<<新しい歴史教科書をつくる会 山形県支部>>

『保護者のみなさんへ』を読む

児童・生徒のみなさんへ


日本人の誇りを取り戻そう

今から56年前の昭和20年(1945)8月、日本は戦争に敗れました。国のために戦って亡くなっていった軍人さんたち約186万人、原爆や大都市への空襲などで亡くなった民間の人たち約86万人という大変な戦争でした。日本の大都市の多くが焼け野原となり、また、食糧をはじめ生きてゆくために必要な物をつくる力もすっかり落ち込んでしまっていました。まず毎日どうやって食べていったらいいかというところから始めなければならなかったのです。そうした中、勝利したアメリカをはじめとする連合軍が日本に乗り込んできて日本を占領(武力で征服した国を自分たちの支配下に置くこと)し、食糧などの生活に必要なものを援助してくれる一方で、それまで日本人が心のよりどころにしてきた歴史や伝統や文化はことごとく間違っていたかあるいは時代遅れのものとして否定し、モノ中心の文化をどんどん注ぎ込んだのです。その背景には、いろんな面で西洋諸国の考え方とは異なる日本という国を、勝利した側の思い通りの国にしようという考えがあったことは否定できません。食うことに精一杯の当時の日本は、勝利国によるそうした占領政策を受けいれざるをえませんでした。昭和26年(1951)9月、日本は独立を回復しましたが、その後も占領政策をそのまま引き継いで物の豊かさをひたすら追い求め、世界でも有数の経済大国になったのです。
しかしそれから半世紀以上たった今、そのことのひずみがあちこちに出ています。
たしかに経済的には豊かになったかもしれないけれども、日本人の一人一人がそのことに満足しているかといえば決してそうではありません。それにここ数年の不景気で、多くの失業者が生まれ、学校を出ても満足な仕事に就けない若者がどんどん増えています。その背景には、日本人がせっかく働いて得たお金がアメリカをはじめとする外国にどんどん流れていってしまっているという事情があるのです。
こうした中、そろそろこの辺で占領政策を見直し、かつて日本人が大切に守り育んできた日本の歴史や伝統や文化を見つめ直してみることで日本人としての誇りを取り戻そう。外国に対しても言われっぱなし、なされるがままの日本ではない、しっかりした日本に立て直そうという気運が生まれてきたのも当然です。
私たちが進めている「新しい歴史教科書をつくる会」の運動も、こうした気運の中で生まれてきたのです。それは、日本人の心を取り戻す運動でもあり、まさにモノ中心の考え方から心を大切にする時代への転換を象徴する運動でもあるのです。


新しい「中学社会 歴史」の教科書

 「教科書」といえば、「味もそっけもないおもしろくないもの」と思いがちですが、私たちの教科書は、これまでの教科書イメージを根底から一新し、「親子でいっしょに読みたくなる教科書」に仕上がっています。検定が終わるまではまだ実物を見ることができませんが、その内容の一端をご紹介したいと思います。

「日本の美」再発見
  10ページを超える巻頭グラビアは、縄文時代から現代まで「日本の美」で統一されています。一昨年の秋に米沢市で、教科書執筆者の一人田中英道東北大教授に講演していただきました。その時田中先生は、西洋美術を研究することで、日本美術の芸術性、精神性の高さがあらためてよくわかることになったと語られました。スライドの写真を示されながらの先生のお話に、私たちは「日本の美」再発見のぞくぞくした感動を味わったものでした。教科書から同じ感動を得ることができるはず。グラビアのほか、「浮世絵と印象派」といったコラムにもそうした感動が込められています。

「代表的日本人」の人物コラム
  かつて私たちは、人生の模範となる人物の「伝記」を通して、先人への尊敬の念や生きる上での心構えを養ったものでした。「最澄と空海」「源頼朝と足利義満」「石田梅岩と二宮尊徳」「勝海舟と西郷隆盛」「夏目漱石と森鴎外」など、代表的日本人について2ページずつのコラムで取り上げています。とりわけ「昭和天皇――国民とともに歩まれた生涯」は、心打たれる内容です。

文明・文化についての日本の独自性
 不幸な敗戦、そしてアメリカによる占領、勝利国の一方的正義によって断を下された東京裁判、その結果、日本の歴史について批判的な見方をする方がいかにもものの分かった人という風潮が戦後日本を支配してきました。しかし、最近の相次ぐ新発見によって、四大文明に十分拮抗しうる縄文文明の凄さが見直されているように、日本には日本の誇るべき独自な文明文化があったのです。ありのままの日本を知ることがそのまま、日本人であることに自信が持てることにつながってゆきます。ねじまげられてしまっているものの見方を、それはそれとして十分配慮しつつ、日本本来のまっすぐなものの見方に修正することがこの教科書の大きなねらいです。

明治以降の日本の苦悶への共感と理解
 「戦争は悲劇である。しかし、戦争に善悪はつけがたい。どちらが正義でどちらが不正という話ではない。国と国とが国益のぶつかり合いの果てに、政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである。」
 「戦争の世紀」ともいえる20世紀において日本がおかれていた立場、その中での先人の不断の努力、それらを今の感覚で断罪するのではなく、当時の苦労をなんとか共感と敬愛をもって理解できるように努めています。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのであるという基本的な考えに立って書かれています。

読んでわかりやすく、しかもおもしろい
最先端の学問レベルに立った上で、「物語としての歴史」を目指しています。特定な見方に立った意図的、作為的な記述を避ける一方、アメリカが作成していた対日戦争作戦シミュレーション(模擬実験)である「オレンジ計画」や、戦後日本人に罪の意識を植え付けるための米占領軍による「War Guilt Information Program(戦争犯罪の宣伝計画)」など、これまで触れることが避けられていたことも取り上げたほか、もちろん十分な学問的裏づけを持った上で、これまでの教科書では考えられなかった新しい知見に満ち満ちています。


