書斎の抽斗



ネタにしきれなかったあれこれ




トップページへ | 書斎へ | バカウォルドの部屋へ |



聞けそで聞けない


 その寺では夕餉の後、明け方まで数時間おきに小僧が位牌堂を見回るのが決まりになっていた。当番の小僧が一人で見回りを行うのである。古い寺だけに位牌堂の広さはなかなかのもので、歴代住職の模像に向かって十列ほど、それぞれ三、四十家分ほどの位牌棚が上下二段で並んでいる。その一つ一つを、懐中電灯や手燭で――懐中電灯のあからさまな光線はかえって恐怖感を高めるため、手燭を使うものが多かった――確かめながら巡回するのが常であった。

 寺の建物というのは思いのほか乾燥している。彼岸や盆のような時期は檀家たちがおのおのの祖先のために蝋燭や線香を上げに来るだけに、この巡回にも意味が感じられた。だがそれ以外の時期に、なぜこれほどまでに念入りな巡回を行わねばならないのか、寺に入ったばかりの小僧たちは決まって疑問を抱いた。だが数ヶ月もせぬうちに彼らの大半はその意味を身をもって理解し、それができなかった者も同輩らの話を通じて頭で知り、遅からず身をもって体験することになった。

 要するに位牌が倒れるのである。見回りをしているうちに、どこからか――中には目の前でそうなった、という者もいたが――「パタリ」という音がする。音がどこからしたのかは当然わからない。耳の記憶をもとに小僧は心当たりの位牌棚を一つ一つ確かめていく。やがて音のもとを見出すのである。位牌は必ず正面に向かって、あたかも誰かが丁寧に伏せたかのように倒れているという。

 小僧はそこでその家の名を確認し、その屋号や場所を思い出す(小僧が近在の家の出身ならば自然と身についていたし、そうでなければそれを覚えるのが第一の修行であった)。そして足早に住職の寝んでいる小部屋へと赴き、襖の外から声をかける。声のかけ方も決まっている。「和尚さま、和尚さま、○○さんの家の位牌が倒れました。ご用意をお願いいたします」。和尚は即座に目を覚まし、衣と袈裟を身に着ける。用意が整ったころに――その家の遠近によって若干の時間差はあるが――庫裏の玄関に小僧が告げた家の使いの者がやってくる。あるいは電話をかけてくる。「和尚さま、和尚さま、先ほど我が家の○○が亡くなりましたので枕経をお願いいたします」。

「そうですか。さきほど位牌が倒れたという話を聞きましたので、ご連絡があるかと思っておりました」――静かに和尚は応え、速やかに不幸のあった家に向かう。当然ながら供は見回り当番の小僧であった。


――ありがちな話だ、と、話を聴いていた少年は思った。小学校の中学年とはいえ、かねてより伝説や民話の類が好きだっただけに、この手の話はさんざん読みも聞きもしていた。俗な怪談だとしても出来が悪い。近在の寺で夏休みに開かれる林間学校にいけば、もっともっと怖い話が夜話としていくらでも出てくる。以前似たような話を何かの雑誌が掲載していたが、その記事にしても、読者を怖がらせるための巧みなギミックが豊富にちりばめられていた。

 ここで少年は改めて気づく。別に今は怪談の席ではないのである。目の前にいる女性の実家について、どんなところか話を聞いていただけなのである。東北では指折りと言っていい曹洞宗の古刹であった。少年も何度か行ったことがあった。その寺にまつわるあれこれを聴くうちに、いつのまにか位牌の話になっていたのである。

 自分の数十倍は知恵も知識も分別もありそうな「大人」であるはずの彼女を見ながら、なぜこれほどまでに真剣につまらない怪談をするのか、不思議で仕方なかった。しかも彼女は、いや話を聞く限り、彼女の親族のほとんどが、「位牌と檀家の不幸の関連性」を、「電池の両極に電線をつなぐと豆電球が点灯する」ということと同じ地平の「当然のこと」として信じている風なのである。延びた延びたと騒がれている平均寿命から考えれば、二十一世紀を生きる時間のほうが長いであろう少年にとっては、にわかには馴染めない話であった。

 語り手の女性は温和なこと限りなかった。目の前にいる少年の面持ちの真意を察していたかどうか、ともかく彼女は話を「位牌と檀家」から「和尚の跡継ぎ」へと転じた。少年にとっては途端に話が常識的になったように思えた。だがどんな話だったか、二十一世紀にいる元少年の記憶は朧である。


 それから数年後のことである。少年の家に遊びに来ていた母方の大叔母が倒れ、救急車で病院に運ばれた。彼女の息子と少年の母親が付き添い、中学二年生になっていた少年は留守を預かることになった。

