朔耶の駄文

このページは私が最近思ったことについて好き勝手に書いてます
まぁ暇だったら適当に読んで笑ってやってください


<ジオ閉鎖について>

一回目の閉鎖騒ぎの時は嫌で嫌で仕方がなかった
でも、二回目はもういいじゃないかと思った
今までにもジオ以外のチャットにも何度か行ったことは有ったけど
ジオの人たちの持つ独特の暖かさみたいなものは他にはなかった
閉鎖されて毎日が寂しくなるのは少し悲しいけど
ジオを知る前の私に戻ることはもうないと思う
私はこのジオに通ってた一年間でものすごく多くの友達を手に入れた
自分を自分と認め、評価し、親身になって話してくれたり叱咤してくれること
それがなかった私にはジオという環境があまりにも優しすぎたのかもしれない
ふと気がつくと離れられなくなっていた
昔の私なら閉鎖を防ぐために何でもやっただろうと思う
それこそ自分でも見当がつかないくらい
でも今は少し寂しいくらいで「まぁこんなものかな」と思ってしまう
冷たいとか、そういうのじゃないとは思う
私自身ジオはすごく好きだったのは事実だし今寂しいのも事実

ジオに行って私の”手”は凄く小さいてことがわかったから
今いる友人たちを大切にしていこうとおもう
大事なものは少しでいい…
誰かが悲しんでる事すら判らない人間になりたくない…

友達がジオのチャットのようなものを作ってくれたんだけど
あまり行かないと思う
これからの仕事も関係で忙しくなる事もあるんだけど
それ以上に私の中ではジオは(半強制的にだけど)卒業したから
私的な思い出として、今の自分を構成する数少ない記憶の一部として
きれいに卒業しようと思います


<学校について>

私は高校二年で学校を中退したんだけど
今、父親の仕事の手伝いや僅かながらHP作成の仕事をしています
学校に居た時は自分っていうものが何も出来ない馬鹿な女だったけど
学校を辞めた今限りなく広がっている可能性というものに気がつきました
”学校だけが全てじゃない”
私の大切な友人の一人がそう言ってくれて初めて気がつきました
私自身学校に居た時ははっきり言って今以上に暗い子供だったし
”人形”そのものだった
夢はあったけどそれはあくまで夢でしかなくただ”このまま大人になるだけ”何だなと思っていた
学校をやめた今私にとって夢だったことは近い将来叶うかもしれないものになった
学校を辞めて、病院に行かなくなって、勉強も仕事も今まで以上に頑張って
あわただしく忙しい日々の中で自分と言うものを見つけることが出来た
”これは出来ない””これじゃだめかなぁ・・・”じゃなく
”これもやってみよう””だめならやり直せばいいや”と言う考えになった

学校に行く意味がわからないとか
学校に行くのが嫌だとか
そう思ってる人に今なら胸をはって言えます
”学校だけが全てじゃないんじゃない?”
自分の前に広がる無限大の可能性
それに対して目をつぶって社会の枠にはまって称もない大人になるために学校に行ってるのなら
自分の意思に関係なく学校に行って辛い思いをしてるのなら
いっそ辞めてしまったほうがいいかもしれません
”辞めて何するの?””辞めれるわけがないじゃない”
そう思う人もいるでしょう
辞めて何をする?
自分がやりたいことの勉強をしたら言いと思う
辞めれるわけがない
本当にそう思ってる?
世間体や学校の先生の言うことを気にしてたらどうにもならないんじゃないの?
そんな事を気にする暇があるなら自分の可能性を伸ばしてみたらどうでしょう
もちろん高校卒業資格とか
大学卒業資格とか
そういうものは必要になってくるかもしれません
でもそれって本当にいるのかな?
私は8月にある大学検定の試験を受けますがそれだけでいいと思ってます
今は、諦めていた自分の夢に地被いてそれには大学って言う枠は必要がないから

たった一回しかない自分の人生を世間体と言うものの糧にはしたくない
思いっきり自分の可能性を最大限に引き伸ばして
夢を現実にする

学校に行くのがいやで辞めようか悩んでる人に言います
あなたにとって学校はどれだけの意味をなすものなんですか?
もし意味をなさないものなら自分の進みたい道に向かって思いっきり驀進したらどう?
虐めとかそういうくだらない物に付き合わなくてもいいじゃない
自分だけの可能性、おもいきって伸ばしてみようよ
多分あなたのためになるから・・・・・・

私の対して人生を変える一言
”学校だけが全てじゃない”
こう言ってくれた友人に今ここで感謝の言葉を言わせてください
ありがとう。
今、私は貴方の言葉のおかげで自分の夢がかないそうです


<女である自分について>

このHPを見てくれた人たちはたぶん気がついてるとは思いますが
私は一応性別:女性です
まぁ外見、性格から見て十五分に男性でも通用するとも思うんですが…
今まで何度も自分が女に生まれて来た事に対して悔やんでいました
”何で私は女なんだろう””男に生まれたかった”
小さいときにそのことで親を責めた事もありました
でも今は女である自分(私自身)でよかったなと思っています

