大量消費時代の終焉

 

 

大量消費社会の終焉

・大量消費社会の終焉

 世の中不況だ。もうづいぶん続いているが一向に回復の兆しはない。このような時、以前なら輸出の拡大で乗り切って来たことが多いのだろうが、

 101円というとんでもない円高は海外はもっと景気が悪く、それもままならないことを示している。アメリカもヨーロッパも以前から景気は悪くなっていた。当時日本だけは別であるとして平成景気を謳歌した訳だが、バブル崩壊と共に見事に化けの皮が剥がれたようだ。この世界的な不景気の原因は、ズバリ地球環境問題ではないだろうか。地球環境問題は戦後の景気拡大を根底で支えてきた大量消費文明を、ナウいものからかっこ悪いものに一気に引きずり降ろしつつある。

 西欧近代文明は、経済規模の拡大によって国民の生活水準を幾らでも引き上げることができるという楽観的な見方を前提にしてきた。地球環境問題はそれにNOを突き付けたわけだ。化石燃料の消費によりさまざまな自然の産物や自然そのものを加工して、物質的な面から人間の生活を快適なものにしようとするこの文明にとって二酸化炭素の発生は必然であり、それは地球温暖化に直結してしまう。したがって、今の先進国の生活水準をすべての人類に実現することは不可能である。建前上ではすべての人類に西欧文化的な生活を補償しようとする近代のヒューマニズムはここに挫折する。

 

・未来なき途上国

 産業革命が成功したのは単に技術が進歩したからではない。交通革命は交通の革命ではなく、より広範囲の地域から搾取する手段の実現であり、まさにその点において成功したのである。ヨーロッパにみられる立派な住宅や公共施設は100年前の搾取の結果に過ぎない。工業化は大量の失業者を生み、賃金を低下させ恐慌を発生させるはずであったが、当時の失業者の多くが(数千万人)『新大陸』に移住し新たな生産手段を獲得することにより、それは阻止され産業革命は成功した。ヨーロッパのゆったりとした(すなわち人口密度の低い)優雅な生活はネイティブアメリカン(インディアン)の虐殺と引き換えに『新大陸』を獲得した結果である。工業製品が世界に売れたのは、当時ヨーロッパのみが工業化したため競争相手としての世界のあらゆる手工業を駆逐したためであり、途上国の失業増大と引き換えにされたものである。

 多くの途上国が先進国からの援助を受け入れ、工業化を目指して大変な努力をして来た。しかし、その結果は機械化の進展による大量の失業者と破壊された自然と累積債務と世界的な一次産品生産過剰によるデフレだった。工業化が人々に富をもたらすのは失業者に新天地が、工場に市場が与えられる場合だけである。

工業化を目指す今日の途上国にとって、都市にあふれる失業者を救う新天地も、高値で工業製品を買ってくれる植民地も存在しない。彼らにはヨーロッパ的未来は存在しないのである。

 

・労働の意義の変化

 加工する対象となる自然が存在しなければ労働意欲も技術も存在意義はない。人類誕生以来、自然の総量に比べ労働力と技術力の積が十分小さかったため労働は重要で貴かった訳だが、人口と技術がともに飛躍的に拡大してしまった今、自然を加工対象とする労働の貴さは急減したと考えるべきだろう。手工業の時代、生産量は何よりもまず労働者数によって制限されていた。

 西欧近代文明はこの制限を技術力によって取り払ったわけだ。わずかな数の優れた技術者が設計したオートメーションシステムは、大量の資源を消費して大量生産を始めた。自由競争下では生産拡大は価格低下を招き、価格は限りなく原価に接近し利幅は減少する。利益額を確保するためには使い捨てをさせさらに大量の販売をするしかなくなっていく。こうして世の中には使い捨てさせるためだけの新機能を開発させられる哀れな技術者と、欲しがらない人を欲しがらせるためだけに働く悲しい営業マンに満ちあふれる訳だ。『社会的に意味のない=やり甲斐のない苦痛でしかない労働』があまりに多すぎるのはこのためである。

 西欧近代文明はさまざまな形で労働力を家庭から企業社会へと引き出してきた。加工対象である自然が十分にあるときには、家庭から出て企業社会で技術力を生かし生産労働をすることは社会全体の生活水準を引き上げることにつながったわけだが、そうでない今、人は可能なかぎり生産活動から離れるべきではないだろうか。労働も市場における需給によりその価格が決定されるのであるから、人々が家庭に帰れば単位時間当たりの賃金は上昇するはずである。

 大量生産、大量消費と無縁な仕事はまだまだいくらでもある。例えば老人問題。相続税が相対的に低いため、相続を当てにした子世代が老人の消費生活に口出しし、あるいは老人が子を思いやるため、老人の消費は、つつましくなりがちで、それが産業としての老人福祉を抑制しているように思われる。大量の預金を残して、あばら家で寂しく死んでいく老人の事件はその典型だろう。相続税の累進性をさらに引き上げ相続資産がいくらも残らないようにすれば、老人の消費は拡大し老人介護など多くの雇用を創出出来るはずだ。日本の70歳以上の老人世帯の平均資産は約1億。もちろん上位30%が平均2億3000万ももっているがゆえの平均1億だから、すべての老人が金持ちという訳ではないが全体では財源は十分有る。そもそも相続とは自分の生活に必要な水準以上の労働意欲をかきたてるためのものであり、労働が社会にとって貴重であった時代の遺物ではないだろうか。

