明治から平成を駈けた女 第29章 

 後は、死ぬ事が残っているだけだと、気がついたイクは愕然とした。

 イクは、前世とか後世とか、信じていない。現在だけを信じていた。しかし、何故、今、私はここに居るのだろうと、考え込む。考え始めたら、多くの疑問が次々と湧き出てきて、いつもイクを悩ました。この多くの疑問の答えを出そうといつまでも思考の淵から抜け出せなかった。人間の出生、その存在、そして、最後には死を考えると、病気と死はイクにとって近い存在になった。
 イクは、人間は頭でものを考え、胸で心を感ずると考えていた。しかし、実際の所は分かっていない。考える事や理性・感情は何処で行われているのだろうか。昔、自分が確かにあると信じていた病気も、考えてみれば、本当は何だったのだろうか。その病気は、本当に間違いない病名の通りだったんだろうか。単なるそういう病名をつけられただけだったのかもしれない。病気の真実とは、何なのだろう。
 私は、きっと病気で死ぬだろうが、その病気は一体何だろう。イクは、この事が頭から離れなくなった。どうして人は病気になるだろうか。健康で死ぬまで生きておれないのだろうか。私は病気で死にたくないと、イクは思った。
 病気をする事と死ぬ事は全く違う。しかし、年齢が高くなると、病気と死は、一体であるとイクは感じた。今まで多くの年寄りの病気や死を見てきたではないか。自分だけがこれらの年寄りとは全く異なっていると言う事は考えられない。だから、イクは、自分の残された時間が、病気と死を目的とした生活である事に気がついて、心が冷えていった。
 昔に戻りたい。今の生活から、何とか逃げ出す事は出来ないか、イクは考えた。病気にもならず、健康である事に、何としても他人に、特に嫁には世話にはなりたくない。登美子に面倒を見てもらおうと、今まで、多くの金銭を与えてきた。だから、きっと、自分の面倒を見てくれるだろうとは、思う。が、これも、何の保証もない。太郎は、仕事で家に居る事は少ない。やはり娘の登美子を頼るしかないだろう。イクは、多くの悩みで、頭の中が混乱していた。
 あの頃はよかった。イクは、しみじみ思った。一所懸命働いた後に、まさか、こんな未来が待っているなんて想像もしなかった。残りの人生を思うと、昔の夢中で送っていた日々は帰っては来ない。ただ無意味な老後が待っているだけだ。ここに思い至ると、過去を強く感じ、老いた年齢がイクを痛みださせた。あの若かった昔の輝くような日々と共に、嫌な思いをした事も多かったではないか。辛かった日々を思い出して、今がゆとりがあって幸せなのだと声を出して言った。だが、やはり、あの頃は良かった。がっくりと頭を垂れて声を出さず、言った。本当に、この日々を受け入れ、認め、諦める事ができるようになるのだろうか。


