★印;心に残ったフレーズ  ※印;しば子のコメント

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田口ランディ

「馬鹿な男ほど愛おしい」  晶文社

※田口ランディが恋愛について語ったエッセイ集。
 しかし恋愛ってのは即、自分の人生、生き方に繋がっていくのだなとこの本を読んで実感した。
 今、私は特に恋愛について悩むことはないけれども、この先、1人の人間として、女として生きていく上で悩む事や迷うことは多い。
 その中で、「こういう生き方もありだよな」と思えたこの本に出会えたのはよかったなと思う。

★傷ついた心を見て見ぬふりをすると、人間はだんだん自尊心を失うのだ。これは心を侵食するとても悪い病気だ。傷を見ないふりをすると、心は次第に腐って、弱って、気力を失って、そして自分に対しての自己評価が低くなって、決断力がなくなって、最後には自分の人生を失ってしまう。
(中略)
 傷つくのは、とても辛いことだ。だけど、傷ついた自分をわかってあげられるのは自分しかいないんだよなぁ。自分だけが自分に優しくしてあげることができる。心の傷は他人にはわからない。だから、自分だけはわかってあげないと、魂がオイオイ泣くんだよな。

※おぉぉぉぉ、まさにその通りだ、私のことを言ってるのか?と思ったフレーズ。
 恋愛について悩むことはないけどさ、社会に出て、自分が社会で生きていくにあたって、どうしたらええの?っていう迷いにぶち当たって、結局、いろいろ矛盾に思うこととか、ムカついたことに目を反らし続けたわたくし。その結果が鬱で休職やもんな。とほほ。
 とにかく自分を大事にしてあげられるのは自分しかおらんし、昔の私が持っていた自分に対する根拠のない自信…私は生きとるだけですごいねん…っていうのを取り戻さんとな。

★男も女も、1度恋愛した相手と、分離するのは難しい。恋愛とは融合幻想のような部分がある。1度融合しちゃった相手は、自分の気持ちをわかるはずだと錯覚する。でも、本当はやっぱり他人であり、相手の気持ちなんかお互いにわかりゃしないのだ。

※恋愛だけやなくて、自分と血の繋がりのある家族に対しても同じこと。結局、自分以外の人間は自分じゃなくて、相手の抱えてる世界をすべて理解するのは無理やし、逆に自分の思うところを理解してもらうのも難しいことなんやな。黙ってても通じ合うっていうのは、よっぽどのことがないと起こらない。自分の近しい人に対してこそ、自分の全身全霊を尽くして自分を理解してもらう努力が必要やと思う。

★私の心はいまでも、恋するように「私という価値」を求めている。そんなものは実はないのだと頭で解っていても、それでも、どこかで求めている。片思いみたいに、せつなう「私という価値」を求めている。
 自分への永遠の片思いを生きている。

※夫と出会う前も、今も、私も狂おしいほど、「私はどんな人間なんだ?」「私は愛される価値のある人間なのか?」ということが私の頭から離れない。

「こころのひみつ」  メディアファクトリー
※田口ランディと、整体師寺門琢己氏の対談本。「こころのひみつ」という題名とは裏腹に、「からだをもっと可愛がらなきゃ」っていうメッセージが伝わる本。

★寺門 たぶんわかったんだと思うんですよね。男の大脳新皮質が悟りをあきらめたんですよ。西遊記でいうと、孫悟空と三蔵法師の葛藤とか、お釈迦様の掌から出られないとか。結局、身体的安心感や撫でてもらってて嬉しいことぐらいしかないんですよね。だいたい女の人って触ってて絶対的に気持ちいいし。おいしいワインでも飲む量に限界はあるけど、女の人を撫でてる分には限界はない。

※そーよね、そーよね。女の人を撫でてるのは気持ちいいものなのよ。柔らかくてすべすべしてるもんね。うふふ。
私は男の人を撫で撫でしてるのは好き。筋肉の張りを感じてるのはとても幸せ。

