脳の障害:「博士はあなたの隣にも」


「僕の記憶は80分しかもたない」。博士はそう書いたメモをいつも上着にとめている。 新しく来た家政婦の似顔絵も、難解な数学の解も、大事なことはメモにして上着につけている。

将来を期待された新進数学者だった。 そんな博士が、かつて自分が発見した定理は覚えているのに、新しいことを覚えられなくなった。 交通事故で脳に深刻なダメージを受けたからだ。

小川洋子さんの小説「博土の愛した数式」は、博士と通いの家政婦親子との交流を描いたベストセラーだ。 もし、専門医が博土を診察したら、「高次脳機能障害」と診断したことだろう。

高次の脳機能とは、脳の申で記憶や言語など高度で複雑な働きをつかさどることだ。 損傷を受けると、記憶の障害のほか、感情のコントロールができない、言葉が出にくい、道具が使えないなど、様 穴な症状が出てくる。

多いのは交通事故や転落、くも膜下出血などで一命を取り留めたあとの後遺症である。 救命救急の医療の進歩に伴って、この十数年で急増している。

それゆえ正確に診断できる医療機関が限られている。 体のまひなどを伴っている場合は身体障害者として支援を受けているが、記憶の障害などは外見からわか りにくいこともあユて、多くの人が福祉サービスを受けられないでいる。

全国に30万人いると推計されるが、実態はつかめていない。 東京都や長野県などが独自の調査に取り組んでいるが、まだ一部の自治体にとどまる。 制度の谷間に置かれている人たちが身近なところにどのくらいいるのか。 まずは、すべての自治体に調査を急いでもらいたい。

仙台市の市民団体「高次脳機能障害者を支援する会」は、市の補助を受けて医療機関や弁護土らと連携しながら当事者と家族を支えている。 独自に編み出したのが3段階方式だ。

退院してすぐの第-段階は、献立作りや料理を通して日常生活を営めるまでの回復をめざす。 第2段階は屋外の活動が中心だ。体力の向上や集中力、チームワークの力などを培っていく。 第3段階は就労に向けて準傭する。杜会復帰を果たすまで5年がかりの行程だ。

大学生のときに交通事故にあった31歳の男性が、「支援する会」を訪れたのは4年前だった。 二つのことが同時にできず、記憶力も衰えていた。 けれども、毎日、日記をつけ、どんなことでもメモをとるのを習慣にした。 昨年秋にはヘルパー2級の資格をとって、高齢者のデイサーピスセンターで働き始めた。

現在、63人が「支援する会」に支えられて杜会復帰への道を歩んでいる。

交通事故だけでも年間100万件に迫る。 高次脳機能障害の人たちは正しい診断と適切な支援があれば、着実に回復することがわかっている。 手をさしのべるのは自治体の責任ではないか。都道府県に最低ひとつ、診断と支援の拠点を育ててほしい。
(2005年3月1日 朝日新聞より)

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