<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

天皇について考える[10000HIT特別企画]


「現場の先生方へ」で次のように書きました。 ≪学校で天皇についてどんなふうに学んだでしょうか。たしかに「自由と平等」「個人主義」をたてまえとする学校の知識からすれば、天皇という存在は異物のようにしか考えられないのかもしれません。おそらく天皇という存在は、戦後教育の枠組みでは理解できない、はみ出した存在なのです。そこで、理解できない存在が存在することは間違っていると思ってしまう人と、理解できないのは自分の思考の枠組みが間違っているのではないかと考えてみる人の二通りに分かれるわけですが、どうも学校では前者が支配的であるように思えてならないのです。≫
これまでの教科書では、憲法第一条にもかかわらず、天皇について腰を据えて取上げられることはほとんどありませんでした。一部には、「天皇」と言っただけで「右翼」と決め付ける風潮さえあるのが現実です。さらに「皇国史観」を肯定しようものなら、たちまち「戦争賛美主義者」にされてしまいかねません。教育現場に近いほどそうなのです。
私たちの教科書は、天皇について真正面から向き合って考えています。案の定、守旧派の方々からは「皇国史観の復活」との批判が浴びせられています。しかし、天皇に触れずして日本の歴史は語れません。天皇という御存在の意義をきちんと評価せずして日本の将来を考えることもできないはずです。
そこで、私たちの教科書が天皇についてどう取上げたかを紹介するとともに、守旧派の方々のレッテル貼りに惑わされずにいろんな側面から考えていただくための材料を提供できればと考えました。

「新しい歴史教科書」から

  《人物コラム》 昭和天皇―国民とともに歩まれた生涯―
    [昭和天皇とその時代]

 昭和天皇が即位された時期は、日本が大きな危機を迎えようとしていた。天皇は各国との友好と親善を願っていたが、時代はそれと異なる方向に進んでいった。しかし、天皇は立憲君主として、政府や軍の指導者が決定したことに介入すべきではないとの考えから、意に反して、それらを認められる場合もあった。
 ただ、天皇がご自身の考えを強く表明し、事態をおさめたことが2度あった。一つは、1936(昭和11)年の二・二六事件のときであった。事件で政府や軍は混乱状態におちいった。そうした中、天皇は反乱を断固として鎮圧すべきであると主張し、事件は急速に解決に向かった。もう一つは、1945(昭和20)年8月、終戦のときであった。ポツダム宣言を受諾するか否かで、政府や軍の首脳の間で意見が分かれ、聖断(天皇がくだす判断)を求められた天皇は、「これ以上戦争を続けることはできないと思う。たとえ自分の身がどうなっても、ポツダム宣言を受諾すべきである」と述べ、戦争は終結した。このときの天皇のお気持ちをよまれた御製(天皇がよまれた歌)がある。

 爆撃にたふれゆく民の上を
 おもひいくさとめけり
 身はいかならむとも

 君主としての責任を、ひしと身に感じていたことがうかがわれる。 このような昭和天皇の人間性に感動したマッカーサーは、天皇との初めての会見について次のように述べている。
 「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。しかし、この不安は根拠のないものだった。『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任をおう者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』。私は大きい感動にゆすぶられた。死をもともなうほどの責任、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動か した」(『マッカーサー回想記』より抜粋)           306〜307頁