★寺門 男の骨盤も開閉してるんですか?」とか聞かれることが多くて、それが今年の上半期の悩みだったんです。別に女だけが動いてるって話はひとつもしてないのに。だから睾丸周期の話をきちんとしておきたかったんです。
田口  睾丸周期!(笑)
寺門  男だっていつでもOKなわけじゃなくて、一緒にいたり、隣りで本を読むだけで満足ってこともあるんですよ。
田口  そういう男たしかに昔いましたね。
寺門  それが”私の効き目”の問題じゃないっていうのが女の子にわかればいいんですよね。
(中略)
田口  二十歳の頃につきあってた男の子が哲学者の息子だったんだけど、やっぱりそういうタイプなんですよ。頭を使っちゃうと全然発情しなくなっちゃう人で(笑)。
寺門  うんうんうん。
田口  彼はそれだけで満足しちゃうんだな。やっとわかりました(笑)。頭を使うことが彼にとってはセックスと同じくらい快感だったのね。だって、射精しなくていいっていうんだもん。
寺門  それで昇華されちゃうんですよ。
田口  うーん。だから、なんて変な人だろうってずっと思ってたんだけど、そっか、そういう人もいるのね(笑)。
寺門  たぶん、セックスしてすっきりだけだったら、何にも他に芽生えなかったんだと思うんですよね。

※そかー、そかー。なるほど。そういう人もいるのか。っていうか、我が夫はそのタイプかも。

★寺門 からだから離れない感性を育てることが大切だと思います。そうすれば、味わってもいない荒唐無稽なことを語るよりも歩いた分の距離を知っている方がかっこいいと思うようになると思うんです。

※女の人のほうが、毎月自分の生理があったりして、「自分ではどうしようもないこの肉体」っていうことをリアルに感じていて、その延長で日々の生活についても地に足がついていてどっしりしてるような気がする.特に会社の人たちを見ていると。

★田口  人間の死を、痛ましいと思うのも心の働きですよね。少なくともあと100年くらいたてば、おおかたの人は死ぬんだから、今死のうとあとで死のうと、死ぬということにおいては同じ、っていう言い方も出来なくはないでしょ?人は死ぬ、いつか死ぬ、確実にいつか死ぬんですよ。なんでしょうねえ、生きるって。死について考え始めると、足下が揺らいでくる。どうして死ぬのに、人は生きなければならないんでしょうねえ。
 寺門  しかも死ぬ瞬間と死んだ先は本人の意識のおよばないところにあるとしたら、僕らが持っているのは今の瞬間だけなわけですよね。そう考えれば、死を思い悩むことはないですよね、実は。そのことに対して一生煩わされていったり引きずっていたりすること自体が死んだ人に失礼。

※そうだ、なんだかんだ言うてあと100年も経てば、自分を含めまわりの人々はほぼ皆死んじゃってるんだよな。

★私は私を通してしか他者とはかかわれない。私を度外視して他者とかかわることは出来ないんです。他者へのゲートは私、私のからだ。

★せめて私だけは反省しちゃいけないって。なぜそれをしちゃいけないかというと、多くの人の幸せのために自分を投げ出してしまうと、自分の本来の役割を見つけられなくなるからなんですよ。人間っていうのは、人生で1個ぐらいの役割しかできないんですよ。それが出来たら万々歳なわけですよ。

★ひとりひとりの役割を無に帰して全体のために奉仕するっていうことはまったくナンセンスで、そんなこと始めちゃった日には世界がバラバラになっちゃうと思うんですよね。ものすごく危険な時代だなって思ったんです。

※そうだな、そうだよな。そう考えると、自分をもっと大事にしなきゃ…と思う。

★言葉化した時点で心になるんですよ。人間って、心って、そもそも何かを他人から入れられて、それを自分の中で応えて言葉化すると、それがたぶん心というものになっていくんですよ。
(中略)
そして、その人格化した自分の中の他人の言葉によって、自分が分裂していくんですよ。それが病気ってやつなんだなって。それはまずいんですよ、すごく。特に人のマイナスな言葉は自分の中に入って蓄積されると1個の魂を持っちゃうんですよね。だから怖いんですよ。そしてそれを人はよく”邪悪な心”とか呼んでるんですよ。

