〜〜歴史に名を残したクラリネッティスト〜〜



ヨハン・クリストフ・デンナー
(1655-1707)
ニュルンベルクのイェーガーホルンのドレーアー(狩猟ホルンの管巻き)であったハインリヒ・デンナーの息子として、1655年にライプツィヒで生れる。
父親にホルンの管巻きの技術などを教わり、すぐれた優秀な楽器製作者になる。記録によるとデンナーは音楽家でフルート製作者であったとのこと。
デンナーはブロックフレーテ(栓のついた笛、リコーダーのこと)、オーボエ、ファゴットなどを製作した。
デンナーは数々の木管楽器の改良も行い、古いシャリュモーを改造しクラリネットを発明したとされている。
彼の息子、ヤーコプとマットイスも楽器製作者として、また音楽家として活躍している。



ヨゼフ・ベーア
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1790年頃からウィーンで活躍していた奏者。
モーツァルトの最後のピアノコンチェルトはこのベーアの音楽祭に客演するために作られた。モーツァルトとベートーヴェンの頃、同じ時期にヨゼフ・ベーアという同姓同名のクラリネット奏者がいたらしい。ベートーヴェンはこの両名と面識があったとのこと。



アントン・シュタードラー
(1753-1812)
ボヘミアに近いオーストリアの国境の町ブルックに生まれたクラリネット名手。

シュタードラーが弟のヨハン・ネポムク・フランツ(1755-1804)(弟もクラリネットの巨匠)とともにウィーンで宮廷の管楽合奏団にフリーのベース奏者で1782年に採用された。当時ウィーンでは、宮廷オーケストラには正式なクラリネット奏者はもたず、客演奏者だけであった。その客演奏者にシュタードラー兄弟がいた。
シュタードラー兄弟は1787年にウィーンの宮廷オーケストラ(ホーフカペレ)に正式に採用される事となる(1799年まで在籍)。

シュタードラーはクラリネットの低音域を好み、弟に首席を任せ自分は2番吹きをしていたようである。
シュタードラーは通常のクラリネットより低い音が出るバセットクラリネットを発明し使用していた。モーツァルトの五重奏曲と、協奏曲はこの楽器のために書かれたと考えられている。
またシュタードラーはバセットホルンの名手でもあり、通常のF管以外にG管のバセットホルンも使っていた。モーツァルトはバセットホルンの作品もシュタードラーのために多数残している。

モーツァルトは1781年から死ぬまでの10年半ほどをウィーンで暮らしたが、シュタードラーとモーツァルトは特別仲のよい友人であり、シュタードラーはモーツァルトの家に入りびたり、ふざけあう仲間であった。モーツァルトはフリー・メーソン(秘密結社)のメンバーであったが、シュタードラーもフリー・メーソンのメンバーであった。
シュタードラーは借金で首の回らないモーツァルトから借金をして、しかも返済しなかったとされている。そんなシュタードラーのためにモーツァルトは数々のクラリネットの作品を書いているのである。
モーツァルトの晩年に書かれた五重奏曲と協奏曲はシュタードラーとの出会いがなければ生まれなかったであろう。
ところで別の資料ではモーツァルトの最後の3年間、1789年から1791年は経済的に貧困であり、そのモーツァルトに惜しみなく支援の手を差し伸べたのがシュタードラーであり、その感謝の気持ちで五重奏曲と協奏曲を書いたとの説もある。

モーツァルト最後の歌劇《皇帝ティートの慈悲》にでてくるアリア「いきますとも、いとしい人」では、クラリネットとバセットホルンによる名人的なオブリガートを書き、このオペラのプラハでの初演にシュタードラーを同行し、彼に多大の栄誉を浴びせさせたのも、モーツァルトのシュタードラーに対する感謝の気持だった。そのほかにもピアノ協奏曲などクラリネットを使った作品があるが、それらのほとんどがシュタードラーが演奏する事を前提として作曲されている。

