社会主義それ自体における弁証法的展開
―二つの潮流の相克―

 なんか、いきなり二十世紀の社会主義の話になつて、脈絡がありませんが、まぁ今回はさういふ特集だと思つて下さい。

 社会主義といふものは、基本的にブルジョア政府によつて指導される国家主義に反封してをりましたから、その草創期からしてインターナショナリズムを主張してをりました。例の共産党宣言が、「万国の労働者よ団結せよ! Proletarier aller Laender, vereinigt euch!」とアヂテイトしたやうに、労働者には祖国がない Die Arbeiter haben kein Vaterland. わけで、祖国は労働者の団結それ自体だつたはけです。格好はいゝですが、かなり観念的ではあります。

 しかしながら、第二次インターナショナルを中心に形成された社会主義は、修正主義などの変動を伴ひながら、遂に第一次世界大戦(1914-19)への封応の相違から次の二つに分裂してしまひました。

 一つが第一次大戦を祖国防衛戦争とゝらえ国際労働者運動の封象とはせず各国の労働者政党が自国への戦争協力を認める立場で、この系統にドイツ社会民主党Cギリス労働党がありました。

 もう一つは同大戦を帝国主義戦争とゝらえ、徹底的な抵抗と国際労働者運動の維持を主張したロシア=ボリシェビキ(後のソヴィエト共産党)の系統がありました。この立場の指導的存在でありましたロシアの革命家ヴィ=イ=レーニン「帝国主義戦争を内乱 civil war に転化せよ」と主張しまして帝国主義政府によつて与へられた暴力(兵力)を、帝国主義政府それ自体を転覆させる手段として用ゐやうとしたのです。

 かういつた第二次インターナショナルの分裂は、ロシア革命(十月革命)に至つて決定的なものとなりました。ロシア革命を指導したボリシェビキは世界史上初めての社会主義国家ソヴィエト連邦を建設し、マルクス主義の正統的継承者としてマルクス=レーニン主義を自称し第三インターナショナル(コミンテルン)を結成しました。

 これに封して第二インターナショナルは議会主義を堅持し、プロレタリアァト独裁(共産党一党独裁)主義を主張するコミンテルンとは封立するやうになり、B>C正主義}ルクス主義の傾向を深めていきました。

 かうして、コミンテルンは第二インターを日和見C正主義と非難すれば、第二インターはコミンテルンを独裁主義蜩Iとして応酬するといつた具合で、その亀裂はどんどん深まつていき、ほとんど泥仕合の様相を呈するに至りました。そして、この泥仕合のおかげで、1930年代のファシズムの時代には、左翼内部の路線封立によつて統一戦線が形成され得ず、極左的マルクス=レーニン=スタァリン主義者はもとより、ブルジョア民主主義勢力までが撲滅されていきました。

 そもそも、この1920年代後半から30年代初頭のマルクス=レーニン主義は、これにスタァリンといふおまけを付けて、マルクス=レーニン=スタァリン主義と呼称されるやうに、スタァリンによつて指導される行き当たりばつたりな、権謀政治であつたはけでして、つまり、ソ連邦内部の政治状況が変化すれば国際共産主義運動の展開にも影響が出る、粛正は行はれると云う、ほとんどやらづぶつたくりな感じでした。このころのコミンテルンの指導に従つた各国共産党がエライ打撃を蒙つたことはよく知られてゐます。

 まぁ、さうは云つても第二次世界大戦が始まつてしまつた以上、反ファシズムでまとまらうぢやぁないかと云う機運も出てきまして、コミンテルンは解散され(1943)、両派の社会主義が統一的に運動することがめざゝれました。とくに、ドイツに攻め込まれてゐたソ連邦などにとつて、西側の援助の有無は死活問題で、これがなけりや戦争なんかやつてられない状態でもありました。

 しかしこの統一戦線も、大戦後、冷戦構造の成立に伴ひ社会主義諸国(東側)におけるマルクス=レーニン主義と資本主義諸国(西側))における社会民主主義とに再分裂してしまひました。その後社会民主主義は漸進的な議会主義を採り続け、またイタリイ・スペイン・フランスを中心とするヨーロッパ各国の共産党も、ソ連型の共産主義を批判して独自の社会主義像を追求し、1970年代後半にはユーロ=コミュニズムとしてその体質の改善を図つていきました。

 一方冷戦体制下のソ連邦を中心としたマルクス=レーニン主義は膨大な軍事費が国家機能を圧迫した結果、東欧社会主義諸国の崩壊を導き、東アヂア社会主義諸国では市場原理を導入するに至つたのです。これは結構大変なことで、東欧の多くは、資本主義といふ時代を経験してゐないわけで、しかも世界市場が各国民経済に食ひ込んでゐる現状ではこの無経験は致命的な影響を与へる可能性があります。特にロシアは、レーニンが『ロシアにおける資本主義の発展』とか書いて、「ロシアにも資本主義的段階はあつたんだ」みたいなことを云つてますが、ポーランドやチェコのやうなマルク経済圏との密接な関係を経て鍛へられたところから社会主義に転換したにと比べると、ツァー専制下の資本主義なんてのは、江戸時代に厳密な意味でのマニュファクチュア段階を見つける以上に難しいものがあります。

 その点で、東アヂア社会主義国は、そもそも帝国主義下の植民地として資本主義の経験を経てゐるといふ意味では、まだ救ひがあるといへますが、結局は比較の問題に過ぎないかも知れません。少なくとも、熱物にこりてなますを吹くといつたことにはならないやうではあります。

 一方で、ユーロ=コミュニズムは、1990年代になると、「生産国有化政策」の放棄「労働者階級政党(労働組合依存型政党)」からの脱皮を図り市民政党への転換がなされ、1996年にはイタリイ左翼民主党(旧共産党)が、1997年にはイギリス労働党が、1998年にはドイツ社会民主党が政権党となりました。ちなみに、日本で社会主義政党である日本社会党から出た首相が内閣組閣をしたと云うことは、この世界史的展開と何ら関係がないことをこゝに付け加へておきたいと思ひます。

 まぁ、なんにしてもこのユーロ=コミュニズムは、資本主義の原理を容認し、その中で福祉国家的施策を採用していかうとする、日和見主義的といふ意味ではなく、本質的な意味における現実主義であると云えます。しかし、ユーロ=コミュニズムとは、その名の通り議会制民主主義が発達したヨーロッパにおける共産主義及び社会主義の形態であり、それ以外の地域における無媒介の有効性については更に考へられなければならないといえませう。

 さう、たとへば日本とか。


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