※言葉の持つ力、言霊っていうのはほんとにあるなーと最近思ってます。

★絶対大丈夫。だからどんな状況下でも生きているということだけで充分なんです

※そうだ、きっと。生きているってことがすごいんだよな。

「もう消費すら快楽でない彼女へ」 (幻冬舎文庫)
★苦痛はあまりに個別で多様で、それを共有するためには深い愛が必要になる。それは私の手に余る。苦しみを共に生きるためには、宗教的な覚悟が必要なのだと思った。だけど、気持ちいいことなら大好きだし、苦痛よりもずっと共有できる。

※筆者が重度障害者の介護ボランティアについて書いたエッセイの1節。
 ボランティア…っていうか、「誰かの世話をする」っていうことに、なんとなく偽善っぽさっていうか胡散臭さを感じて、自分には出来ないな…と思ってたけど、そうか、なんとなく感じていた変な気持ちってこういうところにあるのかなと思った。苦しみをわかろうとするんやなくて、気持ちいいことを共有するのであれば、私にも出来そうな気がする。

★暮らしというのは「毎日を過ごしていくこと」、つまり日々暮れていくということだ。暮れては明ける事の繰り返しが生活で、生活に追われているとなかなか物事に明確な結論が出せない。とりあえず寝て、起きて、食べて、排泄して、また寝たら1日終わりである。悩み事があっても「困ったな」と思っているうちに寝てしまうのだ。そして朝は来る。この、暮らすという現実の前で、理屈は邪魔だったりする。実は暮らすというのはお天道さまへの宗教的行為にすら近く、どこかで言葉を拒否しているのだ。

※「暮らしていく」っていうことが、まず大前提なんだよな。でも、それだけで満足出来なくてぐちゃぐちゃと考えこむ私は一体何なんだろう?

★自分を虫のような存在、そう考えると私も怖い。
 今日もどこかの国では誰かが地雷で吹き飛ばされる、殺される、撃たれる、飢えて死ぬ。人はかくも虫のように生まれてセックスして死んでいく。考えてみたら、なぜ生まれてきたのか、なぜここに生まれたのか、なぜ私なのか、大事なことはすべて教えられることなく、人は虫と同じように生まれて死ぬのだ。
 帰り際にユウコが言った。
「一度考え始めてしまったら。もう後戻りは出来なくなった。あたしは生まれてきた意味が知りたい」
 純粋な人たちは、いつも自分の意味を求めている。それが彼らを、時としてわがままにし、時として自殺させ、時として犯罪者にしたりする。ずいぶんじゃないか神様、と思う。人にはどう生きるかという選択肢しかない。なぜ生まれたのかも、なぜ死ぬのかも定かではない。人にあるのは「間」だけだ。誕生と死の間。このとりとめのないあいまいな時間。その意味について私たちは何も知らない。


※何故生まれてきたのか、何のために生きているのか、十代の頃ってそんなことばかり考えてたのに、今の私は”まず生きていくことありき””まずはお金を稼いで食べていくことが大事”って感じ。でもそれだけじゃいかんと思って思い悩んだり。なんだか中途半端なんだよな。
 っていうか、学生時代、めちゃくちゃ好きだったO先生の講義をいくつも受けて、本を読んで得た結論が「私がどんな人間であるか、私が生まれてきて幸せだったのかどうか、人間や社会って何か、これは結局死ぬまでわからん。死んでもわからんかもしれん」ということだったことを思い出した。人間ってそんなもんだよな。