モーツァルトの時代のクラリネットはまだまだ現在のよう美しい低音が出せていたわけでないと思われるが、モーツァルトの作品ではクラリネットの低音部が見事に使えているのはシュタードラーのテクニック・音楽性が非常に優れたクラリネット奏者であったのかということであろう。
モーツァルトがクラリネットの性能を熟知できたのもシュタードラーのおかげなのである。



ヨーゼフ・キュフナー
(1776-1856)
ウェーバーに名曲を書かせたハインリヒ・ベールマンと同時代にベールマンと同じくバイエルンにいたクラリネット奏者。



ヨハン・ジーモン・ヘルムシュテット
(1778〜1846)
ヘルムシュテットは軍楽隊員の子息として生まれた。のちにゾンスタ−スハウゼン宮廷楽団の楽長となる。
ヘルムシュテットのフィンガーテクニックはずば抜けていたらしく、ウェーバーなどから絶賛された。
シュポアはヘルムシュテットのために4曲の協奏曲を書いている。シュポアのクラリネット協奏曲第1番は数週間で出来上がった。しかしキーの少ない当時のクラリネットでは演奏が困難極まりない作品であったが、ヘルムシュテットは過酷な練習で克服してしまったらしい。この曲を演奏するためにヘルムシュテットはクラリネットのシステムの改良も試み、大きな功績を残したのである。
ちなみにヘルムシュテットの死因はクラリネットの過酷な練習のよっておきた喉の病気であった。



ハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマン
(1784-1847)
1784年にドイツ ポツダムに生まれ、ウェーバーより2歳年上。
ベールマンは当時の2人の偉大なクラリネット奏者、ヨゼフ・ベーアとフランツ・タウシュ(ベーアとともに当時世界で初めての名人と言われた優れた奏者)に教えを受けた。
10代半ばからベルリンの軍楽隊に所属し、1807年からはミュンヘンの宮廷管弦楽団に移って首席クラリネット奏者として活躍。また各地を演奏旅行し名声を博した。
ベールマンは美しい音色、すぐれた技巧ばかりではなく豊かな音楽性を兼ね備えていた。当時の演奏スタイルは柔らかい音色で表現するドイツ様式と、華麗で技巧的なフランス様式があり、ベールマンは10鍵クラリネットを手に入れ、このドイツとフランスの異なるスタイルを手に入れた。
その演奏はマイアベーアやメンデルスゾーンを驚かせ、ウェーバーはコンチェルト2曲、コンチェルティーノ、自作オペラのシルヴァーナの主題によるクラリネットとピアノのための7つの変奏曲(1811年)、クラリネット五重奏曲変ロ長調(1815)、ピアノとクラリネットのためのグラン・デュオ・コンチェルタント(協奏的大二重奏曲1815〜16)を作曲した。グラン・デュオ・コンチェルタントはベールマンと同時期に活躍したヨハン・ジーモン・ヘルムシュテットのために作曲したとの説もある。メンデルスゾーンはベールマンのために演奏会用小品2曲を作曲した。
またベールマンは作曲も良くしたようである。
彼の息子、カール・ベールマン(1811-1885)も優れたクラリネット奏者で、ミュンヘン王立音楽学校の教授を務めた。



イヴァン・ミュラー
(1786-1854)
レーファルで生れる。
ドイツで名クラリネットとして認められ、1809年にパリへ行く。パリで自分で改良したクラリネットを認めさせるためであったが、失敗。その後1820年にロシアへ向かい、その3年後ドイツに帰る。スイス、イギリスなどをへて1830年に再びパリへ行き、1854年にビュッケブルクで亡くなった。墓は今でもイェーテンブルガー墓地に残っている。
ミュラーのクラリネットは、美しく、優雅で優雅なフレージング、情熱的な演奏であったらしい。クラリネットの教則本とコンチェルトは当時非常にもてはやされたらしい。