まだ生まれて17年と少ししかたってないですが
でもその短い時間でも確実に女性と言う性別は「私」を構成する大きな一部なんだから
女性に生まれてきて嫌な思い出とかものすごく辛かったこととか
今ここで言い出したら切りが無い位沢山有るけど
その反対に女性で生まれてきて良かったという思いでも沢山あります
”でも所詮女だろう?”
そう言われてしまったらしかたがないけど
”女だからなんだよ””女で悪いか”って言い返せるようになった
もし私が女じゃなかったら今までのいい思いでも悪い思いでも含めて全て
それを構成する私自身と言う人間を否定してしまうことになるから

今の自分に満足してるかと言うとそうでもないけど
私自身が性別:女性であることには満足しています
今まで数は少ないですが恋愛もして、失恋もして
楽しい思いや悲しい思いや切ない思いもいっぱいして
やっと構成した自分自身
女性:(HN)月森朔耶と言う人間
女性じゃなかったら出来ないことって言うのも沢山あると思う
妊娠や出産をはじめとして数多くの事
”所詮女”ではなく”女でいいじゃない”って
胸をはっていえたら素敵じゃない?
今の私は女性であることを誇りに思ってます


<私自身について>

さっきの女性編についての続編(笑)私が見える自分について少し考えてみました
性格は思いっきり男だし背格好もどちらかと言うと男性的
ついでに言うと服装も普段着ならどっちかって言うとズボンしかはかない
性格は冷静と言うにはちょっと遠いかもしれない
どちらかと言うと猪突猛進(いや、驀進かも…)と言う性格
世間体とかはきにせずただ自分のやりたいことに対して突き進んでいく人間性
動物占いはもちろん虎(笑)
地元の友達には
”そこら辺にいる男よりも男らしい性格”
と言われる始末
でもそういわれても苦しいときとかはあるんです

少し前までは
”誰も気がついてくれない””何で皆私ばかり・・・・”
なんて思ってたけど・・・
最近やっと気がついたことがあります
”弱いだけの人間も強いだけの人間もいない”って
皆どこか弱いんだし強いんだって
誰も気がついてくれないって思ってたけど
気がつかれたらたまらないくらいに悲しい思いになる
強がるなら思いっきり強がって
とがるなら思いっきりとがって
思いっきり驀進したらいいじゃない
”弱くてかわいそうな子だね”なんて言われたくないもの
弱いのを知ってるのは私だけでいいから

結局私って言う人間の中身は泣き虫でどうし様も無い位の寂しがりやで
夜なんかぬいぐるみ無しでは眠れないような人間だけど(笑)
思いっきり強がって無茶苦茶やって驀進していこうと思う
だってそれが私だもん
こんな私じゃだめですか?


<最近よく考えること>

何で自分は生まれてきたのかなとか
自分は何のために生まれてきたんだろうとか
誰でも一度は考えて悩むことを人並みに考えてます(笑)
私自身自分って言うものが未だによく解らないに(ぉぃ)
何をしたいのかは決まってるけど当面の何をするかは決まってない状態で
精神状態も多分普通の人よりもかなり不安定な人間
欝のときと躁のときの差がかなり激しいし…
何で生まれてきたんだろうって考えてたらそれこそ答えがない
たぶん答えなんて死に際になってもわからないと思うけど(笑)
でも、生きててよかったとは思うようにはなった

こんなこと書いたら納得する人と驚く人とに別れるとは思うんだけど
自殺未遂(睡眠薬大量投与、リストカットetc,,,)とかも何度もやったし
実際に救急車で運ばれたことも・・・(ぉぃ)
でも今は生きててよかったなって思ってる
今の自分自身が好きだし自分を取り巻く環境も気に入ってる
結構自分勝手な人間だけどね・・(苦笑)
今考えたら私が死にたいなんて思ってた理由って
なんてちっぽけだったんだって思うくらい
(自殺未遂はナルシストがやることらしいけど決してナルシストではない(と思う))

生きてる意味は今はまだ見出せないけど
やりたいことをやるために生きてるんだって思いたい
誰かのためとかそんなかっこいいことは言えないけど
自分のために生きていたいとは言える
何で生まれたんだろうとか、何で生きてるんだろうとか
そういうのって考えたらきりがないけど
今何しようとか明日何食べようとかそういうことを考えることの積み重ねが
答えになるんじゃないかなぁ
などと考えてる今日この頃(笑)

<ある親友について>
そんなに遠くない昔毎日、いつも一緒にいた年上の女の子の友達がいました
今でも私の中では大事な友達だけどそのこの方だどう思ってるかはわからない…
今私は一緒に入れる状態じゃなく場所はそんなに離れていないけど時間もないし自分のことで精一杯の状態です
今まではお互いが悲しい時とか辛いときとか寂しいときとか泣きたいときとかいつも一緒にいてお互いの気持ちを想いっきりぶつけ合ってきました
本音を言って喧嘩して思いっきり泣いて、思いっきり笑って…
一緒にいたときはその子の大切さが分からなかったけど離れている今凄く大切なのに気がつきました

