<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

『現場の先生方へ』を読む

保護者のみなさんへ


「なんで勉強するの?」

なんで勉強するの
  「いい人」になるためよ
「いい人」ってどんな人
  みんなを大事にできる人
みんなを大事にできる人?

 そう その人は
  自分を大事にできる人
 そう その人は
  いつも笑顔でいれる人

なんで勉強するの
  あなたのことを知るためよ
私を知るってどうゆうの
  父さん母さん知ることよ
父さん母さん知る人は?

 そう その人は
  広い世界が見える人
 そう その人は
  遠い歴史もわかる人
  
なんで勉強するの
  いろんなことができるため
いろんなことってどんなこと
  からだと頭を使うこと
からだと頭を使うこと?

 そう その人は
  自信が腹から湧いてくる
 そう その人は
  いつもみんなと生きている
 上の詩は不登校の子供を持つ母親が、勉強することの大切さをその子にわかってもらいたくて作った詩です。以前は「なんで勉強するの」と問われて「自分のためだよ」と答えて、それで子供はわかってくれていたものと思っていました。でも学校に行けなくなった子供と毎日過ごしているうちに、その答えではまったく子供は納得していないことに気づくようになったのです。そうしてできたのがこの詩でした。その子はこの詩を何度も読み返して、そして、「じわーっと効いてくる」と言いました。今ようやく子供の心の中に入ってゆける手ごたえを感じはじめているところです。
 しかし、今また別の問題を抱え込むことになっています。それはこの詩のせいで、今の日本の教育がお母さんの思いとはあまりにかけ離れているように思えてきたのです。子供が学校に行けなくなったのは、学校が勉強の本来の目的からは遠い場所になってしまっていることを子供なりに感じ取っていたからなのではないのだろうか、そう考えるようになったのです。でも、そうだとしていったいどうすればいいのだろうか・・・・・
 ここ数年の間に日本全国にまさに燎原の火の如く広がった教科書改善の動きは、戦後半世紀の間、教育現場の先生方も含め、日本人のだれもが心のどこかで感じながら、なぜか蓋をしたままにしてきた子のお母さんと同じ思いに、明解な解決の方向を与えようとする運動であることをおわかりいただきたいと思います。


まじめに勉強すればするほど世の中に反抗的

 最近の子供たち一般を特徴づける傾向として「攻撃性」「孤立性」「浮遊性」が挙げられています。常にイライラ、すぐにムカツキ、キレてしまう攻撃性、人間関係づくりが未熟で、一緒に遊べない、携帯電話でしか話せないというような孤立性、しっかりした価値観がもてない、将来のことを考えるなんて面倒くさい、今がよければそれでいいといった浮遊性、実はその大きな原因になっているのが「教科書」ともいえるのです。
 たとえば、中学3年の「公民」(東京書籍)の教科書に「政治ってなんだろう」ということで、「社会における利害の調節や紛争の解決をめざす営みを広い意味で政治とよぶ」とあります。この考え方では、利害の対立や争いごとがあるから政治があるということになります。しかしこれは本来日本人にはなじみにくい感覚です。戦後日本の一部言論界・教育界を支配した「階級闘争史観」に沿う考え方です。日本古来の考え方では、政治を「まつりごと」とも言いますが、まず秩序があるのです。政治の役割は何よりも世の中の秩序を維持することです。たしかにもめごとの解決も秩序の維持も同じことのウラオモテ、しかしどちらをオモテに出すかで、もめて当然かまとまっているのがあたりまえか、天地の隔たりが出てくるのです。この教科書ではわざわざ「広い意味で」と言っているので、それがさも政治のすべてのように教え込まれてしまうことになります。その一方では「人権の尊重」とか「自由と平等」とかの言葉で西洋仕込みの個人主義をたたき込まれるわけで、いくら「公共の福祉」やら「寛容」やらで和らげようとしても、世の中もめていてあたりまえ、みんな自分の思いのまま、強いものが得をする、そんな感覚になってしまうのです。
 歴史の教科書も同様です。たとえば、「大正デモクラシー」の節には「米騒動は、およそ3ヵ月にわたり、約70万もの人々が参加する民衆運動となり、軍隊の出動でしずまったが、人々の政治的な自覚をうながした。」(日本文教出版)とあります。まさにもめごとが「政治的自覚をうながすもの」として奨励されてしまうのです。
 また、「公民」(東京書籍)の教科書では、「人権」について37ページにわたって説明されています。
 「人権は、だれもが生まれながらにもっており、法律によっても制限されない」「人権の保障は、個人を尊重して自由な活動や幸福で平和な生活を実現することを、国家に要求している。国の側からいえば、国家は個人の自由を侵害してはならず、個人の生活を豊かにする政策をおし進めなければならない。」「わたしたちが人間として生きていくためには、自由にものを考え、自由に行動できなければならない。それらを保障する権利が自由権である。」「家族は、お互いに協力して助け合っていかなければならないが、その場合でも、家族の一人ひとりの人格と自主性を尊重することが大切である。」  「人権」というとなかなかピンとこないのですが、「人権」という言葉と表裏一体のものとして「自由」が叩き込まれます。しかもそれは「国の秩序」や「学校の秩序」や「家庭の秩序」よりも何よりも優先してしまうのです。本来「人権」や「自由」という考え方は、弾圧や抑圧に対抗するものとして生まれてきたはずのものですが、それが今の教科書ではそれだけが一人歩きしています。その結果、授業中席を立って歩く子どもに先生が注意したら、「ぼくの人生はぼくが決める」という言葉が返ってくるという事態を生み出してしまうのです。


