眼球紀行

上へ上へと伸びる木々の力が暗い土の中へ沈潜する根と水と死体を圧迫しそこで繰り広げられるさまざまな夜の饗宴の、食欲、色欲、物欲、破壊欲へと引きずり込まれるあなた。空には叫び声が充満し声により引き裂かれた体が落ちてくる地点に追悼の池がさざ波を立て、その声、波音、水のうねる動きに誘われて夕暮れ現れる物象の、あなたもその一人。

***


さようなら。僕は疲れた。もう1度あなたに会いたいと思うが僕には道がわからない。枝に結び付けたはずの布切れは誰かが取り去ってしまったらしい。冷たいしずくの滴る地下の国で生まれた僕には太陽の見える昼が怖い。嘲笑と悪罵の渦巻いている表通りが怖い。片方の靴はどこかに置いてきてしまい灼けた地面を踏むたびに血が流れ出すのがわかる。

 

発育を遂げた目玉

僕の目玉ははるか彼方への飛行を続ける、生きていた僕を縛っていたもろもろの隣人愛から逃れ、どこか暗い引力が引き付ける方角へ。胴にぶら下げた酒瓶が冷たい風にちりちりと鳴る。
空はやわらかな対流を続け猛禽が小鳥を飲むように僕はその渦巻きに吸収され、中心の虚空はさらに音のない世界へと僕を吐き出す、僕は朝焼けのオーロラを突き抜け夜のくず星のスパンコールを纏い、共同墓場のように群れて漂う同類を探して……
すると冷たい夜の果ての上空で、ちりんちりんと鳴る酒瓶の鼻歌を妨害する言葉が突然聞こえてきた、かつてはいかなる生き物も住むことのなかった僕の視床下部の辺りで、まるで僕のへそをくすぐるようなそして脳幹に入り込んで僕の丸い全身を支配しようとするような動物的な声が。
「遠い、遠いな」
「通り過ぎてしまったのでは?」
声は双子の声のように共鳴し僕の中にこだました。それが二人なのか双頭の一人なのか僕には知るすべもない、誰も自分の背中のほくろを見ることができないように。二つの声は僭越にも僕に向かって命令するのだ、 飛べ、漂ってゆけ、巨大な醜い目玉よ、お前にはもう意志などないのだから、私たちの考えることしか、お前は考えられないのだから……
低くて生臭く湿った嫌な声、声は執拗にタールのようにつきまとい、僕の思考を縛り付ける。

 

Oh father,my father!

子;お父さん、お父さん、大きな目玉が僕をさらひに来たよ。
父;そんなものはありはしない、わが子よ、お前は熱に浮かされてゐるのだ。
子;怖いよ、お父さん、だんだん目玉が近づいてくるよ。
父;あれは大きな黒雲だ、時折雷がそこから発光するのだ。
子;お父さん、お父さん、目玉が流す涙で僕はもうずぶぬれだよ。
うつとりと吸ひ込まれるやうに、開いた窓から空を見上げる子ども。
父;窓を開けるのではない!
子を奪ひ取るやうにして助手席へ身を乗り出し、暴風の吹き込む窓ガラスを閉める父親。大きく左右に振れる車体。
子;早く、早く逃げてしまひませう、お父さん、僕たちを追つてくる目玉からではなく、このやうに理不尽な世の中から。ほらあの目玉が力強い手を差し伸べてゐるではありませんか。僕たちは今まで無明の世界にゐたのです。やうやく僕は目が開ける、500マイルも向かふまで見通せるやうです。
父;お前は高熱があるのだ、わが子よ、医者に行き鎮静剤を打つてもらえばすぐにそんな幻覚はなくなる、健康で快活ないつものお前に戻れるのだ。
子;打つてもらへるならもう決してこの醜悪な世界に舞ひ戻ることのないやうなやつをお願ひします、僕はこの幸福なビジョンを失ひたくないのだから。生きている人間が、今まで僕をこんなに幸福な、明澄な境地に導いたことはなかったのだから。
父;もう黙つて座つてゐるのだ、わが子よ、この橋を渡ればお前の母親が、嵐に怯えるお前の妹をあやしながらわれわれの帰りを待つてゐるのだ、そこには暖かいスープも乾いた下着もある、お前があんなに欲しがつてゐた車の模型だつて来週には届くのだ。
子;暖かいスープ!プラモデル!そんなものが今の僕に何の意味を持つでしょう、文字どおり開眼した僕に、そんな子供だましなど。が、僕をまねくのだ、地上の重みをすべて捨てて、遊泳の旅に従ふやうにと、巡礼の空へ放たれるやうにと。
父;しつかりしろ、お前が見てゐるのは恐ろしい悪霊だ!
子;さやうなら。幸せな子供時代をありがたう、善良な農夫であるあなたの思ひ出に僕の骸を持つて行かう、あなたの血を分けた、そして今は有機物の塊に過ぎない僕のからだを。
父;何を言ふ、お願ひだ、目を開けてくれ、もうすぐ家ではないか。しつかりしろ、トビアス、トビアス!
路肩に車を停め、だらりとした少年の体を揺り動かし続ける父親。半ば口を開け、恍惚とした表情で横たはる少年。激しい嵐が白い雨脚を立ててゐる。

