<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

新教科書読み比べ

日露戦争編


東京書籍

日露戦争
義和団事件

清では、列強の中国侵略に反発する排外運動がさかんとなり、1900年に、扶清滅洋をとなえる義和団が北京の各国公使館を包囲すると、日本を主力とする8か国の連合軍がこれを鎮圧しました(義和団事件)。このとき、ロシアは、事件ののちも大軍を満州にとどめて事実上占領し、さらに韓国へも進出しました。
 日本は、1902(明治35)年に日英同盟を結んでロシアに対抗したため、戦争の危機がせまってきました。社会主義者の幸徳秋水やキリスト教徒の内村鑑三などは開戦に反対しましたが、ジャーナリズムの主張する主戦論が世論を動かし、政府も開戦準備を進めていきました。

日露戦争

 1904年2月、日露戦争が始まりました。日本軍は苦戦を重ねつつも戦局を有利に進め、日本海海戦でも勝利をおさめました。しかし、日本の戦力は限界に達し、ロシアでも革命運動がおこるなど、両国とも戦争継続が困難になりました。その結果、アメリカの仲介によりポーツマス条約が結ばれ、ロシアは、1)韓国における日本の優越権を認め、2)旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権を日本にゆずりわたし、3)北緯50度以南の樺太の割譲と、4)沿海州・カムチャッカ沿岸の漁業権を認めました。しかし、戦争の犠牲の大きさに比べて、日本の得た権益が少なかったとして、国民ははげしく政府を攻撃し、東京では、暴動をともなう民衆運動もおこりました(日比谷焼き打ち事件)。さらに、戦後も軍備の拡張が進められたため、国民の負担は軽くなりませんでした。

君死にたまふことなかれ  与謝野晶子
あヽをとうとよ、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそだてしや。


大阪書籍

東アジアでの日本とロシアの対立
日露戦争

 義和団事件後、ロシアは満州(中国東北部)に軍隊をとどめ、清や朝鮮への影響力を強めました。そのため、朝鮮に勢力をのばそうとした日本は、ロシアとの対立を深めました。中国に多くの利権を持つイギリスは、ロシアの南下をおさえるため日本に接近し、1902(明治35)年、日英同盟を結びました。日本国内ではロシアと戦おうという意見が強まりましたが、社会主義者の幸徳秋水やキリスト教徒の内村鑑三たちは戦争に反対しました。のちに歌人の与謝野晶子も戦争に批判的な詩を発表しました。
 日本は戦争の準備を進めながらも、満州はロシアの、朝鮮は日本の支配下におくという交渉を行いました。しかし、交渉はまとまらず、1904年、日露戦争が始まりました。戦争は満州を中心に行われ、両国とも多数の死傷者を出すなど、はげしい戦いがつづきました。また、日本海でも両国艦隊が戦い、日本軍が勝利をおさめました。しかし戦争が長引くと、日本は資金や兵器・弾薬がとぼしくなりました。ロシアでも皇帝の専制政治に反対する革命運動がおこり、両国とも戦争を続けることが難しくなりました。

ポーツマス条約と満州経営

1905年、アメリカのポーツマスで、アメリカ大統領のなかだちにより講和会議が開かれ、ポーツマス条約が結ばれました。この条約でロシアは、朝鮮に対する日本の優越権を認め、樺太の南半分を日本にゆずることなどを認めました。ロシアが清から借りていた旅順・大連と、ロシアが満州に建設していた鉄道の一部も日本のものとしました*注
 日本は、戦争で、国の財政の3倍以上にあたる約17億円もの戦費を使い、40万人以上の死傷者を出しました。苦しい生活をがまんしてきた国民は、賠償金が取れないこともあって、政府への不満を高めました。各地で講和反対集会が開かれ、東京日比谷の集会では民衆の不満が爆発し、警察などへの焼き打ち事件が起こりました。しかし政府は、満州に勢力を拡大するため、南満州鉄道株式会社をつくって鉄道や炭鉱・製鉄所を経営し、軍備拡張のために国民に引き続き思い税を課しました。

*注:日露戦争でアジアの国の日本がロシアを破ったことは、トルコ・アフガニスタン・インドシナ・フィリピンなどのアジア諸国に刺激をあたえ、日本にならった近代化や民族独立運動を、盛り上げることになりました。


