日本における共産主義の展開(中) ―「冬の時代」の果て―


 いやはや、何とまうしますか旅行だの学会だのありまして結局一ヶ月なんにもやらなかつたはけでして、誠に怠惰きはまりないと申せます。

 前回は日本社会主義が「冬の時代」に突入したところまでゞしたが、その後どうなつたかといふ話に入りたいと思ひます。

 基本的に社会主義といふものは、現実の資本主義に対するアンチ・テーゼとして自己を主張するわけでして、その点では、社会主義の存在は資本主義の高度な発展を逆に示してゐると云えます。一寸待て日本にそんな高度な資本主義があつたのか、と云はれる方も居られるかも知れません。まさか封建的遺制とは云はないでせうが…。

 どうも、この戦後民主主義教育を受けたといふか、端的に云えば戦後のステキな時代に生きる我々としては、戦前の日本といふのがどことなく野暮つたく、パッとしないやうに思はれたりするわけです。しかしながら、19世紀末から20世紀初期において、日本帝国といふのは、新進気鋭ながらも一端(いつぱし)の帝国主義国家として認められてをつたはけです。例へば、レーニンの『帝国主義』にある統計などを見ますと、欧米と一緒になぜか日本の名前が載つてゐたりします。あんまり名誉とも云ひ難いですが、事実ですから已むを得ないわけです。

 それはそれとして、先ほど申しましたやうに、社会主義は資本主義に対するものでありますから、その運動自体は現実の資本主義的生産様式に対してなされます。「冬の時代」以前の社会主義者の内容が、アナルコ・サンディカリズムあるいは無政府主義者からキリスト教的・老荘的社会主義者まで、その思想のバックボーンは実に雑居的だつたはけですが、現状の改革への関心といふ点では同じだつたはけです。

 かういつた日本社会主義の思想的雑居性といふ性格は「冬の時代」においても大きく変はることがありませんでした。これが大きく変化するのは、1917年のロシア革命を画期とします。

 現在に於ては社会主義と云ふ巨大な人類的実験は「失敗した」と云ふことになつてをりますが、当時の思想的興奮は極めて大きなものがあつたことは否めません。無論、しつかりと自らの思想的基盤を有してゐたヴェーバやカレルギーなどは、ソヴィエト・ロシアに幻想を持つことはなかつたのですが、残念ながら極めて少数派であつたことは指摘しておきたいと思ひます。

 思想的興奮は全世界的に広がりました。折しも世界大戦中(第一次)から戦後にかけて欧州各地において次々と革命がおこり、「すは世界革命か?」といふ状況になりました。この余波は、アヂア方面にも至り、外蒙古が1921年中国から独立し(この時は君主国)、1924年には世界第二番目の共産主義国家モンゴル民主共和国が成立したのは特筆することでありました。

 日本におけるロシア革命の影響は、硬軟取り混ぜたものでした。最も強硬なものは、いはゆる「シベリア出兵」と呼ばれるロシア革命干渉戦争の開始でした。フランス革命の時も、フランス周辺の君主国は革命干渉戦争を起こしましたが、こゝでも歴史が繰り返されてゐるわけです。特に日本にとつてロシアは本来的に極東における脅威だつたはけで、それが共産主義といふ新しいファクターを伴つて来たはけですから、一層その脅威は強まつたと云えます。このシベリア出兵に際しては、駐屯先のニコライエフスクで日本人居留民を含めた軍民約700名がパルチザンによつて虐殺されると云ふ痛ましい事件(尼港事件)も起こつたはけですが、そもそもどうしてこの地に日本軍が存在したのかを考へる必要もあります。

 日本共産党(第一次)もこの時期に成立いたしました(1922)。形式的には1919年に出来たコミンテルンの支部として成立したはけですが、この第一次日本共産党結党に於ても日本社会主義の思想的雑居性といふ性格が現れてをりました。本来コミンテルンは国際共産主義運動・世界革命のために作られたものですから、帝国主義政府に対して恒常的且つ徹底的に闘争せねばならないわけですが、この第一次日本共産党は、「冬の時代」以前からの活動家(堺利彦・山川均など)が指導部の多くを占めてゐたゝめに、この新しい国際共産主義運動を充分に把握することが出来ず、コミンテルン(第三インター)をこれまでのインターナショナル(第二)を継承する組織と考へてゐたきらひがあります。つまり、社会主義・労働組合の国際会議のやうなものと見做してゐたはけです。悪く云えば仲良し倶楽部ですね。むろん、だからといつて第一次日本共産党が軟弱だつたと云ふわけでは決してないことは、その結党は非合法であつたことからも云えると思ひます。

