<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

■勝海舟と西郷隆盛ー江戸の町を戦火から救う■



P188〜189 [江戸無血開城]
 1868(慶応4)年3月14日,江戸高輪にある薩摩藩の屋敷の一室で,幕府陸軍総裁の勝海舟(1823〜1899)と官軍参謀の西郷隆盛(1827〜1877)が向かいあってすわっていた。同年1月,鳥羽伏見の戦いが始まり,3月はじめには官軍(新政府軍)は江戸に到着し,この会談の翌日,3月15日には江戸城総攻撃が予定されていた。二人は,総攻撃を中止し,江戸の町を戦火にさらすことなく,官軍を江戸に入れるために話しあっていたのである。

 勝は西郷に,官軍が徳川慶喜を助命し,徳川家に対する寛大な処分を行うならば,徳川方は抵抗せず江戸城を明け渡す(江戸城無血開城)と申し入れた。勝の申し入れを聞いた西郷は,しばらくして,「いろいろむつかしい議論もありましょうが,私が一身にかけてお引き受けします」と答えた。これにより,江戸の町が戦場になるおそれはなくなった。

[勝と西郷の出会い]
 勝と西郷とは以前から認めあう仲であった。勝は,黒船来航後,幕府の海軍建設のために取りたてられた幕臣であった。長崎でオランダ人数官から航海術を学び,1860(万延元)年,咸臨丸の艦長として幕府の遣米使節団のアメリカ渡航に参加した。

 勝は開国後の政治情勢をみて,幕府が自分の思うままに政治を続けることは無理だと考え,幕府の「私」を取り去り,諸藩と協力する「公」の政治に向かうべきだと考えるようになる。のちに幕府の海軍操練所の指導をまかされた勝は,坂本龍馬など他藩の優秀な人材を迎え入れ,幕府の海軍ではなく日本の海軍の建設に努めた。そのため,勝には幕府や藩の区別を超えた人々との交友関係が広がった。西郷との出会いもそうした中でおきた。勝は,西郷に幕府の内情を打ち明けて批判し,諸藩による議会政治の確立が必要だと説いた。西郷は勝の見識に圧倒された。勝も,西郷の「大胆識(はらが大きくすわっていること)」に深い印象を受けた。

 西郷は薩摩藩の下級武士の家に生まれた。成人して,開明的な藩主島津斉彬に見いだされ,京都に派遣されて,アメリカとの通商条約をめぐる政治的な争いの中で活躍した。ところが,斉彬が急死して後ろ盾を失い,大老井伊直弼による安政の大獄で追われ,鹿児島に帰った西郷を待っていたのは,奄美大島への島流しという急激な運命の転変であった。しかし,この島流しの経験が西郷の人格を大きくしたとされる。3年後許された西郷は,中央で薩摩藩の政治勢力を伸ばそうとした島津久光の指示で,再び京都に派遣され活躍した。そこで勝と出会ったのである。

[日本という「公」]
 やがて薩摩藩は西郷の活躍もあって倒幕の道を歩み,戊辰戦争が始まった。勝は,当時,幕府の中にフランスの援助で官軍に抵抗しようという動きがあったのをおさえた。フランスがこれにつけこんで,日本を植民地化することをおそれたからである。西郷もまた,イギリスの介入をあやぶんだ。

 そこで西郷は慶喜を助命し,徳川家に対する寛大な処分を求める勝の申し出を受け入れ,朝廷を説得することを約束したのである。

 こうして,幕府や各藩の「私」の利益を離れて,日本という「公」の立場に立つ歴史的な決断がなされた。それはまた,西欧諸国の進出から日本の独立を守るためになされた明治維新という変革を,そのまま象徴していた。

(『新しい歴史教科書』(扶桑社) P188〜189 「人物コラム」)


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