものを…。太郎さんには、おとうさんに渡しているお金を不足分の家計にまわして頂きたいと、いつもお願いしておりますが、聞いてくれません。ですから、本当は、お二人の食費を…と思っていますが、せめてお酒代だけでもお願いしたいのです。私が持ってきた貯金もすっかり底を突きましたから、もう余裕はないのです。お願いします。」
「太郎が、くれた物は、わしのもんじゃ。嫁のあんたが、何と言おうとも渡さん。」声高に矢助は、怒鳴った。
「そうとも、わしらが貰ったのは、あんたの働きではないのじゃ。太郎が働いたものをわしらがもっらって居るのじゃ。誰がやるもんかい。」イクは、吐き捨てるように言った。
「だから、お願いしているのです。このままでは、とてもやっていけません。協力をお願いしているのです。」嫁は必死に懇願した。「お姉さんの登美子さんにお渡しする半分でも、いえ、その一部でも良いのです。お願いします。」
「かあちゃんや、あんたが登美子に小遣いを遣りすぎると、この嫁は非難しているよ。」
「わしの金を誰に遣ろうと誰にも文句を言われる筋合いは無い。」イクはきっぱりと言った。「この話はこれ以上話し合う必要はない。お仕舞いじゃ。」
「でも、おかあさん。お願い…。」嫁は言いかけた。
「そんなにわしらが邪魔だと言うのか、あんたは…。」怒りに目が眩んだ矢助は、嫁を憎々しげに睨みながら叫んだ。
「そうか、お前は、わしらをこの家から追い出そうと思っとるのか。そう言うのなら、わしらは、この家を出ていってやるわい。」イクは叫んでいた。「さあさ、とうちゃんこの家を出る用意をせんまいけ。」
「いえ、そんな事を言っている訳ではないのです。お願いですから、そんな事を言わないでください。」
「い〜や。あんたはわしらが居る事が嫌なんじゃ。さっさと、出ていってやるわい。こんな家。」
 イクは、矢助を急かして家を出る準備を手早く終えた。
「こんな雪の降る中をわし等のような弱い年寄りをこの家から追い出そうと言うんだね。全く、あんたは鬼だよ。」イクは、嫁の悪口を言いながら、玄関から雪の降る外に出た。東京にしては、珍しく大きな雪が降っていた。
「おかあさん、私は、そんな積りで言ったのではありません。どうぞ、家を出るなんて言わないで下さい。お願いします。」嫁は、深々と頭を下げた。そして、イクの体を玄関の方に押した。
「だって、あんたは、わし達がこの家に居て欲しくないからあんな嫌みを言ったんだろう。」イクは、どうしても家を出たくは無かった。そこで、もっと嫌みを言って徹底的にこの嫁をぎゃふんと言わせたかったので、声を荒げて大きな声で叫んだ。「親を大事にしない嫁なんかの顔を見たくないもんじゃ。だから、わしらもここには居れんわい。」
「おかあさん、済みません。ご免なさい。私が悪うございました。」何度も嫁は謝った。
「本当に心から謝っていないよ、あんたは。本当は、わしらが邪魔なんじゃろ、そのあんたの根性が良く分かったよ。だから、わし等は、ここには居る事が辛いんじゃ。こんな鬼嫁の居る所に居れるか。」矢助もイクと共に、嫁に対して罵って言った。
「そんな事をおっしゃらないで下さい。お願いします。どうぞ家に戻ってください。」嫁は必死で二人に言った。
「そこまで言うのなら、戻らんわけではないわい。」矢助は、寒さの中で早く家に中に入りたかったが、イクの決める事だと考えていたので、イクの方を見た。
「本当に謝る気持ちがあるなら、土下座しろ。」イクは嫁に向かって言った。
「分かりました。私が悪うございました。」雪の降る中を、泥まみれになりながら、嫁は深々と冷たい雪交じりの中で、凍りついた泥んこの地面に手をついて謝った。
「そんなに言うのだったら、仕方ないね。とうちゃん、嫁の頼みを聞いて、家に戻ってやらんまいけ。」イクは矢助に言って、家の中に入っていった。
「……。」嫁は、泥のついた手足や洋服を洗いながら、心の中で涙を流した。
 後5年、我慢しよう。それからこの家を出ようと決心した。5年経てば、わが子は小学校に入る。そうすれば…、と考えた。5年では少ないかも、やはり10年間辛抱しよう。嫁は、歯を食いしばった。
 いや、いや、別れはいつか確実にやってくる。その日は、間違いなくやって来る事を想像した。それまでの辛抱だ。人間はどんどん年齢を重ねていく。皆、平等に月日は流れていくのだ。生まれる事と死ぬ事は、人間ばかりか、動物も植物も全ての運命であり、森羅万象の約束事だ。出会いには必ず別れもあるように、自然の摂理だ。これからは、なるべく話さない、関わりを少なくするように、又、無感情にし、舅姑との会話もしないようにしなければならない。勿論、笑う事も声を出す事もしないで無感情が、この私に残された、知恵なのかもしれないと嫁は考えた。二人を信用しなくなって、二人への執着を持たない事が肝心なのだろう。
 猫が、一匹鳴きながら窓の外を通り過ぎた。
 この猫の方が、こんな悩みもなく幸せなのかもしれないと、嫁は、思った。いつになったら平穏な普通の日がやって来るのだろうかと考えた。永久にやって来ないのかも知れないと、心が震えた。二人に対する強迫観念が少しずつ育っていった。

