日本における共産主義の展開(下) ―コピー元のゴミ―


 前回は共産党が解党したといふところまでゞしたが、この共産党は、不死鳥のやうに甦ります。不死鳥が悪ければスカラベでもよろしい。スカラベについては深く追求しませんが…。

 何はともあれ、日本共産党が1925年に再建されます。この第二次日本共産党は、第一次とは違ひ明らかにコミンテルンの肝いりでありまして、コミンテルンの指令をひたすら忠実に遂行する政党でありました。その姿は、日本臣民に於ける承詔必謹の姿に相似するものがあつたと云えます。つまり、第二次日本共産党といふのは、国内に於ける権威としての天皇に対するアンチ=テーゼとしてのコミンテルン(具体的にはスタァリンといふ個人)によつて形成されてゐたと云えるかも知れません。この点については、「転向」の問題と関はつてきますので省きます。

 このとき、山川均や堺利彦のやうな古い社会主義者は参加しませんでした。(無論、「古い」といふのは、明治の日本資本主義草創期から社会主義運動に携わり経験を積んできたことを云つてゐるのであつて、思想それ自体について云つてゐるわけではありません。)

つまりこの人たちは、労働運動をベースにした社会主義者だつたわけで、純粋なマルクス主義者と云ふことできません。第一次共産党解党を契機として反共ファシストに転身して行つた赤松克麿に云はせると、「観念的な革命主義を反省して現実的な方針を取るやうになつた」(『日本社会運動史』)わけです。

 無論、われらが日本共産党(再建)においては「革命主義を反省」することはありえませんでした。これが、「観念的」であつたかどうかは少し考へてみる必要がありますが、まぁ観念的と云ふにやぶさかではないのです。

 といふのは、この再建日本共産党の皆さん方が、どういふ経緯でマルクス主義的社会主義者・共産主義者になつたかといふと、むろん地道な労働運動の結果からこの道に入つたといふ人もゐますが、大体はマルクス主義的著作を通して入つたわけでありまして、その点で観念的であつたともいへます。かうした中で決定的な影響力を有したのは、ロシア革命の「成功」でありました。

 ロシア革命といふのは1848年革命やパリ・コミュウン(1871)といつた反ブルジョア=プロレタリア革命が結局は失敗したのを乗り越へ、遂にやつと社会主義政権「ソヴィエト社会主義連邦」を作つた歴史的革命(革命は必ず歴史的だといふ話もありますが…)だつたわけで、この前人未踏性=革命の成功こそが、日本の若い社会主義・共産主義者たちに、「社会主義・共産主義といへばソヴィエトのそれ(マルクス=レーニン主義)以外になひ」と思はせてしまつたのです。

 こゝに間違ひがありました。

 「社会主義・共産主義といへばソヴィエトのそれ以外になひ」と信じ込んだ日本の若い社会主義・共産主義者たちは、思考様式から運動の展開まで、すべてを「ソヴィエト式」にしなければ済まくなりました。「ソヴィエト的・マルクス=レーニン主義的」であることはすなはち「正統」であり、非「ソヴィエト的・マルクス=レーニン主義的」であることはすなはち「異端」だといふ二者択一の思考様式が、そこに成立してしまつたのです。

 従つて、先に第一次日本共産党を解党した山川均や堺利彦などの西欧流労働組合型の社会民主主義者なんてぇのは、明瞭な「異端」なわけで、政友会や民政党などのブルジョア政党といつた「異教徒」よりも、その罪は大きいとみなされてしまひました。一般に、異教徒といふのは、初めから自分たちと相容れない者であるから、それなりの寛容さが生まれますが、異端に対しては、その主張がよく似てゐるために、競合する部分が多く、つひには同族相食むと云つた状況にまで陥つてしまひます。第二次日本共産党と合法無産政党の泥仕合は、こゝに根本原因があつたわけです。

 結局、第二次日本共産党といふのは、コミンテルン型のマルクス主義の模倣それ自体に政略的戦術的破綻を含んでゐました。つまり、第二インターに対抗する組織として存在したコミンテルンを模倣した第二次日本共産党は、第二インター的――西欧社会民主主義的――な合法無産政党と統一戦線を組織することなど不可能だつたのです。そのおかげで、日本左翼・革新陣営は内紛・内ゲバ交々(こもごも)起こり、天皇制国家による各個撃破の餌食となつてしまひました。これもみな、コピー元であるソヴィエト連邦が本質的に有してゐた排他性――「一国社会主義」と自己防衛のための「国際共産主義運動」――といふなんともこびりついて離れないゴミのせゐであつたと申せませう。

 かうした左翼・革新陣営内部の対立を克服し、反ファシズム統一運動(統一戦線戦運動)を展開しやうとした時には、もはや時すでに遅く、天皇制国家による左翼・革新陣営の各個撃破・包囲殲滅はほゞ完了してをりました。しかも、この統一戦線運動事体は自発的なものといふよりは、コミンテルンから送られた「日本の情勢と日本共産党の任務に関する方針書」(一般に「三二年テーゼ」)によつて、天皇制打倒(ちなみに「三二年テーゼ」は「天皇制」といふタームの初出とされる)とゝもにブルジョア民主主義革命(社会民主主義との妥協・連合を意味する)といふこれまでの方針の大転換を指令されてから行はれたものであつて、どこまでもどもまでも日本共産党はコミンテルンにいゝやうに振り回されたと云えます。コピー元のゴミは修正液を使つてもどうしても落ちないものです。それだつたら、いつそのことコピー自体お止めなさいといふところに、日本マルキストの大量転向といふ近代日本思想史上の事件が起きて参ります。

 それでは、次回は日本共産主義者の自壊としての「転向」についてお話しすることゝして、今回はこれまでに致します。


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