遠い昔の話しです。

 薄幸な少女がいました。
父親は生まれたときから、その顔を知らず、五体満足に生まれているのに、極端に視力が悪く、母親は単なる弱視程度と、彼女が小学校に入るまで、放っておきました。小学校に入り、担任の先生の勧めで専門医に診させてみると、何十万人に一人という奇病の一種で魚眼症と診断されました。人間の眼は、物を見ようとすると、自動的に対象物に対して、焦点を合わせてくれますが、この病気は、その調節するための、レンズが、一般人より硬化しているため、調節することができず、かなりの確率で成人の頃には、角質化してしまいます。いわゆる近視とは違うため、眼鏡で視力矯正もできないのです。

その子の名前は、恵美子といいました。
やせぎすで、色白で、人形のようにくりっとしたかわいい目でした。その目がいつもうるんでいて、色っぽいというのではなく、全くその逆で、少女漫画からそのままでてきたような、夢見るような表情が印象的でした。

彼女と初めて出会ったのは、彼女が14歳のときでした。後で、自分と同い年だと聞いて、余りにも幼顔でとても信じられなかった。出会った場所は、小さな町の図書館でした。その頃の自分は、剣道を始めて2年経過し、弱虫少年だったころが嘘のように、近所の悪がきどもに恐れられるほどに変わっていました。まだまだ満たされない焦燥感と、精神的にも、肉体的にも強くなりたい願望のかたまりでした。マルクスや、フロイト、といった思想、経済、心理学から、宗教書。無節操というか、はちゃめちゃというか、なんでもありの偏見なしで読み漁りました。知識でも誰にも負けたくなかった。 そんな頃に、ときどき見掛ける彼女は、俺の守備範囲ではなかった詩集を好んで読んでいたのです。 彼女は雨が好きだと言うのです。

「どうして、雨が好きなの?」
「あのね、雨が降ると遠くがもやがかかったようになって、よくみえなくなるんでしょう?」
「うん、そうだね」
「そしたら、はっきり見えなくなるの私だけじゃなくて、みんなと同じでしょ。」
「そういうことか。」
「それとね、こういう詩があるの」
雨は青春の句読点・・・・・・・・
「あなたは、突っ走りすぎなの。少しは、休むこともしないとだめ。雨はね、神様がくれた休日なの。だから、せめて雨の日は、体もそうだけど、心も休ませてあげないとだめ。」
「はい、はい、分かりました。マリア様」
「ばか。本当に心配してるのに、茶化して」

彼女とは、2年ほどつきあっていました。そして、お互いに16のときに彼女にふられました。 最初の失恋。 夏のうだるような暑い日の夕方でした。いつものように、小さな図書館のすみで、無心に詩を読んでいる彼女の横顔がいつもよりちょっと寂しげに見えた。

「話しがあるの。」
「どうした、改まって。」
「外でましょ」
「この、くそ暑いのに?」
「お願い。」
外に出てもなかなか彼女は話しを切り出さない。ようやく、蚊のなくような細い声で、
「このまま、あなたといたら、きっと私あなたの負担になる。後何年かしたら、失明するかもしれないの。」
「そんなこと、分かってるよ」
「分かってない。外にでるときはいつも、わたしの手を引いてくれる?赤ちゃんが生まれたら、お風呂いれたり、めんどうみれる?」
「なんだよ、いきなり。あたりまえじゃんか、そんなの」
「違うの、そんなあなたを見たくないの。」
「何言ってんだ、医学はどんどん進歩してんだ、それに失明すると決まってるわけじゃあるまいし。」
「現実的に考えて。あなたは楽観的すぎるの。でも、このままだと、これ以上あなたに甘えてると、もっともっとつらくなるのは分かるの。だから、もう明日からあなたのことを忘れたいの。もう2度と会わないで」

と、いきなりどしゃぶりの夕立になった。傘もささずに、二人して濡れねずみになったけど、初めて彼女が泣いているのをみた。目が赤い。いつもは、うるんで、あかちゃんのように透き通ったようなうっすらと青い目なのに。 彼女が負担になりたくないと言う、気持ちは痛いほど分かっていた。一度言い出したら、絶対引かないことも。彼女の前髪が雨で額にこびりついて、小さめな顔がよけい小さく見えた。 「なんだい、雨は青春の句読点?このどしゃぶりが?」 と、捨てぜりふで、二度と振り向かずその場を去った。それが、最後にみた彼女の顔だった。