哲学思想系著作・きょうの新刊(2002年〜)


帰ってきた哲学思想系著作きょうの新刊(2004.02.17)



『パレスチナ問題』・エドワード・W.サイード〔著〕 みすず書房刊 \4,500
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02410510&aid=ex

あー、サイードという人はえらいなぁと、『オリエンタリズム』で思ったものですが、よくよく考えてみますと、帝国主義国家が、みずから以外の存在を「オリエント」として把握することで、みずからを定位させたなんてのは、実にもって近代的な主客認識の所産であって、どこかのえらい人が、「我れ思う故に我れあり」なんてかっこいいことを言った一つの結論がこれなのだなぁと思うわけです。

毎度のことながら、レビューでも何でもないところが、ポイントです。


『史記のつまみぐい』・宮脇 俊三著 新潮社刊 \1,200
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02410525&aid=ex

別に悪いとは言えませんが、最近はこういう「手軽に教養を身につける」という感じのものが増えてきたように思います。まぁ、べつに最近に限った話ではなくて、1970年代に、藤田省三が「ダイジェスト文化」ということばで、すでに批判しているところなのでありますが、近年その傾向が甚しく増えてきたように思います。

その理由としては、「知」というものの断片化ということがあるのではないかなぁと思っているのですが、話が長くなるので、いいでしょう。


『物語近代哲学史』・ルチャーノ・デ・クレシェンツォ著 而立書房刊 \1,800
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02410546&aid=ex

近代哲学史というと、わたくしどもなどは、「やっぱデカルトはえらいなぁ」とか、彼がいつ生れたのかも知らずに言ってしまうのですが、どうもこの本の対象はルネサンス期みたいです。人文主義というヤツですね。


『色好み江戸の歳時記』・白倉 敬彦著 学研刊 \1,800
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02410485&aid=ex


『現代アメリカ入門』・堀本 武功編 明石書店刊 \1,800
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02410493&aid=ex



哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.31)


『清沢満之全集 第2巻 他力門哲学』・清沢 満之〔著〕 岩波書店刊 \4,800 BOOK
 前もどこかで書いたと思いますが、「他力」は英語で other-power であります。もうこれはドキドキせざるを得ません。誰が訳したんだか分りませんが、すごい訳です。
 まぁ、他力というのは自力 self-power の対にあたるわけでありますが、これを self-other なんて申されますと、自他認識の枠で語りたくなるわけですよ。
    すなはちそこには、自力てふ自己のみに依頼する信仰形態を、その「救ひ難い」自己の限界から反省的に導き出されたものとしての阿彌陀てふ他者に歸投依伏することによつて、自己の救濟を擔保する信仰上の轉囘が、ある。
…インチキです。思いつきあります。こういうところで自他認識の構造を持ち込むと、まるで親鸞聖人のご意向を無視しているような気がするのであります。やれやれ。


『岩波講座近代日本の文化史 9 冷戦体制と資本の文化』・〔小森 陽一ほか編集委員〕 岩波書店刊 \3,400 BOOK
えー、資本主義というものは、随分ぼくらの骨肉に染みついてしまったわけで、わたくしどもは「文化の多様性」を享受しているつもりであっても、実際には拡大した市場における消費を行っているわけであり、いわば資本の要請なのであります。とまぁ、現代の消費社会を暴露しても余り良いことはないのであり、いまさら自給自足で文化生活をするなどという気骨のあることは出来ないわけであります。あらあら、文系の学徒とも思えないようなを言ってますが大丈夫ですか、あなた。
まぁ、それはそれとして、問題はここからであります。
資本の要請において、われわれは市場における商品を消費することを期待されているわけでありますが、しかしその商品たるやいかなるモノかというと、もはやすでに生活消費財ではなく、DVDだの美味いものだのといった、ステキに観念的な存在であり、それを消費することが目的なのではなく、その消費によってもたらされる精神的快楽なのであります。それゆえに、その消費のありかたによって商品の意味が変わってきます。


『毛沢東(ペンギン評伝双書)』・ジョナサン・スペンス〔著〕 岩波書店刊 \2,400 BOOK
 先日、人民帽を無くしました。高いものではないのですが、なかなか売ってないので残念であります。


『現代史の対決』・秦 郁彦著 文芸春秋刊 \1,810 BOOK
興味のある方はどうぞ。


『戦争とプロパガンダ 3 イスラエル、イラク、アメリカ』・E.W.サイード〔著〕 みすず書房刊 \1,600 BOOK
プロパガンダと申しますと、やはり発音が難しいところに、われわれ研究者の悩みがあるのであります。
プロパンダァと発音願います。


『疑似科学と科学の哲学』・伊勢田 哲治著 名古屋大学出版会刊 \2,800 BOOK
 疑似科学ですか。いいね、疑似科学。


その他気になる物件
『有事法制と憲法(岩波ブックレット No.584)』・小森 陽一〔著〕 岩波書店刊 \480 BOOK
『二十一世紀の法と政治』・多胡 圭一編 有斐閣刊 \10,000 BOOK
『御触書集成目録 上 事項目録』・石井 良助編 岩波書店刊 セット価格 \36,000 BOOK
『歴史学の視座』・義江 彰夫著 校倉書房刊 \3,800 BOOK
『キリスト教神学用語辞典』・ドナルド・K.マッキム著 日本キリスト教団出版局刊 \8,500 BOOK


哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.22)



出版業界には、年末進行というものがあるせいか、ここ数日に出た本は、笑ってしまうほどに数が多く、こんなにいい加減にものを書いているのにさっぱり追いつきません。したがいまして、今回はずいぶん、「そのほか気になる物件」に回っております。

レッドパージの研究と言うのはあるのですが、公職追放の研究というのはあまり見かけません。まぁ、公職追放で悲しい思いを最後まで引きずらなければならなかった人というのは、結構末端の方のかたで、そういうかたに限って、直接的に「教え子を前線に送ってしまった」とか「本気で日本が勝つと思ってた」とか実に痛々しいはなしなわけで、なるほど隠遁して、『懺悔道の哲学』とか書きたくもなりますよね、と思わなくもないのですが、結局、公職追放程度で日本帝国の精算が済んでしまった点に問題があったとも申せます。

大阪が大好きな人に送ります。前回もあったな、こんなの。

歴史叙述というと、大昔から、HistorieとGeschichteの相違という話で論じられますが、どちらがどちらなのかと言うことは、かつて歴史哲学でやった記憶があるのですが、個人の次元ですでにGeschichteすらがすでに破綻しているのです。

征韓論というのは、よくよく考えますと変な話で、当時朝鮮は、朝鮮王国であり韓国ではないのですよね。ですから征鮮論というのが良いようにも思います。っていうか、征服が良いという話ではないことは言うまでもありません。で、当時の記録とかを考えましても、征韓論と書いていたかどうか。ただし、三韓征伐のコンテクストで、征韓論という用語が発生した可能性は否定できません。
そもそも、日本の態度が宜しくございません。ついこの前まで、日本は対等におつきあいしていたのに、「あ、今度からウチのところは、帝国ですから、そこんところ宜しく」と言うのですから、朝鮮 王国としては困ってしまうに決まってます。だって、釣り合わないわけですよ、帝国と王国とじゃ。しかも、本来、帝国というのは冊封の主体で、天下(宇宙)の中心(=中華)でありまして、朝鮮にとっては、それは清国によって占められていたわけであります(無論、満洲族の清朝を、蔑視していたというお話もありますが、ここでは省きます)。
そういう世界観を有していた朝鮮政府に対して、「あ、今度からウチのところは、帝国ですから、そこんところ宜しく」なんて言われたところで、
「え? なにそれ? 聞いてねぇし。」
と言われるのがオチであります。日本側だって、そういうことくらいわかっているはずなのですが、それを敢えて押し切って、
「イヤ、だって帝国だしさ、実際。」
と押し切ってしまったわけです。…どう考えても摩擦のタネです。
世界史的に言えば、近世東アジア国際関係システムが近代西欧国際関係システムへ編入される過程の悲劇だと申せますが、そんな聞いた風なことを言ってごまかせる訳でもなく、単純に申しますれば、日本側は「万国公法」をタテに、相手側の誤解をうまく誘導して、自国の利益を伸ばそうとしたと言うことになります。

ハムはやったことがないのですが、関東圏に住んでおりました当時は、結構なラヂヲ・ボウイであった当方は、ロシアから流れてくる、今は無き(名前が変わっている)宗教放送ですとか、まだモスクワ放送と呼ばれていた短波放送ですとか、時々ナゾの乱数放送が入る某放送を拝聴していたわけです。いまははなはだ電波状態が悪く、それがとても残念なのです。
そういうワタクシの少年時代の愛読書は 池田徳真『プロパガンダ戦史』 でありました。長波を取る話ですとかがなかなか面白いのです。

よく、関西出身の後輩に、「向こうでそんなこと言ったらぶん殴られますよ」とよく言われます。そういわれましても、私が言っているのではなく、昔の人がいっているのですから許して欲しいと思うのですが、それはそれとして、西東でずいぶんとその内容が違っていたりして、どういう社会的環境なのであろうかと思うのであります。
ただし、これは近世の話でありまして、職業選択の自由が法的にも公認されるようになって、身分的職業の専有というものが犯される上に、自らの人権もついでに(「ついで」じゃねぇ)犯されるという実にもって非道い状況に当りまして、水平社が現れてくるのであります。
参考: 平民社資料センター監修『平民社百年コレクション 第2巻 堺利彦』論創社・\6,800

よいこの社会主義 とは関係ないみたいです。


日本国憲法は大豊作です。

1940年体制論というのは、ちゃんとやるべきコトだと思ってはいるのですが、この方が、社会工学的に「終焉」を宣言してしまったので、アカデミズム的に使いにくくなってしまって、困ったものですねぇ、とこのころをやっている人に会うたびによく話になります。みんな言いたかったんですよ。40年体制論ってのは。嗚嗟、悔しい。

また、やりやがった。この作者は『国語問題必勝法』という恐ろしいタイトルの小説を書いたもんで、売れに売れました。中には、予備校教師としてもそれなりに納得いく部分もあり、「まぁ、試験であるという非情さを持って解くことに徹底すれば、それでもいいかな」と思ったりも致します。当方の恩師が、ご子息の受験の際に、座右にしたということを先日伺って、ほほえましく思ったり。

だれか、完全クリアしてください。隠しグラフィックとかもコンプリート出来たら、セーブデータだけ私に送ってください。


そのほか気になる物件

哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.15)


遠藤周作がキリストを書くというのも面白いなぁと思ったのですが、どうも周作を使っていろいろ論じようという感じのものみたいです。おもしろかいどうかの保証は無し。


 霧社事件(むしゃじけん)は1930年に起こった台湾の霧社高山族の抗日蜂起事件です。先日も書きましたが、日本の植民地経営なんてのは、文明の輸出が出来ないものだから、軍事力の輸出をやりまくって、武断政治だったわけです。台湾を近代化してやったと自画自賛する方々もおられますが、資本主義ないしは帝国主義国家であれば、当然の運動であって別にそれ自体を褒め称える必要はないわけで、国民党政府が「台湾の統治はいい感じになっている」と言ったとしても、それは中国人が「外蕃」たる台湾人を手なずけられなかったという点で、そういう発言をしているのであって、あくまで台湾は客体なわけです。で、そういう客体的状況にあった人々が、蜂起したわけですが、日本帝国は、軍隊は出す、航空機は出すですごい弾圧――というかほとんど戦争でありました。ゲルニカに先立つ7年前のことであります。


