でっきの日記です

 梅雨が本格的になった。今日は、朝から農作業。隣の人と顔見知りになることができた。隣の田圃を世話しているおじいさんもシャンとして素敵な笑顔で話してくれた。
 いろいろな歳の重ね方はあるが、すべての人が健康で生き生きとした歳の重ね方ができる社会というのは、大切だと何度も感じる。
 人を使って何かするというより、自分がなにかに一生懸命というよりは、先を見て焦ることなく根気よく淡々と取り組むことがどうも生き方のコツのような気がする。
 効率を求めるという姿勢は、最終のゴールを意識してそこに如何に早く到達するかということであるが、最終のゴールが明確に見えなければ、その意義は薄れてしまうだろう。
 ゴールを意識しながら、淡々としていくのはやはり難しい。でも、それができるのが達人であり、自由になることの秘訣のように思う。
2003年06月22日 16時56分30秒

人が死ぬということ
 知り合いが、昨日、亡くなられました。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
 いきなり重いテーマになってしまいますね。3年ぐらい前まで、約4年間ほど同じところで働いていた方でした。私がいたその部署は、現在は、存在しないので、組織だっては特別に何かするということはないのですが、というより何もすることができないような状態です。
 原因は、ガンで、一度入院されつい2週間前まで元気にされていたのですが、まさに突然という感じでした。私自身あまりに突然だったので聞いた直後、虚脱感を覚えました。職場ということで私の分かる範囲であちらこちらに連絡しましたが、人によって受け止め方は様々といった感です。
 若い人は、おおむね「連絡を受けたけれど、どうしていいのか分からない」といったもので、これは、おおむね、亡くなられた方に哀悼の意を示すのはどうしたらいいのだろうという意味と、関連する他の人はどうするのだろうという意味とがあるのだと思います。
 中には、葬儀の執り行われる場所を聞いたとき、笑いながら「そこでワシもしようと思っている」といわれたご年配の方もおられました。若い人の中には、「今日、たまたま友人と会うので故人の生前の話をしようと思います」といった人もいました。
 私は父を亡くしたとき、「遅かれ早かれいずれ人は死ぬものだから」と知人にいわれたときは、「あー、こういうふうにいう人がいるんや」と感じたことを思い出します。
 その人は、悪気なくいったと思います。「人はいずれ死ぬから、生きているときに精一杯生きる」ということは、よく言われますが、「人はいずれ死ぬから、その人が死に行こうとしているときは、周りの者は、その人が精一杯生きていて良かったと感じることができるように、そして死んでしまったときには、周りの者は、その人の死を意味あるものにするように受け入れていく努力が必要であると考えるようになりました。死に行くときが分かるのは、まさに身内だけです。
 まだ、書きたいことがありますが、今日はこのぐらいにしておきます。
2003年04月29日 20時05分00秒

いよいよ開設!
本日ようやく開設することができました。
これから、本音を書いていこうと思います。
2003年04月27日 22時03分43秒


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