「新しい公民教科書」から

  天皇と政治

 天皇は、古くから国家の平穏と国民の幸福を祈る民族の祭り主として、国民の敬愛の対象とされてきた。また、その精神的・宗教的な権威によってみずからは権力をふるわないものの、そのときどきに権力をにぎる幕府などに権限を与える立場にあった。例えば幕府の将軍も征夷大将軍として、天皇から任命される形をとることで正統な権力となった。わが国の歴史には、天皇を精神的な中心として国民が一致団結して、国家的な危機を乗りこえた時期が何度もあった。明治維新や第二次世界大戦で焼土と化し た状態からの復興は、その代表例である。 大日本帝国憲法においても、天皇は元首であり統治権の総覧者であったが、直接政治を行ったわけではなかった。日本国憲法では天皇について「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)と表現し、国民主権のもとで伝統的な天皇制度を維持することを確認している。
 天皇は憲法の定める国事行為のみを内閣の助言と承認によって行い、国政に関する権能(権利を行使する能力と資格)を有しないとされている(3条・4条・6条・7条)。
 天皇は政治に直接にはかかわらず、中立・公平・無私な立場にあることで、日本国を代表し、日本国民を統合している。
                                     59〜60頁

「皇国史観」についての誤解を解く

 平成11年11月号の「諸君!」に掲載された長谷川三千子先生の論考です。
 「皇国史観=悪」という戦後の通念を打ち破る画期的な内容に、目からウロコの落ちる思いをしたものでした。何とか多くの方に読んでいただきたくて先生にお願いしたところ、快く転載を承諾して下さいました。ご精読ください。


* 皇国史観とは何か *

「皇国史観」は「戦争イデオロギー」なのか!?
失われつつある本来の意味を取り戻そう

長谷川三千子埼玉大学教授

 先日、珍しく我が意を得たりという新聞の記事にお目にかかりました。産経新聞に「私にも言わせてほしい」という投稿欄がありますが、八月二十五日付のその欄に、作家の出雲井晶さんが「『皇国史観』の本当の意味」という一文を寄せて、こんな風に述べていらしたのです。

―― 終戦記念日の産経新聞の社説は、いま日本がようやく「戦後」への本格的な決着をつけ始めたということをキッパリとした論調で語っていて、深く共感をおぼえた。しかし、その最後に、「戦前の皇国史観への回帰を目指すのもまた論外である」と書かれていたのがたいへん気にかかる。こんな風に「皇国史観=悪」」という図式ができてしまったのは、まったく占領下の洗脳教育によることなので、もう一度その洗脳を解いて、皇国史観の本当の意味を知ることが大切ではないか ――

 そんな内容の御文章でした。
 いまの若い方々にとっては、「皇国史観=悪」どころか、そもそも「皇国史観」と言われても、なにかまるで自分たちには関係のない大昔の話、としか感じられないかも知れません。しかし、この出雲井さんの問題提起は、私は非常に重要なものだと思うのです。この「皇国史観」という言葉には、日本という国家の本質を考えるうえで、とても大切なことがらがこめられているにもかかわらず、戦後の日本では、誰もがこの言葉を遠回りして避けてきた。その中身をのぞいてみようともせずに、ただ悪い言葉として斥けてきた。しかし、これでは、せっかく「国旗国歌法案」が成立しても、その意義を子供たちにどう教えたらよいのか、たちまち途方にくれることになってしまうでしょう。この「皇国史観」とい う言葉から顔をそむけたままでは、とうてい「戦後」への本格的な決着をつけるどころではないのです。もう一度、この言葉に真正面から向き合ってみる必要がある。
 いささか屋上屋を重ねるの観がありますが、「皇国史観」の本当の意味は何なのか、出雲井さんの御論に、私なりの補足を加えてお話ししてみたいと思います。