★学級崩壊のあっち側にあったのは家族崩壊だった。そして家族崩壊のあっち側にあったのは夫婦崩壊だった。夫婦崩壊のあっち側にあったのはお父さんを取り巻く社会崩壊で、こうなるとメビウスの輪みたいにひっくり返って元に戻ってしまう。あらゆることがリンクしている。何が原因で何が結果なのか、やっぱりよくわからない。あらゆることは繋がっている。原因や結果だけを探るのではなく、すべては繋がっている、と認識するところから始めるしかないのかもしれない。
 リンクした事柄をはずす方法、それは案外簡単だと思った。決断すればいい。このリンクでは生きないと。そして選びなおせばいい。別のリンクを作るように。お互いを理解しあうリンク、認め合うリンク、苦しくないリンク、それを選択し直せばいい。そのように、気づいた瞬間から行動を起こせばいい。(中略)
 ある瞬間から、お父さんも、お母さんも、別の状況を生きるために行動を変えた。それが子供に伝わり、子供達も違う言葉を選択し、違う言葉を選択するという行動によってリンク先がどんどん変わっていった。それを可能にしたのは、彼らのことを見守っていた他の人々の見えない助け、心の力。このような「背後に働く他者の力」が日本から薄れて来ている。人から与えられる背後の力も、そして自然から与えられる最後の力も、弱くなっているように思う。そのような自分以外の力に支えられて、人はリンク先をチェンジして行くのに。


※「決断すればいい」…そういわれても、なかなか出来ないもんなんだよな。むー。今の会社にいて感じる、なんとも言えない「閉塞感」「閉じたリンク」から抜け出しがたいわたくし。

それはさておき、学級崩壊、家族崩壊、夫婦崩壊、社会崩壊…これらのリンクは実感としてわかる。だいたい、家族が上手く回っていない家の子供が落ち着いているはずないんだよな(塾講師やら家庭教師の経験から実感している)。落ち着きのない子供の家庭ってのはたいがい、父親が不在で、おかんが子供に過剰に入れ込んでることが多い。

私は、貧乏な家(なんせ私が大学に行けるかどうかも危うかった。高校3年生の時に親に本気で就職はしないのか?って聞かれたもんな)に生まれて、「親がもう少し理解してくれたらなぁ…」「もっとお金があればなぁ」と思うことが多かったけど、でも、まだ幸せに生きてる方なのかなぁ…と思う。

★子供はわかっている。先生のイライラも、母親のイライラも、自分をうまく生きられない大人たちのいかんともしがたいような鬱憤を、なんとなく全部わかっている。そして支配されている。そう思う。少なくとも私はそうだった。中村先生はほんの少しでも、子供たちが自分の望む通りの行動をしないとヒステリーを起こした。自分の思った通りにしたいのだということがとてもよくわかった。だが、そのために子供はロボットにならなければならない。だから子供たちは黙って正座させられていた。気持ちが言葉と結びつかないのは、それが結びついて現実化されることの可能性を断念させられていたからように思う。
「どうして言わなかったの?」と大人はよく言ったけど、大人は暗黙のうちに子供に断念させているのだ。子供の気持ちはいつも現実化されない。言葉になる前に、大人の暗黙のプレッシャーが子供の心を緊張させて、気持ちは言葉に結実しない。

※…自分に置き換えてしか感想が述べられん自分もどないやねん?って思うねんけど、それはさておき。

 私は、多分…こんなことを言うと、アホか?と言われそうやけど、普通の子供よりは多感でごちゃごちゃと考えてしまう繊細な子供やった私は…たまたま非常に聡明で自分の子供をなんとかのびのびと伸ばしたいっていう母親に恵まれたから早くから殺されずに済んだけど、世の大多数の人々は大人にいろんな可能性を断念させられるんやろな。子供は結局一番身近な大人、親に縛られざるを得ないから。生まれてきて一番最初に頼れるのって、自分の両親しかおらへんわけやないですか?
 学生時代、いろんなことを親に期待されて、ものすごいプレッシャーをかけられている子供たちを学生時代に私は見てきた。なんとか楽にしてあげたいなぁ…と思いつつ、私に出来たことは、ほんの微々たるもので、なんだか、なんとも言えない無力感を感じたものだった。

★>このメールを最後まで読んだら絶対に死んじゃうよ。
 >私の憎しみは軽くないから。

 という2行に、やはり背筋がぞくっとしたのである。なぜなら私は自分に向かって「あなたを殺すよ」と言われたことが、生まれてから1度もないからだ。「死んじゃうよ」と言われるのはやっぱりショックだ。言われてみて初めてわかったが、ギクリとする。言葉は刃だ。ちゃんと心を切るのだ。