新しい「中学社会 公民」の教科書

すじみち立った考え方、記述の仕方
 「個人」への偏りが強すぎて、ひとりひとりはみんながあればこそという「公民」性についての認識がすっかり薄れてしまっているところに、現在のいろんな問題の根っこがあります。まず歴史をふまえた上で、文化、政治、経済そして社会と順を追って学ぶことで、現代における「公民」の意味が明らかにされてゆきます。社会における人間のあり方を「私」を中心にみたとき「市民」とよび、「公」を中心にみたときに「公民」とよぶという明確な考えに立って、近代以降の「市民であればそれでいい」感覚に反省をうながします。「公民」とは、ただ、「私」の利益や「私」の好き嫌いの世界に安住するのではなく、その「私」が属している国の歴史と文化をふまえて、「私」の属する国の未来への展望をもとうとする「市民」のことをさすのです。

戦後思想は絶対か?
 これまでの教科書では、「基本的人権」や「民主主義」や「平和主義」といった言葉が、ただそれだけでどこにでも通用する絶対の真理であるかのように記述されてきました。しかしそれは頭の中でできた考えの世界の理想にすぎません。そうではなく、歴史の中でゆっくりゆっくりつくりあげられてきて世間一般に通用するようになっている価値観や常識感覚というものがあるのです。それが世の中の秩序を形作っているのです。そうした観方に立って、敗戦後占領政策で植付けられた考え方が絶対ではないとしながら、本来の公民としてのあり方を考えられるようにしています。

家族のたいせつさ
 いまの教科書では「家族は、お互いに協力して助け合っていかねばならないが、その場合でも、家族ひとりひとりの人格と自主性を尊重することが大切である」(東京書籍)というように、個人が優先するかのような記述になっています。それに対して、家族は、共同生活をとおして、相手への思いやり、同じ家族としての一体感、互いの協力、それぞれの役割や責任の意識を、個人の中に育てていく。個人と家族は分けられないものであり、どちらが優先するとか、どちらがより重要かという関係にはないという考え方のもとに、いちばん身近なコミュニティとしての家族の大切さについて多くのページが割かれています。

大人にも納得できる内容
 子供にもわかるようにすることと、程度を落とすことは同じことではありません。ものごとを原理までつきつめるとおのずとだれにでもわかる世界が開けてくるものです。現代日本の知性の到達点から記述された教科書は、大人が読んでもなるほどなるほどと納得できる内容です。

学べば学んだだけ、日々の暮らしが明るくなる、生きる力が湧いてくる
 勉強すればするほど世の中の現実から遠ざかってしまうような、世の中がいやになってしまうような勉強であってはならないはずです。「公民」を学ぶことをとおして、ひとりで生きているんではないというあたりまえのことが確認できる、あらためて人と人との絆のたいせつさがわかってくる、学ぶことがそのまま日々の暮らしが明るくなることにつながってゆく、生きる力が湧いてくる、そういう教科書を目ざしてつくられています。

児童・生徒のみなさん
 こういう教科書で勉強してみたいとは思いませんか!


ついでに読んでください。
インターネットが生み出す新しい世界

インターネットでのメールのやり取りやチャットや掲示板を使った議論や情報交換、そうしたことを通して、これまでには考えられなかった人間関係が生まれています。言葉だけで自分を表現し、言葉だけから相手を判断してできあがる人間関係です。そこでは性や年齢や職業、立場に関係なくだれとでも対等に、しかも思うままの自分でふるまうことができます。それぞれが自由で平等な人間関係が可能なのです。

現実の世界の人間関係はそういうわけにはいきません。身体をもった人間として、その人の行動はいつも他人の前にさらされています。性や年齢といった生まれながらの条件や、職業や立場といった社会的条件の中で「自分」ができあがっています。心の中で「こういう人間だ」と思う自分の外に、、他人からいつも見られている身体をもった自分があるのです。自分が自分をどう思おうと、どうしようもなく他人から評価されながら生きている自分、いつもふたつに分裂しています。パソコンの前の自分と他人の目に触れている身体をもった自分、言葉だけの世界で行動している自分と他人と一緒に暮らす中で身体を使って表現している自分、このふたつの自分の間の大きな隔たりを自覚しだすことが、子どもから大人へと成長してゆく上での大切な通過点です。このふたつの自分に折り合いをつけることが大人になってゆくことと言えるかもしれません。

「言葉だけの世界の自分」は、かつては読書の体験などを通してつくりあげられたものでした。それは自分の心の様子を人前に見せないひとりだけの孤独な世界でした。ところがインターネットの出現によって、言葉だけの人間関係が自由自在に展開できることになったのです。いわば、むき出しの心、素っ裸の心を出し合った人間関係です。このことは、自分の心のもち方までもが生きてゆく上で大切な関心事にならざるを得ないという意味で、人間にとって大きな進化です。

インターネットで育つお互い同士のつきあい方は、現実の世界での人間関係にも広がって、これまでは求めても得られなかったような「深いつきあい」「心を割った人間関係」がいたるところで展開されるような世の中になりつつあるかもしれません。これからの人間の生き方は、それぞれの心のありようが、これまでには考えられないほど大きな関心を占めるようになるはずです。

「物から心へ」とはここ十数年来いろんなところで言われてきたことですが、インターネットの普及がまさにそのことを現実のものにしようとしているのです。


左MENUへ戻る
『守旧派のみなさんへ』を読む