「尊王」から「尊皇」へ
―明治国家における儒学精神の改竄―

 幕末維新期におけるいはゆる「志士」たちは、尊王倒幕の旗の下に新国家建設を企図してゐました。この際に旗印とされてゐた「尊王」といふのは、いふまでもなく「天皇を尊ぶ」といふ意味であり、「尊皇」といふ表記も用ゐられる。現在でも、わりと混合されて使はれてゐるやうに見えます。ついこの前も、読売新聞が「尊皇攘夷」といふ四文字熟語を記事に使つてゐました。

 しかし、「尊王」と「尊皇」とは本質的に異なつてゐるのです。

 つまり、「尊王」はあくまで、「王覇の弁」―王者であるか覇者であるかといふ区別―にもとづいて、仁徳のある「王者」を尊ぶことを意味するものです。この「仁徳のある「王者」」といふ居りさうにもない支配者を想定するところがいかにも儒学的な普遍主義を如実に現してゐると云えます。

 なんにしても、この「王覇の弁」といふ儒学的範疇において、「尊王」といふ支配者の判断規準は独り日本だけに通用する原理ではなくて、「万国共通」の原理として普遍的でありえたわけです。中国でも朝鮮でもおよそ支配者の存在するところであれば、原則的に封応可能なわけです。

 故に、「尊王」論は支配者を尊ぶとゝもに「王覇の弁」といふ試験紙によつてその「王者」性を測定することを意味してゐたと云えます。即ち「尊王賤覇」といはれるやうに、その権力が「覇道」に堕してゐないかをチェックし、また権力自身が自らを律する規準とさへなつてゐたのでと云えなくもないわけです。

 むろん、だからといつて尊王思想が民主主義的でチェックス=アンド=バランシィズの機能を持つてゐたなどゝいふのはチャンチャラをかしいわけで、ア=プリヲリに支配ー被支配といふ構造を前提としてゐる限り民主主義とか軽々しく云つてはならないのは云うまでもありません。

 しかし、かういつた「尊王」に封して、「尊皇」は尊ぶ封象としてすでに特殊日本的な「天皇」を予定してをります。そこにおいては王者に封する覇者といつた構図さへなく、天皇は「王覇」を問はれることなく尊いものとなります。かうして、天皇の支配の内容に封する検討は加へられず、また権力自身が自らを律する倫理さへも失はれ、日本一国のみに適用される「万邦無比の神聖国体」が強調されることゝなつてきます。天皇制国家における「尊王」が「尊皇」に転化されなければならなかつた理由の一半はこゝにあつたと申せませう。

 日本には儒学精神があるとか未だに云う人がをられますが、西村茂樹の『日本道徳論』を読んでも分かるやうに、明治のあの時代においてもはや日本の儒学精神は破綻してをりました。そこにあるのは、たゞ明治国家の建設・維持のために必要なものとしてのイデオロギー的粉飾の言葉遣ひしかなかつたといつても過言ではないでせう。

 今日、道徳教育の頽廃を嘆いて、儒学精神の復活なども唱へられますが、その復活とはいかなる意味での復活であるかを見極める必要があるのかも知れません。


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