 日本は基本的に労働鎖国をしており、外国人労働者は『非合法』とされ、その数は極めて少数に押さえられている。このため、日本の失業問題は相対的に小さいが、流入を認めているヨーロッパ、アメリカは極めて大量の失業者を抱えている。(もっとも、最近これらの地域も日本を『見習って』急速に流入制限に転換しつつあるが、)北欧では既に始まっているが、炭素税を重く課せば、製品の価格は上昇し、物は使い捨てずに修理して使い続けようとなる。新品の量産は、大量の資源、エネルギーを消費する割りには雇用は少ないのだが、修理には資源より労働力をより多く必要とする。

 労働時間の短縮により収入は減少するだろう。収入減は浪費を防ぎ、地球環境上はプラスであるが、日本の場合住宅問題は大きな問題として残ってしまう。日本の住宅の高さは地価が3割程下落した現在でもとんでもなく高いものである。多くの原因が挙げられるが、改善可能なのは次のような点である。

 なによりも、固定資産税が低すぎる。これを引き上げれば利用度の低い土地を資産として長期保有するメリットは無くなり、遊休地は放出されるだろう。次に、社宅の禁止である。ILOも日本独自の社宅制度は労働者の 私生活を不当に拘束するものだとして非難している。本来、給与として支払われるべきものが社員の福利厚生の名の下に、企業の資産形成と社員に対する支配強化の道具にされているわけである。また、住宅までも使い捨てにする耐用年数の短さである。何百年も使われているヨーロッパの石の家と比較するのは酷かもしれないが平均25年というのはあまりに短すぎる。最後に、土地を中心にした信用創造システムの問題である。土地があれば金を貸す、無ければ貸さないというこの単純なシステムは日本の異常な地価を軸に異常なマネーの膨張を生みさらに地価を上昇させた。土地の有無で信用が計れるなら銀行の社会的意義は無いわけで、明らかに異常である。首都圏の新規公共事業の場合、費用の80%以上が土地買収費に当てられており、地価が下落すれば交通システムの改善も容易となりこれは同一時間通勤圏を拡大することとなり、地価下落をさらに進めることとなるだろう。住宅価格さえ下落すれば収入減少のデメリットは極めて小さいはずである。

 総労働時間の大幅な短縮、消費の抑制はもちろん不景気を招く。しかし、景気がよいと言うのは例えば年5%で経済成長することであり、これは、15年で経済規模が2倍になる成長である。よほどの途上国でない限り地球環境を考えればこのような成長が許されるはずはない。今後の経済の目標は資源エネルギーの消費を拡大する事なく国民の幸福感を拡大することであるといえるだろう。

 労働時間の短縮の具体的方策は幾つかある。その一つは、長時間労働をしている(長時間の労働を独占している)企業の労働者を家庭に引きずりもどす事である。『男も育児』の意義の一つがここに有る。もう一つは企業の長時間労働による経済的利益を失わせる新たなシステムの創造である。

 一人当たりの固定労務費が残業手当に比べて著しく高いことが長時間労働を生む基本的原因である。一人の雇用には膨大な福利厚生費(社宅経費も含む)、社内教育費、交通費、固定給、交際費が必要であるが、それらに比べて残業代は極めてわずかである。サービス残業においてはそれはなんとただである。これでは、長時間働かせない企業がばかを見る。福利厚生費、交際費が高めになるのは、これらには課税されないからである。給与として支払えば所得税を引かなければならないが、これらの経費の形で支給すれば無税である。残業手当の増率を大幅に引き上げるのも当然であるが、これらの『給与外給与』に課税する必要もある。

 

 

 

・労働の価値と自然の価値

 労働に価値は有るが、自然には無い。水売りの水の価値は水そのものの価値ではなく、水売りが水を汲むという労働の価値であるとされてきた。 自然環境が人口に比べて無限に有る小規模な地域社会では、これでも整合性がつくであろう。しかし、都市と農村を考えるとすぐさまこれは破綻する。農村では自然環境は十分あり、したがって自然から得られた農産物の価格は限りなく労働の価格に近づく。しかし、自然の無い都市では自然の希少性のゆえに相当高価な価格がついてもおかしくは無い。が、現実には輸送にかかわる労働付加価値を足した程度の低価格で売られてしまう。これは大量輸送が本来存在する価値の壁を切り崩しているからである。

 化石燃料は地球環境のストックであり、農産物はフローの収入である。いずれも、労働が生んだものではないがそれ自体価値をもつ。その価値は労働と置換可能な価値である。

 『10人の痩せ地での労働=1人の豊かな農地での労働』であれば、豊かな農地のもつ価値は9人の労働分となる。都市が農村から搾取しているものは農民の労働だけではない。本質的な搾取はこの農地の価値のような価格として評価されない農地そのものがもつ価値に対する搾取である。具体的には、農産物の栄養素の源泉は光合成によるCと土地から得られるP,N,Kであるが、Cは、呼吸による二酸化炭素として大気を通じてリサイクルされ、P,N,Kは糞尿を通じてリサイクルされるべきものである。江戸のような糞尿の輸送を伴わない農産物輸送はしたがって、不可逆的な農地からの栄養分の搾取をおこなっていることになる。

 農村から都市への農産物の大量輸送を行っているにもかかわらず農地がすぐさま破綻しないのは、収奪される土地の栄養素を化学肥料で補っているからである。古代の都市が滅んだ理由の一つはこのような補いなしに都市が農村から農産物を奪い続けたからである。この視点からすると有機農法は糞尿のリサイクルなしには成立しないことになる。もし、それが、成立しているならば、十分小規模なため、他の化学肥料使用農家から有機物を得ているか、有畜であれば、その家畜が輸入穀物を食べているかのどちらかであろう。よく自家用は有機農法で、出荷作物は化学肥料でという話を聞くが、これは当然である。自家用であれば、自家の糞尿、残飯などの有機物で有機農法が持続的に可能であるが、出荷してしまえば出荷した農産物の中の養分は二度と農地に戻ってはこないからである。