環境教育

 

 

 環境問題学習の意義    

@環境問題と公害問題の相違

 70年代の日本をゆるがした公害問題。この多くは解決されているかいないかは別として、解決可能な問題であることは明らかである。水質汚染も大気汚染もその発生源の責任を追及し(PPP原則)発生を技術的に防止すれば良いのである。問題となる物質が高濃度で特定箇所から排出されるがゆえに、その防止は比較的低コスト(僅かなエネルギ−)で済むため防止が現実的に可能となるのである。

 このような性格を持つ公害問題に対して、いわゆる環境問題(地球環境問題)は極めて困難な側面を持つ。地球温暖化の原因の二酸化炭素は人間のあらゆる活動から発生し、その量は極端なまでに大量である。年間の総排出量は数十億トンのレベルであり、この防止は省エネルギ−以外に有効な方法はない。二酸化炭素の固形化や深海投棄が研究されているが、練金術の域を出るものではない。大量の二酸化炭素を僅かなエネルギ−(二酸化炭素の発生)で集め、固形化し投棄することは原理的に不可能なことである。

 二酸化炭素も放射能も発生しないエネルギ−源として太陽電池が注目されているが、この未来も暗い。太陽電池は半導体を重ねた単純な構造であるが、単純であるがゆえに量産によるコストダウン効果は小さく、その価格は半導体を生産するエネルギ−コストに収斂する。このエネルギ−は太陽電池が生産できるエネルギ−に比べても小さなものではなく、エネルギ−的にマイナスだとは言えないものの大量のエネルギ−を生産する手段にはとても成り得ない。そもそも1uに注がれる太陽エネルギ−が、理想状態でも1馬力に満たないことを考えれば当然である。一人乗りのソ−ラ−カ−は可能でもソ−ラ−トラックは非現実的である。

 このように科学技術では解決不可能な問題を人類の今後100年間に突き付けているのが環境問題である。したがって、環境問題とは科学技術上の問題ではなく、もっと社会的哲学的問題であると認識すべきである。

 

 

A近代ヨ−ロッパ思想の限界 

 実験、観察から導かれた法則を自然に適用することにより、自然を利用し支配できるという思想がヨ−ロッパに出現して以来、人々はそれまでの村的な慣習やタブ−を打破し、物質面では科学技術文明を精神面では自由な市民社会を確立した。しかし、「最大多数の最大幸福」は人間の諸活動をどこまでも受け入れる無限の自然の存在が暗黙の前提とされていた。産業革命を中心とした農業も含むあらゆる産業の生産性向上は、本来であれば生産から疎外された無数の失業者を生む筈であったが、その余剰人口数千万は全て「新大陸」アメリカが吸収した。こうして産業革命と市民革命はフランス人権宣言にある「他人を害しない全てのことをする自由」と「侵すことの出来ない神聖な所有権」を曲がりなりにも同時に実現してしまったのである。

 近代ヨ−ロッパ思想は教会や国王の権威を否定し、市民の国家を実現した。しかし、同時にそれは教会や国王が規制していた人々の欲求をも開放してしまったのである。自由主義経済学は労働というフロ−の価値にのみ注目し、地球資源、環境という地球のストックはすべて無視した。労働に対する正当な賃金さえ支払えば(多くの場合それさえ無視されたが)、自然が持つ対価を支払う事なく、幾らでも資源を消費することが許されるようになり、その結果としての財の蓄積も賞賛された。

 限られた地球環境は、このような素朴な自由と所有権が無限定に全ての人類に実現することを許しはしない。これはまさに近代ヨ−ロッパ思想が全ての人類に宣言した理想の限界である。

 

 

B環境教育の展望

 環境教育の意義はこのような市民社会の理想の崩壊を冷静に受け止めさせ、新たな倫理、科学観を育成する点にある。どっぷりと市民社会的倫理観につかってきた我々にとってそれは極めて困難な作業である。しかし、まったく手掛かりが無いわけではない。

