9153  12/29〜31

 

12/29

新幹線は疎ら。手を振る人々も僅か。

ああやって誰かに見送って貰った事はあったかしら、ああ、一度だけあったわね、まだ17の時でね、空港に行くのも初めてで、恋人が車で送ってくれてね、本当は母が、当時の恋人が送ってくれるはずだったんだっけ、忘れてしまったけれど。私と恋人は出発までの時間を潰していて、ふと見渡すと、知っている服、知っている帽子、花柄のロングワンピースに、麦藁帽子、海にでも行くような、けれど表情は不安げな、あの人、数時間前に自宅で別れたばかりの、母、が、私を捜して。すごいね、よく来たね、一人で電車に乗ることなんて数えるくらいでしょう、生まれてからだって。今ならどう思ったかしら。あの時は、どこか、母が気の毒で、ひとりぼっちで、そして私は恋人と1ヶ月も離れてしまうことで頭が一杯で。もういい、もう忘れてしまった。

いつのまに、あの古い都も過ぎる。

恋人とこのまま付き合っていたら結婚するのでしょうね。問題は幾つもあるけれど、困難の無い人生なんて退屈してしまうものね。恋人は飛行機に乗った事がないのよ、だから今みたいに新幹線で、私の実家に行くのでしょうね。母はご機嫌でしゃべり続けるだろうし、(その頃弟はもう家にはいないのでしょうね)きっとその後隣の祖母の家で飲むことになるのよ。祖母はあの丸い顔を酒で真っ赤にして、何度も何度も言うでしょうね。「夫婦は仲良くね、仲良くね、この子は難しいだろうけれど、仲良くね」

窓の外、山、雪、きれい。ここはどこだろう。トンネル、闇、光。

祖母は子育てに失敗したのよ、娘は全員離婚したのよ、怖いのよ、世間が、世間の目が。よく見てごらんなさい、そんな目はどこにもないのよ、あるのは自分の目だけなのよ。でも仕方ないの、祖母はそうやって生きてきたのだから、仕方ないのね。かわいそうに、やっと祖母に解放されても恋人にはもう一つの試練があるのよ、父に会うこと。まさかあの狭いアパートに行くわけにはいかないでしょうから、どこかの居酒屋で、恋人は何と言うのかしら。「娘さんを下さい」なんて古いこと言わないわよね、父は何と言うのかしら。反対なんてしないわね。もう私には好きにしろって感じなのよ、ずっとそうだったのよ、5年も家出して私を放っておいて、家に戻った時には何も言えなくなっていたのよ。キューバに行くのにも大学を辞めるのにも恋人と住むのにも、一度だって反対された事は無かったもの。

もう終点まで止まらないのに車内は疎らなまま。

そろそろ本を読みたいからこの辺で書くのをやめなくてはね。「ペドロ・パロモ」という小説、ファン・ルルフォの。メキシコの作家なの、もう死んでしまったの、2冊しか残さずに。それでもこの本はラテンアメリカ文学の最良の作品なんですって、あのガルシア=マルケスの「百年の孤独」と並んでね、この訳者は8年も掛けて訳したんですって。やっぱりそのくらいの年月を掛けないといけないのね、いい作品を作り上げるにはね、私は今好きな作家の短編を訳し終わりそうなのよ、でも終わっても完成じゃないわね、大事に大事にしていくの、何度も何度も直しながらね、重要なのは日本語なのよ。そうそう、本を読むんだったわね。

 

12/30

おかしいでしょう、この書き方、読みづらいでしょう、でも仕方ないの(この「仕方ない」って私の口癖ね)昨日から誰かが乗り移ったみたいにこうなのよ、考える時も、書く時も。疲れてしまうのよ、私じゃないみたい、でも不思議、言葉がすらすら出てくるのよ。

「帰るところがあるっていいね」なんて言うのよ、みんなして。私は帰るつもりなんて無かったし帰りたくなかったのよ、でも父が言うのよ、交通費を出すから帰っておいでって何度も何度も。断れる訳ないじゃない、理由をつけないとあの人は私に会うことが出来ないのよ。この家では会えないから、正月に父の実家に行くの、ふたりで、いいデートスポットでしょう?

母は恋人の両親と会ったんですって。その場は和やかだったけれど後が大変だったらしいの。わからなくもないわね、母の恋人は一人っ子なのよ、それが突然子持ちの、9歳も年上の女を連れてきたのよ、勘当するとまで言ったらしいの。母の恋人は母にぞっこんなのよ、親を捨ててもいいって言ったそうなの、でも母はそういういざこざが嫌いなのよ、今は何も起きていないらしいけど、彼の両親がこの家まで来るんじゃないかって、別れてくれって言いに来るんじゃないかって、そう言うのよ、私に。「愛してるとかわからない。誰でもいいような気がする。愛してくれるなら。」それじゃあ別れなよなんて言えないわよ、幸せになって欲しいもの。でもわかってるのよ、なれないのよ、彼女は。

この家を売ってしまいたいんだって。弟が家を出たら母ひとりになるのよ、恋人と一緒に暮らしたいんだって、かわいそうに、この家さえなかったらね、でもいろいろ大変なのよ、土地は祖母の物だし、ローンはまだ残ってるし、隣に母の親が住んでいるのに父がここに住むわけにもいかないでしょう?私だってこんなところ嫌だもの。何も無いのよ、古くさい考え以外には何も。祖母のようなね。

私ばかり幸せにぬくぬくやってるのよ、離れた街で、ここに来るとそう思うのよ、これで本当にいいの?私は何かしなくてはいけないんじゃないの?でもわからないのよ、何も出来ないのよ、やろうとしたって私の頭がおかしくなっていくしかないのよ。だからあの街で知らんぷりしてぬくぬくしていくのね、ひどいでしょう、わかってるのよ、でも他にどうしようもないのよ、私までこの街で死ぬわけにはいかないのよ。

 

12/31

この街では時間がゆっくりと流れる。私は退屈している。

あの街での生活は慌ただしく、それでいて心地よく。

早くあの人に会いたい。

幼子のように、胸に顔をうずめて、何度も私の名を呼ぶ、かわいいあの人、私の恋人。

今頃お母さんを連れてお墓参りに行っているのでしょうね。

恋人が5歳の時に死んでしまった、お父さんの、お墓参りに。

 

あの人は強い人。私がいなくても生きていけるのよ。退屈でも、何も真新しい事がなくても、それに耐えられる力を持っているのよ。優しい人、私をすごく可愛がって。食べてしまいたいくらいなの。私の体内に入れてしまいたい。一緒にいる時は私はあの人の側を離れないの。台所に飲み物を取りに行くときも、お風呂を洗いに行くときも、いつもひっついているのよ、あの人は嫌な顔ひとつしないのよ。

でも知っているのよ、あの人がいなくても生きていけるのよ、私もね。それでも一緒にいるのよ、それだから一緒にいるのよ。