 小一時間ほどして、大叔母が亡くなったという母親の電話が入った。母親は彼女の最期の様子と死因を伝え、少年に、大至急各地の親族に電話連絡するよう指示した。

 アドレス帖を繰り電話をかけ、事態を伝えるうちに、少年は遠い記憶のかなたで埃をかぶっていた数年前の話を思い出すことになった。少年が涙交じりに事態を伝えているにもかかわらず、電話の向こうの親族は誰も大叔母の死を驚かなかった。夢の中であったり、寝間の戸障子の向こうの影法師としてであったり――形態はさまざまであったが、親族たちは悉く、前夜遅くから明け方にかけて大叔母の魂とでもいうべきものの訪いを受けていた。

 電話をかけ終えて、少年はもう一つ思い出した。つい前の晩の食事の席での大叔母の話だった。「数日前、寝ているところに姉が遊びに来て、しばし昔話に花を咲かせた」――。大叔母の姉とは、数年前に位牌の話を少年に聞かせ、それから程なくして世を去った少年の祖母であった。


 大叔母の死を伝えたとき、寺側の電話に出たのは住職の妻――少年の母の義理のいとこにあたるが、直接の血のつながりはない――だった。他の親族と違ってというべきなのか、彼女においてをや、と言うべきなのか、ともかく少年が聞いたのは、「今朝は屋根で烏がずいぶん騒ぐので、なにかあるだろうと思った」という言葉だった。

 二十数年が過ぎた。位牌がどうだったかについて、少年は今も聞けずにいる。

02年08月12日 01時00分00秒


購読意欲


 言い古されたことだけど、業界紙のタイトルというのは本当に面白い。「雑誌新聞総かたろぐ」という、日本で刊行されているあらゆる雑誌、新聞を総覧できる分厚い本があるのだが、ページをめくる度に思わぬ収穫があるので、よく仕事中に読みふけってしまう。

 思わず購読を申し込みたくなるような魅力的な紙誌名は建設業界に多い。たとえば『季刊土木コンクリートブロック』。コンクリートブロックネタだけで年四回刊。大丈夫なのか。もしかしたらブロック業界では、我々の想像を絶する技術革新が相次いでいるのだろうか。まあ、単に春物とか冬物といった季節物があるということかもしれないが。

 『鐵骨』というのもある。1983年の創刊なのにタイトルが旧字。職人の心意気が伺える。『コンクリート年鑑』と『月刊生コンクリート』の二誌には、『相撲界』と『VANVAN大相撲』のような微妙なベクトルの違いがありそうだ。

 化学関連では『表面』が一押しだ。『表面科学』とか『表面技術』なんてのもあるから、理系の人には当然過ぎる名称なのかも知れない。でも、「深層心理」とか「言葉のウラ」を巡って酒場でつかみ合いになることも少なくない文系哲学科出身者としては、あえて「表面」のみにこだわり続けるその潔さが眩しい。

 医学関係は臓器の名前をズバリ掲げた雑誌が多い。確かめはしなかったが、たぶんすべての臓器名を冠した雑誌があるに違いない。気になるのは刊行回数で、たとえば『心臓』は月刊なのに、『動脈硬化』は年9回発行、『心電図』が年8回で『人工呼吸』は年2回。『循環科学』にいたっては1998年に休刊している。どんどん心細くなる。まるで救急救命室にいるようだ。

 『ソーダと塩素』とか『接着』とか、他にも魅力的な紙誌名は多いのだが、今のところ僕のナンバーワンはこれだ。





 『海苔速報』





 『漬け物新報』を僅差で押さえての勝利である。

99年08月13日 20時17分19秒


まだ間に合う行楽


 最近はアメリカンサイズの店が増えたので、だいぶ軽減されたが、身長が183センチあるおかげで衣類には結構困ることが多い。中でも困るのはスキーウェアだ。流行を追う方ではないので、数年に一度買いにいく程度なのだが、とにかくサイズがなくて苦労する。

 その昔、あまりにサイズがないものだから、腹立ちまぎれに「日本人の平均身長は伸びているのに、なぜ大きい人用のウェアがないのか」と罪もない店員にねじ込んだことがある。ところが敵もさる者、こう言われて見事にへこまされた。曰く、「ウェアはちゃんと製造されている。ただ流通量が需要とトントンなので、すぐに売り切れてしまうのだ。遅く買いに来たあなたが悪いのであって、メーカーが悪いのではない。嘘だと思うなら来年ニューモデルが発売されたらすぐに店に来てみるといい」。

 なるほどと思って、翌年の夏の終わりにその店に行ってみた。すると、おお、確かに大きいサイズのウェアが豊富に並んでいるではないか。カタログに載っているすべての柄が選び放題である。うーむ、やはりあの店員の言っていたことは本当だったのか。いやすまなかった。これは一言詫びねばなるまい……そう思って店内を見回した瞬間である。周囲の光景に思わず全身に鳥肌がたってしまった。