 長生きの意味について、イクは考えた。

 趣味でも、仕事でも、若い頃は、夢中になる事が出来た。そして、老後はゆとりのある時間の中で人生を楽しみたいと考えていた。しかし、そのゆとりのある老後の今、人生を楽しむと言うよりも、いつ死ぬ事になるか、いつ病気になるか、そんな事ばかり考えてしまうと、人間長生きをするもんではないと、イクは臍を噛んでいた。医者にかかって、療養し、命が延びたとしても、どんな意味があるのだろうか。若い頃、仕事が出来、それをやり抜く事が出来る喜びがあった。今、仕事を探そうにも、仕事は見つからないだろうし、仕事をやるなんて、考えるのも嫌だ。
 人生の充実に執念を燃やし、最期の最後まで、人間として、懸命に、命を懸ける事が出来るものが欲しい。生甲斐を実感し、他の人々に惜しまれながら人生を終わらせたい。価値ある老後を生き、人々に感動を与えられる事が出来れば、長生きをした意味があるのだろうのにとイクは思った。
 年寄りは気力もない、感動も少ない。他人の迷惑にならないように生きていく事を考える内に、却って、他の人間に迷惑を掛けてしまう。こんなに心細い時に心の便りとするのは、やはり腹を痛めた子供だろう。男の子は、嫁が居るため、娘にどうしても頼ってしまうものだ、とイクは思った。
 子供の価値は、精神的なものを期待して、娘の意味は大きい。息子よりも娘だと、子供の価値の大きな違いを感じていた。息子には生活の便を、娘には精神的な便をと、イクは、登美子に感情的な理解を期待した。その結果、老後の世話は娘にして欲しいと考えた。イクと登美子の関係は、老後になった時から、働き盛りの時と違って娘の生活への金銭的関与による心の理解者としても存在があった筈である。
 長い人生の中で、イクは、少子による生活の向上を大事にしたので、娘、登美子もイクと同様に少子であった。その為、息子の嫁にも少子である事、すなわち一人っ子を進めていた。豊かな生活の為には、子供は必要ではない。一人っ子で十分だと言うのが、イクの持論であった。だから、避妊教育に力を入れてきた。
 昔の日本は、子供は労働力であり、老後の保障である実用的経済的な価値があった。戦時中では、生めよ増やせよと造兵政策があった。しかし、昔と違って平和な現在、子供への教育費の高騰は、親の経済を圧迫してきているので、イクは、子供は一人でよろしいと言う考えになっていた。だから、イクは、自分が戦時中に子供は二人で十分と言う考えが間違っていなかったと考えていた。息子の家に同居しながら、娘に世話になると言う考えの矛盾に気づかなかった。
 老後を子供に養って貰うと言う考えは、他の動物の世界に見られないと言う。しかし、経済的負担は息子に、精神的な負担は娘にと言うイクの考えは、イクに限らず、多くの親の考えであったのかもしれない。それを他人はなんと批判しようとも、イクはイクの考え方であったので、夫の意見すら聞き入れなかった。
 イクは、娘の登美子がイクの気持ちの一番の理解者だと考えていた。夫の矢助から情緒的にもサポートがないので、イクは娘が唯一の心の支えになっていた。娘の夫から、一緒に住みませんかと言われた事もあったが、娘が、その時、娘の夫と共に一緒に住もうと言ってくれなかったので、決心できなかった。矢助は、イクの言うなりなので、後は、娘の決心だけだとイクは考えていた。

