第三国人とは何か?
― Qu'est‐ce que le Tiers Nation?―

(このフランス語はインチキです)


 本当に久しぶりの「週刊・思想と国民文化」です。もはや、週刊という言葉さえ空しいですが。

 先日、某都知事が緊急災害時の治安に関して第三国人の騒擾を云々したと報道され大きな問題となりました。およそ第三国人などという呼称自体、古色蒼然と言うか、古くさい言葉であることは確かです。しかし、今回のお話はあの発言とは関係ありません。第三国人という言葉の持つ意味を問おうというのが今回の主眼です。

 そもそも、第三国人という呼称は、アジア太平洋戦争終結後に独立した日本帝国の旧植民地人に用いられた言葉であります。つまり、日本帝国はあくまで「米英支蘇四国」に対して戦争していたのであり、台湾とか朝鮮とかの独立闘争運動と交戦していたわけではないのである以上、オマエら旧「新国民」は、勝者でもなければ敗者でもない、第三者的存在なんだ、ということです。

 これは考えてみますと随分と無責任な言い分でありまして、かつて日本帝国は「内鮮一体」とか言いまして、新国民も国民なんだから一致して頑張りましょうみたいなことを言っていた訳です。その結果、志願兵の募集や徴兵がありました。また一方で、選挙権を与えようとする立法もなされました。しかし、日本帝国は敗戦によってそれらすべてをご破算にしてしまいました。なかったことにしてしまったのです。

 1945年8月14日朝鮮総督府へ朝鮮独立運動の指導者が極秘裏に招かれました。総督がおずおずと言うには「此の度帝国はポツダム宣言を受諾することに決しました。つきましては我々官人及び邦人の帰国までの保障をお願いしたい」とのこと。これにはその独立運動かもクラッと来たそうです。つまり、日本帝国はもうあなた方を見捨ててとっとと古巣に戻ります、とそう宣言したわけです。そこには、旧宗主国としての尊厳も行政官個人としての責任も何もかもが放擲されてただひたすらに自分の一身を守ろうとするエゴが見えます。

 こうして、日本帝国がその支配地域から自らの権力を引き上げてしまったために、東及び東南アジアには凡そ一ヶ月近くにわたって権力の真空状態が発生しました。日本帝国は現地の独立運動にではなく旧宗主国にその支配権力を返還すべきだと考えていたようですが、既に独立を約束されていたフィリッピン・インドネシアなどでは、支配権力を日本帝国から直接的に移譲させようと云う運動が起こりました。インドネシアでは独立宣言が発表されました。(なお、この独立宣言に皇紀(2605.08.20)が使われているのは、独立運動が正統な権力授受を経て独立を達成したという正統性を証明するものであって、決して日本帝国が独立運動を支持していたということを意味するものではありません。)

 かつて日本の植民地であった地域が日本の支配権力外の存在となります。こうして第三国人という人々が生れました。従いまして彼れらは決して不法に入国したのではなく、日本国民として日本国内にいたのであり、その意味では日本政府によってその人権が保障されるべき人間でありました。むろん、これらの人々が日本国籍ではなく、その出身である地域の国籍を選択したとしても、日本国家は、かつて日本国民であったという事実から来る日本帝国による支配の責任をとる義務はあるはずでした。これと同様にいわゆる「軍人・軍属」問題や「軍票」問題は、日本政府があまりにも日本帝国による支配に対して無責任であったことを表現しています。

 戦後の日本国家にそういう余裕はなかったという指摘も、当時においてはそれになりに正当であったように思えます。しかし、「そんな独立した国に何で日本がいまさら関与せにゃならんのだ」という意見には賛同しがたいところがあります。たとえば、今日の英仏があれほどまでにアフリカの支援を叫ぶ理由は何でしょうか。それは、あのアフリカの大地を覆う貧困が、まさに自分たちの帝国主義的支配の産物であるという反省の上にあります。(むろん黒人奴隷によって繁栄の礎を築いた某国も反省すべきかもしれません。)もとよりそこには、旧宗主国気取りが見え隠れしていますが、少なくとも自分たちがそこに責任を有しているという態度は明確ではないでしょうか。旧植民地の独立後の繁栄を見て「オマエらはオレたちのお陰で野蛮から文明に進めたのだ」などとシラフで言ってしまうような人間が社会的に高い地位に付いているのとは少しく異なっているように思えます。(むろん、英仏にもそういったいわゆる植民地資本主義論者はいるようですが、少なくとも自らの宗主国としての支配に対して無知ではない点で大きく異なります。)

 第三国人という呼称は、GHQが使い始めた言葉とも言われます。しかし、第三国人はそもそも日本国民でありました。それを終戦直後に、

 などと喜んでいた倫理学者の態度は、帝国主義国家の責務を忘れた態度に他なりません。そしてこのことは、あの「内鮮一体」といったスローガンの真に空疎なことを証明しているとも言えます。日本は、旧「新国民」を放擲することで帝国主義国家にとって最低限守るべき仁義をも捨て去ってしまったとも言えるかもしれません。

第三国人とは何か? それは日本帝国主義の無責任のすべてである。


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