教育出版

激動する東アジア情勢――国際社会と日露戦争
日英同盟

 日清戦争後、日本が清に返還したリャオトン半島の一部を借り受けて、ここに強大な軍事基地を築いたロシアは、義和団事件の時に満州(中国の東北部)を占領した。韓国を勢力化におこうとしていた日本は、大きな脅威を感じ、ロシアの動きを警戒していたイギリスに接近し、1902年、日英同盟が成立した。

日露開戦と戦局の推移

ロシアは満州から撤兵の約束を実行せず、かえって韓国にも勢力をのばそうとした。危機感を深めた日本は、ロシアの満州での権益を認めるかわりに、日本の韓国への支配権を認めさせようと交渉した。日本国内では、ロシアへの反感が一段と高まり、多くの新聞がすぐにロシアと開戦するように主張した。政府系の新聞や財界は慎重論を唱え、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水などは非戦論を唱えたが、その力は弱かった。
 結局、日本政府は海戦にふみきり、1904年2月、日本軍の韓国上陸、リュイシュン攻撃により日露戦争が始まった。
 戦争は韓国と満州が主な戦場となった。日本軍は、リュイシュンやシェンヤン(当時の奉天)を占領し、日本海海戦でロシア艦隊を全滅させた。ロシアでは国民生活が苦しくなり、専制政治と戦争に反対する動きが高まった。日本でも、財政は困難になり、多くの死傷者が出て、兵力や物資も不足し、国民生活は苦しくなっていった。戦局は日本に有利だったが、戦争を続けるゆとりはなくなっていった。

ポーツマス条約

 そこで、日本政府はアメリカ大統領に仲介を求め、1905年9月、アメリカのポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれた。この条約でロシアは、日本が韓国に支配権をもつこと、南満州の鉄道の権益やリャオトン半島の租借権を日本へゆずること、樺太の南半分を日本の領土とすることなどを認めた。
 しかし、大きな犠牲にたえて戦争に協力した日本国民の間から、賠償金のないことなどに強い不満の声があがり、講和反対・戦争継続をさけぶ群衆が、大臣の家や交番、講和を支持する政府系新聞社などを襲撃する事件が起こった。
 日露戦争の勝利で、日本の東アジアにおける影響力は大きくなったが、欧米列強の日本に対する警戒心も強まり、日本の国際的立場はしだいに困難になった。


日本書籍

日本とロシアが戦争をする
日英同盟

 ロシアは義和団事件ののちも、満州から軍隊を引きあげず、朝鮮にも支配力を強めようとした。日本は朝鮮の支配をめざしていたので、ロシアとの対立がはげしくなった。日本とロシアの間では、ロシアが満州を、日本が朝鮮を支配下におくという交渉もおこなわれたが、まとまらなかった。そのころイギリスは、ロシアの東アジア進出に対抗する同盟国を求めていた。そこで1902年、中国でのイギリスの権益(権利と利益)と、中国・朝鮮での日本の権益を守ることを認めあって、日英同盟が結ばれた。これによって日本とロシアの対立はさらに深まった。

日露戦争

 戦争の危機がせまるなか、日本では軍備が増強され、新聞や雑誌の多くがロシアとの開戦を主張した。これに対して、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の堺利彦・幸徳秋水らは戦争反対をとなえた。こうしたなか、1904(明治37)年、ついに日本はロシアに宣戦を布告し、日露戦争をはじめた。翌年にかけてはげしい戦闘が満州の各地で繰広げられた。日本軍は旅順を占領し、奉天郊外の戦いで勝利した。海軍はロシアの艦隊を全滅させた。

戦争と国民

多くの日本国民は戦争に協力したが、増税と物価の上昇によって生活は苦しくなった。やがて、日本の兵器・弾薬は不足し、兵力と財力もとぼしくなり、戦争をつづけることは困難となった。そこで日本は、アメリカに講和の仲立ちをたのんだ。ロシアでも、専制政治に反対する革命運動がおこり、戦争をつづけることが難しくなっていた。この戦争で、日本は日清戦争の9倍の戦費を使い、約46万人の死傷者を出した。

