戦後の歴史学――日本マルキシズム悲喜交々――


 明治維新の評価に関するお話をしやうと思つたのですが、その前に講座派といふものについてお話しゝやうと思ひます。およそ歴史学といふものも、一箇の科学でありまして、科学である以上その方法といふものも大体決まつてをります。現在、大まかに云つて次の三つがあると申せます。

・理論歴史学(講座派)
・実証主義史学(反講座派)
・皇国史観(独自路線)

 講座派といふのは、いはゆる左派マルキストによつて主唱されたマルクスの史的唯物論の立場に立つた歴史学であります。実証主義歴史学は、さういつた理論優先の立場に反発した学派でありまして、いはゆる社会史などは、その成果と申せませう。三番目は、まぁ言及する必要はないのですが、自分が日本人であると云ふことに根拠を置いて歴史を語らうといふ学派ですね。この学派における論文は科学的論文と云ふよりは、むしろ修身の教科書のやうな印象を強く受けます。一体、論文に敬語を用ゐるといふ神経が分らないところではあります。

 かういつた三者鼎立状態―といつても、部分的にはボロボロなところもありますが―が成立したのはさう古いことではありません。皇国史観―理論歴史学―実証主義歴史学といふ順番です。実証主義歴史学は、1970年代後半から80年代にかけての、ソヴィエト型マルキシズム批判の中で、唯物史観に立脚する歴史学への批判が高まつた結果であり、また一方で「大学の解体」が叫ばれた学生運動時代を経て、反アカデミズム的歴史学=市民の歴史学といつたものが、民俗学や社会史の土着化をもたらし、ヨリ生活実感に密着した歴史学が求められた結果でありました。

 現在の歴史学はもつぱらこの実証主義歴史学が主流になつてゐるやうですが、もはやすでに反アカデミズムと云つた意識はなく、実証性を追求するあまり、かへつて高度な専門化に陥つてしまつてゐたりします。つまり、デヱタの収集それ自体が目的となつてしまふやうな状況になつてしまつたのです。

 この実証主義歴史学が起こる前は、やゝ煽動された感のある反帝(反米)・反資本主義の精神が、皇国史観を駆逐し、理論に徹底的に基づいた科学的な思考がなされ、歴史は古代から近代・現代へと直線的に至るのだと信じられてをりました。

 このことがどの程度、をかしいかと云ふことは、お隣の中国(中華人民共和国)の歴史学をご覧になるとよろしいでせう。あそこのお国は、なんにしてもマルキシズムで立国してをります。従つて学問も、そのやうに構築されなければならない訳で、歴史学も、マルクスの云ふやうになつていなければならない。ところが、あの国には中世・近世といふものがない。絶対主義がない。封建時代はあるが、夏殷周の封建時代では古代専政時代(郡県制時代)の前に中世が来しまふことになる。それでは、きはめて不都合です。従つて、この国では古代―近代―現代といふ歴史構造になつてゐるといふことにされてをります。つまり、夏王朝(多分あります。中国はさういふ国です。)から1840年の阿片戦争までの5000年間、中国人民はひたすら古代をやつてきて、いきなり加農砲で撃たれ、そこから近代が始まるといふことです。そんな莫迦な話があるか、と云はれる方も居られるでせうが、偉大なるマルクス先生はかういつて愚かな我々の迷ひを断ち切つてくれます。「君、これがアヂア的生産様式の停滞性の所産だよ」と。

 大きなお世話です。人がどんな生産様式をしてやうが勝手ぢやないですか。まぁ、その点に関しては、レヴィ=ストロゥスが文化的相対主義に関して色々云つてゐるのでそちらに譲るといたしまして、とにかく、マルキシズムといふ大テーゼから論理が演繹的に展開されていくとかういふことになるわけですね。

