ほらふきだんしゃくてきぐこーろく

「キン肉マン」も、画風でダマされてるが描写は結構エグい。

 

2004年09月25日

 

さて、『ザンコクマンガ』の巻

(指定BGM: 荒木一郎 / 僕は君と一緒にロックランドにいるんだ )

 

 

以前 “戦闘録” のトビラにて、手塚御大が「白土三平=ザンコクマンガ」と激しく叩いておられましたことに申し及びましたが(注1)、さてその“ザンコク”とはこれいかに――まず判りやすい点から申しますれば、その見た目。いわゆる“暴力描写”の多さではありますまいか。

 

忍者物を描きますなら敵と斬り合うシーンは付きもの。時には命により暗殺も辞さぬのが忍びの掟――と申しますか、忍者は命令に対し絶対服従が決まりでございますゆえ、拒むことすら不可能なのでございますが……。

ともあれ、日常的な戦いが当たり前なこちらのフィールドにおきまして“暴力描写”もへったくれもあったものではございませぬが、白土作品におけますその表現は、単純ながらそれまでの漫画にはないリアリティでもって彩られ、当時のガキど……もとい、子供たちに鮮烈な印象でもって迎えられたのでございますワイ。

 

かつて「BSマンガ夜話」にて、先生の代表作とも言えます “忍者武芸帳・影丸伝” が取り上げられておりましたが、その中でも“ちぎれ飛ぶ手足や首”が挙げられておりましたナ。先生の描くそれら“部品と化した肉体”は、斬り口がまっすぐであることはあり得ず、かならず皮膚の余りが凧の足のごとくに棚引いているのでございますワイ。ならびに腕を斬られたり足を無くしたり、あるいは剣が使えぬよう指を落とされたりと、そういった「身近で起こったらけっこう大変」な出来事を、思いのほかあっさりと劇中に出してしまうところも、さらに「ザンコクマンガ」評に拍車をかけているのかもしれません。

 

さらに “生と死は表裏一体” という展開も、必然的に血と暴力が関わってきます要素となっておりますナ。そして当然、最期は誰にも平等に訪れまして、雑兵や農民、さらには主要な登場人物であろうとも、死を迎えますとその亡骸は無造作に地上に転がされますのも特徴かと。このあたりを「BSマンガ夜話」では、「この人には人間は死んだら土に還る、って見方があるのかもしれない」という言及がございましたが、それは先生からしますとありきたりなニヒリズムというよりは、至極当たり前な自然な摂理として捉えているのではないかと愚考いたします次第。

 

先生のお父様は画家さんでございますが、画家は画家でもプロレタリアート画家でございますゆえ、官憲の目を逃れてか、幼少の頃より住まいを転々とされたそうでございますワイ。そのうち戦争も激しさを増し、疎開をされたり食糧増産事業に駆り出されたりと、学校にあがっても勉強している時間そのものがなかったとか。

 

そして戦後も、やはり生きていくため、食べていくために自活の道を模索せねばなりません。幸いにもお父様から絵の手ほどきは受けてらっしゃったので、先生は紙芝居にその活路を見いだしていきます――それが後のマンガに繋がっていきますことは、吾が輩が申し上げるまでもございませんナ。

 

これだけでも先生の歩まれました成長過程が決して平坦なものではなく、世の中に自然とシビアな目を向けるようになっても、なんら不思議はございませんことが判りますワイ。それでも先生の一連の作品を拝見いたしましておのずと知れますのは、先生ご自身は非常に博識であり、また碩学であらせられるコト。剣術や農業開発の歴史やら――まぁ忍法の科学的な解説は置いておきましても、大人になって読み返しましてから、あらためて唸らされたことはひとたびではございませぬ。

 

吾が輩が先生の作品に最初に触れましたのは小学校の高学年あたりであったように記憶しておりますワイ。今でこそ多数ございます各出版社の“漫画文庫”も、当時は小学館さんくらいしか出されておりませんでしたような(注3)――そちらがございましたからこそ、“サスケ”をはじめとします先生の代表的な作品群を拝見できました次第。

されど、やはりあのころの小学生に「忍者物」は縁遠かったものか、おおよその有名作品に目を通し終えますとすっかり筋も忘れ、ふたたび興味を示すこともなく20代半ばまで過ごすことと相成りました。

 

