明治から平成を駈けた女 第31章 

 イクは、死を考えなくなっていた。

 柔らかな日差しが降り注ぐ縁側で、イクは自分の故郷の事を思い出していた。いつも浮かんでくる立山連峰にも懐かしさを覚える事はなかった。
 3月下旬に行われた矢助の四九日に集まった人は家族と後は登美子だけであった。登美子の夫やその子もやっては来なかった。寂しい空気の中で、それぞれ勝手な事を言い始めていた。ぼんやりとしたイクの頭の中に、息子や娘、嫁の声が入ってきた。
「お袋は、ストレスなんか感じるのかなあ?」と、太郎は、呟いた。
「そんな事はないと思いますよ。おかあさんは、ストレスを溜めるほど、皆に気を使っているなんて事ありませんもの」嫁は、冷たく言い放った。
「お袋さんは、今まで自分の思うように好きにやってきたのに、他人の事など、全く心にも掛けなかったから、今更、家族に気を使うことなんてないのかもしれないね」と、登美子も冷たく言い放った。
今までも、自分の思った通りに何でもやってきたイクを、夫の矢助ばかりか、子供達にまで理解されていない事にもイクの胸が煮えている事にその場に居る人間は誰も気がつかなかった。
「お袋は、周りの人間を自分の好き勝手に巻き込んで、他人迷惑なんてお構い無しで、好き放題をやっていたからなあ」太郎は、今迄のイクや矢助の勝手気ままなもの言いだった事を思い出していた。
「今まで、お袋さんの姉妹まで、相当振り回してきた人だから……」登美子は、お袋であるイクがどんな事をやってきたかを事細かに詳しくまるで見ていたかのように話した。
「だから、見て御覧なさい。大阪からも富山からも、親父さんの葬式にも来なかったし、今回なんて誰一人来ないばかりか、東京や一番近い与野に居る親戚だって、呼んでも集まってこないでしょう」登美子は、ここぞとばかり、イクに聞こえるかのように声高に話した。
「おねえさん。来れなかった人達は、何か用事があったのかもしれないでしょうから、そんな事を言ってはかわいそうですよ」嫁が声をひそめて言った。
「良いの。これ位言ってもお袋さんは、気にしない人だから……」イクは、登美子の声の大きさに辟易した。優しさがなければ、せめて物を言うな、と思っていた。登美子が登美子なら、太郎も太郎だわい、一言、怒鳴ってやろうと思ったが、いつもの、眠気が忍び寄ってきた為、イクは、欠伸をして、小さく丸くなった。
 私は、自由な人間だった。イクの心が、身体から離れて大きな空に飛び出していった。
 私は自由だ。誰からも制約を受けず、自由に考え、話し、貧困に立ち向かってきた。まともな暮らしがしたくて、私は一人頑張った。矢助に愛想を尽かし、子供達に高い教育をつけさせ、太郎の嫁も、私が気に入った最高の娘を連れてきてやった。娘には自由に十分お金をかけてやった筈だ。物心共に、太郎よりも気を遣ってやった筈だ。物質的な満足と安心を私は夫や子供達に与えたではないか。なのに、この子供達の言葉は、何と言うことだ。私の恩も忘れて……、夢うつつとも分からない世界の中で、イクは呟いていた。
 どんな人間でも、自分のやった事は正しいと信じて、生きているものだろう。イクもそんな人間の一人であった。しかし、自分が大切に育ててきたと思った子供達は、そんなイクの生き方を認めない。貧乏や空腹で困らないように子供達に豊かな生活を与えたではないか。イクは、繰り返して呟きながら辛いと思った。イクは、自分が働いた報酬は充分だとは思わなかったが、それでも、他の人間達より豊かな生活ができたではなかったか。人間の欲とは強欲なものよのう。イクは、大声で怒鳴った積りであったが、声にはならず、かすかに溜息となって漏れているだけだった。
 イクの心の支えは、他人から物事を強制されると、反発する気持ちと誰にも邪魔されずに自分で物事を決めると言う強い意志を持っているという誇りである。自分は、周囲から干渉を受けない自己決断という自負によって強い価値観を持っている。それが、イクを独立独歩させ、イクの努力と知性を通しての自信であり、信念でもあった。それなのに、娘や息子、嫁は、イクが自分勝手にやってきただって?好き放題やってきただって?イクの今迄の苦労は何だったのだろうか。娘や息子に大学までの高い教育をつけさせたのは誰なんだ。お前達は分って言っているのか。
 確かに、イクは、他人以上努力し、正当な利益を得、他の人より少しは豊かな生活をしてきた。しかし、イクの努力の報酬を受けた娘や息子は、イクをそのように認めようとはしない。その理由は、イクの利己主義にあるのかもしれない。だから、今までも大きな声で怒鳴っていた。周りの人間共はイクの前で小さくなって震えていたことを思い出して、イクはすごく満足していたものだった。

