明治から平成を駈けた女 第30章 

 さいたま市には昔ながらの田園風景が多い。

 早春のある日の夕方、イクは見沼代用水を歩いていた。イクの頭上高く、数羽の鳥が飛んでいた。イクは、その鳥の様子をぼんやりと眺めていた。夜の帳が下りてくると一瞬心が和み、故郷の立山連邦を思い出していた。イクは、いつまで経っても富山が嫌いだった。しかし、80歳を超えた現在、そんな故郷への慕情が髣髴と沸いてきた。
 見渡す限り水田が広がっている。この用水路は今から300年程前の享保年間に造成されたという。徳川8代将軍の吉宗は、米将軍とあだ名を付けられるほど、米問題に関心を寄せていて、幕府の財政改革の為、新田開発にも熱心であった。故郷の紀州から専門家を呼び寄せ、用水路の建設と新田開発を担当させ、関東平野最大の見沼代用水が出来上がった。広さ1800町歩もある広大な見沼代用水は利根川から取水し、途中で2本の川が横断して延々と60キロを導水する巧妙な設計だった。以来、水田を潤した。
 イクは、寒くなってきた空気にも気づいていなかった。孫と嫁がイクの姿を見つけなかったら、多分家には戻れなかったかもしれない。イクは孫が家に帰ろうと誘っても、動こうとはしなかった。似ても似つかぬこの風景は、若かった時の病院勤務時代と同じ風が吹いていた。この風の中に居ると、イクの心は、ずっと昔の若かった情熱時代に戻っていた。
 だから、今、イクは若かった。いつまでも若かった。永遠の若さを持っていた。今、イクは千葉の四街道の病院の中で働いていた。今、イクは、朝鮮の病院に居た。イクの瞳は、キラキラと輝いて綺麗な瞳になっていた。ころころ喉を鳴らして、目を細め、満足するネコのようにイクは幸せそのものだった。
 さいたま市の見沼の田んぼの空には、薄明るく、イクの心のように穏やかですらあった。その田んぼのはるか向こうにはさいたま新都心駅の高いビルが薄ぼんやりと見える。その手前の道路には多くの車が列を連なって走っているのが見える。明かりがともった家々も見える。明るい声で話し合っている若者や孤独で淋しいお年寄り、はち切れるばかりの力を持て余した子供達や優しさに溢れた母親達等、多くの人々の生活が彼方此方で営まれている。イクの心には、今は、そのような現実の人々と全く縁がなかった。イクの身体はここにあっても、心は、昔に戻っていた。夢の中に、イクは生きていた。

 歳を取ると言う事は、後がない、時間が無いと言う事である。今、やるべき事に気がついたら、何を置いてもすぐにやらなければならない。年齢を重ね、意識がはっきりしていると、落ち着かない。しかし、神様が、暫くの間でも、イクに現実逃避の世界に引き込んでくれたお陰で、イクは、少しの間、若い頃の幸せな時間の中に過ごす事ができた。