子供の頃は、「なんてドラマ性豊かなマンガなんだ!」程度に受け止めておりました白土マンガ。それも20代半ばとなりますと、やはり掲載紙の違いによってそれぞれ客層へのアプローチを変えていたことが判ったりもしますが、やはり「影丸伝」は、チト子供のキャパシティにはテーマが大きすぎる気がいたしますワイ……まぁそれだからこそ、のちの “大学生も読む漫画” こと「カムイ伝(第一部)へと成長を遂げていくのでございますが。

 

 

 

さてこちらでベクトルを少々変えまして――いま少しまえに2ちゃんねるの「マンガ板」に参りましたら、そちらに“残酷な漫画をあげてみるスレ”なるものがございましたので、チト目を通してみますと――さすがに世代の差か、さしもの白土マンガも「し」の字すら出ず、代わりによくあがっておりましたのがこれなん「ベルセルク」の名前。

 

吾が輩がようやくベルセルクと触れあえることが叶いましたのが、去年の充電期間中でございますことはすでに申し及んでございますが、「食わず嫌いもここまで意固地であると損をするナァ」と、その時にひどく後悔したものでございますワイ(注2)

 

まずなにはなくともシャポーを脱ぎますのは、導入部におけます主人公の、唖然とせざるを得ないほど徹底的に(注3)確立させましたその存在感に尽きますでしょうか――周囲の有象無象は歯牙にもかけぬうえに厳然と関わりを厭(いと)い、かつそれらを足下に圧倒して屹立する孤独な姿。それは作者の意図もそのままに、ダーク・ヒーロなどというレヴェルを優に超えた妄執の復讐鬼を、読者の脳裏に焼き付けるには十分すぎる手法でございました。

 

さらに吾が輩が三浦健太郎氏に感服いたしますのは、物語におけます負の部分でさえも、ご自分の構想にあるものであれば “手加減なく” 盛り込んだうえに描写してのける、その執着と意志力でございます。ガッツの生い立ちから恵まれない幼少期、そしてトラウマなどもしかりでございますが、キャスカとはじめて結ばれます際にその心の傷がよみがえったり……「ガッツの大人への階段は、いったいいくつあるんだろう」と気の毒になるくらい、三浦氏はご自分のキャラに傷を負うことを課し、それらをキチンと克服させていくのでございますが……。

 

文章であれ絵画であれ、負のイメージは正のイメージより手がける際にはじつに数倍、ないしは数十倍の精神的負担がかかるのでございます。左様でございますなぁ……合戦のシーンなどでやられ役をバッサバッサ斬り倒すのではなく、相手に対し意図的に危害を加える場面と申しますれば、より具体的に想像できるのではございませんでしょうか。その点につきましてはあの蛭子能収氏も、「人を殺すシーンは、書き終えると必ずグッタリ疲れ切ってしまう」と、“銭ゲバ”の解説の時に仰られてましたので、いわんや三浦氏の画風をや。あの “蝕” をや――でございますワイ。

 

先にガッツのトラウマに触れましたが、三浦氏の作家性の高さとしましてもう一つ吾が輩が評価させていただきたい点としまして、禁忌(タブー)にも近い社会の暗部にも観察眼をむけて目を反らさないことが挙げられます。こちらは白土先生にも通じる“リアリズム”とは、さすがに断言はできかねますが、とくに「断罪篇」におけます娼婦たちの描き方や、拷問吏らのディテールなどは、吾が輩も“クリエイター”を目指します者の端くれとしまして、学びますところ大でございましたワイ――さらにはこの篇の中心人物でございますモズグス氏に、

『剛力招来、超力招来!』

なる、いにしえよりの大名言を吐かせましたお茶目さにつきましても(笑)。

 

そして、「ベルセルク」を語りますうえでなお重要でございますのは、重厚にして緻密、さらに広大なそのストーリー。こちらを忘れることは許されざる大罪でございますワイ。率直な感想としましては、「このお方はたくさん本を読まれていらっしゃいますナァ」と舌を巻いております次第……いえ、なにも吾が輩が、それぞれの逸話の原典を予想できますのを、鼻にかけて申しておるのではございませんゾ。

ただこれだけ長く、さらにそれぞれの篇で色合いも展開も異なる話を、三浦氏お一人で構想なされているのでございましょうか。やはりブレーン集団が存在しますのでしょうか……いえ、べつにそれならそれで構わないのでございますが、もし独力でなされてるのでございますれば、三浦氏はまさに超人的であられますナァ――吾が輩、忌憚なくそう申し上げられますワイ。

 

