都市の豊かさ 農村の貧困

 

 都市豊かさ 農村の貧困

・・ 都市の肥大と農村の貧困をエントロピーから考える・・(未完論文)

 人々が農村を離れ、都市に人口が集中している。日本だけではない。アメリカの大規模農業でもヨーロッパでも途上国でも同様である。食糧を生産している農村で「食えず」、生産していない都市で「食える」のはなぜか。

・豊かな自給兼業農家、貧しい大規模専業農家

 日本で農業は食える仕事ではない。しかし、農家は多い。それでは彼らは貧しいかというとそうではない。日本の農家の収入は兼業収入を合わせるとサラリーマン世帯より多い。不動産売却収入まで含めると相当多い。これは世界的には例外的であり、アジア各国の農業リーダーはその手法を学ぼうと日本の農村に研修にやって来る程である。もっとも、日本でも本当の農家である専業農家の生活は厳しい。とてもまともに生活できない程である。それでは、生活できている多くの農家はどのような農家かかというと、農業収入が無いか、兼業収入より少ない農家。要するに自給的な農家である。

 日本は地方への投資が相対的に大きく、それが直接、間接に農家の兼業収入を可能にしている。道路を建設すれば建設労働者としての雇用が出現し、完成した道路と安価な労働力は中小ではあるが様々な工業を呼び込む。農地の改善事業は、単収こそ増加させないが雇用を生み、何より高齢化してた農村でも小規模な機械化によって耕作継続を可能にした。こうして日本は地方のある程度の環境破壊と引き換えに自給的な農業の生き残りを可能にしたのである。もちろん、多くの農家が生き残ったため、規模拡大は進まず大型機械で効率化を図ることのできた農家は少ない。しかし、自給的な規模の農業こそが実は効率が高いのである。

 農業における機械の導入は単収や収入を増やしてくれるわけではない。労働時間を減らすだけである。機械が労働時間を減らすが収穫は同じ。もちろん収入は増えない。増えるどころか単位面積あたりの収入は機械の経費分だけ確実に減少する。機械化することで農作業が楽になり、それで生まれた空き時間を他の仕事に振り向けようかというようなのんびりとしたものではない。大量の現金を消費する機械が入ったのに収入が増えないので、機械が入った分、他の仕事を強制されるのである。農業における機械とは農民を農的なものから引き離し、商工業への就業を強制するものでしかない。規模をいくら拡大しても単収は増加しないため、機械化すればするほど、農からは疎外されてしまう。しかし、農業規模が自給範囲であれば機械は最小限で済み、面積当たりの収穫のなかの手取り分は最大となる。

 自給による生計費の節約効果は現金収入の増加と等価である。一つの村の中での農地が生み出す収入の総計が最大になるのは、農村人口を増やし自給的面積まで農地を細分化し、多くの家庭で自給分だけを生産し、生計費節約という形で収入を増やした場合である。逆に最も少ないのは、全ての農地を大規模な機械によってひとりで耕した場合である。規模を大きくするほど単収(単位面積当たりの収入)に占める機械の経費も農産物の製品化に伴うコストも増大するからである。

   農産物の製品化のコストは自給の場合は限りなく0に近い。生産物のすべてが最小限の労力で利用可能であり家計に寄与するからである。顔の見える関係の産消提携であれば多少の虫食いやキズでも商品にできるが、自給の場合に比べれば気も使うし、手も使う。輸送による痛みもあり結果的に廃棄分が生じる。市場に出荷する場合は、最大限に気も使い手も使い廃棄分も最大となる。市場に出荷される野菜に対する労働投入の半分近くが、生産そのものではなく、選別、洗浄、梱包、輸送など出荷にかかわる部分であるといわれている。農産物は市場に出荷すればする程、無駄な労力も廃棄分も多くなり、農地の単位面積当たりの効用は低下する。

 

・現代都市の富の源泉

 前近代社会の富の源泉は農林水産物であった。当時の都市はそれらを農村から搾取することで豊かさを実現していた。強大な権力でそれを行ったのが古代都市であるが、それは、当時の軍事力と奪い取った農林水産物の輸送手段の限界内を搾取しつくし滅んでいった。 現代都市は化石資源を利用することで、従来の権力だけで搾取する手法に加えて、化石資源の持つ低エントロピー性を生かし、投入労力の割に使用価値の大きな工業製品を生み出し、これと農林水産物を交換することで、有利にしかも被搾取者の欲求によるため安定した搾取を実現した。