 人に甘えると言う事、自分をさらけ出すと言う事は、絶対出来ないと嫁は思った。自然体でのんびりと暮らす事は出来ないし、絶対してはいけないと、その時、嫁は決心した。死ぬ事も考えたが、子供を持ってから、この考えは、生んだ子供への責任感で死ぬ事を諦めた。ならば、いつかこの人たちと別れるには、家を出るしかないと考えた。イクは、嫁がそこまで気持ちが追い詰められているとは考えていなかったので、今までと同じ、いや、それ以上、気楽にのんびり自分の思いのまま嫁をこき使う事が出来るとほくそ笑んでいた。まさか、家を出る事を視野に入れているとは決して思い付かなかった。
 嫁は決心すると早かった。今の内から、家出の方法などを考えていた。先ず、経済的な自立が必要と考えていた。その為には、大学時代の友達に広告業界の会社の部長をしている人を訪ねた。嫁の広告感覚を学生時代に認めていたその部長は、嫁の広告に対するクリエイティブがまだあるかどうか、不安であったので、来年の就職試験を受けるようにと、それまでの問題集を手渡してくれた。単なるお茶くみの仕事では…、と考えたのであろう。嫁も、その方が有難かった。きちんとした将来性のある仕事のほうが遣り甲斐もあるし、生活に対しても子供を育てると言う環境も整えられるに違いないと考えたのであった。先ず、このチャンスを物にしたかったので、夜、遅くまで、問題集と首っ引きで勉強し、必要ならば、図書館にも通って、書物を借りたり、デザイン関係の書物を目にしたりして、準備を怠らなかった。
 嫁が、このような気持ちになっている事を知らないイクは、毎日が優雅であった。まだ、食事には不満があったが、それでも心穏やかであった。少し嫁が暗い顔になった所で、イクには問題はなかった。特に口を利かなくなった事は、却って、心が安らかであった。鬱陶しい嫁の声が聞こえない程平和な事はないとすら感じていたほどであった。用事があれば、メモ用紙に書いて、台所のテーブルに出して置くとキチンと嫁は実行してくれるので、全く不自由な事はなかった。イクは、これ程、嫁の声が嫌だった事に改めて知った。
「静かな事ほど、平和な事はないわ。」イクは矢助に言った。
「子供の声もあまり聞こえないから、本当に子供の居る家か、な〜ん分からんね。」物足りない口調で矢助が言うと、
「何言うとる。静かなのが一番。子供が泣いたら、外へ連れて行けば、家の中が静かだから、この方が良いがや。」きっぱりとイクは言った。
「そう言えば、昔、登美子や太郎が泣くと、あんたは機嫌が悪くなって、わしに子供を外へ連れて行けと良く言われたもんじゃな。」矢助が遠い目になって、言った。
「当たり前だわい。わしは、資格を取ったり、仕事の勉強をしたりして忙しかったから、子供の泣き声が煩くて、邪魔だったからね。」イクも遠い目になって述懐した。「わしも、良く必死になって、働いたもんじゃわ。」
「それを思えば、今の嫁達は、楽なもんじゃ。夫の稼ぎで、子育てだけして居ればいいんじゃから。」矢助は、深く考える事なく、言った。
「わしは、昔、若い頃、親と住むなんて、考えなかったよ。核家族が、絶対良いと思っていたからね。でも、今のように、歳を取ったら、大家族制度が良いと思うようになったがや。」イクは言った。
「あんたは、勝手な人じゃ。自分の良いように他の人間を、好きなように利用しておって…、我侭なんじゃからなぁ。」矢助の声は、諦めの声であった。あんたのお陰でわしの人生は暗かったんじゃ。と、言いたかった。
「何言うとんがや。どれだけわしが苦労してここまで来たか。あんたは、知っとるねか。」イクは、澄ました顔で言った。
「あんたは、いつも、そうじゃ。自分さえ、良ければ他人の事なんか、どうでも良いんじゃ。」矢助は、これ以上話しても仕様がないことを良く分かっていた。小さな庭に出て、小さな花の鉢を眺めた。それで、何とか心が和んだ。