構想と申しますと、あの独特のクリーチャーらやゴッド・ハンドたちの造形――あちらもご自身の脳内でイメージし、そこから絵へと抽出するのに、どれだけの手間と労力がかかりましたものやら。絵のまったく不得手な吾が輩からしますれば、まったく途方もないお話でございますワイ。

 

最近の「ベルセルク」は何とはなしに戦闘時の役割分担ができてきまして、チト “RPG” 臭さがございますが、それでもパックとイシドロのコンビで “息抜き” ができます分、以前より書きやすいのではないかと(笑)。なにしろそれまでのガッツはドラスティックに試練が多いのに比して、息抜きできること自体が極端に少なかったですからナァ……描いておられます三浦氏にしても、よくその間モチベーションを維持できたものでございますワイ。

 

――まぁ「鷹の団」がミッドランド宮廷内にて、その地位を上げていくあたりは比較的おだやかな流れではございますから、あのあたりでテンションを整えておられたのでありましょうか。いえなに、吾が輩でしたらけっこう正弦波に近いペースでシリアス〜ギャグの緩急をつけていきませぬと、精神のバランスがうまく取れませぬゆえ……重苦しいシーンばかりが続いてしまいますと、煮詰まった脳血(のうぢ)が七つの穴より噴出し、昏倒してしまうおそれがございますので、いやはや――。

 

昨今の展開では、さらに描くべき世界の奥行きが深まった観がございますこの「ベルセルク」。劇中にてよく “神話” なる言葉が出てまいりますが、三浦氏はさてどのあたりまで視野に据えられ、手がけられるおつもりなのでございましょう……あるいは、すでに構想ではそこまで手をかけられたのでございましょうか――いずれにしましても、アニメですら注4追随を許さなかった壮大なる叙事劇画。吾が輩をしまして、

『ああ、このようなお方とお仕事がしたい……でも厳しそう

 

と切に思わしめた三浦健太郎氏。吾が輩の中では“世界最高峰のクリエイター”に位置づけられております次第。

 

さるにても、わけても重要なターニング・ポイントとなります “蝕” にて「鷹の団」が破滅していくシーンなどは、たしかにたいていの人が見ればすぐさま “ザンコク” という言葉が口をついて出ると思われますナ――そこには人が大量に死んでいくという状況と、それを余すことなく描き出します表現的なものも、重きをなしているのは確かでございますが――

これまで論じさせていただきました白土・三浦両氏のマンガに通底いたします“描写への姿勢” から吾が輩が愚考いたしまするに、そこに描かれております世界をはじめとしまして、人や意思や傷や痛みがあまりに現実に近すぎる、というのがネックになっているではございますまいか。

……いわゆる“死”にしても“飛ぶ首”にしても、さらには“世の中のしくみ”そのものも、両氏がオブラートに包まず直接的に、容赦なく暴いて突きつけたために世間が拒否反応を示し、“ザンコク!”という悲鳴を発したように、吾が輩はお見受けいたします次第。いわゆる“真実は人を傷つける”の、異なった形態なのかもしれませんナ。

 

 

 

それでは最後の〆といたしまして、またぞろ先ほどの“2ちゃん”のスレを読み進みました際のお話をば……。

 

しばらく「ベルセルク」勢が優勢でした中で、やがて「ジョージ秋山の “アシュラ” なんて、このスレの住人はほとんど知らないだろうな」というカキコが。そこから散発的にどんな内容を扱った作品なのか簡単な紹介がなされまして、「興味あるけど、もう長い間絶版でしょ」から「復刻されたなんて聞いたことないし、こんな時期にどこもやらないだろ」という結末に。以後アシュラの名は上がることはございませんでしたが……

『平成五年にぱる出版から上下巻で復刊され、その初版を所持しております吾が輩は何者??』

 

と、激しく居たたまれない気分に陥りましたとサ……そういう激レアな情報に限って、吾が輩は竜巻ヅモ注5でつかんでしまうのですよナァ。嗚呼、めでたくなし、めでたくなし――。

 

 

 

 

注1:やはりPTAの風当たりも強かったようでございますナ。

注2:その前に武論尊氏と組んだ「狼王伝」を呼んだのですが、こちらがあんまりな内容だったことも遠因かと。

注3:この場合“テッテ的”というのは正しくない文法でございますワイ。

注4:アニメは出来が悪くなかっただけにもっとガンバってほしかったですナァ。

注5:片山まさゆき氏のほうのゴッドハンド氏より。

 

 

 

 

おいおい、そっちじゃないぜ!

 

 

2004.09.25 (C)Mephistopheles von Münchhausen

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