輝く鳥を従えて、無定型のエネルギーをたたえた僕の飛行は続く、昼も夜も暗い空に見えない目を見開きながら。
「足元で何か生暖かいものがうごめかないか?」
「確かに。ひくひくと小さなものが。生まれたばかりのような」
「懸命に肉体から抜け出ようとする意志が言葉を発しようともがいている」
「放り出そうか」
「それには及ぶまい、適応できればそのまま成長しようし、できなければ自然消滅するだろう」
冷たい虚空の彼方から僕を呼ぶかすかな声が聞こえる。悪の吸引力かもしれない、僕は臓腑の引き付けられる力で錐揉み状に加速を始める。

 

 
アンナ;あ、ほらまた動いた。
父;何?元気のいい子だな。こいつはきっと、君に似てお転婆だよ。
アンナ;うそ、あなたに似てるのよ。
父;僕は君に似てほしいな。……女の子だったら、ドロレスとでも名づけようか。
アンナ;どうしてドロレスなんて?
父;それは、つまり……響きがいいからさ。
アンナ;もしかして、あなたが昔色目を使った女の名前なんかじゃないでしょうね。
父;(一際大きな声で)男の子だったら何にしようか!
アンナ;あやしいもんだわ。他に、キャサリンにセーラなんていうのもあったわね。
父;男の子だったら、そうだな、トビアスなんてのはどうだ?
アンナ;変じゃない?
父;変じゃないよ。聖書からさ。天使がその子の肩に乗るように。
アンナ;そう。トビアス。トビー。いいかもしれないわね。
陽光のようにこぼれる笑い声と、幸せに満ちた人々のまなざし。

「植物のように僕は発芽を始めた、生暖かい胎盤の鼓動に包まれて、うねりをなすみどりの大木になるために」
「また僕に乗る生命体が増え知らない意識の声が視神経をくすぐる。違う世界からの声が僕を散り散りに裂いてしまうまで飛行を続けるのだろうか。 こんなに違和感ばかりのものを内部に抱えたままで。」

 
アンナ;トビー、トビー、どこにいるの?今日は髪を刈らなくちゃいけないって言ったでしょう。
浮浪者みたいな頭になりたいの?本当に、嫌なことだとといつもどこかへ行ってしまうのだから。
トビアス;(ここはひんやりしていて少し臭い。頭の上をママが歩いている音がみしみし聞こえる。)
アンナ;トビー、どこなの?いいわ。十数えるうちに出てこないとカスタード入りアップルパイを焼いてあげませんよ。ひとーつ、ふたーつ、みーっつ……
アンナわざとらしく歩き回って探す。声が少し遠くなる。トビアス慌てて立ち上がる。台所の床下収蔵庫のふたが開く。
アンナ;ななつ、やーっつ。
トビアス;ママ、ここにいるよ。
アンナ;あらあら、こんなところにいたのね、かわいい仔山羊ちゃん。オオカミはもうはらぺこです。床の下から現れたトビアス仔山羊にもガブリッ…
トビアス;ママ、アップルパイを焼いてくれる?
アンナ;ええ、散髪が終わったらね。ほら、そこに座って。
テラスに用意されている子ども用の椅子。
トビアス;耳切らないでね、ぎゅっと目をつぶってるから。
アンナ;大丈夫、じっとしてなさいよ。
シャキン、シャキンと小気味よいはさみの音。柔らかい髪の束が、しおれた花びらのように飛び散る。
トビアス;ママ、ふろうしゃってなに?
アンナ;え?
トビアス;さっきママが言ってた…
アンナ;ああ、浮浪者?家のない人のこと。
トビアス;家がないとどこに住むの?
アンナ;さあ、町中でぼろをかぶって寝ているわね。
トビアス;寒くない?
アンナ;そりゃあ、寒いでしょうよ。
トビアス;かわいそう。
アンナ;そうね、だからそうならないようにしっかり勉強するのよ。はい、おしまい、いっていいわよ。
アンナ、トビアスの首からケープを取り去る。
トビアス;(勉強したら家がもらえるのかしらん……)