 ツァラトゥストラ――打ち込みにくいことこの上ないこの名前は、ゾロアスターのドイツ語読みだという話ですが、実際にゾロアスター教の話とは全然関係ない辺り、当時の欧羅巴人のアジア認識の一端を現しているようない、ないような。そういや、拝火教は日本にも入ってきて(ここまではホントらしい)、大文字焼きはその名残だというのですが、ホントなのでしょうか、とまたインチキな話を書いてみる。


 嗚嗟唯識。難しいよね、唯識。その昔、「唯物思想」と書いてあって飛び込んだ研究室が後々確認したら「唯識思想」だったので、ギャフンというか、大いなる勘違い。認識論としてはかなりイってしまった感じの認識論ですが、はまると結構抜けられません。末那識が曇っているのです。


 ひさしなので。


 同姓同名の高校の同級生がいましたが、何しているかなぁと思い返してみたり。


 大阪城が大好きな人におすすめします。ゴジラが好きな人にはいかがかとは思いますが。


 っていうか、どうせなら「国連で僕と握手」とか書いて欲しかったなぁと思ったりしましたが、それはそれとして、国連ってのもすごい綱渡りで運営されていて、毎度のことながら応援したいと思うわけであります。


そのほか気になる物件


哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.12)


 現代思想をどこら辺からはじめさせるかと言うことには色々な意見があるわけですが、早いところから言いますと、やはりヘーゲル先生なわけでありまして、個人というものに対して、共同体というか人倫というか、とにかくSittlichkeitというものを持ってきたわけです。こうして、極めて現代的な社会学という視座が入ってきたわけですが、その一方で個人というもののブルジョア性と言いますか、抽象性といったものを鋭く突いて、ニーチェなんかが実存を主張し始めるわけです。で、そのチーチェとヴェーバ・フーコーがどう関係するのかなぁというか、ニーチェやっている人に会うたびに、「どうしてあの人気が狂ったんですか」と聞いて、「打ち首になった犯罪者をやっているような人間に言われたくない」と言われて、「全くその通りだなぁ」と一人納得したりするわけです。


アルチュセール。この人も気が違っちゃった人です。すごい面白いのに、どうしてかしら。と思った方は、お読みいただきたい。「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」は、現在欧米の思想史研究の人には必読になっており、シカゴ学派(意味がよくわかんないですけどそういうのがあるそうです)の本にはよく出てきます。でも、日本の研究者はそういうところまで見ないで、模倣するので、「ああ、なんてぇのか、福沢が『文明の精神』って言ってたけどそういうのって、いまいちだよなぁ。」と思ったりするわけであります。もしちゃんとやろうというのであれば、アルチュセールさらにはマルクスあたりまで、ついでにヘーゲルなんかも言ってくれるとありがたいわけで、そこまで行って、イデオロギーだの何だのと言って良いように思うわけであります。
丸山先生だの大塚先生だのといった大家は、「近代主義者」とか言われましたが、それはそれで、あちらの原典(研究書ではなく)を読み続けて近代主義の精神までチャクラを開いてしまったから、許されると思うのですが、模倣じゃダメですよね。ちょっと自己批判。


Weberですので、ヴェーバというべきなのでしょうが、まぁ、ウェーバでもいいです。そういうのは気にしない方がいいはずです。非道いのになるとニーチェがNietzscheなので「ニィトゥッシェ」と表記する人もおられまして、「おいおいそこまでやらんでも良かろうがな」と思ったりするわけです。
それはそれとして、ヴェーバといえば、大塚久雄先生であります。もう、なんと申しますか日本のヴェーバ研究は大塚史学に通ずると申しましても過言ではないようにも思いますが、先日機会がございまして、『新しい歴史教科書』なるものを拝見いたしましたら、大塚久雄の没年が書いてないんですね。丸山真男の没年は書いてあるのに。たしか、ほぼ同じくらいになくなられたはずなのですが、どういうことなのでしょうか。きっと空海みたいにまだ生きているのかも知れません。学問は死なずと言うことなのでしょうね。なんだ結構いい教科書じゃないか。

 驚きたい人におすすめします。


 久光というのは、生麦事件のあのひとですが、しばしば藩主であると間違われますが、藩主の父親でありまして、行ってみれば「国父」というヤツです。で、兄貴の斉彬に比べるとあんまり人気がございません。弟には弟なりの苦労があるんだということを思いなががらお読みいただければ幸い。



そのほか気になる物件

哲学思想系著作きょうの新刊(2002.12.09)


中尾尭さんというのは、この道の大家なわけであり、中世仏教を稼業とするものには、必携といってもいいものなのでしょう。ただ、別に稼業でもない方には

なんてのはいかがでしょうか。「偽書」というと私どもはその時点でオミットしてしまうわけでありますが、この本は、何でわざわざ「偽書」というか「仮託」して語ろうとするのか、ということを、さまざまな角度から描き出して、中世の宗教空間を見ていこうというものです。ふつう鎌倉新仏教(この名前もいかがなものかと思いますが)の教祖たちは、これに対して偽書ではなく、自分のことばで勝負したんだと言われますが、やはりそこには教典のかなり恣意的な解釈があり、偽書と同様の世界の新しい解釈があったのだと指摘いたします。なるほど、中世というのはそういう時代なのだなぁと深く深く思った次第。久しぶりにちゃんと本を読んだので、紹介してみました。


あと半日いてもらって、『北京の五.五日』にして欲しかったなぁと思うのは私だけでしょうか。イヤそれだけなんですがね。


 緒方洪庵といえば、 適塾 であります。以前大阪で学会があった際に、拝見いたしましたが、大学の施設なので日曜やってないんですよね。しょうがないので、周りを見回したり、ベンチの上からジャンプしてみたりハタから見ると、明らかに危ない人です。


明治の新聞研究といいますと、「国民新聞」だの「日本」だの「日本人」だのといった新聞が中心な訳でありますが、しかしこれらの新聞というのは読めばわかるのですが、とにかく読みにくい、というか、読めないわけです。小難しいコトバがちりばめられていて、「嗚嗟、偏壇的(ペダンティック)というのはこういうことなのね」などと、聞いたこともない当て字で思ったりするのですね。
実際、「日本」の陸羯南なんかは、「有権者」に宛てて自らの政論を書いているわけですから、言ってみれば近代的な意味での市民に対して主張しているわけであります。その中で、「オレっち、15円もはらえにゃーだがやっぺでゴンス」などと方々の方に無礼ななまりで言う人たちは、あるいは背伸びしてそういうものを読んだりするのですが、あるいは自分たちの身の丈にあった新聞を読んで「××村の△△衛門の牛が盗まれたが、どうもアイツが盗んだのだが、じつは、その裏にはこんな因縁が!」などといった新聞が読まれるわけですが、そういった中で、「情報」を「共有」することによる「共時空間の成立」という現象が現れて参ります。いわゆる「国民」の創造というのはそういう形でも現れてくると申せます。

 そういや、大昔、試験で「『想像の共同体』で何か書け」というのがありましたが、黒板には、「想像」が「創造」と書いてあったので、考えた末、「済みません、アレ字が違うんじゃないでしょうか」と申し上げたところ、「嗚嗟、そうね。でもアレでもいいじゃない。書いて。」とにこやかに言われて、なんか悔しいので本当に『創造の共同体』で書いてみました。あんな曲芸はもうイヤです。だって読んだことない本なんですから。というか、存在しないわけで。


嗚嗟、これは面白そうだなぁと、思いました。早速注文してみようと思います。
ところで、なにゆえ日本は旧正月が存在しないのでありましょうか。ロシアだって、ロシア暦でクリスマスするんですから、おかしいじゃないですか。唯一日本で旧暦に基づいた(とされる)祭事は紀元節くらいなもんでしょうか。でも、なんで11日なのかしらん。


まぁ、これは以前から申し上げておる話なのでありますが、本来帝国主義国家とは近代主義的な普遍的文明の論理でもって、後進の植民地を恵み施すという崇高な理念でもって、
「嗚嗟、オレたちはあの圧倒的な物量には勝てねぇなぁ。」
という、あきらめの念を起させたりして自らの支配を正当化するものだというのに(ベトナム戦争はそれを乗り越えたわけでエライですね>簡単に言うな)、われらが大日本帝国は、 レーニンにも認められた堂々たる帝国主義国家であったにもかかわらず、帝国主義国家としてはまことにお粗末な資本力しかございませんで、
輸出できるものが何もない
という状況でありました。正確には、
施すほどの国富はない
ということであります。文明の威力によって自らを畏服させるといったことが不可能である以上、輸出できますものは、軍事力しかございません。それが、朝鮮・台湾における武断政治ということになるわけであります。日本の資本投下が、これらの地域を近代化させたという話がありますが、それを維持・発展させるだけの国富がないので、国内外で搾取して、何とか自転車操業で帝国主義を運営していたわけでありますが、結局はそれがうまく行かないので、満洲に手を伸ばしたり、南方に出てみたりしたのであります。
思いますに、この東洋の君子国が何の勘違いか、欧米列強と張り合えると思いこんでしまったところに悲劇があったわけでありまして、今日でも、ノーベル賞とかにの争奪なんかでもそうですが、欧州 vs. アメリカ vs. 日本という三すくみで――非道いときには欧州とアメリカがタッグを組んでやってくるようか形で世界を考えるのが本来的に間違いなのではないでしょうか。


何でも近年は、聖徳太子の非実在説があるようで、このご本では実在説という方になるのでありますが、聖徳太子というのは昔から様々な形で偽書の話題に事欠かないお方であり、先ほど挙げました『偽書の精神史』では太子の名前がボンボン出て参ります。まぁ、日本初の文化人であり、かつ垂迹の存在であるということなので、それはそれで有名税ということなのでありましょう。
中世の偽書はおいておくとして、古いところから言えば、『先代旧事本紀』は近世に、「十七条憲法」は津田左右吉が(これは議論がありますが)、近年では「これだけは確実に太子の作」と言われていた『三経義疏』までが偽作といわれるようになり、とうとう、本人自体の存在が疑われるという事態に相成りました。なんかそこまで言われるとまじめに日本史なんかやる気にもならなくなります。学者先生はそういうことを考えて自分の発言をしていただきたい。まぁ、真理の追究は大事なのですがね。