「皇国史観」のもつ意味

 それでは「皇国史観」とはいったいどんな歴史観なのか ―― たとえば平凡社の『世界大百科事典』は、その内容の特徴を、まずこんな風に記述しています。
「(1)日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅(<天壌無窮の神勅>)を奉じ、<三種の神器>を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする、天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張」  これ自体は、決して間違った解説ではありません。これは『日本書紀』にも『古事記』にも書かれているとおりの内容で、たしかに、「皇国史観」というものは、そうした故事を重要視して、そこに道徳的な意味を見出してゆくという考え方なのですから、まずはこれで十分に正しい解説だと言うことができます。
 ところが、この解説の最後の方には、こんな言い方が見られます。
「・・・・・この史観は大東亜共栄圏の建設の名の下に、国民を大規模な侵略戦争に駆り立てるうえで大きな役割を果たした」
 いったいどのようにしてこの史観が「国民を大規模な侵略戦争に駆り立てる」役割をはたしたのか、最初の説明文とは、どうもはかばかしくむすびつきません。すでに戦後のわれわれの頭のなかに、「皇国史観=戦争イデオロギー」という連想ができ上っているので、こういう解説の文章を見ても、すんなりと受け入れてしまうのですが、先入見なしに眺めてみれば、どうして「<三種の神器>を受け纏いできた万世一系の天皇が統治」してきた神国日本、という考え方が、「国民を大規模な侵略戦争に駆り立てる」ことになるのか ―― そこにはまったく必然的なつながりというものがありません。
 たしかに、この「三種の神器」は玉と鏡と剣の三つによって成り立っているので、それ、「剣」が含まれているではないか、と言う人もあるかも知れません。しかし、東西を問わず、古来の王権神話にほ「神剣」という表象がつきものであって、そうした表象を含んでいるから、その伝承がただちに戦闘的な性格のものだと言うことはできません。それどころか、むしろ「皇国史観」は、この「剣」のもつ、別の側面を強調してさえいるのです。
 この『世界大百科事典』にも言及されているとおり、『日本書紀』や『古事記』の内容を「思想的」に解釈して、そこから「皇国史観」のもととなるべき思想を明らかにした最初の著書が北畠親房の『神皇正統記』であったと言ってよいと思うのですが、そのなかで、この「剣」については、こんな風に述べられています。
「剣ハ剛利決断ヲ徳トス。知恵ノ本源ナリ」ちなみに、そこでは、鏡と玉については、それぞれ「正直ノ本源」「慈悲ノ本源」という言い方がなされています。つまり、玉も鏡も剣も、すべて徹底した「徳治主義」を表わしたものととらえられているわけなのです。
 こういう「三種の神器」を受け纏いできた天皇の治める国が、どうして「侵略戦争」をするということになるのか?不可思議千万と言わなければなりません。ところが、この『世界大百科事典』の解説者 (中島三千男さん)は、格別何の不思議も感じていない様子なのです。
 さらに、角川書店の『日本史辞典』によりますと、いきなり結論だけをこんな風に述べています。 「大義名分論と国粋主義・排外主義により構成された歴史観。・・・・・近代史においても専制支配と海外侵略を合理化・肯定する主張を行なう」
 たしかにこういった事典や辞典では、各項目のスペースが限られていますから、十分な論証ができなかったり、ただ結論だけを書かざるをえなかったりするのはいたし方ありません。しかし、それにしても、もう少し事柄そのものをよく見て、よく考えて書いて欲しい。そうすれば自ずと、その結論の部分の方が間違っているのだということに気付くはずなのです。
 費任をもって事実を記述すべき専門家たちにしてこのあり様なのですから、一般の人々が、「皇国史観」について、この角川の『日本史辞典』そのままの見方をう呑みにしてしまうのは、無理もないと言えます。おそらく、あの産経新聞の社説を書いた人も、ただ素直に「字引通り」の意味で「皇国史観」という言葉を使ったにすぎなかったのだと思います。
 そして、このように、本来は何につけても頼りになるはずの事典や辞典がまるで頼りにならない以上、われわれは本当に自分の目で、この史観がどのような歴史観であり、政治思想であるのかを、しつかりと眺めてみなければならないということになります。