私がいなかったらだめだって思ってたのに…
泣くときはそばにいなきゃ泣けないから仕方ないかって思ってたのに…
本当は彼女が一緒にいなきゃいけないのは私のほうだったのかもしれない
泣くときにそばにいてもらえなきゃいけなかったのは私のほうだ…
多分一番最初に私のことを”17歳の小娘”ではなく私という人間を認めてくれて必要としてくれた人だとおもう
失ってしまって初めて気がついたり、離れてしまって初めて気がついたり最近はそういうことばかりでなんか悲しいけど…

いま少し思い出してみたら以前一緒に居た時よりも泣いてない気がする
家で夜中にpcを一人カタカタ打っていてふっと寂しいなって思ったり
朝から仕事と家事に忙殺される中で元気にしてるかなって思ったり
本当にいつも横にいたから見えなかったのかもしれない…
いつも心から笑えって言われても器用に笑うことが出来なかった私を許してね…
次に会うときまでには自分自身の負担を軽くして、貴女には思いっきりの笑顔を見せれる様にまでなっておくから
そのときはまた一緒にのみに行こうよ
私の厳格な兄貴と君の可愛い恋人も連れてね(笑)
最後になったけどこの文章を私の地元にいる一番大切な友人、ヒメに送ります
私が帰るまで生きてろよ(笑)

<音楽と私について>

私は多分自他ともに認める音楽好きで私自身自分の中にはひとつの音があるって思っています
(言い方が辺だけど・・・笑)

私がはじめて小学校などで習う童謡やピアノの練習曲以外の音楽とであったのは小学校3年生の時でした
父親が聞いてごらんと渡してくれた一枚の洋楽のcd
まだそのころは英語がわからずなんかの音楽かなっと思いながら表紙をボーっと見ていたのを覚えています
CDデッキにCDをセットして流れ出した音
今まで聴いたことが無かった旋律
驚くほど透き通った声
父親はTheBeatlesって言う人たちの音楽だよっと教えてくれました
私の中ではそれはすごく衝撃的な音楽との出会いで多分忘れようと思っても忘れられないものでしょう
まだ小学校三年生、英語の意味なんかひとつもわからないのに必死で歌詞を書き写し辞書を片手に悪戦苦闘して初めてひとつの曲を一年かけて訳しました
今見たら思わず吹き出してしまうほどぼろぼろの訳だったけど…
その曲はLet it beといってBeatlesの末期の作品でした
それから私はほぼ二年ほど毎日Beatlesの音楽を聞いて訳を考えてすごしてました
やがて小学生6年になり受験勉強をはじめて音楽をゆっくり聞いてる時間がなく
平均勉強時間6時間という凄まじい生活を送り始めました

中学に入ってから私はBeatlesの事をすっかり忘れていました
音楽といえば邦楽でミスチルとか、ジュディマリとかばかり聞いていました
どうせ英語はわからないし洋楽は聞けないなぁって
中学三年の時これはまたあとに書くかもしれませんが私のとても大切な人が亡くなりました
その時は私にはその人がすべてで多分本当の意味での初恋だったと思います
以前に書いた私の鬱はちょうどそのころの時期からで私自身もそのころは死にたい、そう毎日思っていました
もう私には何も無い、誰も好きにならない、もう何も出来ないと…
そう悲しみに沈んだ毎日を送っていたとき兄が一本のテープを渡してくれました
昔私は兄と同じ部屋で生活をしていてどうやらそのテープは兄の机の裏に落ちていたそうです
兄から手渡されたテープを見ると子供の字でTheBeatlesを書いてありました
小学生の時に必死になって毎日聞いていたテープ
懐かしくなって半分録音部分のセロファンが延びたテープをデッキにかけました
一曲目に流れてきた曲はLetItBe
そのテープにはその曲しか入ってなくて繰り返し聞いてて涙が出てきた
大丈夫、頑張って生きていこう…
曲の歌詞の意味とはまったく違うけどこの曲はそれ以来
私の中では落ち込んだ時や何かをはじめる時、そして自分を奮い立たせる時に聞くようにしています
私の中で聴き続ける曲はBeatles
あの日から今まで、そしてこれからもすっと…


<私的恋愛観(笑)>

これは一番答えにくいんだけどあえてこの話題に取り組んでみました
皆からよく恋愛に関する詩が多いねって言われるんだけど
ここで書いておきますが決して経験豊富ではないです 笑
むしろ、え!?って言われるくらいかもしれません