 イクには老いていく悲しみは無かった。人それぞれの不幸とは何だろう。幸福とは何だろう。自分が幸か不幸かは、自分で感じれば良い。それで良いのかもしれない。人それぞれの幸不幸は、生まれて持った性質や環境で決まるのかもしれない。
 イクは、永遠に自由であった。死ぬ事も恐れず、深く考える事もなくなっていった。


 最近のイクは、季節も今日と言う日も分からなくなっていた。

 イクは、自分がいかに立派な人間であったかをせめて娘や息子に認めてほしかった。それも叶わなければ、近所の人や嫁でも良かった。
 そこで、イクは近くに住む大真田節と親しくなった。年齢は、イクより少し下だが、綺麗なお婆さんだった。
「はい、こんにちは」イクはいつも大真田節の家に入る時は、玄関からではなかった。
「……」節は、不機嫌な顔をしながら、イクを見た。節は、丁度、鏡に向かってお化粧をしている時であった。
 節は、若い頃、美人と言われて何不自由なく育った。豊かな庄屋の娘として育ったため、普通の人より誇りも高い性格であった。だから、イクが心安く「大真田さん」と、呼ぶのを心の奥では何か引っかかる気持ちであった。では、なんと呼ばれるのが良いか、その答えはなかった。単にイクの傍若無人な振る舞いが気に入らないだけであったのかもしれなかった。
 いつかは言わなければと思いながら、今日も言えずにいる言葉があった。他人の家に入る時は、玄関から呼び鈴を押して家人に許可を得てから、庭から入るなり、部屋に入るなりして欲しいと言う事であった。しかし、何故か、イクの顔を見るとその言葉を飲み込んでしまうのである。
「私には、コーヒーにしてくださいよ」台所にいる節の嫁に向かってイクは注文した。
「ハーイ、分かりました」節の嫁は愛想よく爽やかに応えた。節の嫁は、はっきり物言うイクが好きだった。
 そんな2人の様子を節は苦々しく思いながら、鏡台の覆いをゆっくりと下ろした。断りもなく部屋に入り込んだイクは、暫く、黙って節を見ていた。長い庇のある部屋の為、節の部屋はうす暗かった。
 1つの部屋の中で2人とも黙っているのは珍しい事であった。イクも節も、どちらかと言えば、お喋りの好きな人間であった。お喋りな2人が、2人とも黙って座っていると言う事は異様でもあった。節は不躾なイクに対して怒っていることを身体で示そうと声を出さなかっただけであった。そんな節をイクは相手の心を察しかねて、節の沈黙にお付き合いをしようと考えた。
 昔気質の節は、イクの特殊な性格が節に害をなすものではないと了解してから気が向く時には、節の特有の人の良さでイクを歓迎する。イクはイクで、お喋りな人間は往々にして考えをまとまらない内に言葉を出してしまう。だから、節はイクのお喋りを、時には、ぴしゃりと扉を閉めて一切返事をしない事が多かった。
 そんな節は、若い頃から美人と褒められて、大事に育てられた人間の常で、イクに対して節は自分の優越感が揺らぐ必要は無かった。だから、イクの前では、寛容になれた。イクはイクで、そんな節に対しても職業婦人であった時の保健婦の目で高みから様子を伺うのであった。

 節は、勿論、姑にありがちな邪悪な心の持ち主ではなかった。しかし、社会に甘やかされた女の例として、気儘な人間であった。その上、若い頃から金に飽かせて豊かで楽しい生活を追求して、時には、夫を嘆かせた事も多かった。それ故、その我侭ぶりは、嫁に対して気分屋で冷たいエゴイズムで接していた。広い心と明るい性格の節の嫁は、そんな節でも優しく接していた。節の我侭ぶりは息子の前では見せなかったので、節の息子は、大人しい静かな優しい母親だと信じて疑っていなかった。そういう意味でも嫁はこの家の殉教者だったといえるだろう。

