新宿・歌舞伎町、土曜・午前四時。前夜からの喧噪が朝日と共に消え始める時刻。区役所通りに停めたブルーバードの中で、松金令一は二箱目のセブンスターの封を切った。

 フロントガラスのすぐ向こうでは、車高を上げたRV車の中に、家出してきたらしい少女が連れ込まれている。そのすぐ脇をフィリピン人ホステスたちが足早に通り過ぎ、一足遅れて福建マフィアとおぼしき男が青竜刀を振り上げ追いかけていった。脇の歩道では、ついさっきまで酔い任せの小競り合いを演じていた学生たちが、互いにナイフで刺しあったらしくぼんやりと座り込んでいる。いつもと変わらぬ平和な週末の朝。しかし令一が見つめるバッティングセンター向かいの雑居ビルには動きがなかった。

〈やはりコミさんの言うとおりだったか――〉

 新しいセブンスターに火を点けながら、令一は呟いた。張り込み開始から八時間。いつもより煙草のペースが早い。喉のいがらっぽさを洗い流すように缶コーヒーを呷った。
 
 

        ◆
 
 

「この週末は動かないと思う」

 ――二人だけの捜査会議。取り調べ用の小部屋で、小宮山係長はいつもと変わらぬ陰鬱な表情で言った。日頃、裏の取れない事実は決して口にしない小宮山には珍しく、推測だけの言葉だった。心なしか声に張りがない。だが続いて彼が口にした言葉に、令一はすぐにその真意を悟った。

「たまには体を休めたらどうだ――」

 内偵を始めてから二ヶ月。夜に日を継いで動き続ける令一を労う、小宮山にとって精一杯の言葉だった。

 しかし令一は敢えてそれに反駁した。反駁することで小宮山の労りに対する申し訳なさを振り切ろうとした。

「これまでに相沢は二度、週末の取引を行っています。そして週末の取引だけは単独で行動しています――」

 小宮山は一瞬目を見開くと、胃の下をかばうように右手を当て、すぐに元の陰鬱な表情を取り戻した。

「週末の取引は相沢の小遣い稼ぎかも知れません。その時を狙って“噛め”ば、千田組に動きが伝わるのも遅れます。連中の“対応”が遅れているうちに相沢をウタわせれば、流通ルートを一気に押さえられるはずです――」

 小宮山は表情を変えぬまま顔を背けて立ち上がった。振り向きざまに「わかった」と短く言うと、慌てたように小部屋を出ていった。一足遅れて令一が部屋を出ると、トイレに駆け込む小宮山の後ろ姿が見えた。
 
 

        ◆
 
 

〈なぜ動かない――〉

 着衣をぼろぼろにされて前のRV車から放り出される少女を見ながら令一は焦った。

〈動け――〉
 
 

        ◆
 
 

 刻印された数字を大幅に上回る重量の鉄アレイが、ここ歌舞伎町を中心に都内全域に出回るようになったのは今年の五月だった。「普通の鉄アレイより効く」という口コミが拡がり、スポーツジムやエステティックサロンにたむろっている若者がまず飛びついた。次に市販の健康器具では物足りなくなった主婦や大学の体育会系学生が手を出し、違法鉄アレイ汚染は瞬く間に拡がった。

 正常な重量を越える鉄アレイの使用には大きな危険が伴う。はじめのうちは筋力がアップしたと喜んでいられるが、やがて適正負荷を越える運動が体を蝕み始める。運動不足による痛みだと思いこみトレーニングを続けるうちに、単純疲労骨折、複雑疲労骨折へと症状が進み、骨が取り返しのつかない状態になる。都内の病院では夏前から手首や足首の骨折患者が激増した。その一方で、極端に筋力を増した若者が、白昼の路上で虚弱児を殴り倒す事件も頻発するようになった。

 販路が拡大するにつれ、取引を巡るトラブルも聞こえてくるようになった。「プッシャー」と呼ばれる末端の売人たちは、主に駅や地下街のコインロッカーにブツを小分けにして保管している。買い手は金と引き替えにその鍵をもらい、ブツを手に入れるのだが、大量の鉄アレイを突っ込まれたロッカーは経年劣化と相まって激しく歪み、扉が開きにくくなっている。取引の後ろめたさで焦る買い手が扉を引く手に力を込めたために、ロッカー全体が倒れる事故が相次いだ。三十代のサラリーマンと二人の女子高生、そしてクラブDJを自称する二十代の男が一斉に扉を開けようとし、渋谷の地下街にあるゴルフバック用の大型コインロッカーが倒れ全員が死亡したのは先月の三十日のことである。ロッカーからは末端価格で五千万円はくだらない鉄アレイ一トンが押収された。警視庁が事の重大さを認識したのはこの事故がきっかけだった。
 
 

        ◆
 
 

 車のサイドドアを誰かがノックした。道ばたに座り込んでいた大学生の一人だった。左手で脇腹を押さえながら、携帯電話を差し出している。窓をおろすと、〈きゅ……きゅう、きゅう……〉というかすれ声が聞こえた。舌打ちをしながら答えた。

「アザラシの物まねなら他でやってくれ」

 と、その時、雑居ビルの前に純白のメルセデスが滑り込んできた。辺りをうかがっているらしい一瞬の間の後、ドアが開く。白の麻のスーツ。黄色のベースボールキャップ。エルトン・ジョン・モデルのレイバン。――相沢だった。

 ビルの陰から男が走り寄る。縦に細く折り畳んだ紙幣を素早く渡す。相沢が手にしていた紙包みを引き替えに渡す。男は包みの重さに一瞬体勢を崩したが、すぐにゴールデン街の方向へと走り去った。取引現場を確認。令一はブルーバードから飛び出した。まだドアにまとわりついていた大学生が「しゃ……」と言いながら仰向けに倒れた。その上を踏みつけながら相沢の背後に回り込む。

「相沢――」

 煙草に火を点けようとしていた相沢の背中が硬直した。次の瞬間、弾かれたように走り出した。後を追おうとした。しかし足が動かない。下を見ると、RV車から放り出された少女が右足にしがみついていた。

「た、たす……」

「タス通信はロシアだ」

 左足で鳩尾に蹴りを入れる。少女が手を離す。走り出す。しかしすでにかなりの距離があいていた。相沢はリーボックを履いていた。引き替えこっちはリーガルの革靴だ。見る間に差が開く。一瞬ためらった後、右手をスーツの懐に入れた。

「止まれ!」

 規定通り警告を発した。

「止まらんとぶつけるぞ!」

 二度目の警告。条件は満たした。右手を大きく引く。スナップを利かせ渾身の力で前へ振り出す。ぶん、という音と共に繁華街の遅い朝日の中を鉄のコウモリが飛んだ。二十メートル先の白いスーツの背中が鈍い音をたてる。動きの止まった白いスーツが、しばらくして膝から崩れ落ちた。

「相沢栄吉、度量衡法違反並びに違法鉄アレイ売買容疑で逮捕する」

 乱れた息のまま言った。手錠。

「心配するな。二キロのダンベルだ。ぶつかったくらいでは背骨は折れない。署で手当をしてやる――」

 足下のダンベルを拾い上げ、背広の中のホルダーに納めながら声をかける。相沢の顔に驚愕の表情が拡がった。

「あん……た……が……ダンベル……刑事……か……」

「違う」

 令一は答えた。

「『ダンベル刑事さん』だ」

 鳩尾に蹴りを入れる。相沢は気を失った。
 

 ――つづく――


 
 
 
 
 
 
 
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