最近(2001年5月現在)恋愛って言う題名の詩を書いたんだけど
私からみて恋愛って求め与えるものだとおもうんです
恋は相手を求めるもの、愛は惜しみなく与えるもの
自分で書いててたまに恥ずかしくなるんですけどね 笑
相手を傷つけるから怖いとか、傷つくのが嫌だからとか
そういう理由だけで恋愛をしないって言う人をたまに見かけます
ちょっと違うんじゃないかな・・・・?
傷つく、傷つける以前にそう思うことで自分自身を傷つけてる事に気がついてほしい
だって、そう思って心を閉じてたらいつまでもずっと何も見えない、見出せないままで終わっちゃうもの
そういう人を見たら傷ついても良いじゃないっていってあげたい
自分が傷つく事でより優しく、素敵な人になれるから
相手を傷つけるって思ってる人には
そんなに人は簡単に傷つく生き物じゃないよって教えてあげたい
自分の気持ちを閉じ込めて、我慢して、苦しく悲しい思いをするよりも
勇気がいるけど思い切って相手に言ってさっぱりした方がいいと思う
好きだといわれて嫌な人は、たぶん誰もいないから

私は数少ない恋愛をしてきて少ないながらもいろんなことを感じて
泣いたり、怒ったり、笑ったりしてきました
17のがきが何を抜かしてるんだと笑う人もいるかもしれませんが
人間って恋愛の数を重ねれば重ねるほど
フィルターを一枚一枚通したように綺麗になっていくんじゃないかな?
沢山恋をして、沢山傷ついて傷つく事で強く、素敵になっていける
そう、最近やっと気が付きました

恋愛って傷つける,傷つけない以前に気がついたらそこに生まれてる感情だと思う
その感情に折り合いをつけてどうするかを考えるのはあなた自身
素敵な恋の花を咲かせてくださいね


<ネットと私>

私がインターネットと言う世界(?)を知ったのは今(5/19)から約二年ほど前でした
高校の討論の授業の資料集めでインターネットで世界各国の原子力発電の資料を集め
その資料をもとに討論会で討論を繰り広げるというものがあり
幸運か不運か私がネットで資料うを集める係りになりました
それまではpcは触った事があるもののネットはつないだ事が無く
最初は日本語でメールを一通打つのに三十分と言う長い時間をかけていたのを覚えています
それから数週間、毎日放課後に残って資料集めを繰り返した後
もうインターネットにもなれ、高校がありがたくもイギリスの学校の姉妹校だった為か
英語でのメールも100行約10分というくらいにまでなれました

討論会を終えネットの面白さを知った私は親に頼み込んで自宅のpcをインターネットにつないでもらいました
はじめていったのはYahoo geocities
つまり、ここのサイトです
今までchatと言うものをしたことがなかった私は
ジオシティーズおしゃべり広場に夢中になり毎日行くようになりました
そして、Chatの友達との間でHPを作るのが流行りだしたんです
初めて作ったときはHTMLさえも解らなくて更新だけに悪戦苦闘していたのを覚えています
そして始めてから二年経った今
HPも大分替わり本格的にWebDesignerとしての勉強をしています
もしあの時学校で討論の資料を集める係りになっていなければ今、こうしている私はいなかったでしょう
これから先、どうしたいかと言う希望はあるけどどうなるかは実際になってみないとわかりません
でも私はインターネットに自分の将来を託そうと思っています


<最近よく考える事こと>(2001/6/20)

最近よく考えること第二段(笑)
題名は書いたものの何をかいたらいいかちょっと迷ってます(ぉぃ)

これは私事になるんですが少し友情のあり方について考える機会が多くなりました
以前まだ高校に行っていた時、私自身、もういいや、誰も信じたくなんかない、そう思っていました
うわべだけの付き合い
後から刺さってくる視線
どこからか聞こえる罵倒、陰口
そしてどうしようもない孤独・・・
友達のはずなのに友達じゃない女の子たち
どうして傷つけられなきゃいけないのか
どうして苦しい思いや悲しい思いをしなきゃいけないのか
誰かに打ち明けたくて、でも打ち明けるとますます阻害されていく自分自身
どうせ私なんか、誰からも解ってもらえなくたっていい
そう思うことで自分自身とバランスをとっていました
でも結局そういう風に鷹をくくっていても思っていることは逆なんですよね
誰かに解って貰いたい、認めてもらいたい、仲間に入れて欲しい…
二つの心の間でバランスを取れなくなって平気で人を傷つける事が出来る自分がいました
何も考えないようにして、何も感じないようにして、いろいろな事から目をそむけて
でも結局自分が傷つくのが怖かっただけなんですよね
何も感じないようにして目を閉じて、心を閉じて自分のからに引きこもって全てを拒絶するほど寂しい事はないから
今思うと多分そうすることで自分自身が悲劇の中にいるようなそういう感覚に酔いたかったのかもしれません