「民主主義」なる戦争スローガン

 ここで一つはっきりとさせておく必要があるのは、或る一つの思想が、戦争の際に「戦争スローガン」として使われたとしても、その事実だけでは、その思想それ自体についての評価を下すことはできない、ということです。近代の、いわゆる国民戦争と呼ばれるような大規模な戦争においては、どんな国でも、或る種の「国民精神総動員」ということが必要不可欠であって、そのためには、必ずなんらかの戦争スローガンや大義が用いられることになります。つまり言いかえれば、或る思想が戦争スローガンとして使われたということは、さしあたっては、その思想がその国民たちにとって、非常時の心の支えとなるだけのものを持っていた、ということを意味するのであって、それ以上でもそれ以下でもない、ということなのです。そして、その思想が、内容そのものにおいて、著しく暴力的かつ非知性的なものであるかどうかといったことは、あらためてそれとして点検してみなければならないことなのです。
 ただし、そこにもう一つ注意しなければならないことがあって、それは、戦争スローガンとして使われた思想は、その戦争が勝利に終るか、敗北に終るかによって、その思想内容にはかかわりなく、決定的な評価が下されてしまう、ということです。ことに、その戦争から、まだ百年も経っていないときには、そうした勝敗の結果にわずらわされずに、虚心にその思想内容だけを眺めるというのは、たいへんに難しいことなのです。
 その意味で「皇国史観」を思想として公平に見るということは、決して容易なことではありません。その難しさは、ちょうど「皇国史観」と正反対の立場にある、「民主主義」なる戦争スローガンのことをふり返ってみるとわかり易いかも知れません。
 「民主主義」が戦争スローガンだった、などと聞くと意外と思われる方もあるかも知れませんが、実は、これほどしばしば戦争スローガンとして活躍した言葉は少ないと言ってもよいほどなのです。古代アテネにおいて、また近代のアメリカ独立戦争、フランス革命その他の内戦、戦乱において、この言葉はおおいに「国民を戦闘に駆り立てる役割」をはたしてきました。
 ことに第一次世界大戦は、この言葉が本格的な戦争スローガンとして使われることになった最初だったと言ってよいでしょう。よく言われるとおり、この第一次大戦という戦争は「だれも欲しなかった戦争」という性格を帯びた戦争で、それだけにかえって、戦争スローガンが重要な役割をはたしたとも言えるのです。もともと、いかなる必要があって始めたのでもない戦争であっても、現に戦争が始まってしまえば、全力で戦うほかはありません。しかも、そこでは兵士たちが次々と万単位で殺されてゆく――そういう修羅場に国民を送り込むのに、「大義」抜きでやってゆけるものではありません。そこで選ばれたのが「民主主義」というスローガンだったわけです。これは、英仏両国の内側から出てきた大義 というよりは (ことにフランスでは、当時「民主主義」という言葉は、あの六十万人の内戦による死者を出した百年前の記憶がつきまとっていて、たいへんイメージの悪い言葉だったといいます)「民主主義」を国是とするアメリカを味方にひき込むためだったと言ってよい。しかし、事情は何であれ、連 合国側は「民主主義」のスローガンを掲げて戦うことになりました。つまり、「民主主義」は「だれも欲しなかった戦争」のなかで、次々と国民を戦場に駆り立て、むごたらしい死へと至らしめるうえで「大きな役割を果たした」というわけです。
 しかし、それにしては、この「民主主義」なる戦争スローガンは「皇国史観」のように危険視されるどころか、もっとも輝かしいスローガンとして二十世紀に君臨してきました。これは何故なのか?――ふり返ってみれば簡単なことなので、第一次大戦、第二次大戦、そして冷戦と、二十世紀の大きな戦いで、この戦争スローガンは連戦連勝をとげてきた、ただそれだけのことなのです。あまりにも単純、お粗末にすぎる、と思われるかもしれませんが、古今東西を問わず、世の人々の「思想」に対する姿勢というものは、いつでもおおむねこの程度のものなのです。勝った者たちの言葉は、議論の余地なくよい言葉とされ、ひるがえって負けた者たちの言葉は、これまた議論の余地なく悪い言葉として斥けられる、これが戦争というものの掟なのです。
 或る意味では、こうした戦争の掟に無条件で従ってしまうのは、生物としての人間につきものの傾向で、むしろ健全なこととも言えるのですが、ただし、そのような姿勢をとるかぎり、負けた者たちは、際限なく雪辱戦をつづけていかなければならなくなります。どこかの時点で、勝ち負けに関係なく、思想を思想として正しく客観的に判定する、ということをしなければならない。つまり言うならば、「皇国史観」の再評価ということは、まさにもっとも平和的な企てなのです。

