マンボDE現象学(1)

 

推歩先生物語について

 井上ひさし『四千万歩の男』を読んだ。話の進め方に慣れてくると、『ひょっこりひょうたん島』のエピソードのように毎日一五分づつ五・六回で解決、というリズムが思い出され懐かしかった。しかし、物語は全く中途半端に終わってしまう。「さて、個人的な事情もあって、筆者は構想の七分の一をようやく越えたところで、忠敬先生の測量行や伊能図の運命から少し距離をおいてしまった」と、「お読みいただいた後に」にある。紙数のわりに歴史のダイナミズムを感じさせないのは、「未完」だからなのだ。
 伊能測量隊の仕事は、寛政一二(一八〇〇)年から文化一三(一八一六)年まで続いた。
 第一次測量。寛政一二(一八〇〇)年、奥州街道から蝦夷地、根室の手前西別に至る。測量日数一八〇日。
 第二次測量。享和元(一八〇一)年、江戸から三浦半島、湘南、小田原、熱海を経て伊豆半島下田、沼津東海道を江戸に戻る。再び江戸を出発(『四千万歩の男』はここで終わっている)し、房総半島から鹿島灘を北上、松島、釜石、宮古を経て下北半島を一周し、野辺地に出る。青森から三厩(みんまや)まで行き、奥州街道を再測量しながら江戸へ。測量日数二三〇日。
 第三次測量。享和二(一八〇二)年、奥州街道から会津若松、米沢、山形から秋田、弘前、三厩まで行き、今度は日本海沿岸を測量しながら南下、男鹿半島、本庄、酒田、新潟、直江津、内陸に入って、善光寺、上田、中山道にはいって高崎、熊谷 、江戸へ帰着。測量日数一三
二日。
 第四次測量。享和三(一八〇三)年、東海道を沼津まで再度測量、沼津から江尻、御前崎、知多半島、渥美半島などの東海地方の海岸線を、熱田から岐阜、関ヶ原から敦賀、北陸へ出て海岸づたいに福井、石川を進み能登半島、富山、糸魚川佐渡に渡って海岸線の測量。寺泊に戻って長岡、三国峠を越えて高崎、浦和、江戸。測量日
数二一九日。
 第五次測量。渡邊一郎『幕府天文方御用 伊能測量隊まかり通る』(NTT出版 一九九七年)では、この第五次測量から以後を大きく扱っている。文化二(一八〇五)年から始まるこの測量は、幕府直轄の事業として正式に認めれ、大きなプロジェクトとして進められることとなったからである。第一次の蝦夷地測量では忠敬の持ち出し、自己負担が相当あったようである。しかし、ここからは予算も人も真に「御上」が持ってくれることとなる。そして「東海道を経て紀伊半島沿岸から関西、山陰、山陽、四国、九州の沿岸、ならびに壱岐、対馬などの離島を含む西国全域を測量せよ」という幕府からの
命令が出たのである。
 二月二五日に品川を出発、東海道を測量しながら浜松へ、浜名湖の周囲の測量を約一〇日。伊勢、鳥羽、紀州沿海から大阪。京都から大津、琵琶湖の測量をして、大阪へ戻り、海岸線に沿って、一二月一日岡山に到着。
 文化三(一八〇六)年一月一八日に岡山を出発、瀬戸内海沿岸と島嶼(とうしょ、嶼は小さい島)を測量しながら、五月六日下関に達する。萩、松江、鳥取と山陰海岸を進む。若狭湾に入り、大津から東海道をもどって一一月一五日江戸到着。
 第六次測量。文化五(一八〇八)年、江戸から大阪へ。淡路島東岸の測量、西海岸は帰路にしている。徳島から海岸線にそって南下、室戸を経て高知に到着。宇和島、佐田岬を巡り、松山。伊予北岸と島嶼、そして、高松。四国測量を終え淡路島の西岸を測って大阪。奈良、吉野、山田で越年し、文化六(一八〇九)年一月一八日江戸に帰着している。