イアサント・エレオノール・クロゼ
(1808-1880)
コルフ(ケルキラ)島で生まれた。
若い頃フランスに渡り、クラリネット吹きとして軍楽隊に入団。フレデリク・ベル(一流のクラリネット奏者)のもと研鑚した。ベルのあと、パリ音楽院の教師となる。
美しい音と模範的なフレージングで非常に高い評価を得ていたが、祖国をでて演奏旅行などは行わなかったらしい。クロゼは弟子の教育に熱を入れた。クロゼの教則本、独奏曲などは多数あり、多くの教則本は今なお利用されている。
クロゼのクラリネットの歴史での功績は、ベームのリング鍵システムを応用して作ったクラリネットである。この楽器はほとんど変更されることなく現在に至っている。このシステムはドイツ式クラリネットへも影響を与えた。



リヒャルト・ミュールフェルト
(1856-1907)
マイニンゲンの宮廷オーケストラにいたクラリネット奏者。17歳のとき当初ヴァイオリン奏者としてマイニンゲン宮廷楽団に入団し、独学でクラリネットを習得し、1879年からマイニンゲンの宮廷オーケストラ(ハンス・フォン・ビューロー指揮)の第1クラリネット奏者となった。クラリネットの技巧は完璧に近く、ヴァイオリン的表現をもち、甘美な音色を持ち、解釈も優れていたらしい。
ミュールフェルトの音は聞くことはできないが、1年余りも創作をたっていたブラームスに再び創作意欲を呼び起こさせたのであるから、相当に甘美な音色であったのだろう。ブラームスは1891年3月にマイニンゲンを訪問した際、ミュールフェルトの演奏を聞き(曲はくしくもモーツァルトの五重奏曲であったといわれている)、彼はすぐにクララ・シューマンに「当地のミュールフェルト以上に美しいクラリネットを吹くことはだれにもできません」と手紙をだしている。
ブラームスのおかげでミュールフェルトは数多くの演奏旅行を行い、名声を博した。ちなみにブラームスはミュールフェルトを人に紹介するときは、クラリネットのプリマ・ドンナ、と紹介したとの事である。
ミュールフェルトはまた、1884年から1896年のあいだ、バイロイト祝祭オーケストラの首席奏者も務めている。



オスカール・エーラー
(1858-1936)
ドイツのアンナベルクで生まれた。15歳でオルガン製作者のもとへ奉公にでる。そこでクラリネットの知識も習得していく。
1881年にドイツへ帰り、ハンブルクのライベ管弦楽団に入団。また、ベルリンフィルの共同創設者の一人となり、1888年まで楽員を務めた。
エーラーは旅で多くの名クラリネッティストに出会った。ミュンヘンで活躍していた、カルル・ベールマン、カッセルで活躍していたA.ネフ(ヘルムシュテットと一緒にシュポアの指揮で演奏したことのある奏者)など。
ベルリン・フィルで活動しながら、エーラーはマウスピースの製作、クラリネットの改良に着手し、ついに、楽器製作に傾注することとなり、立派な功績を残した。



ルイ・カユザック
(1880-1960)
フランスのクラリネット奏者。同時代のオネゲル、ミヨーらの新曲を初演、ドビュッシーの第1狂詩曲を協演したり、またブラームスの作品をフランスに普及させようと努めていた。外国での演奏も多くしている。コロンヌ管弦楽団などで首席奏者を務め、晩年まで演奏しつづけている。ヒンデミットのコンチェルトを作曲者の指揮で録音したのはカユザックが78歳のときである。
カユザックは作曲も行なっている。
20世紀の名プレーヤー



ベニー・グッドマン
アメリカのジャズクラリネッティスト。ベニーグッドマン楽団を設立し、人気を博した奏者。
当時の作曲家への影響を多く与え、彼のためにかかれた曲は多数ある。バーンスタインのソナタやプーランクのソナタなど重要な作品の初演も数多く手がけた。カーネギーホールでのリサイタルも行なっている。



※このページの内容はクラリネット・ハンドブック及び多くのCDジャケットを参考に作文してあります。