「非常時用」の言葉

 さて、ここで「皇国史観」をどこまでも一つの思想として再評価してゆこうとするとき、あらためて注意しておかなければならないのは、この「皇国史観」という言葉そのものが、一種の「非常時用」の言葉であった、ということです。「皇国」という言葉自体は、すでに江戸時代から使われていた言葉ですが、この「皇国史観」という言葉は、だいたい昭和十年代の頃から、つまり、すでに日支事変がおこって、日本が戦争のうちに踏み込みはじめた頃になって登場してきた言葉なのです。
 もちろん、さきほど述べたように、その国の人々の血肉となってきた思想でなければ「戦争スローガン」にはなりえないのだし、「戦争スローガン」であったということでその思想を断罪するのは愚かなことなのですが、その一面で、たしかに、「戦争スローガン」として使われるとき、どんな思想も或る種の単純化をこうむるということは否定できません。スローガンというものの常として、どんな思想内容をもつものであっても、そういう使い方をされているときには、いささか大雑把なものとならざるをえないのです。
 したがって、最初から「非常時用」の言葉として登場してきた「皇国史観」の場合、その本来の思想内容を知るためには、その言葉からもう一段さかのぼって、それが本当の意味での「思想」として形成されたときの、その姿を見てみなければならない、と言えるでしょう。そして、その上で、昭和十年代の「皇国史観」に、なにか微妙な歪みといったものがあるかどうかを点検してみる ―― そういう順序で考えてゆく必要があるでしょう。
 では、いったいどこにたちもどってそれを見たらよいのか、ということになるわけですが、それは何と言っても、後期水戸学だろうと思います。つまり、さきほど述ベたように、すでに『神皇正統記』にあらわれ出ていた、日本の伝統的な政治道徳思想といったもの ―― それを引き継いで、さらに結合的なかたちで完成したのが、藤田東湖をはじめとする、幕末の水戸藩の学者たちだったのです。
 たしかに、日本人が自らの伝統を意識して、それを一つの思想として取り出そうと試みたのは、本居宣長を完成者とする国学の方が先であったし、またその学問的成果という意味でも国学の方がまさっていたと私は思います。ただし、国学は、日本人たちに日本人としての自覚をうながしながらも、それをあくまで「学問」研究として行おうとしていた。つまり、文学と言語学とを二つの柱として、どこまでも精密に、日本人本来の「こころ」のはたらきをとらえようとしていたのです。したがって、そうした学問姿勢は、必然的に、いわゆる「政治道徳思想」の類を、むしろ「精(くわ)しからず」と言ってしりぞけるということになります。
 これに対して、儒学の系統を引く水戸学は、学問としての精妙という点では、国学に一歩ゆずるところがあるにしても、その分、実践的な「政治道徳思想」としてのわかり易さという点では、国学にまさったところがあると言えましょう。なかでも、藤田東湖の『弘道館記述義』は『古事記』や『日本書紀』の記述をもとに、そこから「思想」としての骨組をしっかりと築き、まとめ上げたもので、日本の政治道徳思想の書として、第一級の著書と言ってよいでしょう。まずは、こうしたところから「皇国史観」と呼ばれるイデオロギー(政治道徳思想)が、その出発点においてどのような思想として形成されてきたかをさぐるべきだと思うのです。

