温 故 知 新
file.1 徒然草
若かった頃は苦労したんだろうな兼好さん

 兼好法師は鎌倉時代の隠者、すなわち世捨て人である。官職に就かず、歌を詠み、経を読み、気が向けば琴をかき鳴らすといった生活をしていた。そんな彼が心に思うことをとりとめもなく書き綴ったのが「徒然草」である。

 隠者の目から、社会をちょっと斜に見ている姿は、現在の私達から見ても面白いし、なるほどと思うこともある。無論、懐古趣味の強い兼好法師の言うことは、時として古いなあ、保守的だなと思われるところもあるのだが、それらを割り引いても、現代の社会にも通用する面もあり、さすがは長く読まれた古典だと思える。
 そんな「徒然草」の中にこんな一文がある。

 すべて男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。
(すべて男をば、女に笑われないようにりっぱに育てあげるのがよいということである。)

 このくだりを、私はOの活動中思い出すことがずいぶんあった。そう、女に笑われてしまうような男がやはりいるのである。子細は述べないが、礼儀、身なり、態度などの面で、どう見ても感心できない男というのが少なくはないのである。無論、同性の男が見てもそうだと思う。

 考えてみれば、男の子を女の子に笑われないように育てるということを母親は考えていないのではなかろうか。(子育てにあまり携わろうとしない父親はもっと考えていないかもしれない。)母親は世間に迷惑をかけないように、いい子に育てようとするわけだが、自分以外の異性に息子がどう見られるかは考えていないような気がする。極論すれば、母親はいつまでも息子をかわいい息子だと思っている。息子が40になっても、50になってもだ。母親からすれば息子はいつまでも我が子であり、他人の目で見るというのが難しいのだ。だからたいていの失敗は許せる。だが、息子にとって自分の失敗を笑って許してくれる存在があるということは、彼の成長にとって決してプラスになるはずがない。おかしな恰好(本人はまともだと思っている)をしても母は似合うと言ってくれるし、無口な自分のことも母親は大人しくていい子だと思っているわけだから、いつまでも恰好も態度も改まるはずがない。幸いに、母親から精神的に自立した息子だけが、母親の評価に関係なく自分の失敗を失敗として素直に認めることができる。だが、最近は精神的な自立をするのが男女とも難しい時代である。昔は本人の意思に関わらず、親から精神的に自立せざるを得ない社会状況だったが、現在の社会は本人の意思なくしては、簡単に親から自立できないし、親も子供を自立させようとしない。

 女性の場合は、精神的に親に依存していても男性ほど目立たない。女性は子供の頃から、コミュニケーションの能力が男性よりも長けているので、人(特に同性の厳しい目)から笑われるようなことはあまりない。それどころか、きれいにして、ちゃんとコミュニケーションがとれれば、男性から賞賛されることは若い女性ですら知っているから、そんなことに気付かない男性を辛辣に笑うのだ。

 ただし、兼好法師はバランス感覚のある人でもあるから、同じ章段の中で、男性から心おきされるような女性はどれほど立派なものかと考えてみると、女の本性はみなねじけている(本文では「女の性はみなひがめり。」)と書いている。女は欲張りで、ものの道理は知らない、言葉巧みで、さしつかえないことでも聞く時は言わず、あきれ果てたことまで聞かれもしないのにしゃべる、深く考えをめぐらし表面を飾っているが、それが後からすぐばれてしまうことも知らない、素直でなく、つまらない、とまあ散々言ってくれている。女の心のままになって、よく思われるようなことは、情けないことだろうとまで言っている。きっと兼好法師も若い頃、女に酷い目に遭ってるに違いないと思わせる。
だが、彼の人生経験を感じさせるというのが、その後の部分。

 もし賢女あらば、それものうとく、すさまじかりなん。ただ迷ひを主として、かれに随ふ時、やさしくも、おもしろくも覚ゆべき事なり。
(もし賢女がいるとすれば、それもなんとなく親しめず、興ざめするに違いない。ただ迷いに心が支配されて、女に順応するならば、やさしくも、おもしろくも思われるはずのものである。)

 最初の「女に笑はれぬやうに」からすると逆の結論のように見えるが、そうではない。女の本性に反した賢女がいいかと言うと、それも面白みのないこと。結局、男は女に迷わされて順応するならば、たとえねじけた女でも優しくも面白くも思えるのだ。つまり反対に考えると、女がねじけているというのは、女に迷わされたことのない男から見てそのように見えるのであって、女に一度迷わされると、女は面白いものだということなのではなかろうか。謎の多い兼好法師(妻子のことも正確な生没年も未詳)という人の人生経験を垣間見させるという意味で面白い部分でもある。

 よくいろいろな掲示板で、見合いや色々な出会いの場での女性の態度を叩く男性がいるのだが、彼らはよく言えば真面目で、今まで女性に心迷うことがなかったからそう書けるのではなかろうか。(無論、社会的常識知らずで叩かれる女性もいるのだが)一度でも真面目を捨てて馬鹿になって女性にアタックしてみたら、簡単に女性のことを叩くことはできないのではなかろうか。
「徒然草」の第三段では次のように書かれている。

 万にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵の当(そこ)なき心地ぞすべき。
(すべてのことにすぐれていても、ひたむきな恋心の動かないような男は、まことにものたりなくて、まるで玉の杯の底がないもののような心持ちがするであろう。)

 無論、アタックする際はは「ひがめ」る女性に笑われないように。兼好法師は「女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。」(女からくみしやすくないと思われるのこそ、このましい身の持ち方というべきである。)とも言ってるんだから。

                    (引用の本文は日本古典文学全集による。)

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