ペリーが日本に来たときに、白旗と一緒に「もし交渉が決裂したら戦争になるわけで、そうなるとあんたらは確実に負けるわけで、降伏するわけで、そういうときにはこの旗を立ててきなさい。」と書簡を送ったというお話があります。その書簡が、偽書であるか否かというので、 大論争 になりまして、去年から今年にかけて幕末維新期を稼業としている方々のあいだでは、もうそれはそれは大変だったのです。まぁ、アタシのような、一兵卒なんかには関係ないんですけどね。『新しい歴史教科書』で、本物だと言ったあたりから問題がややこしくなったわけです。
で、この岸さんという方は、毎日の学芸部(だったか)の方だそうで、白旗の真偽というよりは、白旗の真贋をめぐる諸相を描き出す方に関心がおありだったわけで、お読みいただきますと、「嗚嗟、学者先生ってなぁ、こういう感じなんだぁ」と象牙の塔の内側をかいま見ることが出来ます。まぁ、塔の材質が本当に象牙であるかどうかというのは、各自ご判断いただきたく思います。
これも読んだので、長く書いてみました。



そのほか気になる物件


哲学思想系著作きょうの新刊(2002.11.12)


まぁ、京都というのは千年王城とかいわれますけども、その王というのは、いかがなものであったかと申しますと、よくもまぁ生き残ったものですね、という存在だったわけで、逆に何らの実権を持たなかったが故に生き残れたのかも知れませんが、あの応仁の乱でも滅亡しなかったわけですから実は、すごい秘技でもあるんじゃないでしょうか。

参考物件 オリーヴ チェックランド著・工藤 教和訳『天皇と赤十字 日本の人道主義100年』法政大学出版局(四六判・4-588-36411-1・2002・\3,700)
杉浦 重剛著『教育勅語 昭和天皇の教科書』勉誠出版(新書・4-585-10365-1・2002・\1,000)


「新聞」という新しいメディアは、新国家におけるさまざまな法令を伝達する存在であり、朝令暮改の如く変更される諸制度に乗り遅れないためにも、新聞は欠かせなかったわけです。しかし、明治時代の新聞と申しますのは、今で申しますスポーツ新聞ですとか言ったような内容であり、非道いのになりますと、ほとんど講談の内容を活字にしただけのような記事があったり致しまして、「新聞」のくせに「以下次号」とかあったりするのであります。大正時代に寺田寅彦が「日刊新聞なんか要らない。週刊で事実だけ流すので十分だ。大体にして取材もしていないのにインタビュー記事を載せるな。」と甚だご立腹遊ばされていたわけでありますが、成程宜なるかな、というところであります。


伊勢神宮というのは、天照大神がいることになっておりますが、それは内宮の話で、当時は外宮の方に用があったわけで、つまり農耕神としての豊受大神ですね。地方地方の農村からやってきた人々が、これにお参りしまして、村に帰っていくのであります。しかしながら、単に信仰心からやっているわけではなく、当時農業先進地域であった伊勢にやってきて、種苗を入手して帰っていったわけでありまして、神社の前にそれらを配っていたそうです。ですから、和辻先生のおっしゃるように、そうそう、皇室崇敬と伊勢信仰は結びつかないと申せます。


佐伯先生は、『新撰姓氏録の研究』で有名であり、はっきり言ってこれがなければ古代は何も出来ませんというくらいすばらしい業績をお持ちな方なのですが、今回のお話は高丘(高岳)親王だそうです。面白いですね。高丘親王というのは平城天皇の皇子なのですが、例の薬子(くすこ)の変で、廃太子になったかなり可哀想な人です。そりゃ、出家したくなるものです。で、この王子さまのすごいところは、求法の旅の末に中国に渡り、さらにインドに渡ろうとしたというところであります。仏教伝来以来、インドまで行こうとした日本仏教者というのがほとんど皆無であることを考えますと、この王子さまは、かなりアグレッシブな方だと申せます。ただ、途中で客死してしまったそうですが、たとえ出家者といえども、皇族が外国に行くというのは、日本史上かなり希有であったようにも感じますから、この点でも興味深く存じます。ああ、神功皇后とかいうのはナシですよ。


柳田国男というのは「日本民俗学」の祖、ということになっております。で、この「日本民俗学」というのは、「民族学」と違うところにミソがあります。つまり、帝国主義的植民地支配における被支配民族の科学的把握の色彩が強い「民族」の学ではなく、同じ民族が同じ民族の固有性を語ろうと言うわけですから、自己撞着に成りかねないわけで、存在するのかしないのか分らないような「常民」なんて概念を生んでしまう所以でもあったわけです。え、それって捏造じゃないのかってツッコミはちょっと可哀想ですがね。


台湾の方がお書きになっているようですが、「日本漢学」というのがどうにも気になります。ハイ。
井上 ひさし・生活者大学校講師陣著『あてになる国のつくり方』光文社(新書・4-334-97368-X・2002・\1,300)

ひさしなので。


そのほか気になる物件

哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.29)



片岡 寛光著『公共の哲学』早稲田大学出版部(A5判・4-657-02925-8・2002・\3,800)

公共哲学というのはある意味近年のはやりと申せますが、単純にいえば近代的個人主義というアトム的状態はあまり望ましくないんではないか、というところから出発しております。つまり、人間ってなぁそうそう独りで生きていけるほど強いものでもないですよね、ということです。それはそうなのですが、どうも日本にこの個人主義が入ってきたとき、individualism(in=〜できない+divide=分割→それ以上分割できない存在)という訳語を誤解してしまったのか、原義通り理解してしまったせいなのか、とにかく「独立した確乎たる自己を持った私」というのが「個人」なんだと想ってしまったわけです。夏目漱石の「私の個人主義」なんかは、まことにその意味でのじつに純粋な「個人主義」なのであり、
「あー、そういうのを求めてたらたしかに気も狂うよね。」
と納得してしまうわけです。しかし、本来あちらさんでは、個人というものはすでにあるコミュニティなり宗教集団なりに所属していることによって、「万人の万人に対する闘争の場」たる市民社会を乗り切ろうとしたわけであります。ここいらへんは、ウェーバのゼクテSekte概念やトクヴィルの『アメリカの民主主義』なんかお読みになっていただきたいと思うのですが、問題は
めちゃ長い
ということであります。とくにトクヴィル。講談社学術文庫で3冊くらいあったんじゃなかろうか。
まぁ、そういうわけで、本家本元の個人主義た〜らいうものは、じつは多分に公共性にあふれていた、と言うよりはそれがなければやってられないという事実があったのですが、わが近代のパイオニア諸子はそういうところまでは気づかずに、
「自己の確立」
だけを心がけてしまいましたので、大正教養主義者は、後に至る全体主義というインチキ公共性の主張の前に各個撃破されてしまったのであります。

関連参考新刊

吉本 隆明著・田近 伸和(聞き手)『超「戦争論」 上』アスキー・コミュニケーションズ(四六判・4-7762-0010-4・2002・\1,600)
吉本 隆明著・田近 伸和(聞き手)『超「戦争論」 下』アスキー・コミュニケーションズ(四六判・4-7762-0011-2・2002・\1,600)

吉本隆明先生といえば、燦然と輝くわれらの太陽なわけであり、心うち振るわせた学生時代を送った方も少なからずおいでではないかと存じます。しかし、先年、「海でおぼれかけた」という衝撃的な事件が、耳目を引いたのですが、その一方で
家族で海水浴なんてブルジョアなことしてんじゃねぇよ
という、どう考えてもイチャモンというか、幸せな家族を羨んでんじゃねぇよということで、一部地域でずいぶん評判を落としたわけであります。→http://www.thought.ne.jp/html/text/socio/08vlt04.html
それはそれとして隆明先生は、小林よしのりにまるで妖怪のように描かれているようで、なんといいますか、それも表現の種類なのでしょうが、明らかにヴィジュアルで批判するのはやっぱりずるいなぁと思うし、また隆明先生自身も思われたので、今回は「超」戦争論なのでしょう。

関連参考新刊


中村 春作著『江戸儒教と近代の「知」』ぺりかん社(四六判・4-8315-1024-6・2002・\2,800)

近世思想史というものを近代に連続させようという認識は、近年の流行であります。すなわち、「ペリーがやってきたら一気に近代化したなんてのはずいぶんひどいはなしじゃぁないですか。わたくしどもにもそれなりの下地があったからこそ、西洋近代を受容できたのですよ。」と申し上げたいわけであります。が、その一方で、先に申しましたように、近代的個人をちょっと誤解というか大変原理主義的に理解してしまったために非道いことになりました。ですので、この下地ってのもどのくらい評価しておいたらいいのかな、という見極めも必要だと申せます。
そうはいいながら、羽仁五郎の『日本における近代思想の前提』なんていつ出たのか分らないような本に(1949年です)、ドキドキしちゃったりしたり、またそういう論文を書きたいなぁと思うのも偽りのない事実であります。



そのほか気になる物件
  • 脇田 晴子著『日本中世被差別民の研究』岩波書店(A5判・4-00-024213-X・2002・\12,500)
  • アンドリュー・エドガー・ピーター・セジウィック編・富山 太佳夫訳者代表『現代思想芸術事典』青土社(四六判・4-7917-5967-2・2002・\3,200)
  • 伊藤 唯真編『宗教民俗論の展開と課題』法蔵館(A5判・4-8318-6217-7・2002・\12,000)
  • 関根 清三著『倫理の探索 聖書からのアプローチ』中央公論新社(新書・4-12-101663-7・2002・\780)
  • 一坂 太郎著『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』中央公論新社(新書・4-12-101666-1・2002・\780)
  • 五野井 隆史著『日本キリシタン史の研究』吉川弘文館(A5判・4-642-03376-9・2002・\9,000)
  • ミシェル・フーコー著・慎改 康之訳『ミシェル・フーコー講義集成 コレージュ・ド・フランス講義 5  異常者たち 1974−1975年度 』筑摩書房(A5判・4-480-79045-4・2002・\4,800)



  • 哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.22)

    ライプニッツという方は、まぁ、なんと申しましょうか、世界の全体を思弁的に把握した最後の巨人じゃないかと思うのです。デカルトが、「我れ思う故に我れあり」とか「オレが思惟しているという事実だけは神さますら否定できないのさ」とか言って、心身の二元や精神の優越を説いて、世界を客体化して、科学的分析的に把握しようとしていたあの近代の曙の時代に、このライプニッツは、「世界を誤りのない一つの表現で語りたい」とか考えて、モナドとか、予定調和とか、なんか人間の思惟を越えちゃったところで語ろうとしたわけです。
    でこのモナドには「窓がない」なわけで、「えー? ないからなんだってぇのよ」と学生のわたくしどもを戸惑わせることしきりだったわけであり、実は今もってよくわからないのであります。
    先日うかがった話では、「窓とは出入りする窓であり、のぞくための窓はあるんだ。大体にして、窓から出入りしないだろう?」と言われました。嗚嗟そうかなぁと思いましたが、出入りするのは、それ自体主体なわけで、モナドをのぞくにせよ、出入りするにせよモナドの外に主体があるというのもいかがなものなぁと思わなくもなかったわけです。