日本が大陸侵略を進める
ポーツマス条約

 1905(明治38)年、アメリカのポーツマスで、日本とロシアの講和会議が開かれ、ポーツマス条約が結ばれた。この条約で、ロシアは韓国に対する支配権を認め、ロシア領であった樺太の南半分を日本の領土とした。また、ロシアは中国から借りていた旅順・大連と、満州に建設していた東清鉄道の一部を日本にゆずった。
 しかし、日本が賠償金を得ることができなかったことから、戦争中、苦しい生活にたえてきた国民は、これをふまんとして、各地で講和反対の集会を開いた。東京では、民衆と警察が衝突し、警察などへの焼き打ち事件がおこった。


日本文教出版

一等国への道
義和団事件と日英同盟

 中国の民衆は、外国製品の流入による失業や、賠償金のための増税などで苦しんでいた。このため、義和団を中心に、外国勢力を排撃する運動が広がり、1900年には、ペキン(北京)の外国大使館が包囲された。列強は、自国民を保護する目的として、日本とロシアを主力とする連合軍を送り、これをしずめた。
 ロシアは、大軍で満州の占領をつづけ、朝鮮半島にも進出しようとした。ロシアの南下政策で、イギリスは、植民地の印度をおびやかされるようになった。利害を同じくする日本とイギリスは、1902(明治35)年、日英同盟を結んだ。

日露戦争

 満州と韓国をめぐる日本とロシアの交渉が行きづまると、、戦争の危機が高まった。国内では、開戦・非戦の声がおこり、大塚楠緒子や与謝野晶子は、女性の立場から、戦争の悲しみをうたい上げた。しかし、国民の中には、三国干渉のあとのロシアへの反感があり、開戦の声が高まった。
 1904年2月、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争がはじまった。日本軍は、満州で苦戦を重ねながら勝利し、日本海の海戦ではロシアの艦隊を破った。しかし、日本は兵力や弾薬が欠乏し、ロシアでも皇帝の専制政治に反対する革命運動がおこっており、両国とも戦争の継続は困難となっていた。

ポーツマス条約

 アメリカに講和の斡旋を依頼していた日本は、アメリカ大統領の仲立ちで、1905年、ポーツマスで講和条約を結んだ。この条約で、日本は、樺太(サハリン)の南半分を領土とし、ロシアがもっていたリアオトン(遼東)半島南端の租借権と、チャンチュン(長春)以南の鉄道の権利をゆずり受けた。また、韓国における日本の支配権を、ロシアに認めさせた。
 アジアの多くの民族は、日本がヨーロッパの強国を破ったことを喜び、自分たちも植民地から解放されることを期待した。しかし、日本は、南満州鉄道株式会社を経営し、沿線の炭坑や鉱山を開発するなど、南満州に権益を持ち、列強とならび立つようになった。

主戦論
――東京帝国大学七博士の意見書(一部の現代語訳)――
 ロシアはひとたび満州を占領すれば、次に朝鮮に進出することはだれの目にも明らかなことである。
また、朝鮮が占領されれば、つぎにロシアの目がどこにむくかもいうまでもないことだ。だから、今日満州問題を解決しなければ、朝鮮もまた危うく、、朝鮮が危うければ日本の防衛も不可能となってくる。その場のがれの政策ではなく、いまの時点において、最後の決心をもってこの大問題を解決する必要がある。(1903年6月24日「東京朝日新聞」)

  君死にたまふこと勿れ――与謝野晶子の詩――
(旅順口包囲軍のなかに在る弟をなげ歎きて)
あヽをとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそだてしや
(1904年9月号「明星」)


清水書院

準備中


帝国書院

準備中


扶桑社

国家の存亡をかけた日露戦争
親露か親英か

 19世紀から20世紀のはじめにかけて、日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では、単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に、生き残る方法はなかった。三国干渉のあと、日本は、同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。
 両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは、容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知っている伊藤博文らの元老は、ロシアと結ぶ親露政策を、小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は、イギリスと結ぶ親英政策を主張した。
 両者の論争の焦点は、ロシアについての見方だった。ロシアは、1900年におこった義和団事件を口実に、満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み、そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話しあいがつくか、ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは、小村寿太郎が提出した意見書だった。