高校二年になって体調の都合で私は修学旅行にいけませんでした
家でふてくされて腐っていた時に気分転換にとそれまでは殆ど行った事がないゲームセンターへ足を運びました
そこはゲームセンターの筈なのにpcが置いてあり始めてみた時は惑った記憶があります
(16の記憶でも書いた場所です)
修学旅行にいけなかった一週間
その間に私はそこに入り浸り、そこの人たちからいろいろな事を学びました
良いことも悪い事も含めてですが(笑)
修学旅行期間が終わり友達だったはずの女の子たちと私の間には溝が出来ていました
目に見える形で阻害され、いろいろな事をされました
まぁ友達と言っても昼に食事をしただけの女の子たちですが…
あぁ、やっぱりな…
一番最初に感じたのは悲しみでも苦しみでもなく諦めだった自分に驚きました
心の中ではやはり私も友達だとは思ってなかったのでしょう
そういう風に思うように変わってしまった自分自身を少し悔やみました
その事をゲーセンの人たちに話すと思ってもいなかった返答がかえってきたんです
”猫(私のあだ名)は俺らの友達やねんからそんな奴等気にせんでもいいやん”
それを聞いて泣きそうになったのを覚えています

ちょっと(かなり)最初の本題からずれましたが
私にとって友達というのは
相手の立場や状況、そういう風なものにかかわらず、まるで空気のようにずっと一緒に入れる人たちのことだと思うんです
喧嘩してる時は思いっきり言いたい事を言い合って、笑いたい時には思いっきり笑いあえる
それがどれだけ短い時間でも”友達”になれば一度離れてもずっと続いていくもの
そう思います

友達だから何かをしてあげるとかありますよね
そう言うのは間違ってるとは思うんですが
私が友達だと思える人に一番してあげたい事があります(ぉぃ)
それは実際に私がしてもらってすごく落ち着いた事なんですが
とても辛い事があってでも誰にも話が出来ない時
その様子に気がついて、何を話すでもなく黙ってそっと横に座る
そういうのってはたから見たらかなり鬱陶しいと思われがちですが
苦しい心境に居る時はそれが凄くありがたかったのを覚えています
(それをしたいというわけではないのですが)
何も言わないのに相手の心境に気が付く
それで自分が出来る最大限のことをする
私は友達に対してそれが出来る人間になりたい
ここのところこういう風な事を毎日考えています(笑)


<死とは何か>(20001/6/26)

これは今まで色々書き綴ってきた中で私にとって最大の疑問なんだけど
死とは何か
多分これを読む人たちもきっと一度は本気で考えた事があると思います

私、朔耶猫にとってこれは私自身の人生を変える出来事だったんだけど
中学三年生の初春に二年間付き合ってた男の子が病死をしました
多分それが本当の意味での初恋で失恋だったと思います
その子の最期の時も葬儀の時も私は行く事が出来ませんでした
中学三年の修学旅行のスキー合宿に参加していた為に・・・
彼の死を知ったのはそれから二週間後・・・
もともとお互いの時間が余りあわずに連絡も3〜1、2週間に一回という割合で
一度は家にかけたんだけど誰も出なかった
期末考査の時期も重なって私自身もとても忙しかった

知らせを受けたのは二週間後、その子の弟さんからの電話で始めて知った
聞いたときは全く実感がわかなかった
以前からその子の病気のことは本人から聞いていて治らない事も知っていた
でもこんなに早く・・・・
お礼を言い電話を切りお休みと言って自室に戻って襖を閉めた
自分の体の半分を失ったような衝撃を受け本当に目の前が真っ暗になった
その日、その夜私は自殺未遂をした
部屋においてあった眉そり用の剃刀の安全金をはずし自分の左手首を切った
悔しかった
悲しい、寂しいと言う感情よりも先にどうしようもなく悔しかった
側に居られなかった事に・・・
そして二週間もの長い間のうのうと暮らしていた自分自身に無償に腹が立った
その頃の私は…まだ、幼かったのかもしれない
決して私は死んだら逢えるなどと考えるロマンチストではない
でも、ただ彼にもう一度合いたかった
お別れも言わないまま、お礼も言えないまま
そして何よりその子に置いていかれたという事実が辛かった
あまりにもこの事実が大きすぎた私はこの後暫く壊れて腐っていた

私自身死にたいと言う感情や苦しみは充分に分っています
死にたくなるほど辛い事や悲しい事
そういう事がなくてもただ突然死にたいと思うことも
でも、残された苦しみを知ってるから、残されるものの悲しみを知ってるから
私はもう二度と自殺未遂はしないでしょう

死 昔の詩人は人、一人が死ぬと世界が一つなくなると言いました
私は、人一人の世界と亡くなった人を慕っていた人の世界がなくなるんだと思っています
実際私がそうでしたから・・・
死んで良い人なんかこの世の中には存在しないと思っているけど
もし居るとしたらそれは自分の寿命を全うした人だと思う
例え、その死にゆく人が
どんなに惨い罪を犯したとしても
どんなに悲しい出来事があったとしても
他人がその人の命を奪うのも、自分でその命を絶つのも絶対にしてはいけない事だと思う
残される苦しみ、悲しみ、そして残された事に対する絶望、言葉に出来ない言葉
それらの全てを残す人に与える辛さ
そして残されてそれらに耐えて日々を受け入れる辛さ
それらの全てを想像し、味わった事がありますか?