 インディアン(ネイティブアメリカン)社会は膨大なタブ−と引き換えに自然との間に極めて安定的な社会を構築していた。もちろんタブ−の厳守は理屈による納得ではなく、自然神や長老の有無をいわさぬ権威であったが、これを守る限り、向上はないが飢えもない社会が実現していた。近代ヨ−ロッパ思想はこの種の権威とタブ−をことごとく否定することによって成立したが、このとき、決して捨ててはならないものまで捨ててしまったようである。実験、観察によって情報を集積し、そこから法則を導く自然科学は、その情報の集積範囲が空間的には拡大できても時間的スケ−ルにおいては極めて限定的なものにならざるおえない。それに対してインディアンのタブ−には何千年にもわたる情報の集積と淘汰が働いている。もちろんそれは地域的に限定された知恵ではあるが、この村のタンパク源としてバッファロ−を何頭獲るべきかについては、今現在の情報だけから判断する科学者の分析より、恐らくインディアンの長老のほうが正しい答えを持っているのではないか。

 インディアンのタブ−には欲求を押さえさせるものが多い。市民社会は人間の欲求を全面的に肯定してしまったが、本来限定的な地球環境の中で無限定な欲求が肯定できる訳はない。ルソ−はインディアン社会の平等な姿に触発され、人間不平等起源論を執筆したと言われている。平等でない社会とは、豊かな者が生存に必要な富以上のものを所有し、消費する社会であるといえる。極めて厳しい状況にある現在の地球ではインディアン的な平等社会の実現が今までにまして必要とされている。

 来るべき低消費、平等社会は市民社会において実現する。新しい市民社会はタブ−のような本人の納得を伴わない規制によるのではなく、環境についての市民個人の深い教養と理解の上に初めて実現するものである。市民の側に理解が無ければそれは全体主義による強制でしか実現しない。ここに環境教育の本質的な意義が存在する。

 市民社会の理想が破綻したのは市民社会の倫理全てに問題があったためではない。市民社会で定められている様々な人と人との約束ごとに、忘れられていた人と自然の約束事を追加すれば良いのである。この人と自然との約束ごとについての学習が環境教育である。個々のインディアンは彼らのタブ−を初めは強制として受け取ったかも知れないが、自然の中で生活するうちに自然との様々な体験の中から文字どうり体得することが出来たであろう。しかし、多くが都市に住む現代社会ではそのような体得は期待できない。教育の中で理解させるしかないのである。そのような教育を欠いた事による暴走が昨今の環境問題の原因の一つであるなら、教育によってこの問題を解決する糸口は存在するように思われる。

 物質的な豊かさを尺度に世界史を発展の歴史であると捉えると、現状は極めて展望の無いものとなる。しかし、そのような歴史観自体を変更することは出来ないだろうか。俗な言い方であるが、物質的な豊かさが心を豊かにするわけではない。小型車の何倍もの排気量の大型車の購入目的は、物質的効用ではなくステ−タスシンボルであることが多い。タ−ボやインタ−ク−ラ−のついたスポ−ツカ−は速く走ることによって経済的利便を提供する為ではなく、単に走るスリルのためだけに購入される。このような社会が豊かな社会であるとはとても言えない。

 持続的発展のためには当然先進工業国は現在よりも消費水準を切り下げる必要があるが、これを直ちに生活の切り下げであると捉える必要は無いのではないか。もちろん飢えるような社会では困るが、貧困と飽食の間のどこかに現実的な妥協点が存在するのではないだろうか。いや、それは妥協ではなく飽食という現代の病からの脱出であると考えたい。

 

C環境問題の解決

 環境問題の展望は暗い。古代文明の多くはエネルギ−と食糧の確保のために周辺の環境を破壊し崩壊していった。現代の近代ヨ−ロッパ文明がこのように全地球に拡大できたのは文明のエネルギ−を生物財から化石燃料中心に切り替えることに成功したからである。この切り替えによって都市周辺の局地的自然破壊は限定的なものとなり、都市は永続的に繁栄できるようになった。しかし、その代償として、人口は急増し都市は際限無く拡大し化石燃料の消費そのものによる地球全体の環境破壊が問題になってきたわけである。具体的な解決策を示すことは極めて困難であるが、方向性を示すことは不可能ではない。例えば、炭素税や二酸化炭素排出権市場の創設を挙げることが出来る。

