現代経済の思想(下)―1940年体制の成立と崩壊―


 前回、議会不信の構造という話で脱線してしまいましたが、今回こそ本題に入りたいと思います。

 前回、民政党内閣がつぶれて、政友会内閣が成立したというところで終りました。新内閣蔵相の高橋是清は、前内閣蔵相の井上準之助とは日銀時代に親しく付き合っていたわけですが、金再禁輸を即日断行したように、経済政策としては井上とは逆の方向を向いていました。

 金融恐慌に対して、日本資本主義が伝統的な19世紀以来の自由放任資本主義の運動を続けてゐたやうに、井上さんも伝統的な対応をとつてをりました。彼れは、日本経済の基礎体力を高めるために、緊縮財政を執り行ひました。経済が冷え込んでゐるところで、更に引き締めを行つた訳です。これもまた、自由放任的です。つまり、経済には政府は余り干渉しない、経済界が自律的に運動すれば、「神の見えざる手」が働いて結局は安定がもたらされるであらうといふ予定調和的な思考な訳です。

 しかし、かういつた自由放任的態度のおかげで、財閥があさましい売国的行為(円売ドル買)をやつてしまつたので、井上財政もその末期には、政府が経済に干渉せざるを得なくなり、井上財政の哲学も結局は自己破綻に追ひ込まれてしまつてゐました。ちよつと可哀想ですね。何となく、橋本自民党政権の末期に、財政構造改革を断行するから、財政を引き締めますといきがつてみたものゝ、結局は内外の突き上げによつて、インフレ政策(歳出の拡大)を採らされてしまつた状況によく似てゐます。これは別に可哀想ではないですが…。何しろ、井上さんは蔵相を辞めた翌年(1932)に、井上日召率ゐる血盟団によつて暗殺されてしまひましたからね。しかし、団琢磨(三井合名会社理事長)と一緒くたにして反財閥政策を採つた井上さんが殺されるといふのは何とも右翼の近視眼的性格が思ひやられます。まぁ、その点については、改めてお話しすることにいたしましよう。

 高橋是清は、緊縮財政政策を抛棄して歳出拡大・金融緩和政策を採用しました。具体的に言ふと、時局匡救費・軍事費の増大金本位制の廃止による管理通貨制度の採用公定歩合の引下げなどが行はれました。

 不況の原因の一つには、金回りが悪くなると云ふことがあります。つまり、資本の流動が著しく疎外されてしまつてゐるために経済が十全に動かなくなつてしまつてゐる訳です。自由放任的な思考ですと、「それはそれでやむを得ないんぢやない?」といふことになつて、放置されます。当時の米大統領フーバァなんかゞそのよい例でせう。彼れは敬虔なクリスチャンとして、大恐慌に喘ぐ人々に同情を示しつゝも、自由放任主義者として、「しかしこれが経済の運動だから」と言ひ放ち何も手を下さなかつたのは有名な話です。

 しかし、高橋是清はやりました。「市場に資金が流れないのであれば、資金を作ればいゝぢやぁないか」と、すごい乱暴なことを言ひ始めたのです。アダム・スミスが「パイが人数分ないのであれば、パイを大きくすればいゝぢやないか」と言つたのに近いくらゐ乱暴です。早い話が、政府が積極的に公共事業やらなにやらをし、国民にお金を与へ、企業の設備投資を誘発し、景気を刺激してやらうといふ考へです。いまでは、あまり珍しくない考へ方ですが、当時としてはあまりにも画期的すぎました。この景気の刺激策といふことについて、簡単に見てみませう。

 例へば、国民全員に商品券を3万円分配るとします。当然私はその金でドリ−ムキャストを買ふ訳ですが、ムキャだけでは意味がないので、ソフトを買はなきやなりません。さうなると、ハリネズミは買はないとしても、「戦国なんとか」(仮名)とか「ぷよよよーん」(仮名)とか買ふわけです。ひよつとしたら「なんたらエボリュウション」(仮名)とかも買ふかもしれません。かうして3万円の商品券で、短期的には全体として5・6万円の消費効果が得られるわけです。更に長期的には―と云つても1年単位くらゐですが―「グランディア2」とかも買ふわけですからとても楽しみです。つてなんの話してゐるんでせうね。何にしても、私はもらへないので。