 矢助は、自分の事には心を悩ますが、イクや他の家族の気持ちには全く無関心であった。だから、息子の太郎が、一番に色んな事を親父を立てて相談しても、全く興味を示さず、いつも太郎を苛々させた。太郎は、それでも、妻よりも自分の親を信じて給料の3分の1を渡す親孝行な息子であった。
 

 地平線を境に空の青色と田圃の黄色の対比はとても綺麗だった。

 イクは、最近、自分が生まれた故郷を良く思い出した。本当に、綺麗な故郷だったと思い出す。故郷の人間は全て嫌いだったが、風景が思い出されてならなかった。秋になった今は、一面に黄色く色づいた田圃をかき分けるように伸びた道を進んでいくと、そこに母親の実家があった事が思い出される。
 イクには、金銭感覚が全くといってなかった。金は、働けば手に入れる事が出来ると言う考えを持っていたからだ。だから、嫁が、金を渋って、食事の内容が結婚した当時より悪くなっている事が我慢できなかった。何より、イクの好きな肉料理が少ない事に苛立ちを覚えていた。かといって、子供の居る現在、嫁に子供を預けられて、嫁を働きに出す事は、全く考えられなかった。家を預けられる事も絶対許さなかった。家でやる事が出来る内職なら良いと言ったが、それも本当は嫌だった。腹の立つ事に、嫁の手前、昔のように矢助に家庭の中の掃除や食事の事をさせる事も出来なかった。
 イク自身の周辺には、世間の常識はなかった。だから、気の弱い性格の嫁が、イクとの接点の時、自分の身を守るのは大変だった。その理由のためか、嫁はイクと話をする時、いつも身構えていた。その習慣が長い時間を経て、子供を守る為にも強くなっていった事に、イクは気がつかなかった。
 しかし、イクのこのような性格は、子供の頃からあったものであって、今になって出来たものではなかった。特に、仕事もなく、生き甲斐もなく、ただ時間を消費するだけの現在、イクに嫁の行動を全て目をつぶれと言うのは無理と言うものであったろう。
 理想的な家族と言うのは、自己中心的に考えれば、若い結婚したばかりの時は、核家族で、二人の性格を熟知し、より良い家庭生活を構築し、将来に向かって協力していく覚悟を持つ事であると、イクは思っていた。そして、年齢を重ねて、老後は、若い夫婦や孫と一緒に、静かで平穏な生活を送る。そして、自分の身の回りを見てくれる嫁の存在が、重要であると考えていた。この考えは、イクのような、ある意味、身勝手な人間にとって、当然の権利であると考えていた。しかし、その中の矛盾には、イク自身が気がつかなかった。
 生活が苦しいと言う嫁は、遣り繰りが下手なだけである、と、イクは思っていた。当時の太郎の給料全部使っても、5人の生活を支える事は大変であった。しかし、イクは天下の一流企業の給料が、そんなに安い等と言う事を認める事は出来なかった。事実、太郎の給料は安かった。安い以上に、給料の3分の1での遣り繰りがは無理だったのだが。昔の私の給料は、もっと安かったんだから…と、イクは思う。東京に来る前は、高価な肉料理を食べさせてくれたではないか、と思う。美味しいものを食べさせてくれない嫁が悪い。イクの心は、いつも満たされなかった。
 人間も歳を取ると、食べる事だけが楽しみなんだと言う事に、イクや矢助も気がつかなかったので、この食事の問題が、一家を益々ギスギスした物にしていた。

 

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