むいみつづり
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09

珈琲 「じゃあ、男の部屋には、行ってないんだね?」
 横山サンは、低い声を更に低くして、一言一言にたっぷり重みをのせて言った。私が高校生の頃バイトをしていた小さな喫茶店のマスターで、自称「父親その2」。もっとも、「その1」つまり実の父とは、離婚以来、全くつきあいがなくなってしまったのだが。
「行ってないよ。いくら私だって、そこまで無防備じゃありません」
「安心した……俺なぁ…」
横山サンは、自分で淹れたコーヒーを飲んで、続ける。
「最近お前がお嫁に行くことばかり想像しちまってなぁ……トシかな」
 私は、喫茶メルシィの、古びた店内を見渡す。見渡すといっても、松田優作が座っていそうなソファも、ゴルゴ13がびっしりと揃った本棚も、カウンターの向こうの案外高級なコーヒー豆の缶も、すべて半径3メートル以内にある。
「横山サン……まだ50前じゃん。最近弱気になりすぎだよ。オシャレカフェに押されてお客さんが激減したからってなんでもかんでも悲観的になること…」
「こいつ!」
横山さんは私のおでこを叩く真似をして、そのまま広い胸のなかに閉じ込めた。ぎゅっと、三歳の女の子を抱きしめるように。
「……どこへも行くな」
「おとーさん、だめだよ」
見慣れた、緑色のエプロン。かすかに煙草のにおい。わたしはそっと目を閉じる。
 愛のある家庭で育った子は、恋に目覚めるのがうんと遅い。そう言ったのは誰だったか。私が彼氏がいなくて平気でいられるのは、ひとえにこの人の所為に違いない。私は横山サンの背中に手をまわす。
「おとーさん…」
 そのとき突然カウベルが鳴ってドアが開き、
「あ、いらっしゃい」
お客さんはその声を聞く前に、速やかにドアを閉め、逃げるように去っていった。
 メルシィは、また貴重な常連さんを失ってしまったらしい。

2003/09/19