 閑話休題。

 つまり、歳出拡大による資金の増大といふのはこのやうに、拡大分だけで終るものではなく、更なる相乗効果を伴ふわけです。1930年代には、日本における高橋財政アメリカにおけるF・ロォズベルトのニュウディール政策、更にはJ.M.ケインズの『雇傭・利子及び貨幣の一般理論』(『一般理論』)の発表などのやうに、自由放任資本主義の常識を打ち破る新しい経済思想・政策がこの時期次々と打ち出されました。

 たゞし、このころの政策がケインズの主張する修正資本主義的思想に基づいて展開されたといふわけではありません。ニュウディーラー(ニュウディール政策を推進した人々)は「ケインズとは関係なく独自にあの政策を行つたのだ」と自負をこめた発言をしてをります。『一般理論』が発表された当時、米国に留学してゐた都留重人が言ふには、「あんまり騒がなかつた」さうです。「まぁ、出るべくして出たといふ感じ」だつたらしいですね。都留さんが「ケインズ没後50周年記念」とかいふフォーラムで話してました。つまり経済学の方でも、もう自由放任一本槍では話にならないといふことが自覚されてゐたと云えます。

 この「政府による経済への干渉」といふ政策には、ケインズといふ云ふよりもむしろマルクス経済学の影響が強く感じられます。つまり、以前もお話しゝましたが、世界恐慌の中でソ連邦だけが唯一経済成長を遂げてゐたといふ驚くべき事態に臨み、マルクス=レーニン=スタァリン主義の強さを「経済に対する政治の優越」といふところに見出したのです。

 従つて、高橋財政にせよニュウディール政策にせよ、伝統的な自由放任主義者からは、「アカ」とか「反民主的」とか「強権経済」とか批判されました。しかし、「アカ」つてのはあからさまですが、実際ニュウディーラーの多くは、無産階級のインテリゲンツィア(会社員の家庭出身)であり、どちらかといふと金持ち(資本家)には反発を抱いてゐた人々であつたことは確かでした。むろん、かと云つて全くのマルキストである訳でもなく、マルクス主義に少しはシンパシィを持つてゐるといふ程度でした。故に、この企画者集団を「ピンク」と呼ぶ人たちもゐました。

 インフレ政策を基調とした高橋財政は、わりかし上手く行きました。金本位制の廃止によりほとんど管理通貨制度的になつた状況を利用して、1930-36年の間には日銀券を40%も増刷した一方で、工業生産額が2.3倍以上にまで増大しました。大変な好況です。しかし、インフレ政策はやはりインフレをもたらします。時局供給費(荒廃農村の復興)と軍事費の拡大によつて得られたこのバブルも過熱しすぎて縮小せざるを得なくなります。政府予算は、元の大きさに戻らうとしました。つまり、農村からの資金の引き上げと軍事費の増加率の削減です。(軍事費の削減ではなく、増加率の削減です。)この結果、「高橋蔵相は農村を見捨て、しかも反軍的だ」といふことになり(軍人の多くは農村出身者でした)、高橋是清は2・26事件によつて殺害されてしまひます。ひどい話です。

 こゝで2・26事件の構造とその結果について詳しくお話しできないのを残念に思ひますが、とにかく、この事件によつて軍部内の皇道派は失脚し、統制派がそのヘゲモニィを確立いたします。しかも、最早議会民主主義といふものもこの皇道派クーデタによつて、自らの手を汚すこともなく、死に体に出来たのですから、漁夫の利といふか、一挙両得といふか、まぁとにかく濡れ手で粟な訳です。

 この統制派といふ人々は、皇道派のやうに「万古不易の神聖国体」なんてことをいふことは余りありませんでした。むしろ、自由放任資本主義といふものによつて疲弊した日本帝国を「高度国防国家」といふいふ形で軍事国家化することで復興させやうと目論んでゐました。即ち、この当時、ドイツではナチズムが、イタリヤではファッシズムが、ソ連邦ではスタァリニズムが軍事国家の建設による新国家建設を推進してをり、かういつた時代状況に倣つて日本でも強力な政府による統制経済が目指されたのです。

 この高度国防国家への思考といふのは、軍人にとゞまるものではありませんでした。所謂「革新官僚」と呼ばれる人たちも、このやうな思考を有してをりました。正確にいふと、強力な政府による統制経済といふ思考を共有してゐたのであつて、軍事国家になつて、米英と戦争しなきやならないとまで考へてゐたとは云えません。

