日本共産主義者の自己崩壊としての「転向」―なぜ極左は極右に転身するのか―


 前回は、第二次日本共産党がどうしてあれほどまでに「コミンテルン万歳」だつたのかについてお話しゝ、そのコピー元のゴミのおかげで統一戦線が作り得ず、遂に天皇制国家によつて各個撃破されていつたといふことを申し上げました。

 トコロで、この第二次日本共産党がお手本にしたソヴィエト社会主義連邦といふのは、理念としてはかなりイケてるところがありました。例へば、この国家は理念上、民族国家 nation-state ではありませんでしたし、民族自決についてもウヰルソン米大統領に先だつて宣言してをりました。中央アヂアの諸民族は南からやつてくるイギリス帝国主義を避けるため、真剣かつ主体的に考慮した結果、民族自決を主張するソヴィエト連邦の自治共和国として編入したのでした。少なくとも、その当時においてソヴィエト連邦は、全くの未知数でしたが、一方で魅力的であつたことは確かです。

 しかし、現実には1924年にロシア革命の父であるレーニンが死に、スタァリンが政権を執ると、マルクス=レーニン主義のうしろに何かおまけの如く、スタァリンの文字が付着し始めます。マルクス=レーニン=スタァリン主義の誕生です。

 われらが再建日本共産党の人たちは、このマルクス=レーニン=スタァリン主義をこそが、社会主義・共産主義の「正統」であると思ひこんでしまつたわけで、こゝにスタァリンの血の粛清に倣つた内ゲバが実施されます。また、以前申しましたやうに、第二次日本共産党は、天皇といふ権威のアンチ=テーゼとして、スタァリンを据ゑたわけでありまして、さういつた点では基本的にその権威主義的構図自体は、日本帝国の国家構造とあんまり変はらなかつた云えるのではないでせうか。無論、だからといつて日本マルキシズムが日本の思想闘争史に於て果たした歴史的役割が減ずると云ふことは微塵もありませんが、だからといつてその権威主義的構造が黙殺されると云ふわけでもありません。むしろ、この権威主義的構造――即ち自ら以外のところに自らの存在根拠を求めるといふ精神構造――こそが、1930年代に於けるあの「大転向」の原因の一つであつたことを、わたくしたちは理解しておく必要があるでせう。

 第二次日本共産党の人たちは、「ソヴィエト式」を「正統」とみなしました。然るに、そのソヴィエト――偉大なる同志スタァリンに指導されてゐるソヴィエト――はどのやうな政策を採用してゐたかと云ひますと、対外的には世界革命を主張するトロツキー一派を粛正し、一国社会主義へと進み、また対内的には農業の集団化・工業の電気化などの産業国有化を通した統制経済と秘密警察(チェカやGPU)による政治統制といつた「管制高地」の施策が大々的に執り行はれてゐたわけでありまして、つまりかういつた強権的な内外政策――今日では国家社会主義として定義されてゐる国家体制――こそが、「正統マルクス主義的」と考へられたわけです。

 今となつては、かういつた国家社会主義が国家による市民社会の抑圧以外の何物でもないといふのは明らかですが、当時は世界恐慌のどん底の時期でありまして、さういつた中で統制経済を行ひ、唯一経済成長を維持できたソヴィエト連邦は世界の脅威でした。こゝら辺の経済思想史的展開は、他の所で触れたいので、省きますが、1930年代には多くの国でかういつた統制経済(国家社会主義)を導入いたします。無論日本帝国もその例外ではありませんでした。たとへば、1937年に創設された企画院は、まさしく経済を企画統制するための官衙でした。

 かくして具体的施策が大体似たやうなものといふことになると、頑強な共産党の方々の中にも、「はたして自分の主張してゐる内容と現在の政策とはどこか違ふのかしら」とやゝ疑心暗鬼になつて参ります。これが転向の第一歩でした。