 理論歴史学者のすべてが、かういつたことを信じてゐたわけではありませんが、当時は少なからず居たと云はれます。他の学問でもマルキシズムの影響は強く、特に経済学においては、「資本主義は最後に恐慌が来て自滅する」と書けば試験はパスすると云はれるほどでした。まぁそれはかなり誇張した話であるにしても「近経[近代経済学]かマル経[マルクス経済学]かを選択することは青春の大きな分岐点であつた」と先日NHKで近経の教授が云つてました。曰く、「マル経でなく近経を選択すると、あいつは堕落したとか、資本家に魂を売つたなどゝ心外なことを言はれたものでした」とのことです。さういふ時代もあつたのだと云ふことでせう。

 歴史学に話を戻します。

 かうして戦後の半ばまでは、歴史学と云えば講座派以外を意味するものではなかつたと云つて宜しいかと思ひます。そして、この時期の歴史学を「戦後歴史学」と呼称してゐる方も居られます。戦後歴史学といふ呼び方は色々な意味を含んでゐて興味深いものでもあります。

 第一には、平和憲法の理念(民主主義・反戦)に由来してゐること。第二には、冷戦構造の影響下にあつたこと。第三には、戦前には講座派に対抗する学派として労農派が存在してゐたこと。かういつたことが「戦後」の中に入つてゐるのです。特に第三番目の労農派の存在は、いはゆる「日本資本主義論争」といふ戦前アカデミズムにおける大論争を巻き起こしましたが、これについては改めてお話しいたしましよう。

 しかし、なんにしてもこのやうに文字通り一世を風靡した講座派歴史学も現在では、東西冷戦の崩壊によるマルキシズムの衰退とゝもに、その学派としての影響力を失墜させてをります。講座派歴史学は、極めて強い政治性を有してをりました。それは、畢竟マルキシズム、正確にいへばマルクス=レェニン主義に立脚した学問の必然的結果とも云えます。そのことは時としてマルクス=レェニン主義に「スタァリン」といふ要素が付着することもあつたことから云えるでせう。

 大体にして、「史的唯物論のすぐれた代表者」として尊奉してゐたスタァリンを、その批判以後には全く省みないと云ふ態度は、科学的といふことはできません。政治と科学とは、基本的に相容れないものであり、それは実践と理論といふことばにもいゝかへられます。たとへば、市場理論に画期的な学説でノーベル賞を受賞した方が、さきごろ株式市場で破産をしたやうに、実践と理論とは全く別個のものとして考へられなければなりません。そこらへんは、M・ヴェーバが『職業としての学問』といふ講演で強く訴へてゐますから、お読みいたゞければ幸ひです。

 講座派批判はこれまでとしましても、それにしても今日のマルクス主義的アカデミズムの体たらくは不甲斐ないと云はざるを得ません。歴史学においては講座派が、経済学においてはマル経が今日全くもつて元気がありません。これはある意味世界的現象ではありますが、日本においてはそれが甚しすぎるやうに感じられます。

 マルクス主義的アカデミズムとは、単に政治的発言を学問的言辞によつて粉飾するためのものではありませんでした。その根柢には、資本主義における諸矛盾に対する強い批判精神がありました。以前お話しゝましたやうに、自由放任資本主義におけるやらずぶつたくり的な経済行為に対し、我々の自由に対して政府が干渉しやうとすることに対し、「それはをかしいのではないか」と批判の声を挙げたのは彼らであつたはけです。しかし、現在彼らが自ら口を閉ざしてゐる結果、現代資本主義に対する、また新保守主義に対する批判者が消滅してしまつてゐるのです。これは、日本の民主主義にとつて、非常に不健康な事態であるともいへます。

 福沢諭吉も云ふやうに、健全な政府には健全な野党・批判者が必要です。マルキストが健全であつたかについての検討はひとまづ置いておくとしまして、もはやマルキシズムが頼みとするに足りない以上、我々は新たな闘争理論の獲得を目指さなければならないのかもしれません。


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