 イクは死なない限り生きていかなければならない。

 死ぬ際、人間の心境は、一体どんななんだろうと、イクは、時折、思う。死ぬ時、どんな想いを抱くのだろうか。
 イクは、今まで、本気で真剣に生きてきたと思っている。誰にも、文句の一つも言われないように、しっかりと生きてきた。これは自慢出来るだろう。今までの人生で、何百人、何千人の人達の最後を見てきた。死んでいく人を励ましたり、時には厳しく、時には優しく力づけてきた。しかし、今のイクには、他人を力づけたり、優しい言葉で思いやったりする事は、決して出来ない身となった。
 他人が脳梗塞で倒れ、自分で歩く事が出来なくなったり、食事も摂れなくなったりした時、看護婦であったイクは、他人に優しい気持ちを持って接していた。しかし、今、自分が年老いて病を持って、初めて病んだ人の気持ちを理解し、昔の自分を恥じた。彼等はこんな気持ちで居たのかと思い知らされた。
 イクを辟易させる事は、健康な人間からの同情であった。特に、優しい気持ちや愛情の押し付けはうんざりだ。今は、こんな生活を少しでも早く終わりにしたい。イクは、今まで相手への自分の思い善がりや偽善愛を恥じた。
 イクは、老後とは死んでいくしか、もう残っていない事に腹立ち、声を出して、悪態の限りを吐いていた。自分の心情を他人に押し付けながら、死への恐怖と戦っていた。だから、家族の安易な慰めや愛の言葉は、却って、イクの心を苛々させた。しかし、他人は、そんなイクの心を覗こうとするものだから、尚更、イクをいらつかせた。
 看護婦時代、死は、誰にでも訪れるものだから、恐れる事はないのだと、他人に良くぞ言ったものだ。と、イクは、今、思い出しては、自分を責めた。ボケや言葉の不明瞭さは、日を追うに従ってひどくなっていたが、イクの瞳には、底冷えするような光が宿っていた。頭の中のほんの一部が、いつまでも、しっかりとして、冴えているようだった。死について、どのように考えたら良いのだろうか。生きている限り、死は理解できないのかもしれない。
 だから、宗教が発展して、人々は死ねば、天国だの極楽だの…と。死への恐怖をなくそうとした事を理解した。無宗教のイクは、間もなく、自分は死ぬのだと言う事だけはしっかりと分かっていた。それでも、宗教には、心が向かなかった。
 イクは、人間の死について、最後は恐怖しかないのかもしれないと考えた。今まで、死について、真剣に考えた事はなかった。看護婦という仕事の中での他人の死は、イクにとっては、全くの絵空事であったし、友人や肉親の死を看取ってきても、それが、自分の死とは決して結びつかなかった。一種の職業病のような物だったのかもしれない。
 その上、これまでのイクは、生きる事、生活する事に一生懸命だった。何とかして、生きて日本に帰りたい、何とかして家族が飢える事になってはいけない、何とかして自分の家を持ちたい、何とかして豊かな生活をしたい…といった目の前の事が中心になって、自分の人生の終焉について考える事には時間がなかった。
 人間とは、何という寂しいものだろうか。あんなに懸命に生活し、家族を養い、子供に高い教養をつけさせてきた結果が、これだとは……。イクは、毎日が恐怖の海の中に溺れていた。この海から抜け出せる方法はないのだろうか。自分の生き方は決して間違っていなかったはずなのに、なぜ、このように毎日が心苦しく辛く息も絶え絶えなのか。
 イクは、家に居る事が辛かった。かといって、話し合う友人も居ない。何となくバスに乗って北浦和駅まで、出かける事が多かった。何を見ても楽しくなかった。買い物にも、心が躍らなかった。美味しいものを食べたいとも思わなかった。結局、イクは何も買わずに、何も見る事もせずに、又、バスに乗って、家に帰った。


 矢助との狭い部屋での生活も疲れた。

 昔、自分が立てた家には、いくつも部屋があった。今は、息子の家で、6畳一間の部屋で、夫の矢助と一日中、顔を突合せて居なければならない。矢助も狭い部屋の中で、心が休まらないらしく、いつも、散歩に出ていた。矢助が散歩に出ると、イクは、ほっと安堵ともつかない溜息をつく。矢助の行き先は分かっている。帰ってくると、自分がいかに他人に歓待されて、待たれているかを話すからだ。イクは焼餅を焼く気持ちにもならなかったので、毎日でも、一日中でも、その家でのんびりしてきて欲しかった。だから、昼や夕方の食事には、きちんと家に戻ってくる矢助にがっかりした。
 出かける時は、「散歩にいってくる。」と言う言葉も決まり文句であった。
 帰ってくると、「只今、帰りました。」矢助は、几帳面に挨拶をする。
 しかし、食事前の几帳面な帰宅の挨拶は、毎日の事でありながらも、イクをがっかりさせるものであった。偶には、待たれていると言うその家で昼の食事ぐらい食べさせて貰えば良いのにと、小さな呟きで言う。どんな簡単な食事の支度でも、イクにとっては、煩わしい仕事であったからだ。
「食事ぐらい、ご馳走になったら…。」と、言いかけた言葉をイクは飲み込んだ。イクは、最近、自分達の昼の食事は、わしがやるから心配するなと嫁に言った為、嫌々ながらやらざるを得なかった。そのお陰で、自分の食べたいものを食べれるようになったので、イクは、気持ちが多少とも落ち着いてきてはいた。食事の力は大きいと思いながらも、毎日となると、面倒でもあり、後悔した。

