設計中のサーリネン達
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 水平線以下はヴィートゥレスクに置いてある日本語の公式パンフレットです。
現地で入手できなかったケースがあるようですので掲載します。
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ヴィートゥレスク

 ヴィートゥレスクの建築は三人のフィンランド人建築家、エリエル・サーリネン(1873-195
0)、アルマス・リンドグレン(1874-1929)、ヘルマン・ゲゼッリウス(1874-1916)の設計によ
り、1902-1904年に建てられた。これら三人の若い建築家たちは1896年既にヘルシンキに建築
設計事務所を開き共同事業を行っていたが、事務所は開設当初から成功し、共同事業の時代に
三人はフィンランドに70以上の建築設計を行った。中でも最も有名なものとしてヘルシンキ及
びヴィープリの中央駅、ラハティ及びヨエンスーの市庁舎、ムンッキニエミの士官学校、ヘル
シンキのパウリング及びポホヨラの建物、そしてスール・メリヨキの館があげられる。
 1900年のパリ万国博のフィンランド館の設計を終え、三人は静かに仕事に専念出来る環境を
求め、ヴィートゥレスク湖畔にやって来、各々自分の住居を設計した。現在、博物館になって
いる建物はエリエル・サーリネンの住居、その北側の棟続きの現在ホテルになっている建物は
リンドグレンの住居、そして庭の向こうの黒塗りの現在のカフェ・レストランはゲゼッリウス
の住居である。サーリネンとリンドグレンの家の間はアトリエで結ばれ、彼等はここで仕事を
した。
 後年ヘルシンキ工科大学の教授になったリンドグレンは、1905年住居と地所をサーリネンに
売却しヘルシンキに戻った。1916年ゲゼッリウスが喉頭癌で亡くなると、妻マティルダはサー
リネンに住居を売り、建物は総てサーリネンの所有になった。彼はこれら二つの建物を友人達
の、また一緒に仕事をする若い建築家達のゲスト・ハウスにした。
 1923年、サーリネン自らもシカゴ・トリビューン・タワーの設計コンクールで第二位に入賞
した後、家族と共にアメリカに移りミシガン州クランブルクに住み、1950年に亡くなるまでそ
こで建築家として仕事をした。ヴィートゥレスクは1949年アネルマとライネルのヴォリオ夫妻
が買い取るまでサーリネンが所有し、その後20年間ヴォリオ家がここに住んだ。1969年ゲルダ
&サロモ・ヴォリオ財団のもとに移され、1981年国の所有に移った。
 ここにある家具類は総てサーリネン自らのデザインによるもので、当地あるいはトゥルクの
ポゥマンの工場において作られた。リュイユ織の敷物はアクセリ・ガッレン=カッレラのデザ
インになる「炎」以外は、すべてサーリネンの二番目の妻ロヤ(ゲゼッリウスの妹1879-1968)
の手作りである。銅製品はエリク・エールシュトローム、鉄製品は村の鍛冶屋サンットゥ・ハ
ルトゥマンによる。12個の暖炉はルイス・スパッレとアルベルト・フィンチが設計し、そこに
使われたタイルはポルヴォーのイーリスの工場で作られた。
 ロヤとエリエルのサーリネン夫妻には1905年、娘エーヴァ・リーサ(1905-1979)が、1910年
には息子エーロ(1910-1961)が生まれ、子供達も建築家になった。サーリネンの名を世界中に
知らしめたのは米国で83の建築を設計したエーロであり、中でもGMの技術センター、ケネデ
ィ空港のTWAターミナル、ワシントンDCのダレス空港、セントルイス市のアーチ、そして
ロンドン、オスロ、ブリュッセルの米国大使館は有名である。
 ヴィートゥレスクは国民ロマン主義様式によって設計されている。
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