※言葉は刃だ。言葉は力だ。

 今になって、心から思う。

 詳しい事情は、こあらしか知らないけど、私はストーカー君に追われてヘロヘロになっている時期があった。
”いつ彼に殺されるかわからない”という状況で生活するのは想像以上にしんどかった。自尊心を失って疲れ果ててしまう自分を実感した。

 今、東京で暮らしている私を「殺してやる」って人はいないけど、でも、「私を殺してやる」ということを言葉にして言わてしまうのは、ものすごいダメージなのだ。言霊っていう言葉がありますが、言葉にしたことはその言葉を口にした人が思う以上に力を持っている。

★音楽家でもあり神道研究家でもある宮下富実夫さんに教えられたことがある。言葉は波動であり、自らが発した言葉のエネルギーは必ず自らに戻ってくるものだ。

※ほんに、その通りですわ。自分が好きで、自分がもっともっと伸びる、自分はすごい人間だと思っている時に自分が発したパワーの凄さ。自分に自信がなくて自分をとことん否定的に捕らえた時の負のパワーの凄さを思うと、しみじみ実感。
だから、私は今、私のことを「世界で一番素敵で可愛らしい人間だ」と思うのだ。

★「私の詩集を買ってください」の話。


※私も見た見たーーーーー!新宿の西口の小田急のシャネルの売り場辺りの前で。
 おかっぱ頭で、色白でひょろひょろした、女の人が首から「私の詩集を買ってください」っていう札をぶら下げて立っている姿を。

 私は、「うわ、きっしょー(←気色悪い)。なんやねん、この人?」と思って、ただ通りすぎただけやったけど……そか、そういういわれがあったんやな。

★あとがき

※一番、私の脳天にガツンときました。

★いやになるほど日常的な茶飯事の延長線上にいつも狂気はある。
★日常ってのはさ、何もかもを飲み込んで流れていく。殺しあっても、死なずに生きていれば腹がへって飯を食うし排便もする。生きている限り、人は食べて排泄して寝る。家族とはそれを共同で行う奇妙な集団だ。
 同じ家に住んでいれば、ときどきふいに和やかになったりする。変なもんだ。どんなに憎しみがあっても。いっしょに生きてきた歴史があって、どんな気違い沙汰もどっかでいやおうもなく日常だったりする。だから親を畳の下に埋めてもその上で生活できるし、胎児の死体を冷蔵庫に保管して、毎日食事をしたりできるんだ。
★前の晩に殺し合うような大喧嘩をして、警察沙汰になって、そして翌晩はこんな会話が成り立つ。それが人間で、それが日常なんだなあ。悲しくておかしいよ。日常はそういうことの繰り返しだ。人間はそんな凄まじい日常のリアルの中で考えて、生きていかなくちゃならない。
 殺すか殺されるかの間にサンドウィッチのキュウリやハムみたいに、愛だの、思いやりだの、喜びだのが混じってる。それが現実なんだ。悲惨なだけじゃない。現実はいつもどこかユーモラスだったり、愛のかけらがあったり、くだらなかったり、神聖だったりする。だから人は生きていくとも言えるし、だから人は死ぬとも言える。
★現実には力がある。実は現実の方が本に書かれた世界よりずっと柔軟性があるんだ。本を読みすぎると現実の柔軟性を失う。考えすぎる者はいつも考えすぎて現実の柔軟性を失う危機に立っている。現実はね、ぐにょぐにょ形を変える七変化だ。ひょんなことから何かが変わることもあれば、そうでない場合もある。
 世界は柔軟だ。私はいつもそう思って世の中の事件を見ようと思ってる。答えはひとつじゃない。現実は七味唐辛子だ。いろんな味が混じって辛い。ぼんやりと捉えるしかない。言葉にしたところから嘘になる。
 もし、あなたの子供があなたを憎み、あなたを殺そうとしたらどうしますか?
 子供に殺されますか?子供を殺しますか?
 その時あなたはどう行動しますか?
 