 革新官僚たちは、所謂閥族政治をほとんど経験してをらず、大正時代の自由な思想状況の中で育ちました。このことは政治家に対する従属的意識(親分―子分意識)といふものを持たずに済んだといふ利点があります。また、出身階級としては、先に申し上げましたニュウディーラーと同様に、無産階級のインテリゲンツィア(会社員の家庭出身)であり、資本家には反発を抱いてゐましたし、しかも日本の場合、金解禁の際に財閥によつて反国家的な行為(円売ドル買)をされたといふ手痛い記憶が残つてをりましたから、その不信は一層大きかつたと云えます。その不信の結果が、満洲開発における新興財閥(日産・日窒など)の優遇政策となつて現れて参ります。そしてまた、かういつた旧財閥への不信とゝもに、、その財閥と結託した政党政治といふものへの不信ともなりました。かくて、政治家による政治ではなく官僚による政治が目指されるやうになりました。

 この革新官僚達が拠つたのが企画院(1937)です。企画院は、1935年に設置された内閣審議会の事務局として同時に出発した内閣調査局が発展したもので、こゝで戦時体制の企画・立案が行はれました。企画院自身はどの程度戦時体制といふものを考へてゐたかは不明ですが、革新官僚達の多くは、本気で資本主義を乗り越へた新しい政治・経済体制を確立すべきであるといふ高邁な理想に燃えてゐたのは確かです。

 この企画院は日中戦争の泥沼化の中で、軍事を名目として統制経済法案を次々と提出します。(最早この時期議会は破綻してをり、政府による法案の提出=成立と云つてもよい状況でありました。)その最初期に成立した法案の中で最も有名なのが、「国家総動員法」(1937)だと思ひます。しかし、こゝでは取りあげません。むしろ、「総動員法」と同時に成立した「電力国家管理法」(1937)の方を重視したいと思ひます。

 この「電力国家管理法」は、これまで民間の自由競争に任せてゐた電力事業を国家によつて統制し、日本発送電会社の下に九つの電力会社を設立し、電力を計画的に生産・配分しやうとう云ふものでありました。この九つの電力会社こそ、今日の東京電力・関西電力などに受け継がれる最初のものでありました。

 「電力国家管理法」とは、端的に言へば、国家機関によつて電力が計画的且つ平等に配分されるといふものでありました。かういつた経済上の配分に政府が関与すると云ふこと自体、自由放任の思想に真つ向から反対するものでもあり、橋川文三の言葉を借りれば「戦時下における日本の統制経済方式の先駆をなし、いはゆる自由主義経済体制への最初の打撃を加へたものである」訳です。従つて、企画院に対する旧財閥の反発も少なくありませんでした。かうして、企画院事件(1941)といふものが発生します。

 企画院事件とは、企画院によつて発表された「経済新体制確立要綱」(1940年)が「赤化思想の産物」と財界・右翼から攻撃され、原案作成にあたつた和田博雄(農林官僚)ら17人が治安維持法違反容疑で検挙された事件です。ニュウディーラーは「ピンク」と言はれるだけで済みましたが、日本帝国では企画院官僚は「アカ」に決定されてしまつた訳です。

 こゝら辺のところ、日本の右翼のよく分からないところでもありまして、統制経済自体は明らかに戦争遂行に必要なわけですよね。そして、右翼は共産主義も嫌ひだが個人主義に基づいた自由放任資本主義も嫌ひな訳です。で、右翼は戦争が好きなのですから、革新官僚の意見に乗つても良いやうに思へるのですが、どういふ訳か、これを「アカ」と云つて攻撃してしまふのです。どう考へても統制派軍人は、統制したいはずなのです。しかし、右翼は統制を嫌ひます。嫌つた結果、「祭政一致」とか「天皇親政」とかアナクロいことを言ひ出します。

 近衛新体制の時もさうです。近衛がナチス並の一党独裁体制を築きあげやうと思つたら、「幕府的であつて反国体的である」といふ右翼の反対にあつて、大政翼賛会は単なる議員倶楽部に堕してしまひました。「一体君たちは何をやりたいんだね」、と訊いてみたくもなります。こゝら辺の非論理的な政治思考も十分に検討の余地があるやうに思ひます。

 閑話休題。

 企画院事件もありましたが、とにかく企画院はその後も様々な経済政策を打ち出していきました。その多くは、日中戦争・太平洋戦争と底なし沼に入つていく帝国日本の戦時経済を統制することを目的とするものでありましたが、その一方で社会政策的性格も有してをりました。詳しくはこゝで触れることを避けますが、かういつた社会政策的な弱者救済・修正資本主義的政策は、戦時期にとゞまるものではなく、敗戦後においてもなほ維持されました。即ち、高度国防国家を目指した軍官僚(武官)が退場した一方で、革新官僚(文官)はそのまゝ生き残つたのだともいへます。日本資本主義が激烈なる階級闘争社会に転化せず(従つてプロレタリアァト共産主義革命をもたらさず)極めて高度の発展をなし得たのは、戦時期の社会政策の方針に基づき、プロレタリアァトの要求を先取りした形で充足してしまつたからに他なりません。