「今朝、新聞を読んでいたら、あなたんちの会社が危ないと言う話だそうだね」イクは、隣の部屋の台所にいる嫁に聞こえないように、小さな声で話した。
「はあ。何の話なんだね」節は、きょとんとして聞いた。
「新聞によると、川元造船所が大変な事になっているそうじゃない」川元造船所は、節の息子が、千葉支社で支社長をしている。
「そんな話は聞いてないよ」節は、にべも無くその話には乗らなかった。
「だから、私、お見舞いを持ってきたんだよ」そして、お見舞いと書いた金の袋を節の手にねじ込んだ。そして、新聞に書いてあった事を詳しく話した。
 イクは一息に話すと、嫁の出してくれたコーヒーを上手そうに飲むと、用事は終わったというように節の家を出た。性格の強いイクの空気はそのまま節の部屋に残して……。節は、イクの散らばった言葉を時間をかけて拾いながら、イクの言った意味を考えていたが、最後までよく意味が分からなかった。しかし、イクから渡されたお見舞いのお金を眺めながら、このお金をどうしたの物かと悩んでいた。イクはイクで自分の家に向かいながら、自分の優しさに酔っていた。




 若くて、豊かな明日があった時代もそうだったが、年老いた今のイクも枯れるという事を知らない。

 いつもながら、イクは飽きると言う性格を欠点だとは思っていなかった。飽きると言う事は、イクにとって興味の対象から離れ、自分はその事に対して充分役目を終えたと言う事であったからである。
 イクは、電話をかけた。相手は、町役場であった。
「手紙を貰って読んだけど、わたしゃ、勲章なんて欲しくないから、お断りしますよ。」イクの言葉は、素っ気なかった。
 嫁は、(へぇ、勲章なんて、おばあちゃんは貰えるような事をしたのか)といぶかしげだった。
「私はね。勲章なんて貰っても、ちいっとも嬉か無いから、そんなもん、捨てておいてくださいよ。」けんもほろろであった。言う事を言ったら、相手の言葉も聞かず、一方的に電話を切った。
「ふん、今更、何の勲章だろうと、欲しかないわい。」吐き捨てるように言いながら、イクは部屋に入った。
 嫁は、(どんな勲章だろうと、貰える物は貰えれば良いのに……)と、呟いた。
 イクは、勲章は、どんな意味があるか知っていた。そんなものを貰う事によって、昔の悪夢を思い出したくは無かった。従軍看護婦の経歴や記憶が消せるものなら消し去りたかった。だから、昔の悔しさ辛さを思い出すものは、ささやかな物でも、又、大金であろうとも、絶対、目の前において欲しくはなかったのである。
 嫁は、そんなイクの気持ちに気づかなかったし、気づこうともしなかった。いや、気づきたくもなかった。そんな意味で、イクの気持ちも嫁の気持ちも、お互い大きく離れていたと言える。

 嫁は帰ってきた太郎にこの話をしたが、太郎も興味のなさそうな顔でこう言っただけであった。
「お袋が要らないというものを我々はどうしようもない事だ」
 嫁は慎重に、小さな声で太郎に言った。 「勲章を貰うと、賞金ももらえるのではないのかしら」 「そりゃあ、あるだろうね。そもそも勲章とは、いかに国家に貢献したかのバロメーターだからね。当時の忠誠心を持った国民が、勲章というものに憧れと敬意を持っていたと思うよ。でも、あんなに愛国心の強かったお袋がその勲章をいらないと言うなんて、考えにくいよね」太郎も首をひねった。 「でもね、ネットで調べてみると、勲章には年金が付いていたという話もあるのよ。日本軍の勲章である金鵄勲章では、下から「功7級」から「功1級」があって、戦前には受賞者に対して、今の価値で「功7級」の70万円から「功1級」の1000万円が終身年金として貰っていたと言うじゃない。一時金にしろ貰える物なら、貰ったら良いのにね」嫁は、まだ未練気にぼやいていた。
「しかし、受けるのは家族ではなく、本人だからどうしようもないよ」と、この叙勲の話はこれで終わった。


 死は苦しみが終わる事であり、死とは眠る事だという。苦しみは、釈迦が言う、生きる苦、病苦、労苦、死ぬ苦の4つがある。苦しみの半分は、生きている時と死ぬ時半々である。どちらにしても、人生は始めから終わりまで苦しみの中にあると言う事は間違いが無いと思われる。
 老衰は、生きてやりたいと言う思いを消し去ってしまうものだろう。それを人は悟りと言うのかもしれない。しかし、本当にイクは人生を悟って人生を終えようとしているのだろうか。
 死は人間の完成だと山本周五郎は『虚空遍歴』の中で言っている。死ぬという事は、年齢を重ねるとこんなにも静かに受け入れられるものなのか、それとも考える事が面倒なのかは分からない。イクが無意識の中で死を受け入れ始めた時、世の中が変わり始めた。


 夢と現実の間の超越した世界の中にイクはいた。

 イクの心は爽やかな光の中に居て、空気が綺麗に輝き流れる中にあった。多くの現実の煩わしさから逃れて、自由を謳歌して大空を飛翔はじめた。

 

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