 ・炭素税の導入。

 すでに北欧の一部の国で導入が始まっているが、化石燃料、木材資源などの炭素化合物(これらは消費、廃棄すれば最終的には二酸化炭素を発生させる。)に税をかけ、これらの消費にブレ−キをかけようというものである。炭素税の比重を増していけば、これらをなるべく消費しない形の産業が優位となり、結果的に環境破壊は減少する。アルミ缶もドライブの為のガソリンも値上がりし、これらの消費は抑制される。輸送コストの上昇は都市に全てを集中させる生産様式に変革を迫ることになるであろう。一方、政府の税収は、この政策による物価上昇によって困窮する世帯などへの援助等に当てることが出来る。

・二酸化炭素排出権市場の創設

 二酸化炭素排出権を人口比で国際的に分配し、それを人口以上に必要とする工業国は途上国から購入するシステムをつくる。途上国はあらたに環境を破壊する工業化を行わなくとも排出権の販売によって国家収入を得ることがでる。環境保護団体は排出権を購入し行使しないことにより、直接的に環境保護と途上国支援を実現することが出来る。

 これらは何れも現在欠けている資源ストックに対する対価を市場経済のシステムの上に乗せようというプランである。一般の市民にとって、特に先進工業国の市民にとっては大きな負担である。このような政策を全体主義的強制によること無く実現するには環境教育による理解が極めて重要である。

 

D環境問題指導上の留意点

・リサイクル

 世の中ではリサイクルを促進すれば、環境問題はかなり解決するのではないかという期待が語られることが多い。しかし、例えばプラスチック製品のリサイクルの意味は殆ど無い。なぜならば、プラスチック製品は基本的に石油が樹脂化しているだけであり、プラスチックを発電設備や熱回収設備のある焼却炉でもやせば、石油を直接燃やしているのと変わらないからである。むしろ、リサイクル時に必要な分別、輸送、再加工が余分なエネルギ−消費を招く可能性がある。十分な炭素税を課せば恐らく何が本当のリサイクルで、何がそうでないかは明確になるであろう。

 

・新エネルギ−

 石油などの化石燃料は極めて濃密なエネルギ−資源である。よいエネルギ−資源とは濃密なエネルギ−資源である。太陽エネルギ−はその点で決して濃密であるとは言えない。このため、太陽エネルギ−を実用的な濃密なエネルギ−にするために高度な装置が必要であり、この過程で生産されたエネルギ−の多くは自家消費されてしまう。同様な問題が他の風力、地熱などの自然エネルギ−にも見られる。エネルギ−の問題は決してエネルギ−総量の問題ではない。どれだけ利用可能な濃密なエネルギ−が存在するかである。このように考えれば、化石燃料以外に今後画期的な新エネルギ−の登場が在り得ないことは容易に予想できる。そういう意味で現代の大量消費文明は、石油の在るかぎりにおいてのみ成立するバブルの様なものであると言える。

 

・環境保護

 完全な原始環境は必ずしも人間にとって生産性の高いものではない。日本列島の原始環境は広葉樹を中心とした雑木林であるが、これが、水田より食料生産面で劣っているのは明らかである。水田は明らかに人工環境である。人間の労働によって様々な稲以外の生態を大なり小なり排除することにより成立している。その代償として気候などの変化要因に対しては脆弱になりがちである。人間の支配を離れた「たわわに実る野生の稲」は従って存在しないことになる。

 このような視点からすると「完璧な環境保護」は大量の人間の生存とは両立しない。環境保護は常に何のための環境保護かが問われるわけである。ここでは動物愛護的な情緒的視点のほかに冷静な経済的視点も必要である。