日英同盟締結

 小村意見書は、日露条約と日英条約の利害得失を論じ、日英条約が優位であると主張したものであった。
 小村意見書は、1901年、政府の方針として採択され、それにもとづいて交渉した結果、1902(明治35)年、日英同盟が締結された。当時、ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから、小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間、日本の安全と繁栄に大きく役立った。

日露条約の問題点(小村意見書)
(1)一時的には東洋の平和を維持できるであろうが、ロシアの侵略主義は到底これに満足しないから、長期的な保障とはならない。(2)シベリアは、将来は別として現状では経済的利益は小さい。(3)最近清国人は、上下ともに日本に対して友好的な感情をもってきているが、ロシアと結ぶと清国人の感情を害して、清国における日本の利害を損ずることになる。(4)英国の海軍力に対抗しなければならなくなる。

日露開戦と戦いのゆくえ

日英条約の利点(小村意見書)
(1)アジアにおける英国の目的は領土拡張でなく、現状維持と通商利益であり、英国と結べばロシアの野心を制して、比較的長く東洋の平和を維持できる。(2)したがって、日英条約は平和的、防衛的なものとして、国際世論からも支持される。(3)英国と結ぶと清国はますます日本を信頼するようになり、平和の利益を増進する。(4)韓国問題を解決するためには、他の強国と結んで、ロシアがやむをえず日本のいうことを聞くようにするほかない。英国は同盟を結ぶのにもっとも適当な国である。(5)英国と結べば、日本の経済についての国際的信用を高める。また、英国人は、同盟国の共通利益ということで、日本ぬ財政上、経済上の便宜をはかるだろう。(6)大英帝国とシベリアでは、日本の通商上の価値は比較にならない。(7)ロシアの海軍力は、英国の海軍力よりも対抗するのが容易である。

ロシアは、日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が到底、太刀打ちできないほど増強されることは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた。
1904(明治37)年2月、日本は英米の支持を受け、ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)。
戦場になったのは朝鮮と満州だった。1905年、日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天(現在の瀋陽)会戦に勝利した。
ロシアは劣勢をはね返すため、バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は、アフリカの南端を迂回し、インド洋を横切り、8ヶ月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、兵員の士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。

世界を変えた日本の勝利

 日本海海戦に勝利したとき、にほんはすでに、外国からの借金と国債でまかなった、国家予算の8年分に当たる軍事費を使い切っていた。長期戦になれば、ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白だった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、日本にもっとも有利な時期を選んで、日露間の講和を仲介した。アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果、1905(明治38)年9月、ポーツマス条約が結ばれた。この条約で日本は、韓国(朝鮮)の支配権をロシアに認めさせ、中国の遼東半島南部(のちに、日本は関東州とよぶ)の租借権を取得し、南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け、南樺太の領有を確認させた。一方、賠償金を得ることはできなかったので、戦争を続けようにも国力が限界に達しているという事情を知らない国民の一部は、これを不満として暴動をおこした(日比谷焼き打ち事件)。
 日露戦争は、日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して、自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された民族に、独立への限りない希望を与えた。しかし、他方で、黄色人種が将来、白色人種をおびやかすことを警戒する黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなった。

日露戦争と独立への目ざめ
「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望をいだくにいたったのです」(中国革命の父・孫文)
「もし日本が、もっとも強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドがなしえないといえるだろう?」(インドの独立運動家でのちの首相・ネルー)
「立憲制によってこそ日本は偉大になった。その結果かくも強き敵に勝つことができたのだ」(イランの詩人・シーラーズイー)
「日本人こそは、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」(エジプト民族運動の指導者・ムスタファー=カミール)


◇「日露戦争」について考えるためのサイト紹介◇

●世界史の授業
日露戦争の位置づけ
http://www2.justnet.ne.jp/~zep/sekaisi/others/nichiro.html

●放課後ホンネの日本史
自虐教科書の病理「日清・日露戦争」
http://www06.u-page.so-net.ne.jp/fa2/redfield/0602.htm

●はにわの国
1904−1905日露戦争
http://www.ag.wakwak.com/~azuma/nichiro/nitiro.html

●国際派日本人養成講座
国際派日本人に問われるIdentity――日露戦争の世界史的意義
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog007.htm


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