「一雄は、一緒に住もうと言ってくれるけど…。」一雄は、登美子の夫の町田一雄の事であった。
「もう、少し待ってね。今のマンションでは、親父さんとお袋さんの住む部屋はないからね。家でも買わなくちゃね。」登美子は、イクから3万円の小遣いを貰いながら言った。
「四畳半で良いよ。」マンションは、6畳が3つと、4.5畳が一つあった。だから、利穂子の一人娘を入れても、あの大きなマンションだから住めると、イクは考えていた。
「この家の方が、まだ良いよ。古いけど、私のマンションよりも、のんびりできるじゃないの。」と登美子はイクの願いをきっちり蹴った。
「でもね…。」イクは言葉に詰まった。あんたのマンションの方が、広くて明るくて清潔で都心の真ん中にあるから便利で良い、とイクは言いかけて黙った。ひょっとすると、登美子は一緒に住むのが嫌なんじゃないのだろうか。イクは、それをきちんと確かめるのが怖かった。だから、それ以上話を進める事を止めた。
「お袋さんは、こんな良い環境に居て、文句言えないよ。上げ膳に据え膳。何も不足はないもんね。」登美子は言った。
「でもね、雨漏りはするわ、夜になると壁の隙間から星空も見えるんだよ。風が吹くと、ガタピシ家なりはするし、隙間風は入ってくるし…。」ちょっと同情を誘うように言った。
「風流じゃないの。こんな家に住みたくても住めないわよ。今時、珍しい家じゃないの。立派な家だと思いなさいよ。そんな文句は言えないよ。」ぴしゃりと言った。イクの話を決して受け付けようとはしなかった。
「もう、あんたに何を言っても、無理なんやね。」イクは、娘が自分の最大の理解者だと考えていた事の甘さにがっかりした。
「何、言っているの。お袋さんには、嫁がしっかりと面倒見ているじゃないの。」登美子は、冷ややかに言った。
「あんたが頼りだったがや。」矢助との空虚な関係を登美子との密着な関係に期待していたイクは寂しいと感じていた。
「甘えられんなよ。良い歳をして…。私にも、家庭があるんですからね。親を私が見る義務はありませんからね。期待されても嫌ですよ。」登美子は、きっぱりとイクを否定した。私は親の面倒を見る気はないという事を念を入れて、言って置かないと、このお袋は自分の生活を乱しにやってくると確信した。
「一雄が言っていた事は、嘘だったんだね。」イクは、寂しげにつぶやいた。
「町田は、格好良い事だけは言う人ですよ。お袋さん、覚えて置いてくださいよ。」鼻でふんと笑いながら、登美子が言った。
 これで、イクは娘の家に行く計画は終わった。娘はイクのよき理解者ではなかったのだった。
 イクは長生きはしたくないもんだと思った。今より、もっと元気で給料も今の年金より多かった時には、登美子は一雄と同じような事を言っていたのに、年金の額が思っていたより少ない事に気がついた登美子は、ころりと心や態度が変わった。イクは、登美子に対して将来的に世話を期待していた自分が哀しかった。イクは登美子と一心同体的な気持ちを抱いていたと思っていたに過ぎなかったのだった。矢助や太郎よりも愛情や信頼が篤いと思っていた登美子との密接な気持ちは、実は、登美子にはなくて、イク自身だけであった事に、絆の脆さと言うか、自分の思い込みの強さだけであった事に気づかされて、イクは絶望した。
 生きていく意味は、特に長生きの意味は、何なのだろう。残り少ない人生をイクはどう生きていったら良いのか分からなくなってきた。黙ってしまったイクを見て、ここが退け時と思ったのか登美子は重い腰を上げた。
「じゃあ、お袋さん、又、来るわ。」少し心が痛むのか、登美子は、イクの肩をポンポンと叩きながら、部屋を後にした。
「さいなら。」玄関を出る時、登美子が大きな声で言って、ドアをぴしゃりと閉めて行った。
「やっと、あんたは分かったのか。登美子は、我々の年金を当てにして来ているだけながや。良く考えて見なさい。2ヶ月に1回の、それも年金の出た後を狙ってきているねか。それだけでも十分に分かるだろ。」冷ややかな矢助の言葉であった。
「そんな事言っても…。」後の言葉は、飲み込んだ。本当にその通りだ、イクも認めるしかなかった。