欠けている「蒼生安寧」の思想

 さて、その『弘道舘記述義』をかたわらにおいて、あらためてさきほどの『世界大百科事典』の「皇国史観」の説明をふりかえってみると、そこに何が欠けていたのかということが、くっきりと見えてきます。そこにはまず、「日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅(<天壌無窮の神勅>)を奉じ、<三種の神器>を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする」という解説が述べられていたわけですが、さきほども述べたとおり、この記述自体は、少しも間違ってはいない。しかし問題は、それ がはたして、この解説者が言うような、単なる「天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張」にすぎないのかどうか、ということなのです。少くとも東湖の思想は、そうしたナイーヴな「神権主義」とはおよそ異質なものでした。
 すでに、さきほど見たあの北畠親房の『神皇正統記』にも、三種の神器のもつ意義というものを、徹底した「徳治」の教えとしてとらえる、という考え方がはっきりとあらわれていましたが、東湖もまた、こうした考え方をしっかりと受けついでいます。たとえば、親房は三種の神器のなかでも鏡のもつ意義をもっとも重要なものとして詳述していますが、東湖も同様に、この宝鏡のうちにはいわば天祖の精神がこめられているのであって、「聖子神孫克く其の明徳を紹(つ)ぎ」、遠く海外の異民族も「我が徳輝を慕」う、というようにならなければいけない、と語っています。そして「宝祚の無窮」(皇位の永遠性)ということも、まさにそうした道徳性にもとづいて実現してきたし、またこれからも実現してゆく ――というのが東湖の考え方なのです。
 では、その「明徳」の具体的な内容は何なのかと言えば、それは「蒼生安寧」をはかることのうちにある、と東湖は断言します。この『弘道舘記述義』において、東湖は日本の国としての特色を、「宝許無窮」「国体尊厳」「蛮夷戎狄率服」「蒼生安寧」と、四つあげているのですが、この「蒼生安寧」についてはこんな風に説明しています。
 そもそも天照大神がはじめて農業と養蚕の道をひらいて、民を飢えと寒さからすくわれたのがその出発点をなしているのであるが、その後も代々の神々、天皇が、病気治療法をさだめ、植林事業を行い、公平な裁判制度をしき、国防につとめ、治水事業、飢饉へのそなえ等々に尽力されてきた。これらはすべて「蒼生安寧」という大目的のために行われてきたことであり、政治の目的がなによりもまず人民の福祉にあるということは、古来、天皇が人民を「おおみたから」と呼びならわしてこられたということにあらわれている。もちろん漢土にも尭舜をはじめとする名君はいたけれども、日本のように、はっきりと政治の目的が人民の福祉にあるとする考えが表明された例は見あたらない。これこそはわが国独 自の誇るべき伝統である――そんな風に東湖は述べるのです。
 そして、さらに重要なことは、この『弘道館記述義』において、さきほどのあの四つのわが国の特色というものが、この「蒼生安寧」を起点として、全部一つながりにむすびつけられている、ということなのです。東湖はそれを、こんな風に語っています。「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す。」。すなわち、皇位が永遠であるということは、日本の政治が「蒼生安寧」という本来の大目的をつねに目指しつづけているということによって実現している。そして、そうだからこそ日本の国体は尊厳を保つている。さらには、そうした日本のあり方が尊敬に価するものであるからこそ、周辺異民族がすすんで日本に服従するということが可能となるのだ ―― こういう考え方です。
 言ってみれば、これがまさに「皇国史観」の出発点ということになるわけですが、こうしてみると、さきほどの『世界大百科事典』の解説に何が欠けていたか、ということは明らかです.つまり、天孫降臨の故事と「天皇の神性とその統治の正当性、永遠性」とをむすびつけるものは何なのか、というところが全く見落されている。少くとも、それを「皇国史観」という一つの政治イデオロギーとして見ようとするならば、そこでもっとも大切なのは、その両者をむすぶ政治道徳思想――「蒼生安寧」こそが政治の大目的であるという思想――の部分なのであって、その部分を欠いたらば、「史観(イデオロギー)」の説明とは言えないのです。