 農地が生み出す富が村の豊かさの源泉であとすれば、現代の都市の豊かさの源泉は化石資源である。市場ではこの二つがノンハンディで競争させられている。この二つはあらゆる用途で相互に代替可能であるため競争が成立する。現代の家計の中で化石資源で代替できない唯一の部分である食材費(食費から流通、サービス、加工の経費を除いたもの)の占める比率は極めて小さく、それ以外の分野ではこのふたつの富が競争させられ、常に化石資源の側が勝利してきたのである。また、家計における食材費の比率を低くしたのも化石資源である。農村の貧しさの原因は、かつてはそこから搾取する都市の存在であった。現在ではその側面が消えた訳ではないが、相対的には縮小している。都市の富の源泉が同世代の農村から搾取した農産物から、次世代から搾取した化石資源に変化したからである。

・理想形 江戸なき江戸モデル

 化石資源に依存しない都市は、農村からの搾取なしには成立しない。江戸モデルとは、糞尿のリサイクルによる農村からの持続的搾取システムである。この場合、持続的ではあるが、農村が江戸から受け取る物は糞尿と絶対的支配と(江戸は農村からの食料供給なしには成り立たないがゆえに、一切の反抗を許さない絶対的な支配とならざるを得ない。)わずかな工芸品と文化だけである。江戸から離れた地域は糞尿さえ与えられず、ゆるやかに疲弊していく。江戸は農村を必要とするが、農村は江戸を必要としない。江戸は農村にとって奪い取る者でしかない。理想形は、従って、江戸抜き、江戸モデルである。自給的、自立的農村のみによる社会である。

 現代の日本の都市は、江戸モデルのような農村搾取を必要としない。日本の農民は、都市の誕生以来続いていた生産の強制から、今、はじめて解放されたのである。現代の都市は農村搾取ではなく、持続性を犠牲することで、化石資源を消費し、拡大を続けているのである。

 都市を存続させたままで持続可能な社会を建設することは不可能である。直ちに解体しようとすれば、ポルポトの二の舞いになってしまうが、持続的な社会を目指すのであれば、いずれ解体しなければならない。そのように考えると、都市の居住性を高めることは悪である。都市の地価は高い方が良い。都市の大気は汚れていた方が良い。都市の交通は渋滞している方が良い。都市の福祉は遅れている方が良い。

 都市に居住する市民が、快適な生活、高度な福祉を求め、それが実現すれば実現するほど、都市住民の国家権力への依存度は高まる。それに従って、国家はより多くの搾取を農村から、海外から、次世代から行うことを強いられる。大規模な侵略戦争の原因は政治家の野望や量産された大量殺戮兵器ばかりではない。都市市民による福祉の要求による面も大きい。最近侵略戦争が少なくなったのは、化石資源消費による次世代からの搾取は被搾取者側がまだ存在しないがゆえに反撃不可能である事、その化石資源によって、被搾取者の側に搾取を受けているという自覚を失わせるのに一部成功した事、搾取らしい搾取である同時代の他国からの搾取は、その対象が湾岸戦争を最後に反撃の夢を失った途上国に限られている事、のためである。

 中世ヨーロッパの自治的都市は、国家権力を仰ぐ事なく自由を実現していた。しかし、魅力ある自由都市に住む者には、不潔な生活環境による高い死亡率がその代償として与えられており、現代都市のように人口が激増することはなかった。持続可能な都市とは、そのように自由と高い死亡率を交換する場としてでしか成立し得ない。そうでなければ、都市は現在そうであるように、無限に増殖し、無限に搾取を行うモンスターになってしまう。

 都市が必要とするのは農産物や化石資源だけではない。化石資源は組み合わせなければ効力を発揮しない。都市は化石資源の結合の場である。そして、その結合の媒介者は水である。水のないところに都市、すなわち化石資源の結合の場は成立しない。工業生産が資源消費の過程である以上、生じるエントロピーを捨てなければならないからである。科学技術はこれを水に乗せて捨てることが多い。しかし、水は農業にも人間の生存にも不可欠である。特に、高い単収を狙う近代農業は大量の化学肥料とともに大量の水を必要とする。ここで工業と農業の水の奪い合いが生じる。収入面で常に勝利してきた工業はここでも勝利する。アメリカでも中国でも、農業用水は工業によってその水準が高まった都市の生活用水や工業用水の増加によって伸びが押さえられている。