 日本共産党を指導してゐた佐野学・鍋山貞親の転向(1933)に始まる大量転向は、かういつた状況から来る現象でした。27年テーゼ、31年の「政治テーゼ草案」、32年テーゼとソヴィエト=ロシアの御都合主義によつて、反天皇制闘争との最前線にある日本共産党はとにかく振り回されました。かうなると、「本当にこのひと(コミンテルン)に付いて行つていゝのかしらん」と思ふやうになるのは当然でせう。

 この佐野さんや鍋山さんはこれまでコミンテルンに全身全霊をかけて奉仕してゐたわけですが、結局その奉仕の内容は同志スタァリンに対する個人崇拝といふ部分が大きかつたのです。本来、マルキシズム乃至は史的唯物論の立場に立つ人間が個人崇拝なんてぇことをやつてはいけないのですが、そもそも個人崇拝としての天皇主義に対するアンチ=テーゼとしてのマルクス=レーニン=スタァリン主義だつたので、個人崇拝に陥るのもやむを得ないですね。

 まぁ、なんにしても右翼にしても左翼にしても個人崇拝といふ点においては同じ穴のムジナだつたわけでして、さうであればこそ、佐野・鍋山さんが天皇中心的一国社会主義などゝいふおそろしいことを主張して転向することが出来たのです。

 天皇中心的一国社会主義といふのは、鍋山さんに云はせればつまりかうです。「日本民族を血族的な一大集団と感じ、その頭部が皇室だ」といふ「民族感情」に基づいて反個人主義・反自由主義としての統制経済・全体主義を展開すべきだといふ主張です。

 下の図を見て下さい。

ファシスト・社会ファシスト陣営
(権威主義・統制経済)
左翼陣営
(反資本主義・統制主義)
右翼陣営
(帝国主義・全体主義)
自由主義陣営
(自由放任経済・個人主義)

 非常に荒つぽいですが、日本の左翼と右翼とは反個人主義・反資本主義(反ブルジョア民主主義)といふ点では、一致してゐました。無論、その尊奉するところが異なつてゐたので合同するとことがありませんでした。つまり、スタァリンと天皇の違ひです。まぁ、大した違ひではありません。結局、その個人崇拝といふ一種の権威主義においては一致してゐたわけです。したがつて、日本左翼がスタァリン崇拝から天皇崇拝に転ぶのは、さう難しいことではなかつたのです。ついでに云えば、日本右翼陣営が敗戦後ほとんど何の抵抗も見せずに、占領軍(GHQ)の指令に唯々諾々として従つていつたのは、結局その権威主義的性格に起因してゐると見るべきでせう。即ち、天皇崇拝からマッカーサー崇拝に転向したと云えます。結局、日本の近代政治思想史とは、良かれ悪しかれ天皇といふ中心点を廻つて展開されてゐるのです。

 さて、こゝまで転向を通して日本共産主義運動を考へてきたわけですが、非転向を貫き通して獄死したり、あるいは敗戦を迎へた人たちも多数存在します。その中には敗戦後も政治犯として拘留され、つひに解放の日を待たず死去された戸坂潤や三木清のやうな人もをりました。かういつた非転向の伝統は戦後の日本思想界に大きな感銘と影響を与へました。それは鶴見俊介が云つたやうに、戦前に於ては、「北斗七星のやうに、それを見ることによつて自分がどの程度時勢に流されたか自分がどれだけ駄目な人間になつてしまつたかを計ることのできる尺度」であり、戦後に於ても「天皇にひとしい象徴的な位置をしめ」たのでした。まぁ、鶴見さんは日本共産党を褒めてゐるのではなくて、このことが「かへつて知識人の無抵抗・無批判な追従を生み出し、結果として日本共産党を甘やかしてしまつた」といふわけですから、かなり手厳しいお話です。

 それにしても、この権威主義的構造といふものは、いつまでたつても変はらないのですね。まぁ、変はらぬポーラ=スタァですから。それもまた良いのかも知れません。


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