民は天皇の百姓(おおみたから)

 そして、最初のところでこうした不十分な説明しかされていないので、それにつづく説明もまた、それぞれ不十分なものとなつてしまうのです。たとえば、さきほどの説明につづいて、(2)として「日本国民は臣民として古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた、とする主張」と説明されているのですが、これでは事柄の半分しか語っていない。むしろ事柄としての出発点は、天皇が民をおおみたからとして重んじる、というところにあったわけです。
『日本書紀』の仁徳天皇の巻には、あの有名なエピソード――ある日仁徳天皇が高台に登って見渡されたところ、炊事の煙が少しもたちのぼっていない。これは民が飢えているのに相違ないと、三年間課役を廃された、という話――がのっています。これだけなら、ただたまたまそんな名君がいた、というだけのエピソードですが、重要なのはむしろその次の話なのです。三年も課役を廃したので、宮殿がポロポロになって雨もりする始末です、とお后が訴えると、仁徳天皇はこんな風にお答えになるのです――  「其れ天の君を立つるは、是百姓(おおみたから)の為になり。しかれば君は百姓を以て本とす。」「百姓」という言葉は差別語だからイカンなどと言う人に、ぜひ聞かせたい言葉ですが、これこそが日本の伝統的な政治道徳思想をあらわす言葉なのです。そして、こうした「愛民」「尊民」の思想があるからこそ、その恩に報いるというかたちで忠君愛国ということが語られるわけなのです。それ抜きに、いきなり忠孝の美徳だ、臣民の道だ、と言われたのでは、これは単なる「専制支配」の「合理化・肯定」だということになってしまいます。
 さらにそれ以上に問題なのが、その次の説明なのです。この『世界大百科事典』では、「皇国史観」の内容の(3)として「こうした国柄(国体)の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない(<八紘一宇>)、という主張」だと解説しているのですが、まさにここでこそ、あの「蒼生安寧」を起点として、「宝祚無窮」・「国体尊厳」から「蛮夷戎狄率服」までが一つながりになっているのだということをしっかりと把握しておかなければならない。それを見落すと、全然話が違ってきてしまいます。それこそ、この解説者自身が後半の方に語っているように「この史観は大東亜共栄圏の建設の名の下に、国民を大規模な侵略戦争に駆り立てるうえで大きな役割を果たした」という話になってしまいます。
 つまり本来は、もともと日本国内における政治道徳の基本である「蒼生安寧」の理想を、さらに広く周辺異民族の間にも広めよう、そして全世界が一つの家族としてむつみ合うようにしよう、というのが「八紘一宇」という考えだったわけなのです。そして事実、戦前、戦中の「皇国史観」も、まさにそういう考えとして「八紘一宇」というスローガンをとなえていたのです。
 ところが、この解説者の言うように、もともとの「皇国史観」が単なる天皇の支配の正当化のイデオロギーであるならば、それを全世界におし広げることは、どんな名分をたてるにせよ、端的な「侵略」になるほかはないということになります。つまり、国内政治の思想としての「皇国史観」をとらえそこねることで、国際政治思想としての「皇国史観」をもとらえそこねることになってしまう。その結果として、本来がまさに「福祉と平和」のイデオロギーである「皇国史観」が、その正反対のものとなる― ちょうど、あの角川の『日本史辞典』の説明のように、「専制支配と海外侵略を合理化・肯定する主張」ということになってしまうわけなのです。
 しかし、それにしても、後期水戸学はハッキリと「尊王攘夷」というスローガンをかかげていたではないか。大東亜戦争における「皇国史観」が、その本来の思想を後期水戸学のうちにもつのだとすれば、大東亜戦争はまさに「攘夷」の実践だったのではないか?そうおっしゃる方もあるでしょう。そして、それはたしかに正しい指摘だと思います。後期水戸学は、たしかに、単なる腰抜けの平和主義などではなくて、「尚武」ということを日本の大切な伝統としてかかげています。「尚武」と「仁厚」とがあい矛盾することなく行われるのが日本の政治的伝統の基本だ、と東湖も語っています。そして、その延長線上に「尊王撲夷」ということが語られているのです。