 日々、イクの記憶は、少しながら後退していった。自分のお金を息子が盗んでいったと思い込むようになった。他人がイクに話しかけると、自分の持っているお金を盗もうと話しかけてきたと感じてしまう事であった。不愉快な物も見えなくなった。だから、家に居るはずの嫁の姿が、時折、見えなかった。息子も孫の姿も見えなくなった。時には、イクは、矢助と2人きりの生活だと思いこんでしまう事もあった。

 雨風が強い夜の事であった。家中に響き渡るドスンと言う大きな音がした。嫁が驚いてイク達の部屋に入ってきた。
「どうなさったんですか。」只ならぬ音と矢助の様子に嫁はおろおろしてイクに聞いた。
「あんたは心配せんでも、よろしい。」イクは、冷ややかな声で言った。
「でも、おかあさん、おとうさんの様子が変ですよ。」起き上がろうともがいている矢助に手を貸しながら、嫁はイクに聞いた。
「来週になったら、登美子が来るから、心配せんで、よろしい。余計な事はしなくても良いんだからね。」嫁の問い掛けにもイクは応えず拒否をした。
「でも、おかあさん、この様子は変ですよ。何かあったらどうしますか。」嫁の言葉は、厳しかった。
「……。」矢助は何か言いかけたが、イクに押し止められて、言葉を呑んだ。
「救急車を呼びますからね。」嫁は、きっぱりと言った。
「……。」矢助は黙って、嫁に書付を見せた。いつも診てもらっている近所の医者の診断書であった。診ると、1週間前のものであった。一刻も早く大きな病院で診てもらうにとの事であった。
「おかあさん、どうしてこんな書類を貰っていながら、放って置いたんですか。」嫁は、厳しい声で言った。
「登美子が、来週でなければ、来れないからと言うので、来週まで待っているんだよ。」イクは、けろっとした声で言った。
「とんでもない事ですよ。すぐに行きましょう。」嫁は、2人を急かした。
「あんたは余計な事をせんでも、よろしい。あんたなんかの世話にはなりたくないね。」イクは再び厳しい声で拒否した。暫く2人は、矢助を挟んで言い争いをした。しかし、いくら言っても埒があかないと嫁は思った。
「分かりました。今日は、何もしませんが、その代わり、明日、私がおとうさんを病院に連れて行きますからね。」
「良いんだよ。登美子が来る迄、待つんだから…。」イクは、少し不安そうな顔をしながら言い返した。
「分かりました。おねえさんが明日来るのなら、私は黙って見ています。でも、明日、おねえさんが来なかったら、私が、おとうさんを病院に連れて行きますから。良いですね。」嫁は、布団の上に矢助を寝かしながら言った。
 その夜の風も雨も強く家を叩きつけていた。

 翌朝、やはり登美子は現れなかった。
 嫁は、動けなくなっていた矢助を背負いながら友人から借りた軽自動車に乗せて、病院に向かった。イクは、一緒に行かなかった。
 矢助は、脳梗塞と診断された。医者は、何故、早く連れて来なかったかと非難めいた目で言った。その上で、病室が塞がっているので、受け入れる事は無理だと言い、後は時間の問題なので、自宅で待機するように言われて、診察を終えた。
 イクは、矢助の受診が遅かったと言う事を嫁から言われても「ふん」と言い、「登美子が来なかったのが悪い。」と責任転嫁しただけであった。
 それからの矢助の病状が悪化するのが早かった。やっと見つけた次の病院で脳梗塞と言うよりも脳腫瘍であると言われた。脳腫瘍は、鶏の卵の大きさになっていた。半年も持たないだろうと言われた。イクは、それを聞いても、やはり「ふん」と言った。


 矢助は、あっけなくこの世を去った。

 矢助は、半年どころか、2ヶ月も持たなかった。と言うのは、イクが風邪を引いていたので、医者や看護婦が見舞いに来てはいけないと言うのに、その言付けを聞かず、咳をしながらしっかりと矢助の枕元に座っていた。私が、矢助の看病をするのだと言う気概と、自分はプロなので、この病院の看護婦になんかに任せられないと言う気持ちが強かったからだ。咳をしているイクを医者や看護婦が矢助には良くないと再三言っても、私は風邪の注射をしてきたから大丈夫と言って聞かなかった。医者達も根負けして、最後には、何も言わなくなった途端、矢助は、医者の言った期間よりも早く、それも腫瘍ではなく、肺炎で亡くなった。あっけなかった。