 ……でかいのである。そこにいる客全員が。十数人いる客のすべてが、僕より背が高く場合によっては横幅もはるかにある。みんな血中体育会濃度が高そうだ。普段なら向かい側にいる人の顔しか見えないであろう陳列棚の向こうに、よく鍛えられた広い胸板が見える。まるで壁だ。そんな壁たちが、他の壁よりも早く気に入りの柄をゲットすべく、血走った鋭い目つきで店内をのしのし歩き回り、ウェアをぶんぶん試している。怖い。本当に怖い。そういえば店に入った瞬間、なんかこの店、前より狭くなったんじゃねえか、なんて思ったのだが、とんだ錯覚だった。

 勇を鼓して、しかし可及的速やかに、適当なウェアを選んでダッシュでレジに持っていった。去年の店員がいた。「いやあ、ほんとに早い時期だとサイズがありますね」というと、彼は無言のままニヤリと笑って見せた。

  たぶん壁たちの買い物ラッシュは、ほんの数日で終わるのに違いない。そして彼らが姿を消した頃、普通の人々が普通サイズのウェアを買いにやってくるのだろう。なんとなくアフリカの水場を思い浮かべた。まずゾウやサイが水浴びをして、その次に肉食動物が、最後に鳥たちが……というあれだ。

 実はそれ以来ウェアを買い換えていない。じゃああれ以来怖い思いをせずに済んでいるかというと、違う。その少し後から、新宿・某百貨店の「大きい人のフロア」で買い物をするようになったからだ。そこではシーズンはじめだろうが真っ最中だろうが、常にあのときのような壁たちが、国会議事堂の上から顔をのぞかせるゴジラよろしく、陳列棚の上に広い胸板とごつい顔をのぞかせてのし歩いているのである。

 この夏、子供に「富士ガリバー王国」につれて行けとせがまれながら果たせなかった人に、デパートの「大きい人のフロア」探検をお勧めしたい。

99年08月13日 17時31分45秒




定数是正


 なんの脈略もない話で恐縮だが、国会議員の数をもっと増やしたらどうだろう。

 キリのいいところで一万人にしてはどうか。いちまんにん。国民12000人に一人の割合で選ばれる計算だ。絶対いいことだらけになると思う。

 真っ先に、「政治的無関心」が解決できるはずだ。なにしろ交通事故に遭うより高い当選確率である。平和に暮らしていた自分が、ちょっとした不注意のために選挙に担ぎ出され、議事堂へ運びこまれてしまわないとも限らないのである。凄い緊張感だ。きっと誰もが、道を走る車に向ける以上の注意を政治に向けるようになるに違いない。

 12000人に一人を選ぶとなれば、選挙区は行政区域を無視した純粋な人口割りにせざるをえないから、「一票の格差」が解消される。候補者もほとんどが町の有名人レベルになるわけで、対立の構図も「魚政の留さんvs.町内会長の田中さん」といった具合だ。いやでも有権者の投票意欲は高まるに違いない。紅白の視聴率を超える投票率も夢ではなくなるだろう。

 現代日本政治の最大の問題とされる「派閥の弊害」もこれで解消だ。なにしろ一万人も議員がいるのだ。本当に威力が発揮できる派閥を作ろうと思ったら、最低でも500人は集めねばならない。盆暮れに所属議員に配る「モチ代」だけで破産してしまうではないか。馬鹿らしくて誰も派閥なんか作ろうと思わないはずだ。

 圧巻は本会議だ。議場にに勢揃いした一万人の議員たち。壮観だ。代表質問中のヤジ合戦は、パ・リーグの応援を遙かに凌ぐ大音響になるだろう。しかもヤジるのは全国津々浦々からやってきたネィティブ・方言スピーカーだ。およそ噛み合わない悪口雑言が飛び交うに違いない。

 やがて事態は乱闘騒ぎへと発展するかも知れない。議長席めがけて殺到する数千人の野党議員。議長を守ろうとするやはり数千人の与党議員。K-1もプロレスもとうてい足下に及ばぬ壮絶なバトルロイヤル。群衆の前にはどんな武術の達人も無力だ。人々の波に飲み込まれる猪木の延髄斬り、旭道山の張り手、そして橋本聖子の太股。素晴らしい。ハリウッドが束になってもかなわないスペクタクルである。

 派閥の力学も武力も通用しない一万人国会。もしこの混乱を鎮められる者がいたなら、その人物こそ、我々日本人がリーダーに戴くべき真の英雄に違いない。

99年08月13日 12時07分33秒






トップページへ | 書斎へ | バカウォルドの部屋へ |