死とは何か
それは私の中では非日常の中の日常
受け入れる事でしか悲しみを癒せないものなのです



<私の心の処方箋>(2001年7月27日)

以前に私は自分が鬱病とう病気だと言う事を書きました
その病気だというとかなり色々な人から信じられないとか
ぜったい嘘だとかそう言う事を言われたりmailが着たりしたのでこの場で言わせて頂こうと思います
私は鬱病です
今は時間の都合と理由があってで通ってませんが以前は心療内科に通っていました
ネットでこういう事を公開するのはあまり良くないとはわかっていますが
今回は鬱が鬱に見えない理由を書こうと思っています

私が鬱病の診断を受けたのは高校1年の時でした
それまでもそういう雰囲気はあったのですが正式には診断は受けた事がなかったので…
以前に昔の恋人の事を書きましたが一番の原因はその出来事が大半だと思います
私の場合でしか文を書けないから読む方にはわかりにくいかもしれませんが
落ち込むときってとことんまで落ち込むんですよね
周りがどう励まそうと、なにを言おうと
とことんまで落ち込んでいく所まで行ったら自然と浮上する事が出来るんです
不思議に
まぁ私自身が行く所まで行った事がある人間だからこそいえる事なのかもしれませんが・・・

何度も死について考えました
上の文章でも書いた通りですがこの一ヶ月で気が付いた事があります
現実と向かい合って人は皆生きています
その間には当然辛い事、悲しい事、苦しい事、沢山あります
楽しい事や嬉しい事も沢山あります
でも、人間の記憶とは不思議なモノで楽しい事や嬉しい事はすぐに忘れてしまうのに
辛い事や悲しい事の方が鮮明に覚えていたりするんです
あの時なにがあって悲しかったとか
そういやぁ、あれは辛かったなとか
でも、ちょっと考えて見てください
嬉しい事や楽しい事の方が辛い事よりも何倍もあったりしませんか?
ひとつ楽しい事があればそれが記憶の表面にあるうちは三つほど辛い事があってもその時には忘れてしまうんです
でも、辛い事が重なれば楽しかった思い出は記憶の奥底に埋もれてしまう
そしたら忘れたはずの辛い事が浮かび上がってきて落ち込んでしまう
そして辛い事ばかりだと思い込んでしまう
(全ての人がそうとは言いません、あくまでも私の場合です)
私はそういう時、ちょっと止まって見るんです
実際立ち止まるとかではないんですが・・・
たとえば仕事をしてる時
自分のミスが続き、上の人に怒られて、精神的に切羽詰ってしまったり
今まで好調だった分余慶にダメージが大きかったりしますよね?
そういうとき、自分を回復させてあげるんです
会社の帰り道にちょっと寄り道して公園で一服したり
休みの日とかのんびり散歩したり、あるいは自分の為だけに時間を使ったり
一日中眠ってるのも良いかもしれません
自分の為だけにそうやって時間を対やすると不思議と零れ落とした物に気がつく時があります
忙しい時や落ち込んでる時に見えなかったもの
例えば人の感情や自分の感情、優しくする心とかね
見落とした事を取り戻す事でまた好調の時の自分に戻れる事があります
落ち込む所まで落ち込むと、次に自分がどうしたら又元にもどるかがわかる時があります
ふっと普段からぽろぽろっと取り零してきた色々な”大事な事"をまたちょっと止まって拾い上げる事で
沈んでしまった自分の心も拾い上げる事が出来るでしょう?
忘れてしまった愉しい事を又重い出す事が出来るでしょう?
そしたらまた歩きだせる

これを読む方々、特に鬱の方には心がけてほしい事があります
たった一つだけです
それは、いつも心の中に何か1つだけでもいいから置いておくんです
少し文脈が解かりにくいですが…簡単に言うと抱負を置いておくと言う事でしょうか…
私の場合は”常に優しく”、”常に希望を”です
心の中に目標のようなもの、又は守るべき物を置いておくと
とことん落ち込んだ時にそれが助けになります
なぜ私が優しさを置いておくかと言うと
私自身の中では人に対して優しく出来ない人はだめだ と思ってるからです
優しさは見返りを求めるものではありません
優しさと言うものは自分の中の宝だと思います
常に自分を最高の状態(真っ白の状態)に置いておく努力を怠らない事によって相手に対しても優しく出来るんだと思っています
決して上下や見下し、優先では無く…
例えば両手に荷物を持ってるおばさんがスーパーのドアが開けれなくて困っている
そう言う時なにも言わずにドアを開けてあげるのも優しさの形の1つ
例えば誰も諦めて言わない事をその対称の人に言うのも優しさの形の1つ
いろいろな形がありますけどね 苦笑
優しさは見返りを求めないものと書きました
だって、自分の中にあるモノを相手に与えるわけですから
決して相手に同じモノがあるわけではありません
それに、見返りを求めるモノは優しさとは言いません
難しいですけどね 苦笑
常に心に置いておく事で自分自身にも優しく出来るのって素敵じゃない?
だってそれは自分を大切にしてくれてる人への最大の優しさなんだから

