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落 合 信 彦 (Ochiai Nobuhiko) ―――国際政治ジャーナリスト――― 1942年1月8日 東京都 浅草生まれ |
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「私がアメリカ行きを決心したのは.....兄は東大にストレートで入った..... 家は極端に貧しかった.....進学を断念して.....受けた先は電電公社だった..... 簡単に試験を突破した.....最終段階で落とされてしまった..... 母子家庭だからというのが理由だった.....本人の能力よりも..... そんな社会はこっちからお断りである。 この時点で私は日本脱出を決心し、目をアメリカへ向けた。」 |
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「万が一にもアメリカへ行けず日本にいるようなことがあったら、 私は映画評論家で身を立てようと思っていた。」 「英語を習うのに手っ取り早いのは、映画しかなかった。」 「アメリカへ行く直前まで、日曜日の四ツ木の映画館通いはずっとつづいた。」 |
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都立両国高校卒業 | |||||||||||||||
オルブライト大学へ奨学金留学 | |||||||||||||||
空手導場をはじめる | |||||||||||||||
「三年生の夏休み.....ワシントンを訪れた..... 国務省主催の大学生対象とした政治講習会に出席.....最後の日..... ケネディ内閣の閣僚のひとりが講師として出席していた.....静かな語り口であった..... しかし.....今まで聞いたどの話よりも、私は心をゆるがされた。 彼の話の中には、涙と情熱と夢が感じられた。 私が考えていた政治家とは、スケールも次元も違っていた。 それが時のケネディ内閣の司法長官ロバート・フランシス・ケネディだった。」 |
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テンプル大学院で国際政治学専攻 | |||||||||||||||
空手師範を続ける | |||||||||||||||
大学時代の友人に誘われ、石油会社設立 | |||||||||||||||
ロバート・ケネディの選挙運動員として登録 | |||||||||||||||
オイルマンとして活躍。後、会社売却 | |||||||||||||||
国際政治ジャーナリストへ転身 | |||||||||||||||
「書くことは嫌いではなかった..... 本格的な書物と呼べるのは.....“二人の首領”だった。」 |
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【1977年4月】 「二人の首領」(週刊文春に発表)でデビュー 一躍注目を浴びる さらに、二〇三九年の真実を連載 |
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【1997年5月】 母校オルブライト大学より人文学名誉博士号を授与される |
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【2002年6月】 中国・山東省旅遊形象大使(観光大使)を引き受ける |
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著書・訳書など多数 | |||||||||||||||
ジャーナリストとしての姿勢 一九八三年 十月一日 (著書 「日本が叩き潰される日」光文社・新書 より) |
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本来なら激動する世界情勢に合わせて、月に一度はこの種の本を書き上げるべきなのだが、何せ情報収集がおぼつかない。情報の収集には膨大な金と時間がかかる。 | |||||||||||||||
この場合の情報とは、もちろんインテリジェンスのことである。 | |||||||||||||||
どんな情報でも、こと国際政治に関する限りはひとつやふたつのソースから得ただけでは決して十分ではない。同じ件に関する情報でもCIAから得るのとモサドから得るのとでは、時としてまったく違うということもある。また同じくCIA内部からでもソースによって全然反対の情報がもたらされることもある。 | |||||||||||||||
各国の情報機関は、これと思ったジャーナリストに故意に情報を流すことがしばしばある。受けたほうのジャーナリストはスクープと信じてそれを活字にしてしまう。しかし、実際は情報機関のディスインフォメーション工作に利用されているにすぎない。 | |||||||||||||||
私のところにもたびたび外国から電話が入り、必ず“極秘だが”と断って、さまざまな情報をリークしてくる。これらのリークをいちいち活字にしていたら、それこそ大変なことになる。 | |||||||||||||||
だから私の場合は、どのような情報でもダブル・トリプルチェックすることにしている。これには金と時間がかかる。たとえば本書の中でアメリカは決して逆スウィング戦略を実行しないであろうと私は断定したが、この結論に達する情報を集めるためにだけでも十日という時間と三十一回の国際電話を必要とした。 | |||||||||||||||
またどんな情報でも一度に全部手に入れるということはまずできない。ハメ絵パズルのようなもので、小さな情報をひとつずつ丹念に集めてつなぎ合わせた結果、初めて意味のある情報となる。これにもやはり時間と金がかかる。 | |||||||||||||||
私は常に情報ソースをその信頼度によってAAA、A、B、C、Dの五つのカテゴリーに分類している。信頼度はそのソースの置かれた立場、私との関係、バックにある政府の状態、時の国際環境、ソースの実績などを考慮に入れて分けいてる。 | |||||||||||||||
たとえば私がが大学時代空手を教えたものが何人か合衆国情報機関や軍部にいるが、彼らの多くはAAAのカテゴリーに入る。石油をやっていたとき常時コンタクトしていた国務省のメンバーはその実績や立場を考慮してAの部類に入れている。現CIA長官ウィリアム・ケーシーは個人的な友人だがソースとしてはDである。パーティなどで会っても決して本音は言はぬし、言ったとしても現場担当者ほど重要な情報も持っていないからだ。 | |||||||||||||||
いくらAAAやAクラスの情報が集まったからと言って、それをすぐに活字にできるかというとそうではない。これらの情報をさらに私自身が培なってきた国際政治の知識というフィルターにかけて分析し取捨選択せねばならない。これがいちばんむずかしく、時間がかかる。これが終わってはじめて書くことになるのだが、書いている最中にも国際情勢は刻一刻と変化しているから情報チャンネルはつねに開けておかねばならない。そして新しい情報が入ればそれなりの修正も必要となる。この種の本を書くのに時間と手間がかかるのはそのためである。(現にこの原稿を修正している最中にもソ連機による大韓航空機撃墜という国際的事件が起きている) | |||||||||||||||
私は学者でもなければ評論家でもない。無責任な解説を書いているつもりは毛頭ない。一ジャーナリストとして自分の目、耳、足でかせいだ情報を軸として今日の世界情勢をできるだけ克明かつわかりやすく説明し、そこに自らの判断と結論を加えて読者にぶつけるのが仕事と思っててる。 | |||||||||||||||
結果として独断と偏見に満ちているように思われるかもしれない。たしかにそのとおりである。しかし、その独断と偏見は正確な情報とデータにもとづいていると自負している。これからもこの手法は変えるつもりはない。自分の書いたものに対して責任を持ち、フル・コミットメントする。それが今日ジャーナリストのあるべき真の姿勢であると信ずるからである。 | |||||||||||||||
落合秀彦氏(Hidy Ochiai)について | |||||||||||||||
Hidy Ochiai Foundation | |||||||||||||||
Hidy Ochiai's Washin-Ryu of Albany | |||||||||||||||
兄、秀彦氏もアメリカへ渡り、空手の道へ進む。 | |||||||||||||||
1962年に渡米しAlbright College に入学 | |||||||||||||||
1966年、公式に『Washin-Ryu dojo』開設 | |||||||||||||||
分校―NEW YORK、CONNECHICUT、MASSACHUSETTS、PENNSYLVANIA | |||||||||||||||
主な出版物 A Way to Victory : The Annotated Book of Five Rings Hidy Ochiai's Complete Book of Self-Defense Hidy Ochiai's Self-Defense for Kids : A Guide for Parents and teachers Hidy Ochiai's Living Karate The Essence of Self-Defense |
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【一覧】 | |||||||||||||||||||
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