ママといるのは楽しいけれど、時々何かが抜けているような気がする。アップルパイやシャボンの匂い、ママは甘い匂いをいつも漂わせ、僕はほんわりとしてしまう。 ママは地下の穴蔵の心地よさを知らない、そんな暗くてじめじめしたところに潜り込んで、と言って嫌な顔をする、僕はうずくまって、色の消えたパスタや缶詰やりんご箱の形を見ながら、 ママやパパのいない世界を想像するんだ。遠い森のや砂漠の真ん中に立つ塔やそれから違う星に住んでいる生き物のことを……。

 

銀河風にそよぐ双葉

生まれたときから僕の大地は遊泳し,涼しい風が僕の脇の下をくすぐっていた。この土、この懐かしい胎内に宿る前にどこにいたのか僕は知らない。かつても僕は生きていた? 導管をめぐる体液が、明るい陽光、さざめく笑い声や小麦の匂いを記憶している、今の僕にはかすかな陶酔の記憶、去年の酔いほどにも残っていない。

 
トビアス;それでね、オスカーもナットも持ってるんだ、フランクだって今度買ってもらうんだってさ。
アンナ;3人だけじゃないの。
トビアス;クラスに男の子は10人だけだよ。他のみんなも買うつもりでお金を貯めているんだ。
アンナ;だったらあなたもそうしなさい。
トビアス;むりだよ!みんな家の手伝いをするたびにお金をもらうのに僕のうちは……
父、ドアを開けて入ってくる。
父;何の話だ?
アンナ;学校で、ピストルのおもちゃがはやっていてね、それがほしいんだって。
父;ああ、あれか。感心しないな。
トビアス;どうして?パパだって持ってるじゃないか!
父;身を守るためだ。
トビアス;僕だって、身を守るために……
父;お前のは違う!格好をつけたいだけだ。
トビアス;違わない、僕だって、強くなるためにいるんだ。
父;そんなもので強くはならない。お前はまだ稚すぎる。体と心を大きくするのが先だ。さあ、しっかり食べて本を読みなさい。
トビアス;(パパの言うのは立派なことばかり。ぼくはいつも頭を垂れて机の前に行くしかない。)

 

幼木

あなたが自分の体を与えて僕を生かしていると知ったのは最近のことだ。大きすぎて全体の見えなかったあなたは僕の喉を潤すために甘辛い涙を滴らせ、その度にやせ細った。 黒い巨大な瞳は時折ぐりぐりと灯台のように光を発しながら回転し僕を見つめていた。孤独な灯台のゆりかごで僕は宇宙の波音をきいた。
僕にはもう7本の枝とたくさんの尾ひれみたいな葉っぱがある。

 
父;お前がそんなに卑怯だとは思わなかったぞ。さあ、下りてきてセーラに謝りなさい。
大木の中ほどまで上り枝にまたがっているトビアス。
トビアス;いやだよ、僕は悪くないよ、セーラが僕の切り抜き帳を破いたんだ。
父;そんなもの、また作ればいいじゃないか。
トビアス;あんなのは滅多にないよ、カラーのノーチラス号だよ、それも2ページ分にいっぱいの大きさだったんだ。パパが捨てていた雑誌から見つけたんだ。
父;だからって、妹をぶったり、髪を引っ張ったりするのはよくない。セーラはまだそれが大切なものだとわからないんだ。
トビアス;じゃあ謝ってもわからないよ。
父;トビアス!
トビアス黙っている。ゆっくりと、山すそから夕闇が上ってくる。
父;なら、好きなだけそこにいるがいい、早く来ないと晩飯はないぞ。
夕闇は家も木も包んでしまう。窓からあふれる黄色い明かり。トビアス、1番下の枝まで行きそこから飛び降りる。