 葬式の時、親の世話も看病もしなかった登美子が、「親父さんは、子孝行してくれた。」と参列に来た従兄弟に話していたので、嫁はその意味が分からず、聞いた。登美子は「病気になっても、永いこと寝込まず、早く死んでくれたからよ。あんたも喜んでいるでしょう。」微笑を絶えさないで、得意気に言った。嫁は、その言葉に息を呑んだ。葬式に参列している人の前で、娘からそのような事を言われる矢助が不憫であった。

 矢助が骨になって、家に戻ってきた。イクの部屋の床の間に太郎が仏壇を買って、矢助の骨壷を置いた。
「太郎や、とうちゃんの骨をあんたの部屋に持って行って欲しいがやけど。」イクは、3日間、我慢していたが、やはり矢助の物だと分かっていても、人の骨と同じ部屋で夜を共にするのは気持ち悪かった。
「どうして、そんな事言うのか、分からないよ。自分の夫だろう。」太郎は、言った。
「気持ち悪いがや。こんな骨と一緒にいるが、嫌なんや。」イクは、堪らず吐き捨てるように言った。
「そんな事言わんと、大事に抱いて寝たら良いのに…。」冷やかしながら、太郎は言った。
「勘弁してよ。駄目だったら、物置にでも入れて欲しいがや。」イクは、懇願した。
「駄目だよ。そんな事出来ないよ。」にべもなく太郎は断った。
「……。」まだ、何か言いたそうにしながら、イクは口をもぐもぐさせていたが、黙ってしまった。

 葬式後、暫く、登美子が「親父さんの後片付けをしてあげるね。」と言って、毎日顔を見せた。嫁に指示して、矢助の洋服等の不用品を処分した。気の良い嫁は、そんな登美子に感謝した。「私はおとうさんの物に手を出せないから、助かります。」
 しかし、後に分かった事だが、イク達が蓄えた貯金を登美子は全て持ち去っていた。その金でマンションの全ての部屋の模様替えをした事を後に嫁が登美子から聞いた。親から貰ったのだと一言付け加えながら……。
 イクは、それにも気づかず、来なくなった登美子を疑いもせず、息子と一緒にあるはずの貯金を探し回っていた。だから、医療費や葬式等の支払いに困った太郎は、会社から借金をして、矢助の最後の始末をした。
 嫁は嫁で、矢助を送る参列者のあまりの少なさに、自分の父親の時と比較して涙ぐんだ。

 矢助の法事が終わり、イクは一人になった。しかし、イクは、思った程寂しいとは思わなかった。不思議だと思った。連れ合いに先立たれると、生甲斐を見失って、死にたくなったと良く友人がこぼしていたのを思い出したが、イクは、部屋を一人で自由に使える事に心が和んだ。あ、思った程、寂しいもんではないな、とイクは声を出して、独り言した。
 いつ寝ようが、いつ起きようが、文句を言う人間が居ないのが、どんなに自由で幸せかと、イクは思った。
 あんなに狭いと思った部屋が、なんて広いんだろう。好きな時間に、好きな食べ物を食べようと考えただけでも、思わず微笑がこぼれた。
「おかあさん、これから私達と一緒に食事をしましょう。」嫁の声に、イクは、むっとして答えた。
「何で、あんたなんかと一緒に食べなきゃ、ならんの。やっと自由で気楽に一人で食べれるようになったのに。勘弁、勘弁。」イクは、手で嫌々と振りながら言った。
 自分でそう言ったきり、イクは、本当に一人で部屋に閉じこもって、楽しそうに鼻歌交じりに、食事を摂っていた。そんなイクに諦めたのか、嫁は、毎食時には、一通りの食事の用意をしてイクに渡していた。

 人間とは勝手なもので、自分から独りで食べると言っていたイクが友人に電話したり、かかってくると、嫁が食事を一緒に食べさせてくれない。とか、食事には味噌汁一杯出してくれない。とか、嫁の目の前でこぼす。イクの真意が嫁は理解できなかった。そんな年寄りの心を理解するには、嫁はイクよりずっと若かった。

 

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