    この「わかりやすい」シリーズは、他に忠臣蔵とかもあるみたいです。最近は、「90分でわかる××」とかお手軽なハウツー本のような者が少くないわけで、そういうものに対して否定的な方もおられるようです。たしかに、
    「こっちはそれで何十年もやってきているんだから、90分とかでわかられたらたまらねぇ」
    わけで、実際に読んでみると実に概説的なことしか書いておらず、
    「やっぱりな、全然××の奥底がわかっちゃいねぇ」
    と、安心しながら、
    「でも、よくまとまってるな、これなら授業で使えるかも」
    とかイケナイ想念を得てしまったりすることもあるようなないような。いやいや、そんなことはありませんとも、あるわきゃない。
    しかし、考えてみますと、こういった先生方も学生時代は新書ですとかで、ずいぶん自分たちの想像をたくましくしていったわけであって、現代の学生が新書一冊読み切るだけの能力がなくなったことを慨いてもいいのですが、とりあえずそういうものを求めようとする知的欲望には水を差さないで欲しいなぁと思うのです。
    でも、知識だけをため込むような、教養主義では困るのは確かです。その昔、藤田省三が「最近の若い者は、古典を読むにしても、〈教養〉だから読むというのが多い」と言っておりましたが、さらに最近の若者は、原典じゃなくて、エッセンスだけを自分の身にまとうだけだったりして、
    「オイそこのオマエ、研究室の電子百科で調べたことを、自分の知識だと思うんじゃねぇ」
    と言いたくなるのも確かではあります。


    どういうわけなのか、日本人はドイツが好きと言うことになっております。ドイツ人が日本人を好きであるかは、はたしてよくわかりません。別に、第二次世界大戦を一緒に戦ったとは言っても、戦場を同じにしていたわけではなく、言ってみればチャイナスクールならぬ、ドイツスクールによる派閥の主導権争いみたいな部分ではなかったかと思います。
    以前も申したことがあるかも知れませんが、明治日本におきまして、ドイツというのは必ずしも日本でそれほど評判が高かったわけではございません。と、いいますかドイツ自体とそうそう関係がなかったわけで、なるほど確かに多くの留学生が参り、陸軍はドイツ式の編制をしたりしましたが、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の黄禍論なんかはずいぶん反発も激しく、当時日本におりましたドイツ人医師のベルツ(日本史の教科書で帝国憲法発布の記述の際に必ず出てくるあの人ですね)なんかは、「こういう皇帝がいるドイツはダメなんだ」とノタマっております。
    ドイツへの傾斜が始まるというのは、後進資本主義国家として、その国内状況が近似していたこともあったとは思いますが、当方の勝手な思い込みとしては、第一次世界大戦にドイツが負けまして、猛烈な円高マルク安になって「貧乏学生でもうまくやれば留学できる」という状況が出現したせいではないかと思うのであります。何しろ日本は大した戦闘もせずに「戦勝国」ですからね、左団扇で、今考えるとトンデモねぇビッグネームのドイツ人の学者に「家庭教師」させたりしたわけです。嗚嗟うらやましい。

    参考新刊図書


    『ドイツイデオロギー』は通人は『ドイチェ・イデオロギー』とか『ドイッチュ・イデオロギー』とか、なるべく原典に近い読み方を心がけようとしたりして、ニーチェを「ニートゥッシェ」とか表記したりして、
    読めねぇよ、コラ
    的な状況を現出したりしているわけですが、そういう方に限って、お話しいただく際には、
    ドイデ
    なんて言われて、「土井さんと井出さんですか」みたいな感覚に陥ることもしばしばなわけです。
    そんなことはどうでも良くて、『ドイツイデオロギー』が岩波で、再び出るしかも廣松さんの訳でってのがうれしいじゃありませんか。まぁ、さすがに独和対象訳になっているとは思いませんが、「イデオロギー論をやる場合、絶対無視できないよね」という哲学思想系・社会科学系の方や、「オレのドイデ(国民文庫も可)も古くなったよなぁ」とか「ドイデと聞くと青春時代がよみがえる」とか言う方におすすめします。


    「中国には中華思想があって〜」などということを言って、中国を批判する方は少なからずおられます。そういう方は「だって〈中華〉人民共和国って言っているじゃないか」と申されるわけですが、そうなりますと「グレートブリテン」なんてのはトンデモねぇ訳ですし、「ユナイテッド・ステイツ」と自称する国は自分たち以外に、連邦国家は存在しないと思っているわけであり、「大日本帝国」なんてのはバリバリ帝国主義国家だと言うことで宜しうございますね。
    などと思いっきりとばしまくっておりますが、中華思想というものは近代国家とはかなり異質なものであって、本当にそんなものを主張しているのだとしたら、その国家はかなりヤバイと言えます。ただし、国民国家を形成する際に、かつて自分たちの祖先が有していた思考様式を使って、国民を動員しようと考えているというのであれば、まぁ、それはそれでイデオロギーというヤツであり、やはり中華思想そのものから遠いと言えましょう。

    参考新刊図書: 『民族という虚構』東京大学出版会(A5判・4-13-010089-0・2002・\3,200)




    そのほか気になる物件


    哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.08)


    まぁ、どうでしょうか、この統一性のない思いつきのラインナップは。今回の目玉といたしましてはやはり、
    卍字会
    でありましょう。
    卍字会、あるいは紅卍字会といった方が通りがよいと思いますが、これは道会の慈善団体であります。で、この道会というのは、至聖先天老祖を最高神としマホメット、釈迦、老子、キリスト、項先師(孔子の師)は言うに及ばず、とにかくあらゆる世界の聖賢仙仏を神として配しているわけで、じつに至れり尽くせりだと申せます。
    この団体、宗教団体と申しますか、社会団体といった方が良いような内容でありまして、急激に近代化(資本主義化)していく中国大陸で崩壊する地域共同態の代わりをはたしました。しかし、中共以後は、反動的宗教として鎮圧されてしまいました。しかし、香港・台湾・東京そのほかの地域では今も存続して活動しております。


    哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.06)


    ミイラといいますと、ピラミッドの中にいて包帯ぐるぐる巻きで、ときに人を襲うようなものが想起されますが、まぁ、あれはヨーロッパ人の異文化というか異宗教に対する、偏見に根拠していると思います。
    しかし、ミイラ、というものは肉体を生前のまま(に近い形で)保存した状態したものをいうので、レーニンとかスターリンとか成功したのかわからないけど毛沢東とか、ホーチミンもそうでしたか、まぁとにかくああいったものも、ミイラと申せます。しかし、本来ミイラは、後の復活の日のために肉体を保存しておきたいというところに始まっているはずなのですが、そもそも無神論であるべき共産主義者が、そんなことを考えているとは思えず、結局、「保存しておくと広告塔になる」というところにあるのでしょうが、そういうのを物神化というのであってとても唯物論者とは申せませんね。
    ひるがえって日本におけるミイラは、即身仏ということになりますが、べつに、五六億七千万年後にやってくる弥勒菩薩の来臨をお待ちするというわけではないのが特徴的であります。
    日本の仏教は、わりかし即身成仏思想といいますか、現世成仏といいますか、
    「彼岸に行かずにこの世で成仏しよう。」
    さらには
    「いやいや、彼岸じゃなくてこの世を仏国土にしよう。」
    などという、極めて過激に素敵な発言が出てまいりまして、
    「じゃぁ、仏に成ってみようか」
    といって、断食して成仏してしまうわけです。
    この即身成仏で有名な方といえば、空海ですが、この方生きながらにして成仏したことになっておりますので、未だに生きており、現在最高寿命を常時更新中なのであります。
    即身仏というのは東北地方に広く見られますが、偉い坊さんというよりは、わりとふつうの修行僧が、修行の結果、成仏するというケースが少なくございません。で、断食といってもすぐにご飯を食べなくなると言うわけではなく、五穀を四穀に、三穀に…という形で少しづつ摂取量を減らしていきます。ご存じの空気孔の竹筒の刺さった箱の中に入って断食行に入りますと、たくさんの村人が応援に駆けつけます。まわりで念仏を唱えたり、お賽銭を出したり。言ってみれば、目の前で奇蹟が起きているわけですから、それにあやからない手はないわけです。
    ときには、真夜中に、「上人さまがおなかを減らすといけないから」とこっそり食べ物を差し入れた村人もいたようですが、中に、モチを差し入れたおばあさんがおられまして、
    空気孔に詰まった
    そうです。当然、中では酸欠になります。おそらく、なけなしの餅米で、心からの供物だったのでありましょうが、かなりの悲劇ではあります。


    そのほか気になる物件
    デイヴィッド・A.ホリンガー著・藤田 文子訳『ポストエスニック・アメリカ 多文化主義を超えて』明石書店(四六判・4-7503-1622-9・2002・\3,000)
    花田 勝広著『古代の鉄生産と渡来人 倭政権の形成と生産組織』雄山閣(B5変形・4-639-01775-8・2002・\15,000)
    佐藤 達哉著『日本における心理学の受容と展開』北大路書房(A5判・4-7628-2273-6・2002・\23,000)




    哲学思想系著作きょうの新刊(2002.10.05)


    今日はこれを取り上げなければならないでしょう。というか、取り上げなかったら稼業失格。
    未刊行文稿というところが大いに気になります。内容が具体的に分らないのでちょっと不安が残ります。
    会沢というのは、たしかに水戸学の泰斗なのですが、不思議なことにあまり人気がございませんで、かわいそうなことに『全集』というものが出されておりません。彼れの師匠と弟子の藤田幽谷・東湖父子に比べると、不遇と言えなくもなく。結局彼れの場合、長生きし過ぎちゃったというところに問題があります。あと、水戸徳川家としての佐幕論を最後まで堅持し続けたので、天皇制国家ではダメだったのでしょう。
    ちゃんとした会沢研究が待たれるところではあります。


    嗚嗟、たしかに恐怖といえば恐怖でしたね。というか、笑いが止まりませんでした。
    「馬鹿なんじゃないかこいつら」
    という点で。あの日はですね、夕刻の研究室のテレビで
    「なんか臨界を迎えたらしい」
    「いやいや、青い光を肉眼で見た」
    とかやっているわけですよ。ちょうど雨が降っておりまして、この中帰ったら、禿げるんじゃないかという冗句も出たものであります。
    ニュースは流れるものの、巷ははかなり平静で、みなさまふつうに生活をして、臨界真っ最中のすぐわきにあるJRはガンガン動いていたりしました。当方もそれで帰宅したわけです。しかも普通列車なので、特急待ちとかするのですが、
    ただいま臨界中
    と言われている東海村のJR東海駅で私どもは10分もドア全開で待っていたわけです。中性子線ビュンビュンであったかどうかは存じません。
    だって見えませんもの。
    で、帰宅後すぐに電車が止まりまして、翌日は軟禁状態といいながら、大学行けないので、大っぴらに回転寿司なんど行っておりました。危機管理的にはだめなワタクシ。


    高校の時、英語の勉強のために買ったことがあります。たしか3版だったと思います。時代が分ってしまいますね。
    日本に関するいろいろなものごとを、日英対訳で乗せてあるのが便利ですね。文化論のところは、概説的なので多分に不安を醸し出さないわけでもなく。


