時代精神と文芸


まだ始まっていないのですが、もうすぐ北京で六ヶ国協議というのがあります。

…多分あるはずです。どういう結果になっているかは、いや本当に分りませんが。

で、核問題ということで想起されるのが、キューバ危機というヤツでありまして、先日テレビで「13デイズ」という映画をやっていたので、ボケッと見ていたわけですよ。で、あの基本的な構図というのが、米ソ対立という冷戦構造なわけでありまして、考えてみますと冷戦期の文芸の多くは、この冷戦構造というヤツによって思惟様式を規定されていたのではないかと思うのであります。この思考様式をマルクス的にイデオロギーと呼んでもよろしいですし、ヘーゲルばりに時代精神と呼んでもよろしい。

別にこれは、社会主義・労農文学とか、自由主義文芸とか、プチ・ブル・ノベルなどといった政治的なお話ではなくて、その「世界像」の描き方の問題であります。

10年くらい前の少年少女はもとより「ちょっと大きなお友達」の多くのかたがたの共同幻想的小説に『銀河英雄伝説』というスペースオペラがありました。この『銀英伝』(と略称されました)の大筋を大変に荒っぽくいいますと、「帝国」と「共和国」が宇宙を二分して戦っているのですが、その狭間に巧みな外交能力でもって上手く儲けている商業国家があって、暗躍しているという感じでしょうか。

まぁ、構図としては、米ソの間にあってなんか知らないけど大して軍備ももたないで、いつの間にかに経済成長を遂げてしまった日本という感じですわね。ああ、日本には軍隊はなかった(過去形かよ)ので、「軍備」というのはいけませんね。それはさておき、あの『銀英伝』というのは、まことにもって冷戦構造の産物だったのだなぁと思うわけです。

冷戦期の文芸としてしばしば挙げられるものが、『ウルトラマン』でありましょう。すでに多くの研究者によって指摘されているように、「宇宙怪獣」の前に「ウルトラマン」という自分たちではない存在に頼らなければならない人間は、「ソヴィエト」という強大な敵の前に、「アメリカ」という存在に頼らなければならない日本国民の姿を表現しているわけであります。というか、制作者自身がそういう目論見で作っているので、これは確かであります。

このように、わたくしどもは、創作という別に現実と連続していなくても良いようなものにまで、現実に対する意識を表現してしまっているのだと申せましょう。「愛国アニメ」と揶揄されることもあった『ガンダム』における、あの構図もかなり冷戦構造のたまものであろうと思います(そのわりには、「ジーク・ジオン!」と叫ぶ「大きなお友達」が多いような気がしますが)。あるいは、横山光輝の三国志が60巻まで続けられたのも、冷戦構造のおかげかも知れません。>それはどうかな?

もし、今日スペースオペラを――ないしは戦争物を書けというと、やはりこういう「二大強国の対立」という話にはなりませんで、多分「強大な帝国とそれに立ち向かう解放戦線」とかいう話か、「原理主義テロリズムに対抗する頑張りやさんのSWAT」の話になるのではないのでしょうか。『銀英伝』の後半には「地球教」(でしたっけ)という、「母なる地球への原理主義運動」が出てきましたが、多分こいつらが(準)主人公になったのでしょう。

「テロ・ネットワーク」なんてことばが目に付くようになったのは、80年代あたりであろうと思います。つまりテロが世界化しつつあるという認識が成立しつつあったわけですが、それが物語の主題になることはあまりありませんでした。つまりこの時節には、まだそれが思考の中心になってはいなかったわけで、それが、冷戦期の時代精神だったと申せます。

むろん、ここで誤ってはいけないことは「時代精神」なるものが時代を形作るのではなく、時代が「精神」を作るのだという事実であります。ここのところ間違えますと、時代小説みたいな、「青雲の志が近代日本を作ったのだ」などというよくわからん歴史認識になってしまいます。時代精神というものは、歴史的存在であるわたくしどもの思考様式を規定するものであり、冒頭に申し上げましたように、「イデオロギー」といっても良いものであります。あるいは、荻生徂徠ばりに「郭(くるわ)」と呼んでもよろしいですし、福沢諭吉のように「惑溺」と申し上げてもよろしいでしょう。

私どもは、その時代にいる限り自らの時代精神と申しますか無意識の思考様式というものをなかなか把握することが出来ません。それは自分に付いた臭いがなかなか分らないのに似ていると言えるでしょう。しかし、逆にいえば、それ故にほかの時代の時代精神というものは、その強烈な違和感ゆえに鮮明に把握することが出来るのであります。その違和感は当然、私どもの思考様式の反映でありますから、そのそこから私どもの時代精神を明らかにすることが出来るのではないでしょうか。そしてその作業を行っているのが思想史だとすれば、思想史とは、

「自らの民族の精神史」

などでは決してなく、

「自分たちと近いところにありながら、異なる思考様式を有したものたちの歴史」

であり、この「近しき他者」との対話によって、われわれがわれわれ自身の思惟様式を闡明(せんめい)するためにあるのだ、と言いきってみたいと思います。>あれあれなんか強引に自己弁護してませんか? なんかこれも「時代精神」の臭いがしますね。くれぐれも気を付けてください。


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