 この非合法政党日本共産党は、1923年6月には帝国政府により本格的な弾圧を受けました。とりわけ衝撃的であつたのは、同年9月の関東大震災の混乱の中で無政府主義者の大杉栄がその近親者らとゝもに甘粕正彦憲兵大尉によつて殺害されたといふいはゆる甘粕事件を初め、亀戸事件やその他様々な残虐事件でした。かういつた「反動」の嵐の中で、この第一次日本共産党は1924年にコミンテルンへの報告なしに解党を決定してしまひました。コミンテルンをボルシェビキ(ロシア共産党)の世界革命指導機関としてゞはなく、各国の共産党・労働組合の主体的参加に基づく国際会議と見做してゐた党指導部にとつては、コミンテルンに加入するのも、脱退するのも各国共産党の自主的判断でなし得ると考へてゐたのでせう。こゝいら辺、如何にも19世紀的な個人主義の香りがいたします。しかし、コミンテルンといふのは、端的に云えばソヴィエト・ロシアといふこの新国家を世界革命の前衛国家として、さらには国家そのものゝ廃絶の媒介として運動させるための鋼鉄の機関でありました。従つて、各国共産党といふのは、それ自体に主体性を認められるべきものではなく、国際共産主義運動といふ全体の「細胞」として存在すべきものであつたと云えます。ですから、弾圧がきつくなつたからと云つて勝手に辞めるなどゝ云ふのは許されない、あるいはありえない行為なのです。

 この「細胞」といふ言葉について申し上げますと、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」といふのは、共産主義の一つの目標であります。他人を手段としてゞはなく目的として行為する人間の存在可能な社会の構築こそ、共産主義の求める所であると申せませう。しかし、この「一人」といふ言葉を「細胞」といふ言葉に置き換へるとゞうなるかと申しますと、

  「細胞は全体のために、全体は細胞のために」

 と、なります。全体における細胞は、単細胞生物でない以上、単なる部品に過ぎません。故に多細胞生物の細胞は思考することがありません。たゞ、中枢から送られてくるホルモンであるとか云つた命令に従つて活動するだけです。その限りにおいて、細胞に自我はありません。生物学のお話でしたらこれで宜しいのでせうが、現実の組織論になりますと、さういふ訳には行かないのではないかと思はれます。つまり、「細胞は全体のために、全体は細胞のために」といふとき、そこでは他人が目的ではなく、手段として見做されてしまつてゐるといふことです。しかも、その「他人を手段とする人」は、ごく少数の特権者(指導部)に限られると云ふ、共産主義の理念からは到底考へられない状況になるのです。

 「細胞は全体のために、全体は細胞のために」と云ふ言葉は現在も国家的スローガンとして使用してゐる国があります。これを是とするか否とするかは、こゝでは触れないでおきませう。

 えー、話が脱線してしまひましたが、とにかく、かくして日本共産党は解党の憂き目を見るに至りました。これは、ある意味必然的であつたかも知れません。即ち、第一次日本共産党指導部の多くは、先ほども触れましたやうに、「冬の時代」以前からの活動家で、系譜的には西欧的な社会民主主義者であり、基本的に議会主義的であつた訳ですから、天皇制政府(ちなみに天皇制といふ言葉は1932年に出来た言葉です)との「激烈なる闘争」なんてことを云はれても、どうしたものかわからなかつたりします。良く云えば穏和ですが、悪く云えば闘争理論がない

 故に、この解党を推進した人たちの評価といふのは、現在でも大変に宜しくない。『日本共産党の六十年』といふ党史には、「俗流マルクス主義」なんて呼ばれてゐます。早い話が、異端ですね。オレたちは正統で、コイツ等は異端だといふさういふ構図です。この点についても色々ありますが、今日はスッ飛ばしておきます。

 共産党が解党したといふ所で、今日は止めておきます。なんか全然進みませんでしたね。すみません。次回こそは、日本共産党再建(1926)に見る思想的問題を取り上げたいと思ひます。


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