    その昔、岡山に参りました際に登りましたが、あんな高いところに城を築いて何をしようというのでありましょうか。まぁ、く白村江の敗戦後に造営された山城だと言われてはいますが実際は不明であります。
    たぶん、烽(とぶひ)のためでもあったんでしょうね。太宰府から馬で大津まで駆けるのは大変ですから、のろしで伝達するわけですが、行ってみれば高速ネットであります。そう考えますと、ちょっとしたハイテク施設だったんだな。石しかなかったけど。
    参考新刊図書:小和田 哲男著『戦国城下町の研究』(小和田哲男著作集 第7巻)清文堂出版(A5判・4-7924-0514-9・2002・\9,200)
    中野 栄治著『葛城の峰と修験の道』ナカニシヤ出版(A5判・4-88848-736-7・2002・\3,500)


    かつては一世を風靡しました「日本式経営」も、いまや衰退し、アメリカ流の経営が目指されているわけで、じつにもって無常の世界であることを身にしみるのであります。
    しかし、その「日本式」なるものも、はたしてどこに根拠があるかというと、そんな古いものではなくてですね、つい五六十年まえのおはなしなわけです。それを、武家や商家などの経営形態を参考にして、「日本的」だの「日本式」だのなづけて、文化的特殊性を強調して自己満足していたのが、バブリーなワタクシたちであり、現在の反動的な姿勢は決してそういういい加減な態度に対して反省して生じたものではなく、
    「いままでのが上手くいかなくなりましたので、チェンジ」
    なのであります。そういう意味で言えば、アメリカ流なんてのも早晩どこかに行ってしまう可能性もあるのですが、現今の時流がそれである以上、そうそう無視も出来ないことがじつに歯がゆく感ぜられるのです。


    蘭学――それは黎明期的日本科学精神の象徴
    ということになってますが、別にそういうこともあまりございませんで、蘭学といっても実際には、外科的な分析的な解剖学としての学問がじつに進んでいたわけで、実際に人間を治すとかいうのは、漢方医にくらべて、たいして変わりありませんでした。
    ただ、この天然痘――種痘にかんしては別でありまして、確実に実績の上がる分野でありましたから、天然痘根絶史=蘭方医学発展史と言っても過言ではございません。種痘を広めるために、緒方洪庵が種痘の神様を作ったりしたことは有名でありますが、科学的であるから科学的に語らなければならないというわけではないという割り切りがボクは好きです。
    こまかいことは、
    手塚治虫『日だまりの樹』
    をおよみください。って、この本を紹介しているんじゃないのか?
    種痘に関しては、とくに幕末期になると攘夷勢力と結びついて、激しい反発がありましたが、吉田松陰なんかは幼いときに天然痘で死にかけて、そのおかげで顔にあばたが出来たので種痘万歳という人でした。こういう志士も結構珍しいとおもいます。
    浮屠清狂種痘の詩に、「謾りに言ふ洋法神よりも妙、引痘絶えて夭折の人なしと。識らず死生元命あり、枉げて牛膿を移して人身に種う」と。余謂へらく、種痘の類は皆人事を尽すの一端にて、此の良術を廃して、死生命ありと云ふは、身を修めずして命を俟つに近し。他日を俟ちて清狂と此の義を論ぜんと欲す。

    憲法は変わらないのにどうして教科書は版が出るのでしょうか。より善き憲法の運営を、維れ深く祈ります。
    わたしは第1版を使ってました。時間は流れているのですね。


    これで、新渡戸までいたらなんかやらせっぽいですが、ご安心ください。しかし、新札で新渡戸がいなくなるのははなはだ残念な心持ちがいたします。だって、文化人ってレベルじゃないと思うのですよ、新渡戸。国際連盟事務局次長ですよ。
    ところで、右の人は不敬事件の内村なんかを持ち上げてはイケナイと思うのですが、自分の主張のためには何でもいいから使って換骨奪胎というのは、じつに不誠実だと思うのですが、どうでしょうか。



    そのほか気になる物件

    きょうの哲学思想系著作(2002.10.01)



    氏姓(うじかばね)を重視するのは日本だけのお話ではなく、世界中に転がっておりますが、儒教国家ではそれが甚しうございます。「同姓不婚」であるとか「異姓不襲」などというのがそれにあたります。
    しかしながら、東アジアに位置するはずの日本におきましてはさっぱりそのようなことはなく、それ以前に姓のない方がいたりするわけで、戸籍も全く別だったりするわけです。まぁ、日本人のほとんどは、かつて姓を持っておりませんでしたので、それはそれでよいのかなぁとも思います。
    その昔、柳田国男が地方の旧家にいくと「平家の末裔」だのいう家系図を見せられるのに辟易したと言っておりましたが、ほんとかどうか分からない話を聞かされるのはホントにいやだなぁと思わないでもなく。



    隠元禅師ともうしますと、明末の亡命僧で、インゲン豆を日本に伝えた偉人であり、その意味では沢庵和尚なみに有名であってもよいはずなのですが、さほどでもないのがじつに残念であります。
    で、この明末には日本に多数の大陸知識人がやって参りまして、朱舜水のような儒者もまたやってきて、徳川光圀にいろいろ吹き込んで『大日本史』なんか作らせちゃったりしたのでありますが、隠元さんは黄檗宗という仏教宗派を伝えてくれました。この黄檗宗こそ日本に伝来した最後の仏教宗派であります。これ以降、仏教の新しい展開は明治になって、革新運動が始まるのを俟たねばなりませんでした。
    しかし、この明治の仏教運動というのは、信仰というよりは、神学的・理知的な運動でありましたので、やはり黄檗宗こそ最後の仏教信仰と言え、これをどのように日本人が受容したかを見るのは中々に興味深いところがございます。



    「イマニュエル」という名前で誰れを想起するかで、その方の関心が分ります。
    イマニュエル・カント→哲学
    イマニュエル・ウォーラステイン→政治経済学・社会学
    イマニュエル夫人→法学
    一番最後がなんか嘘っぽいですが、法学やっていると、「読んだことがないのに『イマニュエル夫人』にやたら詳しい」という人になれるわけですが、別にうれしくもなく。
    それはそれとして、世界システムといえば、「共産主義国家も資本主義国家も、政治体制では違いがあるけど、国家としての性質は同様であり、いわばおなじ世界システムのムジナ」なのだという事実が、多くの人々に衝撃を与えたのであります。
    このような考え方は、「カリフォルニアとオーストラリアの植民地化と中国と日本の開国とによって完成されるように見え」た世界市場の樹立を指摘したマルクスあたりに始まるのでありますが、あちらの知識人は、マルクスを批判的に読むことで、いろいろ新しい地平を切り開いてくれるのですが、日本ではどうして捨てられてしまっているのでしょうか、ととある人に申し上げたところ、
    「そもそも拾ってないものは捨てられないだろう。」
    とのたまわれました。なるほど。
    参考新刊図書:香西 茂・安藤 仁介編集代表『国際機構条約・資料集 第2版』東信堂(A5判・4-88713-455-X・2002・\3,200)

    文系の当方でも、三法則(の名前)くらいはしっているわけで、ニュートンは偉いなぁとおもったりするわけです。
    で、彼れの『プリンキピア』というものが、神の作った宇宙の原理を明らかにしようとするものであったということはしばしば指摘されるところであります。つまり、むかしは哲学と自然科学との区別が付いていなかったということですね。哲学をやっている人にとっては、何となくうれしい豆知識でありますが、そういうことをいうと、
    「嗚嗟、じゃぁ哲学は自然科学に捨てられたのね」
    といわれてしまい、再びショック、なわけです。本書は、そんな哲学徒の心の友であるニュートンがじつは、聖人君子ではなく専制君主であったという驚くべき内容なので三度ショック。


    フクヤマさんは1990年代初頭の冷戦構造崩壊期に『歴史の終わり』なんて本を書いて話題になりましたが、イデオロギーがそう簡単になくなるわけはなく、現今の宗教による集団化が展開されているのがそのことを示しております。で、今回は人間が終わるわけですが、そうそう終わられても困るというか、メシの種がなくなるというか。



    哲学思想系著作・きょうの新刊(2002.09.29)

     


    • 藤原 帰一『デモクラシーの帝国 アメリカ・戦争・現代世界』岩波書店(新書・4-00-430802-X・2002・\740)
     昨今の状況をそのものズバリ、と言い表したタイトルにクラクラしない人はいないのではないかとおもいますが、「デモクラシー」で「帝国」な「アメリカ」をテーマにしたこの一冊、これさえあれば、大学でのレポートの二つや三つ書けそうであります。
     その昔、わが日ノ本も「バリバリ帝国」であった時代がありました。主権者はボクだ、臣民はキミだということです。
    「作麼生! 君と雖も臣民とは、これ如何」
    「説破! 主語と雖もSubjectと言うが如し」
     という問答があったかどうかは分りませんが、とにかく主権は畏き御一人にのみ総攬せられていたので、「民主主義」なんてことばは許されなかったわけので、やむなく、
    「民本主義」
     なんてちょっと日和った感じで表現してみたりしたのですが、そのあと数年後にどうしようもなくなってしまいました。やはり根本をしっかりしておかないといけません。
     やはり帝国と民主主義ってのはスターウォーズのように親和性が低いのかなぁと、まことにアメリカナイズされた教育を受けてきた戦後の僕たちにとって、「実はアメリカも帝国なんだって」という話は、ちょっとした衝撃とともに、イデオロギー暴露の一陣の風となって、私どもの心をくすぐることでしょう。
    参考新刊図書:ジム ツカゴシ著『星条旗への誓い アメリカ人になった日本人』文芸社(B6判・4-8355-4507-9・2002・\1,300)

    • 小谷野 敦『中庸、ときどきラディカル 新近代主義者宣言』筑摩書房(B6判・4-480-81445-0・2002・\1,600)

     『中庸』
     それは宋代において、『大学』同様、『礼記』からむりやり引っ剥がされて成立させられたいわゆる四書の一つ。そんなのってありか? という感じがどうしても抜けない謎の書。
     そんな『中庸』とは全く関係なく、アリストテレスは、中庸 mesotes をその徳論の中心概念に据えました。中庸にしてかつラディカルという矛盾は、大変そそられるところがあります。しかもそれが「新近代主義」なのであります。
     しかしながら、哲学思想の業界で、古来より「新」が付いた思想は、一時期流行るものの、しかし長続きしないというジンクスがあります。新カント主義・新プラトン主義・新保守主義、えとせとら、えとせとら…。
     修正主義もよいのですが、原理主義っていうのも一つの選択ではあろうかと思います。でも、原理のない原主義ってのは、ただの教条主義だと言えますがいかがでしょうか。


    • 朽津 耕三『化学で使う量の単位と記号』丸善(A5判・4-621-07104-1・2002・\1,200)