 今日は、朝から風が吹いている。

 小さな柔らかい手が、窓や扉を絶え間なく揺さぶり、叩いているような音がしていた。最近のイクは、風の音が嫌いになっていた。どんなに小さな風の音でも、この頃では、心が滅入る。今日の風は、澄み切った秋の空気を運んできていた。イクは、愚図愚図しながら布団から抜け出せずに居た。
 名前の知らない鳥の声がする。庭の小さな木に止まって鳴いている。か細い声だった。
 心の痛みは、風ばかりではなかった。夢も影響しているのかもしれない。イクの夢にいつも出てくる訳の分からない物がイクの後ろに迫ってくる。イクは、その正体を見る事が出来ない。それを確認する事ができないし、又、どうしても知る事はしたくなかった事だけははっきりしていた。
 そろそろ登美子がやって来る頃だと、イクは考えていた。昨日、年金をおろして来たばかりだった。だから、当然のように、登美子は甘いお菓子を土産にやってくるだろう。イクの心は重かった。矢助の指摘の通り、登美子は厚かましくイク達の年金を当てにしてやって来るに違いないと確信していた。前回の登美子の話を考えると、本当ならやって来れないのに…と、イクは考えていた。
 案の定、昼前、登美子はやってきた。
「お袋さんのご機嫌伺いにやってきましたよ。」ぬけぬけと言うもんだわい、とイクは腹の中では思いながらも、ひょっとして登美子は一緒に住もうと言ってくれるかもしれないという、儚い希望を持った。
「わし等の年金を欲しいがやろ。」矢助に聞こえないように小さな声で、イクは言った。
「何、言ってるのよ。お袋さん達が心配だから見に来てあげているのでしょう。」登美子は、しらっとして言った。
「何が心配なんだね。」矢助は聞いた。
「お袋さんから色々聞いているのよ。」登美子は、待ってましたとばかりに言った。
「何を聞いていると言うんだね。」矢助は、登美子の饒舌に火をつけた。
「兄弟は他人の始まりと世間では言われているわね。小姑は鬼千匹と言う事も私は良く知っているわ。私は、たった2人の姉弟の上だけど、お袋さんや親父さんは健在でも、私とは離れて暮らしているから、心配なのよ。弟の太郎は、だらしないし、お袋さんも言っていたけど、嫁が気が強くて、お袋さん達が苦労していると聞いているから心配して来ていて上げているのじゃないの。親の許可なしに勝手に子供を生んだり、金が足りないとか、食事がまともに食べさせてくれないとか、と聞いたら、心配で心配で、じっとしている訳にはいかないでしょう。」登美子は一気に話した。
「確かに、富山に居た時よりもご馳走が出なくなったのは事実だがや。」矢助は、それを認めた。
「私は、両親を大切に思うから両親を邪魔者扱いせずに、この家で幸せに暮らせるように受け入れ体制を作って置かないと心配なのよ。大体、嫁と舅姑って仲が悪いのは当然だけど、両親に介護が必要になった時や何かあった時には嫁にちゃんとやって貰える様に、今から言い聞かせておかないとね。嫁さんの言いなりの太郎だから、私が神経をすり減らしてあんた達の為にわざわざ遠くからやって来て上げているのに、感謝しないなんて、嫌になっちゃうわね。」登美子は、相変わらず、押し付けがましく言った。
「そんなにわし等の事が心配なら、あんたの家にわし等が行ってやっても良いのじゃがな…。」矢助は、イクの気持ちを慮って、登美子に皮肉を込めて言った。
「そんな事……。」登美子はぎょっとした様に慌てて何か言おうとしたが、言葉を詰まらせた。
「本当に、そうやね。こんなとこより登美子の家の方が、わしは良いがやけどね。一雄もわし等に来いと言ってくれているからね。」皮肉を込めて、一雄の言葉を付け加えながら言った。
「ちょっと、待ってよ。うちの旦那は、そんな事を言ってないよ。この前、その話を聞いて家に帰ってから確認したけどね。お袋さんの思い込みなんじゃないの。」登美子は、慌てて強く否定した。
「そんなに、わし等と一緒に暮らしたくないがやね。やっぱりな。」矢助は、登美子の気持ちに改めて落胆しながら言った。
「そんな事、無いわよ。でも、長男と住むのが当たり前の事じゃないの。私の所に来たら、太郎が怒るんじゃないの。」登美子は言った。
「太郎は、わし等と一緒に暮らしたくないようだよ。」イクは、横目で登美子の顔をじろりと見ながら言った。
「もう、こんな嫌な話をやめようよ。もっと楽しい話でもしようよ。」登美子は、何とかこの問題を終わりにしたかった。
「はい、はい。分かりましたよ。……ちょっと、こっち来てよ。」イクは、嫁を呼んだ。そして、お寿司を3人前、注文するように言った。
「分かりました。注文します。……あのう、おかあさん、申し訳ありませんが、お寿司のお金を頂けませんか。」遠慮深く、嫁は言ったが、イクは払う気が全く無かったので、返事をせず、無視した。
「文句言わないで早く注文しられ。」イクは、冷ややかに言った。
 嫁は、いつもの事なので、今日もお寿司の代金が貰えない事を知りながら、電話をした。嫁自身が金は払っても、イクの命令通りに嫁自身のお寿司は注文する事はなかった。しかし、そんな事でも嫁にとって、支払う金を考えると、これで良いと思っていた。
 3人のお喋りが続いていた。イクの心は、少し波立っていたが、それでも、娘の存在は大事に思われた。本当に何かあった時は、この娘に期待しても何とかしてくれるだろうとの気持ちがあったからだ。

 いつものように、昼に出前の寿司を3人で食すると、年金の一部を掠め取って意気揚々と登美子は帰っていった。


 

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