アンナ;もういいんじゃないかしら。
父;強情なのだ、あいつは。自分からは謝ろうともしない。1度こうやって懲らしめないといかん。
雨粒が落ちはじめる。トビアス道を走って行く。うっそうと覆いかぶさってくる森の木々。
トビアス;(暗闇に向かって手でピストルを構える格好をして)バアン、バアン、ほら、暗くても僕は目が見えるんだ、隠れたって無駄だぞ、ばあん、ばあんっ。 森だ。昼間虫を取りに来るときはおとなしい森なのに今はずいぶんびっくりさせるなあ。
森へ足を踏み入れると雨音が葉をたたく音になる。
トビアス;ばあん、ばあん、鳥も狼も、狐も、うさぎも、全部全部撃ってやるんだ。オスカーのパパに連れられて猟に行ったときの、 あの雉バトのまだ温かかったこと、あの血の匂い、ぬくもりよりも先に消えてしまうちっぽけな命を、僕はたくさん撃ち落とすんだ。 僕はあの家にはおれない子供だ、食事前や寝る前のお祈りに、神様が本当にいるのなら、僕に今雷を落としてください、と祈ったりするんだもの。 だけど何にも起こらなかった。僕はいけない子供だ、神様を試したりして。 あっ!
急に目の前に現れる、古ぼけた木のような、ぼろぼろの布をぶら下げた人影。トビアス息を呑んで立ち止まる。
人影;パーシャ…
トビアス;フロウシャ!?
人影がよろめくように一歩前へ出る。凍ったように動かないトビアス。人影が片手を前に差し出す。そのまま風に押された看板のようにがくりと男はひざを突きトビアスにのしかかる。
トビアス;きゃあっ。
男;パ、パーシャ…
酒臭い息と、鉄のように冷たい体。
トビアス;重いよ、おじさん、どいてよ、僕はパーシャじゃないよ。
トビアス、そのまま男を引きずって歩きはじめる。
トビアス;おじさん、どこまで行くの?家はあるの?近いの?
男、返事をしない。
トビアス;重いよ…
激しくなる雨脚。真っ暗な森に、そこだけ陽光が差すように聞こえてくる幸せな声の幻。
---男の子だったら、トビアスにしよう。
---どうして?
---聖書からさ。天使が肩に乗るように。
トビアス;天使なんていない、天使は僕の肩には乗らなかった。岩みたいに重い人間が僕の背中におおいかぶさって離れず、刑罰のように僕の前に森は出口を開かない…

『かくて若きトビアス立ち出でたるに、美しく若き男、すでに旅衣を着て旅立ちの用具を具へて立てるを見たりき。トビアスは神の天使たるを知らずして、挨拶して言へり。良き若者よ、いづこより来たりしか……』

トビアス;痺れてくる…

雨を割いて走ってくる車のヘッドライト。トビアス、道端に一人で倒れている。
父;トビー!
父、ぐったりとしたトビアスを抱きかかえて車に載せる。
父;大丈夫か、トビアス!
父親、トビアスの額に手を当てる。高熱がある。
父;どうしてこんなところまで……
ドアを閉め、Uターンして走りはじめる車。ひときわ黒い雨雲が、それを追いかけるように流れている。

 

宇宙樹


すっかりしぼんでピンポン玉くらいになってしまったあなたに巨大な宇宙樹が見えるだろうか。あなたの体を吸い取って成長した僕の姿が?僕は千の手を伸ばす、あなたの温かい手を探すためではなく、つかみどころのない空っぽの世界を確かめるために。 そして僕の肩の上で相変わらずぼそぼそと呟き続ける声が強さを増してくる。僕を支配しようとする暗鬱の、樹皮に走る一本一本の溝のような暗さの古い情念が、僕の体の隅々にまで行き渡る、やわらかに僕の肩を噛むその声にまるで麻痺させられるように……。 あなたに僕が見えるだろうか、僕はだらりと弛緩し性も根も支配し尽くされてやっとのことで宙に浮いているだけなのだろうか、今僕は快楽を吸い尽くそうと媚びへつらうような顔をしているのだろうか、完全にその声の前に屈してしまい、彼の意のままになるより他ないのだろうか?
僕は一筋かすかに糸を引いている理性に掴まり体中の血管に決起を呼びかけた、雪崩のように鳴りとよむ僕の血球たち、僕は満身創痍の器となって毒の蜜を流し出すから、僕を啜る忌まわしい正義の寄生虫をお前たちの虜にするのだ、苦い苦い体液がかれらの死出の水となるように。 僕の不遜な血球たちよ、沸き立ちかえる地獄の鬼火よ…… 僕は満身に力を込め、肩にぶら下がっている不快な声を振り落とした!くねくねとのたうち回りながら世界の凍り付く果てへ落ちていくみすぼらしい生き物よ、その初めて見るいやしい原生動物と共に、彗星のように尾を引きながら遠ざかるあなたがあった…… あっという間に一粒の塵ほどに小さくなりどこにも見えなくなった目玉、さようなら、僕はもう1度あなたに会いたかった、永遠に終わらない旅の始まりのはなむけに、あなたの鼓動に触れたかった、もう干からびてしわだらけになった水晶体を通してくる光を浴びたかった、幸福な世界に戻りたかった…
すると僕の体の節々にひゃくせんまんのまなこが開きその眼のことごとくから追悼の涙があふれ出し、僕はこんな空虚な宇宙の真ん中で自分の涙に溺れそうになりけれどもひゃくせんまんのうるんだ眼をもってしても宇宙のどこにもあなたの姿は見つけられず……

僕は手放しに自由だ!

 

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