     「これのどこが「哲学思想系著作」なんだ。人を莫迦にするにも程がある。」と仰せになる方もおいででありましょうが、「単位」というものは、なかなかもって私どもの思考を規定しているものであることを想起していただきたいと思います。
     HDDを増設しようとしたところ、ネジの規格が合わずに、もう一度パーツ屋に自転車を駆ったのも青春の一頁として心の秘密小箱にしまっておきたいと思うのですが、NASAの発注がインチだったのに、業者がセンチで作ったもんだから(逆?)スペースシャトルが飛ばなかったということになりますと、これは捨ててはおけません。
     大体にして、いつまであの国は、インチを使うのでしょうか。
     そもそも、メートル法というものは、フランス革命期に「普遍的な度量衡単位を!」という崇高な理念の下に作り上げられた単位であります。「普遍的」というあたりが、実に近代的でフマニズムな雰囲気を漂わせていますが、つまりこれに従わないということは、自由・民主・博愛の精神に対し奉り服(まつろ)わぬことを意味するのであります。
     極東の君子国たるわが日本国は、それ故、かつてはメートル法以外の表記を商取引に用いた場合、それは無効であり犯罪だったわけです。なんとスバラシイ普遍への希求でありましょうか。
     つまり「四畳半宇宙」だの、「二升五合で益々繁盛」だの、「京都二条城=キャッスル畳二枚」だのいう表現は、この普遍主義の下に断罪されなければならなかったのであります。
     「ちょっと、それは無いだろう」ということで、永六輔氏あたりが運動を起こして尺貫法を復活させてくれたわけです。どういうわけだか、部屋の広さやお米の量はメートル法では今ひとつ理解しにくいので、大変ありがたく思います。
    しかし、最近はワンカップ大関も200ミリになったりして、「20ミリお得」ということになっていたりしますが、やはり当分 一升瓶が2リットルになることは、営業上難しいのではないかと思いますので、当分安心できます。


    • 大野 晋『日本語の教室』岩波書店(新書・4-00-430800-3・2002・\700)

     今日(2002.09.29(日))の読売新聞に、井上ひさし氏による書評がございます。そちらをご覧下さい。なんてこったい、すごい手抜きだ。いや、好きなんですよ、ひさし。

    参考新刊図書:福井 文雅著『漢字文化圏の座標』五曜書房(A5判・4-89619-741-0・2002・\16,500)

    • 読売新聞大阪本社社会部『通天閣 人と街の物語』新風書房(B6判・4-88269-508-1・2002・\1,000)

     通天閣といえば大阪でありますが、大阪といえば通天閣であるかどうかは人それぞれであり、逆は必ずしも真ならずということを示しておりますが、ときには「通天閣といえば日立」という、茨城県東北部に在住の人間にとっては心ときめくテーゼを出す方もおられるようです。
     なぜ日立かというと通天閣には、どういう訳か「日立カラーテレビ」だの「ITソリューション」だのでかでかと書いてあるからですね。
    「大阪なら、ナショナルじゃないのか?」
    というのが、真っ先に想起されるわけですが、大阪の方のなかには「日立って茨木にあるのんから、別におかしくないやん」と正しいのか分らない表記ですが、そのように申されて、しばしば宛名に茨木県と書かれて、
    「栃木じゃねぇってぇの」
    とこれまたローカリズムな反応をしている当方の心の琴線をビンビンと触れてくれるわけです。
     望郷の念といいますと、ふつう上野駅ということになっておりますが、当方にとっては、学会などで行くたびに、望郷の念を起してくれる通天閣なわけです。


    • 野町 和嘉『メッカ カラー版 聖地の素顔』岩波書店(新書・4-00-430807-0・2002・\1,000)

     カラー版の岩波新書といえば、あの妖怪先生たる水木しげる氏のものが想起されますが、今度はメッカです。最近は「××のメッカ」ということばをあまり使わなくなりました。これが宗教的配慮なのか、それとも単に「メッカも遠くなりにけり」というようにメッカへの「あくがれ」が薄れたのでありましょうか。って、そもそも「あくがれ」自体が「離れて遠く去った地」という意味なのですから、遠くなって良いのでしょうか。


    • 北国新聞社『道元と曹洞宗 北陸「禅の道」』北国新聞社(B5判・4-8330-1258-8・2002・\2,200)
    • 近藤 正輝『ブッダから日蓮まで』文芸社(B6判・4-8355-4260-6・2002・\1,300)

     「鎌倉新仏教」ということばがございます。先ほど「新」が付くと流行廃れが早いと申しましたが、この「新仏教」にかんしては、大変息が長うございます。当たり前でありまして、この「新仏教」なる語は鎌倉時代の自称ではなく、後に近代になって初めて生じた語でありますから息の長短は関係ないわけです。
     この「新仏教」なる語をどこの誰れが言い出したのかは今ひとつ不明でありますが、福沢諭吉が、『学問のすゝめ』(だったか)で親鸞とルターの類似性を指摘しておりますように、仏教史を策定する際に、キリスト教史の「新教・旧教」のカテゴリを参考にしたのであろうということは、目安い道理であります。しかし、ここでギリシア正教が欠落しているところが、近代日本人のキリスト教理解を表現していると言えましょう。
     あ、だから原始仏教運動が出てくるのか。なるほど。


    • 飯島 紀著『ハンムラビ法典 「目には目を歯には歯を」を含む282条の世界最古の法典』国際語学社(A5判・4-87731-170-X・2002・\4,000)

     「目には目を」というのは「復讐法」などと呼ばれているので、ハムラビ法典というか、中東のあたりの法観念がそういう、「乱暴な感じ」であるように思われがちでありますが、そもそも、これはきちんとした刑事裁判法であって、相手に加えた損害と同等の損害をもって償うという罪刑法的主義なのであります。ちなみに、奴隷ですと解放されて自由人になるそうです。
     本書は、このハムラビ法典を「楔形文字」「ローマ字」「日本語」で表記してある実に興味深い本だそうです。以前、ヒエログリフの演習本を紹介いたしましたが、今回は楔形文字なのであります。

    参考新刊図書:笹倉 秀夫著『法哲学講義』東京大学出版会(A5判・4-13-032325-3・2002・\4,200)


    そのほか気になる物件
    • ルイ・アルチュセール〔著〕フェルナンダ・ナバロ(聞き手)・山崎 カヲル訳『不確定な唯物論のために 哲学とマルクス主義についての対話』大村書店(四六判・4-7563-2032-5・2002・\2,200)
    • 関 周一著『中世日朝海域史の研究』吉川弘文館(A5判・4-642-02815-3・2002・\8,000)
    • 歴史教育者協議会編『わかってたのしい中学社会科公民の授業』大月書店(A5判・4-272-40459-8・2002・\3,000)
    • マイケル・ケリガン(岡本 千晶訳)『図説拷問と刑具の歴史』原書房(A5判・4-562-03552-8・2002・\2,800)
    哲学思想系著作・きょうの新刊(2002.09.23)

    道躰滋穂子『哲学のエチュード――九つのテーマからなる入門書』水声社(四六判・4-89176-468-6・2002・\1,800)
    「哲学入門」というのは、経験的に申しまして実に千差万別というか、内容が一定しないと言うか、そもそも「哲学」の公準なんてものを決めようなんてのがかなり無理なはなしなわけであって、「哲学とは何ぞ哉」というところから始まっているところに、この学問の生まれ落つる悩みというか、おもしろさの秘密があると申せます。そんなわけで、世のほとんどの哲学入門というものは、「私の哲学」でありまして、その意味ではその門は入るに適当な門なのかということがまず気になるところであります。

    金井淑子・細谷実編『身体のエシックス/ポリティクス――倫理学とフェミニズムの交叉(叢書=倫理学のフロンティア10)』ナカニシヤ出版(四六判・4-88848-723-5・2002・\2,200)
    身体論というのは、一種の流行と言っても宜しく、それに応用倫理が繋がるとなりますと業界ではかなり無敵状態であります。しかし、フェミニズムはどうかなぁと思ったり思わなかったり。

    加藤裕『大東亜戦争とインドネシア――日本の軍政』朱鳥社(A5判・4-434-02358-6・2002・\1,800)
    以前も申し上げましたが、インドネシアは、2605年8月20日に独立を宣言いたしました。この2605年というのは、イスラム歴ではございませんで、いわゆる皇紀というヤツですね。神武天皇という伝説上の天皇の即位を紀元とした日本限定の紀年法であります。で、インドネシアがその独立宣言をこの皇紀で表記するというのは、別に日本のおかげで独立したというわけではなく、当時インドネシアを軍政支配していた日本帝国から支配権を移譲されたという、実に法的形式主義に則った行為なのであります。すでに日本はポツダム宣言を受諾し、日本の主権は日清戦争以前の領域に留められていたわけですので、ここでインドネシアが主権を移譲を得たというのは、国際法的にはいかがなものかなぁと思いますが、「だって移譲てもらっちゃったんだもの〜」と言い張ることで、「オランダにさよなら、インドネシアにこんにちは」ということを推し進めたわけであります。なかなかやりますね。でも、そういうことが出来るのであれば、半島の独立を承認しておいて欲しかったものであります。

    ジョセフ・ペレ/塚本哲也監修/遠藤ゆかり訳/『カール5世とハプスブルク帝国(「知の再発見」双書105)』創元社(新書・4-422-21165-X・2002・\1,400)
    いや、カール5世のどこが哲学思想なんだ、と申しますとあまり関係ないのですが、このカール5世という皇帝は、歴史上数少ない「退位した皇帝」なのであります。日本では退位する天皇などというのは山のようにいるというか、むしろ退位した後こそ真の権力を発揮したりしております。中国にも上皇というのは存在しておりますが、政変ですとか、かなり特殊事情において生じております。考えてみますと日本の天皇は大嘗祭という神事によって神と一体となり即位するわけでありますから、退位する場合は、神様を辞めなきゃならないのです。しかし、どうやって神様を辞めるのかという方法は明らかではございません。気になるなぁ。

    武部好伸『中央ヨーロッパ「ケルト」紀行古代遺跡を歩く』彩流社(四六判・4-88202-767-4・2002・\2,200)
    何故か日本人はケルトが好きです。多分、ヨーロッパ人の次ぐらいに。それは、キリスト教が感覚的に理解できない日本人にとって、プレ=キリストとしてのケルトに、あこがれというか、非キリスト教圏に存する自分たちとの親近性を感じ取っているせいかも知れません。ただそれは、自分たちがキリスト教の「文明」にまで到達できていないと言う「未開」意識の裏返しとも申せます。自分たちを「文明」であるというおごりは要りませんが、「文明」が一つしかないと考えるのはやめた方が宜しいのではないでしょうか。

    ル・コック/木下竜也訳『中央アジア秘宝発掘記』中央公論新社(文庫・4-12-204091-4・2002・\800)
    ああ、これは買って損はない気がします。文庫ですしね。ル・コックという方は、ドイツのトゥルファン(言いにくい)探検隊の主要メンバーでありまして、これはその紀行であります。一次大戦の直前まで実施されたわけですが、それゆえ実にもって帝国主義的と申しますか、植民地主義的調査と申しますか、まぁ、とにかく見つけたモノは総取りという遣らずぶったくりな調査でありまして、特に壁画の採取については、甚しく評判が宜しくございません。まぁ、ロゼッタストーンだのツタンカーメンだのと同じ話です。