うーん、いつもの事ながら本題から大幅にずれましたが
鬱が鬱に見えない方法
それは落ち込む所まで落ち込んでもそれを食い止める何かを心に置いておく事
だと思います
落ち込んだ時はそれをばねにまた走り出せるから

落ち込まない人間なんていません
辛く無い人間なんていません
自分だけが苦しいんじゃないんです
どんな事があっても時間が過ぎたら朝日は昇り
決して同じでは無い一日が始まります
毎日新しい一日が生まれるんです
その生まれ変わる日々の中で常に自分を奮い立たせる事は出来ないけれど
たまに自分をいたわる時間を作る事は出来るはず
いつか落ち込んでしまって現実が辛くなった時
選択する道は絶望や自殺ではなく、少しの勇気と自分へのいたわり であってほしいですね



<しあわせの意味>(2001/10/4)

少し前に「しあわせ」という詩をUPしました
私は最近しあわせと言う言葉の意味を良く考えます
しあわせってなんだろうと・・・

自分が幸せにまりりたいと思った時から幸せって始まってるのだと思ってた
でもそれって自分だけの幸せなんじゃないかなって最近思い始めたんです
自分だけが幸せになっても回りが哀しい思いをしてるならそれは本当に幸せなのかな?
自分の大切な人たちが笑っていなくても幸せと感じられるんだろうか?
本当にそれでいいのだろうか?
って・・・

私は、自己中心的な人間で、わがままな人間で
だからかもしれないけど自分が幸せだって心から感じるのは
自分自身も私の大切な人たちもみんな、幸せでいてくれているときだと思う
もの凄くわがままだとは思うんだけど、やっぱり自分だけが幸せだって言うのは寂しいし哀しい
まわりにそれを一緒に解ってくれる人がいてほしい
ただ、「そう、よかったね」じゃなく、
自分と同じ幸せや相手の幸せを分かち合えるのが良い・・・そう思う

幸せってほんの些細な事がきっかけで回りに広がって言ったりするものだと思うんです
たとえば、朝起きてから笑顔でいるとか
昨日よりも少し回りに優しくしたりとか
皆が気持ち良いのがいいですよね

自分だけじゃなく自分の大切な人たちも幸せでいてくれたら
それは多分私にとってどんなものとも変えられない宝物のような時間になると思う
大切な人、大切な家族、大切な友達
どれか一つだけ選べと言われてもどれも選べないくらい私にとったらかけがえの無いもの
その中のどれか一つでもかけたら幸せだ何て思えない
そのどれか一つが消えたらたぶん、今の私も変わってしまう
私はそんなのは嫌なんです
もし今の自分が変わることは
今の自分を大切だと言ってくれている人たちまで失ってしまいそうな気がするから
それなら、失うくらいならどれだけ大変でも皆で幸せになりたい
そんな、ただの私のわがままです

幸せになりたい
誰よりもとは言わない
皆でゆっくり時間をかけてずっと、幸せでいたい
最近はそんな事を考えてます

しあわせの意味、その答えはあなたの心の中に・・・



<エゴイストな私>

ここ最近になって私自身の周りには失いたくない大事な人達が出来ました
以前に少し私の過去について書いたことがあります
中学時代、高校時代色々ありました
そして今も・・・

ここでは少し今の私と昔の中学時代のころの私の事に触れたいと思います
今、私は友達に恵まれていて大事な兄弟がいて大事な人がいる
目標があってその為に必死で勉強をしています
でも、過去にも一度だけ同じ状態になっていたことがあります
少しだけ私自身の状況が違うけれど・・・

以前に少し触れましたが中学3年生の時に私は誰かに残されると言う辛さを初めて体験しました
どうしようもない
どこに怒りもぶつけようもない
やるせない
そして、誰にも言えなかった想い

周囲の人は決して私のせいではない
仕方がなかったことなんだ
そういってくれました
私自身も頭ではわかっていました
理解はしていました
でも、心の中ではずっと、今も自分を攻めつづけている私がいる
どうしてもっと大事にして上げれなかったんだろう
どうしてもっと色々な言葉を言わなかったんだろう
どうしてもっと・・・

今、私には掛替えの無い人がいます
とても大事で失いたくなくて・・・

おいていかれる辛さ・・・
それは言葉では言い表せないくらいの多くの感情
私はその全てを知っているのに
数年前に味わったはずなのに
今度はそれを味わせようとしている・・・
エゴとしかいいようがないですね
どれだけ辛いのかわかっているはずなのに
どれだけ泣いたのかわかっているはずなのに

