イデオロギー論の地平


 えー、まったくどこが週刊なんだといいますか、よくよく見てみると、ちょうど一年前以来全く書いていないことを発見しました。それはそれとして、今回はイデオロギーのお話しです。以前も書きましたが、もうちょっとちがった側面からこの問題を考えてみようと思います。

 前にイデオロギーってのは虚偽なんだけども、それは支配者固有のものではなくていわゆる革新の方もイデオロギーがあって初めて運動できているんだよ、というお話をいたしました。その認識は一応堅持しているのですが、それはイデオロギーのありかたであってその分析ではないですよね。あるイデオロギーが、それが果していかなるものであるのかということをどうやって理解すべきかを今回考えてみようと思います。

 「宗教は民衆のアヘンだ」というのは、しばしば出典も知らずに使われたりしますが、それはそれとして、形而下の諸問題を形而上に移し替えて救済するわけですから、結局の所本質的な問題は何一つ解決されていない、とマルクスなんかは言うわけです。確かに、宗教にはそういう性格があります。しかしだからといってそれを全否定して恬として恥じないような教条主義でも困るわけです。やはりそこにかいま見られる人間精神の動きを見て取らないと学問にはなりませんし、また行動の指針にもならないと思います。

 以前わたくしが住んでいた地方小都市に大変安い焼鳥屋さんがありまして、そこには潮出版の本がたくさんありました。といっても『コミックトムプラス』とかじゃありません。つまりそういうお宅なのですね。で、焼鳥を大量に頼むと焼き上がるまでに時間がかかるので雑談なんかするわけですよ。

 ふつう+100万−150万=−50万という算術になるのが一般的です。わたくしも初め明らかにそう思ったのですが、よくよく考えてみるとこのおばさん――というかこのご一家にとっては、+100万+150万=+250万なわけです。それを「アヘン」だと言い切ることは簡単ですが、アヘンの代わりに何を示すことが出来るのかということに言及されない限り、それは相手のイデオロギーと同じ土俵の上に立って部分的に誤謬を指摘しているだけに過ぎません。イデオロギー論において基本的にそのような個々の事例をあげつらうことは不毛といわざるを得ません。なぜならば、そのイデオロギーを信じているものにとってそのイデオロギーはイデオロギーIdeologieではなくすでにイデーIdeeなのですからおかしいと言われようが自分が信じている以上それが絶対的に真であり、かつ真であらねばならないのであります。(イデーとイデオロギーの違いについてはマンハイムに当たってください。)したがって、より建設的なイデオロギー論とはそのイデオロギーの具体的内容を論じるものではなく、たとえばなぜそのような一般的な経済観念と異なった算術が許容されるのかというような精神ないしは思考の構造あるいは理由を問うものであると言えます。そのようにメタ視される限りにおいて、対象となるイデオロギーをヨリ高次の次元で把握することが出来るようになるのです。つまり、イデオロギー論は「なにかwhat」を問うのではなく「どのようかhow」「なぜかwhy」を問うのだと言っても宜しいかと思います。

 焼鳥屋さんのはなしはべつに信仰の問題なのでどうこういうつもりはありませんが、ここで問題としたいのは、いわゆる「戦争論」をめぐる論争です。多くの論者において事実認識の次元で批判がなされておりますが、むしろそれがなぜ発生したのか・どのように存在するのかを論じるべきではないかと思うのです。つまり、「戦争論」の主唱者煽動者であっても必ずしもそのイデオロギーの本源ではないのであり、或る構造をなしたイデオロギーの現象の一つに過ぎません。そのことを忘れて、この事実認識は間違っている、あそこが間違っていると言ったところで相手は痛痒にも感じないはずです。なぜならばすべての論証は自らのイデーから演繹的に導かれるものである以上、そのイデーそれ自体のイデオロギー性が暴露されない限り主観的には何らの論理的矛盾もないわけです。戦前に現人神の思想と人間はすべてホモ・サピエンスであるという事実とが矛盾せずに共存していたことを想起すれば足ります。もしこの思想を本源的に批判しようとすれば、現人神という思想がいかなる虚偽意識であるか、またこのイデオロギーがなにゆえに必要とされる(された)のかという構造的把握こそが必要となります。「戦争論」にしても同様です。なぜあのような主張が今日もてはやされ、純朴な大学生(誉めてません)が妙に感化されるのかというその現代社会における位置づけを問うべきなのではないかと思うのです。


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