    長戸宏『大和言葉を忘れた日本人』明石書店(四六判・4-7503-1620-2・2002・\2,000)
    白川静『漢字百話』中央公論新社(文庫・4-12-204096-5・2002・\895)
    白川静『初期万葉論』中央公論新社(文庫・4-12-204095-7・2002・\857)

    言語とくに「国語」と呼ばれてしまうような言語には、「正しいことば」というものが存在するという伝説というか幻想が生まれ易いようです。これは、国民国家を作り出すとかいう、近代主義的な話もございますが、結局は「正しい」ということが極めて言いやすいという点にポイントがあろうかと思います。世の中「正しい」と言い切ることがいかに難しいかというのは、よく経験するところであろうかと存じます。しかし、こと言語に関しては「文法」という金科玉条がございます。これからはずれると「正しくない」わけです。日本におきましては、「仮名遣ひ」というのがそれにあたりました。近世の国学者たちは「万葉の仮名遣ひこそ美しきふるき大和ののことばなりけり夕べの小舟」と申しまして、その仮名遣いの復元に血道を上げたわけであります。ただし、近世の国学者なんてのは、権力の対極にあったと申して宜しく、この心血を注ぎ復元した「上古の仮名遣ひ」は、「自分は『正しさ』を知っている」というような権力を持たざるインテリの自己満足といいますか、ルサンチマンの裏返しにとどまっておりました。しかし、どこをどう間違ったのか、近代に入り明治国家によって採用されたために、「正しい日本語」としての地位を手にしたのであります。今日でも律儀にその「正しい日本語」をお使いになる方がおられますが、その「正しさ」の由来を考えますと、そこに権力を持たざるインテリの自己満足ないしはルサンチマンを感じてしまうわけです。といいながら、ここも一部旧仮名遣っているんですけどね。嗚嗟、ルサンチマン。

    松野尾裕『日本の近代化と経済学――ボン大学講義』日本経済評論社(四六判・4-8188-1443-1・2002・\2,400)
    経済学というものは、そのむかしポリティカル=エコノミーとも申しまして非常に政治に近い存在でありました。その意味で「国策の学」であったと言え、いわば一国経済(国民経済)についての経営学だったわけで、そこをマルクスによって『経済学批判』で批判されたわけです。これ以降、マルクス経済学に与する・しないに関らず、経済学をいかに「国策の学」から独立させるかが課題になっていったのであります。しかし最近では、逆に、経済学をいかに「国策の学」たらしめるかという方に重きがあるようにも感ぜられます。

    そのほかの気になる物件

    本間義人『都市改革の思想――都市論の系譜(都市叢書)』日本経済評論社(四六判・4-8188-1446-6・2002・\2,800)

    佐々木潤之介・片倉比佐子ほか編『日本家族史論集6 家族観の変遷』吉川弘文館(A5判・4-642-01396-2・2002・\6,300)

    M.J.Borg/小門宏訳『聖書の意味をたずねて――改めて知る旧約聖書の深層』近代文芸社(B6判・4-7733-6936-1・2002・\1,500)

    グレゴリー・J.ライリー/森夏樹訳『神の河キリスト教起源史』青土社(四六判・4-7917-5990-7・2002・\3,200)

    アン・スニトウほか/藤井麻利・藤井雅実訳『ポルノと検閲(クリティーク叢書22)』青弓社(四六判・4-7872-3206-1・2002・\2,800)

    ジェフリー・アボット/熊井ひろ美ほか訳『処刑と拷問の事典』原書房(四六判・4-562-03549-8・2002・\2,800)


    哲学思想系著作・きょうの新刊(2002.09.20)

    岡田荘司『古代諸国神社神階制の研究』岩田書院(A4変形・4-87294-256-6・2002・\8,800)
    律令制を導入した古代日本国家にとって、神社制度というものは、お手本の唐とは異なる独自の体系でありました。それ故、日本の官僚制度は二官八省と呼ばれますように、太政官と神祇官という二本柱で校正されておりました。律令官制的には、神祇官が先に立っておりますので、従って神祇官が優越するとも言われておりますが、実際神祇官になれる人の位階はさほど高いモノではなく、本当のところはどうだったのかというのは、いまもって論議のあるところであります。

    王光美ほか『消された国家主席劉少奇』日本放送出版協会(四六判・4-14-080714-8・2002・\2,300)
    劉少奇と申しますと毛沢東に、資本主義的「実権派」と呼ばれ、失脚させられた可哀想な人でありますが、現在の改革開放といいますか、社会主義市場経済といいますか、「えっ、それは共産主義なのですか」という感じもしないわけではないのでありまして、嗚嗟隔世の感。本書は彼の家族が書いた劉少奇伝であります。文革とかに微妙な思い出のある方におすすめしたいです。

    河原俊昭編『世界の言語政策――多言語社会と日本』くろしお出版(A5判・4-87424-258-8・2002・\2,800)
    近代における言語政策は、国民創出のための統合的機能――悪く言えば同化政策でありました。以前も書きましたが、フランスは植民地にフランス語を教えました。そして、「あなた方はフランス国民であって、いまあなた方の肌の色が違うのは赤道直下にいるからであり、寒いヨーロッパに行けば自然と白くなりますよ」といったものだそうです。そのように言うことで、植民地人を同化させたわけです。しかし、現代におきましては、もはやそういう御為倒し(おためごかし)なんかは眉唾物だということをみんな知るようになってきました。従いまして、次第に他言語政策へと向かっておるわけでありますが、今後多くの国々から人がやってくるであろうこの日本には、いかなる多言語社会が成立しうるのでありましょうか。

    そのほか気になる物件
    小浜 逸郎『死の哲学』世織書房(四六判・4-906388-90-6・2002・\2,000)
    牧野雅彦『共存のための技術――政治学入門』日本評論社(四六判・4-535-58340-4・2002・\2,000)


    哲学思想系著作・きょうの新刊(2002.09.15)

    野矢茂樹著『同一性・変化・時間』哲学書房(四六判・4-88679-081-X・2002・\2,400)
    無責任解説:変化するというのは、西洋古典哲学では大きな問題でありました。形式論理学の考え方で申しますれば、A=Aは永遠にA=Aであらねばならないのですが、A=Bになるというのですから、もうこれはいけません。しかし、やはりエライ人はいたもので、ヘラクレイトスというのは「万物は流転する」ということばで有名ですが、万物はそれに対立するモノとの運動によって自らを変化するということを考え、対立的なものの統一的結合――これをロゴスと考えました。こういう考え方から、量が質に転化したりする思考――弁証法が生まれたのであります。

    蔵持重裕著『中世村の歴史語り――湖国「共和国」の形成史』吉川弘文館(四六判・4-642-07790-1・2002・\2,600)
    無責任解説:中世というのは、以前もどこかで書いた記憶がございますが、実にもって暗黒時代であったという観念が、近代において強く存在しておりました。これは、非常に根深い近代主義的問題があるのですが、割愛いたします。しかし、最近ではその反動と申しますか、あるいは、正しい科学的認識が現れたと申しますか、中世に関しての研究が極めて豊かになって参りました。この本もその中での一冊と申せます。

    寺木伸明著『部落の歴史――前近代』部落解放・人権研究所(A5判・4-7592-4035-7・2002・\1,200)
    無責任解説:近世における身分制と言いますと、教科書的には「士農工商」なわけですが、そこから逸脱している人たちは確実に無視されておるわけでありまして、そういう意味では学術的な差別の隠蔽だと申せます。部落差別というのは、前近代の問題と思われがちですが、実は近代において四民平等・新平民とかそういう形式的な平等だけを保証したために、実質的な不平等が残存してしまったわけであります。こうなりますと、かつてあった差別の代償的な意味での諸職業特権は剥奪され、差別だけが残るってんですからこれはたまりませんですね。

    小林克編『掘り出された都市――日蘭出土資料の比較から』日外アソシエーツ(A5判・4-8169-1733-0・2002・\3,800)
    無責任解説:「鎖国」ということばも、最近はあまり評判のよろしくないことばになって参りまして、そのものズバリ『鎖国』なんて本を出した和辻先生の評判もよろしくございません。なにしろ、副題が「日本の悲劇」ですものこれはいけません。最近は、近世日本はそれほどの封鎖国家ではなく、それなりに対外的交流もあったから、「鎖国」ではなく「海禁」と言うべきだ――という論もございます。本書も、近世に文化的な交流があったことを出土資料から明らかにしようというものであります。相互的な交流が明らかに出来ることを希望します。

    太田修治編著『神戸都市学を考える――学際的アプローチ(神戸国際大学経済文化研究所叢書 6)』克己編著(ネルヴァ書房・A5判・4-623-03651-0・2002・\3,800)
    無責任解説:神戸といいますと、やはり国際港としての役割が注目であります。同じ国際港である横浜が首都東京と距離が近いので、その強い影響を見ることが出来るのに対し、神戸は神戸として国際港である点に面白みがございます。じつは、まだ行ったことがありません。たぶん、通過はしていると思いますが。

    そのほか気になる物件

    広島平和研究所編『21世紀の核軍縮 広島からの発信』法律文化社(A5判・4-589-02599-X・2002・\5,000)

    哲学思想系著作・きょうの新刊(2002.09.13)

    寺尾五郎『「自然」概念の形成史中国・日本・ヨーロッパ』農山漁村文化協会(四六判・4-540-02155-9・2002・\2,095)
    無責任解説:えー「自然」ということに関しては、西洋の方では実に長い長い学問的歴史があるわけでありまして、アリストテレスなんかは「自然学physike」なんてものをうち立てて、世界の原理を探究してしまったわけです。この『自然学』という書物は、実に面白いもので、西洋的自然観がすでにほとんど盛り込まれていると申してよろしいです。つまり、客体としての自然。「自然は労働によって加工されるモノである」というマルクスにも見えるこの観念は実に古いわけです。しかるに、わが東洋の粟散辺土はどうかといいますと、あまり自然を客体としてとらえていない。といいますか、natureとしての自然ということばはそもそも近代以降の話でありまして、それ以前は、「じねん」と読んで、副詞的に用いられておりました。そこらへん考えながらお読みいただくと良いのではないかと思います。

    塚田孝『歴史のなかの大坂都市に生きた人たち』岩波書店(四六判・4-00-025651-3・2002・\2,600)
    無責任解説:大阪といいますと「難波の商人」ということが想起され、これまたずいぶん偏った知識であると思われますが、その昔、明治の御一新の際に、大阪遷都の噂が流れました。当時の大阪が治安のよろしいところであったがゆえに造幣局なんかも出来ていたことを考えるとあながち否定できない話ではあります。さりながら、そのさらに1200年ほど昔にさかのぼりますと、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)という都がございました。大体今の大阪城あたりですね。そういえば先日学会に参りました際、四天王寺はいったものの大阪城には行きませんでした。また、秋にあるので、今度こそ行ってみたいと思います。

