夜の空には魔女が飛ぶ 火曜日

TUESDAY 夜の公園で見たものは?

 最悪の気分で、彼は帰り道を1人歩いていた。理由は、化学の定期テスト。彼は赤点を取った。見事なまでにへなちょこな点数だった。全く勉強をしなかったわけではない。自分なりに頑張ったつもりなのに……どうして化学式というものは、あんなにもややこしいんだろう!
 そして、よりによって、だ。化学の先生は生徒から「鬼教師」と恐れられているギャスライト先生ときている。
『ランディ=ハミルトン。私はこの学校に来て10年たつが、君ほど点数の取れない生徒を受け持つのは初めてだよ。このままでは私の授業が悪いのかと思われてしまうではないか。いいかい、君は受験生なんだよ。もう少し自覚を持ちなさい。今度の追試をパスできなかったら……わかってるね?』
 そう言われた時、ランディは何度も頷いた。実際のところは「わかってるね?」なんて聞かれても何1つわかってなんかいないのであるが、その時のギャスライト先生は相当ご機嫌が斜めだった。あの状態の先生を怒らせても、何の得にもなりっこない。
(1週間後の追試……何が何でも合格しなくちゃいけない……)
 ランディの気分は、一歩一歩進むたびにどんどん重くなっていく。家に帰ったら、早速勉強をしなくては。
 いつもと同じ道を、家に向かって歩く。途中で大きな公園を横切るルートだ。この公園をゆっくりと歩き、まわりの風景を眺め、四季の変化を体で感じるのがランディの日課だった。今は秋。木々の葉が色付き始めている。
 ランディは公園に中央にある山の前まで来て、近くにあるベンチに座った。ふと思い立って鞄から化学の教科書を出し、眺めてみたけれど。すぐに飽きた。わからないものというのは、面白くない。
 ぼーっと、空を見る。秋特有の高く澄んだ空だ。その空に、いかついギャスライト先生の顔が浮かんできたので、ランディは慌ててその思考をシャットアウトした。
 最近、自分は変だと思う。ふいにイライラしたり、不安になったり、何もかもが面倒になったりする。
  なぜ?
  なぜか?
 それは、漠然とした恐怖。
  眠い。
 そよ風の心地よさが、彼を眠りへと誘う。
  オレはなにに怯えている?
  来週の追試。
  ギャスライト先生。
  目の前に迫っている、受験。
  将来。
 意識がまどろんできた。
  未来。
 なにもわからなくて……。
  オレはどうなるんだろう。オレは……何ができるんだろう。
 交錯する意識はふいに途切れ、ランディはベンチにもたれかかったまま寝てしまった。

 目を覚ますと、あたりはすっかり暗くなっていた。気温も下がっていて肌寒い。
(う…あ?ああっ!やっべぇ、今何時!?)
 公園の街灯の明かりで、腕時計を見る。一昨年の誕生日に買ってもらったアナログの腕時計。長針は6、短針は8と9の間を指していた。つまり、8時半。15才の少年が学校から帰るにしては遅すぎる時間だ。ランディは青ざめ、かんかんになった母親の姿を考え、慌てて鞄をひっつかみ走り出そうとして……立ち止まった。
 山の上に、誰かがいる。
 ランディは緊張した。この公園は夜にはあまり人が訪れない。が、たまに柄の悪い人たちがたむろしていることがある。
 しかし、次の瞬間彼は眉をひそめた。月明かりに浮かぶシルエットは、どう見ても少女のものだったのだ。肩よりも長い髪の毛が、夜の闇に踊っている。ランディは目をこらして、彼女の動きに注目した。
 少女は手に何かを持っている。それは彼女の身長よりも長く細長いもの。
(……ほうき?)
 そう、確かにそれはほうきだった。今や掃除道具といったら掃除機だ。あんなに大きなほうきなんて滅多にお目にかかれない。
 少女はそのほうきにまたがった。スカートのすそがふわりと広がる。そして、山の頂上から駆け出す!
(な!?)
 助走をつけ、ステップ。いち、にの、さん!
 少女は地を強く蹴って、宙に身を投げて……見事、顔面着地した。
(…………)
 思わず数秒硬直してしまった後、彼女に駆け寄ろうかどうかランディが迷った時。むくり、と何ごともなかったかのように少女の影は立ち上がった。スカートについた草をはらい、手から放れたほうきを拾い、まわりをきょろきょろと見渡す。
 ランディは、その少女と目があった。否、目があった気がした。
「誰!?」
 かん高い少女の声が、静かな夜の公園に響いた。はっと振り返る彼女の顔が月明かりに照らされる。ランディは、ばっと彼女に背を向けて走り出した。何か見てはいけない秘密の物を見てしまった気がしたのだ。
 走って、走って、苦しくなるくらい走って。家の前について、やっと一息つく。
「な、なんだったんだろ、あれ……」
 小さくつぶかれたその問いは夜の闇に消えた。
 結局、その日ランディは勉強することができなかった。

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