 ふん、そんなことは、なってみないとわからない。今日憎みあっても明日は笑っているかもしれないそれが現実の凄さだ。10秒後には相手を許すかもしれない。それが人間の凄さだ。それを信じなければ変幻する現実は生きられない。そう思うことが私の書くことの原点だった。
(下線部はしば子によります)


※あぁ、あぁ、私が言葉にしたいことの大半がここに書かれている。
 答えはひとつやないんだよ。ぼんやりしてるんだよ。言葉にしたくても、自分というフィルターを通した瞬間に嘘になってしまうんよ。私の身体を心を通してしまったら、それはもう「私の言葉」以外の何物でもなくて、自分が最初にキャッチした世界とは違ったものになってしまっている。私の色に染まってしまっている。
 そんな”私色に染まった言葉”を、人はそれぞれのフィルターを通して理解するわけで。

 言葉だけでは人は永遠に理解し合えないよなぁ…と悲しく思ったりもする。

 言葉を離れた表情や眼差しでわかりあえた時は、ものすごいエクスタシーを感じたりするわけやけど。


「田口ランディの人生相談 神様はいますか」 (メディアファクトリー)

※「神様はいますか?」「「友達って何?」「魂は存在する?」などなど、若かりしころ、誰もが一度は通りぬける疑問について田口ランディが答えた1冊。この本を読む「あなた」にとっての答えがあるかどうかはわからないけれども、「あなた」が人生の基本的な問題に答えるヒントはあるんやないのかなぁと、思ったりする。うん。

とりあえず、わたくし、しば子が「ピピーン」ときた部分を抜書きすると…。

★いま、私のなかにイメージとしてある神様は、何もしない神様だ。
 何かしてくれる神様はどうも怒りっぽくていけない。だけど、何もしない神様はグウタラな私にはちょうどいい優しい神様だ。
 その神様は、深い森や、美しい川の流れ、霧のたちこめる谷にいる。しんとした空気の中にいる。私はときどき神様を感じたくなって山へ行く。森を歩き、谷に降りて、その谷を流れる水のなかにある岩の上に座り、じっと水面を眺める。
 神様は何もしない。何もしてくれないけれど、そのような場所に確かに存在している。存在していると感じる。
 黙って水音に耳を済ませていると、私という存在もいつしか消えてなくなる。
 ただ、しんとした冷たい、静かな、大気だけが世界を満たし、何もない。
 もう疑問すらも消えてなくなり、ただ、かすかな沢風と、水音だけが響いている。
 そんなとき、ようやく私は「なぜ生きているのか」という問いから、逃れることが出来るのだった。
 神様は、何も、答えてくれない。



★意識がすべてではない。本当に?
 では意識って、何だろう?
 私のなかに、私という意識が存在する。私という意識は私の大脳のなかで作られている。私を認識しているのは私の大脳だ。でも、私という意識を持った時点で私は私を客体化しているわけだから、私と私という意識は分裂している。私という意識も厳密に言えば私ではないわけだ。だから私という意識が私を認識できない状態では、私は私という意識に消されることになる。意識というものに私を委ねると、私は意識に消されるのだ。
 意識がない状態の私。それは内的には死と同義だろうか。
 だとすれば、昏睡状態でいるとkは、その瞬間だけ死んでいる状態なのか。死は目覚めない眠りなのか。

★しかし、死ぬということの意味を、私は再確認している。
 「人間、死んだら終わり」とは、なんと凄いことだろう。
 死んだら終わり、私という意識の終わり。私が意識というものから一歩も出られずに生涯を終えたとしても、死ねば大脳は活動を終え意識から解放される。
 意識のない状態がどんなものなのか意識で考えてもむなしいだけだ。意識で考えたことはすべて意識の検閲を受けている。それが意識の限界なのだ。でも、その限界から、とりあえず死ねば解放されるということだ。「魂」すら意識の検閲を受けた概念だ。しょせん意識の産物であって、そう考えれば神秘的でもなんでもない。私が考えうることは私という意識が考えることで、どんなに荒唐無稽であっても、それは神秘的じゃない。しょせん意識だ。
 死は意識の終わりであり、意識というOSの消滅だ。
 では、その後にどのようなシステムが作動するのか。それは死んでみないとわからない。どうせ必ず死ぬのだから、答えを焦ることもないだろう。