    ヘーゲル(武市健人訳)『大論理学』上巻の1(4-00-026800-7・\3,600)、上巻の2(4-00-026801-5・\4,400)、中巻(4-00-026802-3・\4,400)、下巻(4-00-026803-1・\5,000)岩波書店(A5判・別記・2002・別記)
    ヘーゲル全集6〜8の改題みたいですね。まぁ、大論理学ともうしますと、マルクス主義哲学ないしは経済学をやる人にとって、「弁証法とは何ぞ哉」とか難しいことを考える際に、絶対なければならないものの割には、「文庫本に小論理学があるからいいや〜」と安易な方向に逃げてしまったりした方もおられるかと思います。…私だけでしょうか。

    香山リカ『ぷちナショナリズム症候群――若者たちのニッポン主義』中公新書ラクレ(新書・4-12-150062-8・2002・\680)
    無責任解説:香山さんといいますと、心理学者でありながらゲーム擁護派(?)であるというステキにボクらのヒーロ(というか女性なのでヒロインか)なわけであり、最近流行の「ゲーム脳」とかいうインチキ科学本がNHK出版から出たりしたものだから、どう思われていらっしゃるのかしらとか考えるわけです。しかし、ゲーム=格闘・アクションってのはずいぶん偏った知識ですよね>ゲーム脳。で、本書で大切なのが「ニッポン」ということばですね。どうも、右は「ニッポン」、左は「ニホン」のようです。ちなみに「おことば」では「にほん」と発音されます。

    パトリス・ボロン(金井裕訳)『異端者シオラン(叢書・ウニベルシタス)』法政大学出版局(四六判・4-588-00745-9・2002・\3,600)
    無責任解説:シオランというと、イデオロギー暴露のものすごい強烈なことで知られますが、どうも、この本はこのひとが、生国ルーマニアにいたときのファシズムとの関係ですとかを書いたものらしいです。このひとは、結局パリにずっと住んで、つい数年前に無くなったわけですが、初期にそんなことがあったなんて知りませんでした。

    下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917−1991』講談社選書メチエ(B6判・4-06-258248-1・2002・\1,500)
    無責任解説:これはモロトフの回想から、ソヴィエト連邦を再現した本です。ソヴィエト連邦というのは実にすごい実験といえば実験だったわけですが、実験された方は確かにたまらないですね。しかしながら、私どもは実験をしたくせに、それが失敗であったというだけで、まるで検証していないような感じも致します。なにゆえああいった政治体制が生じたのかという問題はまだ未解決なのであります。

    福吉勝男『自由と権利の哲学――ヘーゲル「法・権利の哲学講義」の展開』世界思想社(B6判・4-7907-0956-6・2002・\2,200)
    無責任解説:まさか一日で二回もヘーゲルについて書くとは思いませんでしたが、いわゆる『ヘーゲル法哲学』と呼ばれる話であります。ヘーゲルのすごいところは、抽象的な普遍じゃなくて具体的な普遍を持ち出したところにあります。普遍なんてのは抽象的じゃないのかと思いがちですが、そこをうま〜く弁証法で解決すると、出てくるんですね。具体的な普遍が。法哲学では家族から始まって、それを否定する形で、市民社会さらには国家が現れて参ります。で、この国家こそが「人倫の最高形態」ってコトになってます。19世紀においては確かに意味のあった話ではありますが、現代におきましては、国家をも否定する超国家的紀行もまた存在しております。そうなると、またもや否定が入ってきて、新たな高みへ人類を誘うのでしょうか。なんかカッコイイぞ。

    松井茂記『インターネットの憲法学』岩波書店(四六判・4-00-022124-8・2002・\3,200)
    無責任解説:インターネットと憲法といえば、当方のHPの主軸であり、これを逃すわけには行きません――といいたいところですが、結局のところ当方が護憲サイトとして何かやっているかと申しますと、な〜んにもやってないわけで、しかもYahoo!の登録も全然そんなカテゴリにはおりません。まぁ、憲法を応援するということでやっております。

    毎日新聞科学環境部編『神への挑戦――科学でヒトを創造する』毎日新聞社(B6判・4-620-31582-6・2002・\1,429)
    無責任解説:クローン人間はたぶん出来るんでしょうし、すでにどこかで出来ているかも知れません。本当に、人造人間であるのならば、タンパク質からすべて自分で作っていただきたいと切に望みます。そうでなければ神様には勝てません。まぁ、それはそれでよいのですが、ただ、クローンでも人間ですし人権が認められなければならないという点に、私どもは着目しなければならないわけでありまます。人権とは目に見えない精神とかそういったものに付着しているのではなく、私どものこの身体にこそまず備わっているという認識こそが重要なのであります。この認識が曖昧であると、自他の肉体に対する敬意ないしは配慮というものが失われることとなるのが、実に恐ろしいことなのです。

    そのほか目を引いたもの
    竹下節子『キリスト教』講談社選書メチエ(B6判・4-06-258249-X・2002・\1,500)
    橋爪大三郎・島田裕巳『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』朝日新聞社(B6判・4-02-257724-X・2002.10・\1,300)
    東栄蔵『信州異端の近代女性たち』信濃毎日新聞社(四六判・4-7840-9930-1・2002・\1,700)

    哲学思想系著作・きょうの新刊(2002.09.12)

    大島晃『良寛への道――良寛を学ぶ人のために』考古堂書店2002(A5・\2,500)
    無責任解説:まぁ良寛ともうしますと、放浪の詩人なわけで、なんだ西行じゃんという感じもしますが、西行との違いといえば放浪した後に定住したというところでありましょう。西行のばあいですと、諸行無常な世の中を歌を詠むことで自分の魂の救済を目指していたわけですが、良寛はゆったりした日々を読み込むことで、世の中を楽しむような傾向がございまして、いわば近世という人間の時代を表現していると申せましょう。「さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里」そりゃ西行だ。

    伊藤之雄『日本の歴史22――政党政治と天皇』講談社2002(四六判\2,200)
    無責任解説:大正デモクラシーと申しますと、あたかも戦前日本天皇制国家において燦然と輝ける誇りに満ちた民主主義の一時代であるように思われ、それゆえ極めて高い評価を与えられているように思いますが、しかしながら、その民主主義が十分に機能しなかったのが、あの昭和ファシズムをもたらした一つの原因でもあることを考えますと、手放しで褒め称えるのもいかがなものであろうかと思ったり思わなかったり。

    志水宏吉『学校文化の比較社会学――日本とイギリスの中等教育』東京大学出版会2002(A5・\5,800)
    無責任解説:学校文化というのはずいぶん気になる内容ですが、それ以上に気になりますのが、日本とイギリスという比較のお話であります。その昔、岩波新書で『イギリスと日本』というタイトルで二冊でていたり、文明の生態史観とやらでは、日本とイギリスの親近性を説いていたりと、わりと比較したい気になる国なのかも知れませんが、「比較する」対象というのは比較するだけの価値をそこに認めている訳でありまして、そういう意味では、比較というのは結構恣意的に選ばれているんだなぁと思うわけです。文系での比較というのは、対照実験とはちがうのです。


    表 題:アジア再考――「謝罪外交」を越えて
    著 者:深田祐介・古森義久
    出版者:小学館
    区 分:社会科学
    形 態:文庫
     年 :2002
    ISBN :4-09-402243-0
    無保証解説:「謝罪外交」という外交があるのかわかりませんが、先日某国間で銃撃戦があった際、「遺憾」を表明したところ、「事実上の謝罪」と申しまして鉾を収めたことがございました。「遺憾」でいいなら、何十年と「遺憾」を繰り返してきたにもかかわわず全然許してもらえてない某国の立場はどうなるのでしょうか、と言ってみたいのですが、「遺憾」と言った直後にそれと全く逆のことを要路の方が仰るのですから、致し方ないかと思わなくもなく。

    表 題:スーダン――もうひとつの「テロ支援国家」
    著 者:富田正史
    出版者:第三書館
    分 類:社会科学
    形 態:四六判
     年 :2002
    ISDN :4-8074-0206-4
    無責任解説:スーダンというと、ときまれにブータンと間違われ、「嗚嗟、仏教国ね」とか「あの国旗がイカしたヤツ」とかトンデモねぇ間違いをされることがありますが、「黒人の地」という意味の中央アフリカのにある、ビンラーディンが根拠としたこともあるイスラム教の国です。そのせいで「テロ支援国認定」(by U.S.A.)なんてありがたくもないものをいただいてしまいましたが、そのスーダンの現状を赤裸々に描いたものなのですね。

    表 題:チョムスキー、世界を語る
    著 者:ノーム・チョムスキー・ドゥニ・ロベール・ヴェロニカ・ザラコヴィッツインタビュア・田桐正彦訳
    出版者:トランスビュー
    分 類:言語学
    形 態:四六判
     年 :2002
    ISDN :4-901510-09-6
    無責任解説:チョムスキー、もうこのステキな言語学者にクラクラというひとは少くないと思います。「チョムスキー革命」なんていうからソヴィエト出身者だと思っていたあの若かりしころ、実はアメリカ人であることを知って、「嗚嗟、亡命者の子孫なのね」とあくまで彼をロシア人にしたいと思っている人に捧げます。

    表 題:イスラーム教徒の言い分
    著 者:ハッジ・アハマド・鈴木
    出版者:めこん
    分 類:宗教学
    形 態:四六判
     年 :2002
    ISDN :4-8396-0154-2
    無責任解説:キリスト教徒にとってイスラム教徒によるテロルは、一瞬間、反テロ行動に対し「十字軍」ということばが発せられたように、かなり根深く、すでに文明の衝突のように見ますが、ひるがえって東洋の君子国たるこの仏教国には(なんか儒仏が入り乱れてるな)、イスラムに対して、偏見以前に、「何も知らない」という状況があるわけであり、その意味でこの本をお薦めするわけです。

    表 題:国境を越えるユートピア――国民国家のエルゴロジー(平凡社ライブラリー)
    著 者:加藤哲郎
    出版者:平凡社
    分 類:社会科学
    形 態:文庫
     年 :2002
    ISDN :4-582-76444-4
    無責任解説:この著者は、『モスクワで粛清された日本人』なんて、一昔前ですとなかなか書けないようなステキな本を著書にお持ちです。で、この本は『国民国家のエルゴロジー』(1994)の改題・改訂版らしいのですが、エルゴロジーと言っても、「しいたけ食べてビタミンD」「そりゃエルゴステロールやろ」というはなしではなく、また、「嗚嗟コギト」「それはcogito,ergo sum」。早い話が、エコロジー以上にさまざまなことを動的にとらえる人間工学ergonomics的総合。

    表 題:難民の世紀〜漂流する民――フォト・ルポルタージュ
    著 者:豊田直巳
    出版者:出版文化社
    分 類:社会科学
    形 態:A5
     年 :2002
    ISDN :4-88338-266-4
    無責任解説:難民というものは、必ずしも現代的現象ではないのは言うまでもありません。しかし、国民国家という今日の現実は、難民はどうがんばっても、流れ着いた先に定住することは許されず、さまよえるオランダ人とならざるを得ないわけですが、かといって、彼らは政治的実力を行使することも出来ず、そういった中からテロルに走る人も出てきて、内戦をさらに拡大させることとなったりするわけで、「嗚嗟、民主主義ってホント大事だなぁ」と思ったりするわけです。


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