 かうして作られた新体制は単に戦時体制といふのではなく戦後日本の国家体制をも方向付けるものでしたから、1940年体制と云ふ言葉でも呼ばれます。この、1940年体制といふことばゝ、以前から個人的に使つてゐたのですが、野口悠紀夫といふ方がそのものズバリ『1940年体制』と云ふ本をお書きになつてゐたので、今日ではメジャーな用語になつたと思ひます。(たゞし、わたくしは野口さんの1940年体制についての評価には賛同できないところがあります。)だいたい、1840年の阿片戦争・天保の改革辺りから日本の近代が始まるわけで、1940年はちやうど其の百年目に当ります。1840年がなぜメルクマールになるのかと云ふことについては、また他の所で触れたいと思ひます。

 1940年体制は経済が政治によつて政治が官僚によつて支配される体制でありました。特に経済の面における自由放任主義の駆逐は強力であり、先に挙げた「電力国家管理法」の他に、二つの重要法令を挙げたいと思ひます。即ち「食糧管理法」「改正日本銀行法」です。

 「食糧管理法」(1942)は既に数年前の米騒動の時に最後の輝きを放ち、結局はタイ米しか集められないで其の命を終へましたが、とにかく50年間、現役の法律でした。「食管法」は、配給制度を目的とした者でしたが、この配給は国民の米穀摂取量を制限すると云ふよりも、国民全員に平等に配布することをその精神とするものでありました。「食管法」といふと、これを完全に遵奉し、ヤミ米を一切口にせず、遂に栄耀失調で亡くなつた判事が思ひ出されます。まことにゐたましく、且つその高潔な精神に敬服いたします。

 「改正日本銀行法」(1942)によつて、管理通貨制度が法的に定められ、「銀行の銀行」「政府の銀行」などゝ呼ばれる強大な金融政策能力を有するやうになり、その後の所謂「護送船団方式」の司令塔の一角を占めるに至りました。これも近年改正され、金融再編といふ流れに即しその権限を大幅に削減し、また政府との関係も改められることになりました。

 以上三つの重要法令―「電力」「食糧」「日銀」―は煎じ詰めていへば、第一次(農水産業)・第二次(工業)・第三次(金融)のすべての産業を覆うものであつたわけです。この隅々にまで行き渡る行政によつて、戦後の日本の高度経済成長は推し進められて行つたと云えます。

 しかし、今日これらへの政府による保護は削減され、発電・売電は自由になり、自主流通米が主流になり、または金融が自由化になりアメリカン=ホオム=ダイレクトのCMが目に付くやうになるなどゝ、現代経済は大きく動いてゐます。かういつた社会全般にわたる自由化の流れの中で、自己責任・自由競争、そして自力救済などが主張され、これまでのやうな過保護政策を改め、小さな政府を目指すべきだと云はれてをります。しかし、かういつた動向を手放して喜ぶことはできません。自由化の名による単なる弱者の切り捨てゞは、19世紀の自由放任主義に逆行するだけでありませう。われわれは、1940年体制における過保護政策の結果を批判することはあつてもその精神、弱者救済の精神をも批判することはできません。

 「結果の保証された自由競争はない」確かにその通りです。自由競争におけるリスクは、本人に返つてくる、それが自己責任といふものでせう。しかし、規制のない自由競争(自由放任下の競争)が如何なる結果を生んだかをわれわれは、先に金解禁における財閥の売国的・利己的な行為の内に見て来ました。そして今日も、既に日本の株式・為替市場に置いてヘッヂ=ファンドなる機関投資家群合法的に不道徳的な売買を繰り返してゐたことを眼前にしてをります。従って、規制緩和と云ふものを万能薬と考へることはできません。規制の全くない自然状態(ホッブズ)で生きることは事実上不可能なのです。それ故にわれわれは自らに律法を科すのです。規制緩和における問題は、規制が存在することではなく、何のためにその規制が存在するのかといふことだと云えるのではないでせうか。

 なんにせよ、現在日本経済における思考は大きく変化しつゝあります。今後50年を見通すためにも、50年前に何があつたかを見る必要はあるのかもしれません。


戻る