自分自身のからだのことを知ったのは少し前
でも、その時にもう誰かを大事に想うのはやめようとおもったはずなのに
結局はそれも出来ず想い想われている
いつか、置いて行ってしまうのに・・・

どうして人は人を求めてしまうのでしょうか
行けないとわかっていてもどうして心はとまらないのでしょうか
同じ辛さを味あわせるくらいならいっそ手放してしまった方がいいのかもしれません
でも、それすらも出来ずにいる自分がいる・・・
エゴイスト・・・
今、私はそんな自分がものすごく嫌いです



<見えてる?>(2002/1/22)

あけましておめでとうございます
今年も私のかって気ままに爆走していくつもりですので宜しくお願いします♪

これは少し前に感じた事なんだけど幾つか私が見た事とかを書いてから本題を書きますね

お祭りの屋台とかでバルーンハウスいうやつ
大きい風船みたいな城や、動物みたいな形をした中で跳びはねて遊ぶやつ
それが屋台としてでていたんですね
なつかしいな、いくらだろうを札を見て見たら「5分100円」と書いていました
私はそれを見て「あぁ・・・たった五分間だけか」と思ったんです
でも長い行列を作って並んでいる子供たちの表情を見ると
目をキラキラ輝かせて凄く嬉しそうに並んでいたんです
私が”たった5分”と感じたのに対して子供たちにとっては”5分も”なんですよね その子達の表情を見てると
あぁ…物の価値や時間の価値やいろいろな事を理解すると言う事は同時に
それが解らなかった子供の頃に見ていた”キラキラした世界”へは戻れないんだな
と、思いました

よく誰かとお付き合いをしている友達や、ご結婚されている友人から相談される事なんだけど
その相談内容の中に彼(または彼女)の考えている事が解らない 
というのがよく出てくるんですね
私もあまり人の事は言えないし恋愛経験自体凄く少ない方の人間なんでえらそうな事は何も言えないんですが
私も一時期家族や友人の人達も含めて全員が何を考えているのかが分からなくなっていた時があるんです
自分の事に精一杯になりすぎて相手の事をよくもいていなかったんでしょう
ほんの些細な事で喧嘩をして辛い想いをして・・・
それをある友人に相談したら一言
「あんたさ、自分の事可愛がりすぎてるんじゃないの?」
っていわれました
「だから相手の行動や言いたい事や考えてる事の本質が見えてないんじゃん」 って
たしかにその頃は自分の事に一生懸命になりすぎていた時期で
相手の事をあまりよく見ていなかった
相手が言いたい事やどう感じるかとかは日ごろから相手を見ていて少しずつ少しずつ解ってくる事なんですね
でも自分の事ばかりに気を取られていて”自分を可愛がりすぎる”と
当てが本当に伝えたい言葉やしてほしい事が自然と見えてくるんじゃないかな?
と思うのです

少し前から話題になり始めた”キレる子供”
その”キレる”とは、なんなんだろうとよく考えます
私はドロップアウトをしましたが切れると言われる子供たちは殆どが中学、高校の子供たちです
学校では教師の前で仮面をかぶり、家では親の前で仮面をかぶり
友達の前でも仮面をかぶる
自分のいいたい事を言い出せずに”いい子”を演じ続けている
そういう子を最近よく見かける気がするんです
不況のために社会全体がぴりぴりしていて学校では少しでも親の期待にこたえるために勉強を詰め込もうとする
その中で沢山の矛盾を知りそれに対しての不安や不満がもしも、溜まっていっていたとしたら?
それらを流れ出させる方法を知らなかったとしたら?
もし、私ならたぶん溜め込みすぎていつか爆発させてしまうと思う
でも、誰かが溜まっているものに気がついてそっと流れさせてくれたら爆発はしない
もう少し早ク、その不満や不安に気がついて色々聞いてそれらを流れ出させる事が出来てたなら
”キレる”というのを防ぐ事が出来るのかもしれませんね

さてさて、3つの例をあげましたが私が何を言いたかったと言うと
最近携帯電話の普及も広がってちょっと電話を掛ければどこにでも繋がる
またインターネットの回線を通じていろいろな人と話が出来るようになっている
(まぁ子のHPもインターネットが広がったからこそあるものなんだけど)
でもそうやって世界が情報化で広がる事によっていろいろな事を人は見落として言ってるんじゃないでしょうか?
確かに携帯電話もインターネットも今では無くてはならない必需品の一つになりつつあります
でも逆にそれをする事によって見落としている事とかが増えてきていませんか?
これから先、世界はどんどん便利になっていくと思います
でも便利になればなるほど人間は何か大きな物を少しずつ見落としていくような気がするんです
そう、子供の頃見えてた世界が今は見えなくなっているように
付き合い始めの頃に見えていた相手の気持ちが見えなくなるように
大人達が子供の気持ちを見えなくなるように・・・

この文章を書けばご意見やご感想がかなりくる事が予想でき凄く戸惑ったのですが
これを読んで頂いた方のご意見も聞きたいので合えて書いて見ました
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