 近代的な人間の水の入手手段の中心はダムであるが、これは水と共に上流からの土砂と養分をもせき止める。このため、下流では江戸時代のような洪水を利用した肥料供給(霞堤)は不可能となり不足する肥料を補うために化石資源に由来する化学肥料が必要となった。また土砂の供給を断たれた河口部では海流による海岸侵食が始まった。

 ダムの建設によって潅漑面積を拡大する試みは世界中で行われてきたが、最近ではその多くで塩類化等の問題が表面化しつつある。ダムは洪水を防止するが、かつて洪水は肥料を供給するだけでなく、日頃の潅漑農業で蓄積した塩分を一気に海まで押し流す働きがあった。洪水を不可欠のものとしていた持続的な農業をダムは破壊したと言える。

 ダム湖では土砂が堆積し、次第に貯水量は減少して行く。最近、堆積土砂を排出可能な世界初のダムである関電黒部出し平ダムが完成したが、堆積土砂の試験放流は、黒部川を数時間に渡って無酸素状態にし、河口付近の海域にまで及ぶ広範囲の水質汚染を引き起こした。ここで放出されたのは土砂だけでなく、緩やかに流れれば河川や海の養分になる筈であった、未分解の大量の有機物であり、一気に放出されたそれは、BODを致死レベルにまで高めたのである。

 かつて、ダムによる灌漑面積の拡大、工業、生活用水の供給、水力発電は持続的であると考えられてきた。しかし、どうもそうではないようだ。

・地価とエントロピー 

人間の富の源泉は太陽と水から生成した低エントロピー物質である。農産物は同時代のそれであり、化石資源は過去のその濃縮物である。低エントロピー物質である農産物の生産性が高い地域は人口扶養力が大きく人口密度が高い。同様に低エントロピー物質である化石資源を、それを加工する際に生じるエントロピーを捨てるための水がある場所に集積すれば、同じく高い人口密度が可能となる。地価はそこで発生する富で決まる面があり、化石資源と水を集積できる地域の地価は当然高くなる。

 地価を抑制するために、農地を宅地化すべきだという主張がある。単純に需要と供給で地価が決まるのであれば、それは正しいかもしれない。電卓は量産すれば価格は下がる。しかし、土地は宅地として供給すれば人口を、オフィスや工業用地として供給すれば商工業を集積し、それらはビジネスチャンスを増大し地価を引き上げる。農地を宅地や商工業用地に転用すればする程、地価は上昇する要因を抱えることになる。

 

・飢餓の繰り延べ

 東南アジアでもインドでも工業化が進展しつつある。日本の高度成長期と同様に家電製品が急激に普及し、仕事も農業から商工業に移り変わっている。どこでも耕地面積や農業従事者は減少しているが、食糧不足には至っていない。そこには、農業部門を支える化石資源の存在がある。落ち葉を人間が集めなくとも化学肥料がある。家畜を使役しなくともトラックや耕運機があり、家畜が消費していた分の穀物は販売に、草は肥料に回せる。

 石油や電気は森林資源の消耗を押さえる。工業化に成功した地域では日本がそうであったように森林面積の縮小に歯止めが掛かりつつある。一方、工業化の進まないアフリカでは増加する人口は森林を食いつぶしつつある。

 工業化は人々の生活を物質的に豊かにする一方、工業システムそのものを増殖させる。この正のフィードバックは止まる事なく、世界中の工業化可能な地域の全てに拡大しつつある。工業化可能な地域とは、かつては労働力が豊富だとか輸送手段に恵まれているとか消費地、原料産地に近いとかの多くの条件を必要としていた。しかし、輸送手段を容易に高度化できるようになった現在では、その高度な輸送手段が消費地や原料産地と工業地域との距離を著しく縮めた。労働力も場合によっては殆ど必要としない場合もある。資本も様々な金融システムによって国境や企業の壁を越えて世界を移動する。こうして、最終的な立地のネックは、加工の際に生じるエントロピーを捨てる手段(多くの場合、それは水である)のみのようである。

 このようなシステムは、結局のところ、飢餓を繰り延べているに過ぎないのではないか。