いわゆる「皇国」思想について
――人間理性の進化と退化――


 どうも、ほぼ一ヶ月ぶりですがみなさま如何お過ごしでしょうか。今回は「皇国」思想と云うことでお話しします。

 近世には「日本」という全体性の観念が欠如しており、「日本」全体を意味する語も「一般には「神州」「本朝」といった文字が使われ、そのいずれの場合も、「夷狄」の五倫五常なきに対する、君臣の義、父子の親厚き我が国体という抽象的な意味しか持って」いなかったと云う指摘があります。こういうことを言ったのは、遠山茂樹という講座派の大変偉い先生です(遠山茂樹『明治維新』)。遠山さんの言うように、「外国との接触によって自国意識がある程度刺戟を受けた幕末にあっても、「国家」という言葉の使用例の大部分は自藩を意味し」ていたことは確かなのですが、これをもって「封建制度の下にあっては、近代的な国家観念・国民意識は存在しなかった」と結論づけるのは、近世に完全な近代を求める錯誤を犯していたような気がします。近世に向かって「近代じゃないからお前はダメだ」なんて言われてもこまります。ブタに向かって「飛べないからお前はダメだ」と言っているようなものです。

 むろん遠山さん自身は、近世における封建的分邦状態を強調することで、近世尊王論を「日本的」国民主義として位置づけようとする動きに反対して、「具体的」な「国民の幸福、国家民族の自主独立の方策」を国民主義のあるべき姿として提示することを意図していたわけです。遠山さんがこの文章を書いたときは、戦後そう経っていないときでしたから、天皇制を復活させようとか云う動きも少なくはなかったので、その危機意識自体は別段批判されることではありませんね。

 まぁ、端的にいうと、遠山さんには日本民主主義の一層の前進に対する渇望があったと言えます。ただし、そこには中世暗黒観という歴史認識、あるいは前代を否定する大変に弁証法的な発展段階論が背景がありました。発展段階論というのは以前お話ししましたが、「原始共産制―古代奴隷制―中世封建制―近代資本制―未来の共産制」という各々の段階があって、歴史は直線的にこのように流れるのだという話です。で、この歴史の運動は前代を否定し、より高次のステージに上昇していくという揚棄(止揚;Aufheben)の過程を経るんだ、とマルクス先生が言ったので、正統的マルクス主義歴史学を自任される、われらが遠山先生は、この思想に基づいて、近世封建制を否定するわけです。ちょいと荒っぽいですね。

 しかし歴史的事実として、近世に「日本」という全体性の観念が存在しなかったわけではありませんし、また、その全体性は「神州」「本朝」(類語として「皇国」「皇朝」を挙げられるでしょう)という倫理的な価値判断の上にしか表現されなかったのでもありません。

 経世済民を論じた経世家たちは、特に18世紀後半から日本とその周辺について語り始めました。林子平(1738-1793)・本多利明(1743-1820)などがあげられるでしょう。これは国内体制の動揺やロシアのラクスマン遣日使節の来航(1792)などに刺激を受けたものです。この方たちは基本的に自らの所属する国の自称として「日本」を用い、また「日本」の全体性を「国家」ということばで表現して、「神州」「皇国」といった語を用いませんでした。このことを考えると、幕末期に氾濫した「神州」「皇国」などのことばは、経世論的思考においてむしろ新しいもの(あるいは復活)と言うべきでしょう。では、その分水嶺はどこにあるかと云うことが問題になります。

 子平や利明から一世代おいた佐藤信淵(1769-1850)は同じく経世家でありながら、二人とはかなり趣を異にしておりました。信淵の主著『混同秘策』(『宇内混同秘策』ともいいます)では、開巻より、

 と始められ、「皇大御国」の尊厳と「世界万国」を領導する使命とが語られております。すばらしいですね。信淵のこのような思想は平田篤胤(1776-1843)に師事したことと無関係ではありません。信淵は篤胤よりも7歳ほど年上ですが、昔は師弟関係に年齢の差なんてのは関係ありませんでした。「学齢」なんてのは近代の所産でしかないです。まぁ、そういうことはM・フーコーに任せればいいので省きます。

 信淵が篤胤から多大の影響を受けたことは、天地創造・生々流転の原理を説いた『天柱記』を篤胤の指導の下に著したことからも疑いがありません。信淵における「日本」から「皇大御国」への転換には、平田国学(あるいは、平田流に解釈された本居国学)が媒介となったと言えます。これは、信淵だけの話ではなく、そのほかの19世紀の経世家の多くには平田国学の言説の影響が見られます。この影響から逃れ得たのは、蘭学系の経世家――渡辺崋山(1793-1841)や高野長英(1804-1850)など――くらいなものでしょう。

 国学の影響は在野の経世家にとどまらず、後期水戸学に対しても、その学派としての体系化の過程で少なからぬ影響を与えていたことは既に指摘されています。例えば津田左右吉はこのことを指摘した早い例として知られています。かつては、国学と水戸学とは仲が悪いので、その相互の影響については語られないのがふつうでしたが、津田左右吉はそういう先入見を廃して『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を著したのです。

 水戸学は国学に対し反発しつつも、その言説を受け入れ自己の思想を豊かにしていきました。本居宣長の『直毘霊』(なおびのみたま)を、会沢正志斎(1782-1863)が逐条批評した『読直毘霊』(直毘霊を読む)は水戸学における国学的要素の総括とも言える書であり、その影響が無視できないほどに大きかったことを示しています。

 こうして「皇国」の言説は、幕末期尊王論の「聖地」であった水戸を発信源として、「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(吉田松陰 1830-1859)といった態度を幕末の志士に波及させていったわけです。しかしこのような「皇国」観を有していた志士たちは、ペリー及びプチャーチン艦隊が来航し、西洋列強が現前のものとして認識されるに従い、あるいはこの観念をヨリ強化し、あるいは単に観念的ではなく、より具体的で普遍的な国家観念を模索していきました。

 この「皇国」という新しい「ことば」はいわゆる「前期的国民主義」を準備する概念であったと申せますが、その後先の大戦の敗戦まで百数十年にわたって日本人の思考を縛ってきた点から言えば、その功罪は功よりも罪の方が多いように思われます。人間理性は、まっすぐ発展するものではなく、行きつ戻りつしつつ一歩一歩進んでいくものです。自分の国を無根拠に至上とするような「皇国」の観念は、もはや国民国家を充分おなかいっぱい堪能してしまった国においては、あまり必要ではないのではないでしょうか。


戻る