「攘夷」=「侵略戦争」の誤り

したがって、ここで注目していただきたいのは、この「攘夷」ということが、いわゆる「侵略戦争」とは正反対の理念だということなのです。「侵略戦争」というものは、つまりは一種の力学的概念であって、世界中のどこかに力の弱い場ができたとき、すかさずそこに入り込んで陣取りをしてしまう―− 言うならば弱い者いじめの戦争形態です。これに対して、「攘夷」とは、まさにそうした「力の侵入」に対抗してこれを追いはらう戦いをさして言う言葉なのです。
 さらに言えば、この後期水戸学に語られる「攘夷」は、単なる「排外主義」ですらない。幕末の心ある日本人たちが、何故、西洋諸国の侵入をきらったかと言えば、ただ、自国の独立を脅かす危険があったからというだけではありません。彼らの宗教、彼らの政治思想のうちに、わが国本来の徳治主義と鋭く対立するもののあることをかぎ取っていたからなのです。
   すなわち、日本はその本来の「八紘一宇」の理念にもとづく平和な国際社会を築こうと志しているのに、現実に西洋諸国が作り上げている「国際社会」は、力と力のぶつかり合いを基本原理とする野蛮な 世界である。その野蛮な世界秩序に挑戦し、徳治を基本とする「世界新秩序」をうちたてよう!これが大東亜戦争における日本の戦争理念だったわけです。その意味では、たしかに、大東亜戦争は「攘夷」の理念に支えられていたと言えます。そして、それは「侵略戦争」とはまったく正反対の考え方なのです。
ただし、本来の「皇国史観」にもとづいて言うならば、このように「平和を求めるが故に戦わざるを得なくなった」ということは、やはり痛恨事と言わなければならない。実は、その痛恨の思いというものは、他ならぬ大東亜戦争の開戦の詔書にはっきりと述べられているのです。
「・・・・・列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国力常二国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国卜釁端ヲ開クニ至ル洵二己ムヲ得サルモノアリ豈ニ朕力志ナラムヤ」。
一国の開戦の宣言が、こんな悲痛なひびきをもって語られるということは、西洋近代の国々では、ちょっと想像もつかないのではないでしょうか。これはもちろん、「海外侵略の合理化・肯定」でもなければ自己弁護でも、自己正当化でもない。ただただ悲痛な面持ちで、我が国の理想と現実の相克を見つめているという言葉です。言うならば、近代日本の背負わされた課題の重さと辛さが、この一節のうちにこめられていると言ってよい。
 しかし、こうした近代日本の歴史の肝どころとも言うべきところが、世にはびこっている「皇国史観悪玉説」では、まるで目に入ってこない、ということになります。たしかに、戦争直前、戦争中に教育を受けた人たちのなかには、「皇国史観」が「戦争スローガン」として叫ばれているときの、大雑把で荒っぼい姿―何が何でも天皇陛下のために命をささげればよいのだ。つペこべ理窟をこねるな、この非国民め。貴様のくさり切った性根を入れかえるために精神棒を喰わしてやるゾ、といった様相―                                                                                                                                                                                      だけを思い出して、真平御免とおぞ気をふるう人たちもいるでしょう。けれども、そういう皮相な記憶だけで、思想としての「皇国史観」までほうむり去ってしまってはならない、と思います。
 それは、単に過去が見えなくなってしまうというだけのことではない。これから日本がどのような理想を目指し」どのような国をつくっていったらよいのか―そういう将来の見通しを得るためにも、この「皇国史観」という言葉を、もう一度その汚名のなかから救い出して洗い直してみることが必要だと思うのです。  「諸君!」平成11年11月号


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