  教育の混乱は敗戦のつけ

今の教科書では、まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまう。「何のために学ぶのか」の問いかけに「自分のため」としか答えようがない。「そんなら別に勉強なんかしなくても…」に返す言葉がない。道義の感覚はすっかり色あせ、経済的利害とそのときどきの欲望のみが行動の基準、ただただ声の大きいものが、力の強いものがわが物顔に振る舞い、裏では人を欺くはかりごとがうごめくような世の中、戦後教育が最も嫌っていたはずの世の中が戦後教育半世紀の結果として今現出しているのです。決して世の中のせいでこうなったのではありません。むしろ学校の外の社会、家庭や地域や職場が、学校でねじまげられてしまった心性を矯正するのにどれだけのエネルギーを費やさねばならなかったことか。矯正しきれない分の蓄積が今の社会の乱れです。今こそ、教育自体その中身にこそ問題があったことに気づくべきです。
 戦後の公教育は、日本が二度と西洋諸国に歯向かうことのないように企図された占領政策に加え、戦後思潮を支配した階級闘争史観の影響も相まって、私たちの先人が長い歳月をかけて営々と築き上げてきた歴史や伝統からの断絶を当然のことのように受け容れてきました。しかし、そのことがいかに浅はかであったかを今思い知らされているのです。今本気で立ち向かわねば、公教育はその存在理由そのものを失いかねない危機的状況にあります。ここを切り抜けるには、まずもって敗戦国弱体化政策をまともに受け容れてスタートした戦後の教育について根本的に反省し、決して絶望することなく、そして着実に理解の輪を広げながら、具体的な改革を少しずつでもいいから積み重ねてゆくことと私たちは考えます。


新しい歴史教科書をつくる運動

 本県では全国に先駆けて「感性・心の教育」に取り組んでいます。この「感性・心の教育」の提唱者の高橋史朗明星大教授は、240万ページに及ぶ在米占領文書の検証をもとに早くから現行教科書の問題点を指摘し、「新しい歴史教科書をつくる会」の中心メンバー(現副会長)として教科書健全化に取り組んでこられた方でもあります。平成9年1月、高橋先生たちが中心になり「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、将来を担うにふさわしい子供を育てうる教科書をつくるための事業が始まりました。いま、後の課題はいかにしてその教科書をできるだけ多くの教育現場で使っていただくかです。それには教育委員会で採択していただかねばなりません。そのために全国で支部づくりが行われ、本県では多くの各界賛同者を得て、31番目の支部として平成11年9月にスタートし、活動をつづけています。 日本のマスコミのほとんどは、「日本を中心にした歴史観の復活は軍国主義への逆戻り」と叩き込まれた占領下のマインドコントロールから抜けきれていないのか、催しのたびごとに全社にご案内差し上げるにもかかわらずなかなか取上げてはもらえません。そんなわけで、これからはこういう場もおおいに活用したいと思いますので、どうかよろしくお願い申し上げます。


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