むいみつづり
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マウス  香奈は聖堂下の第一コンピュータ室で縦書きの原稿を作るのに苦心していた。画面の隅でゆらゆら遊んでいるイルカが、余計に苛立ちを煽ってくる。
 提出期限は明日の授業。それまでに、原稿をパソコンで打ち、輪転機にかけ、製本しなければならない。いつもパソコンを打ってくれる親友の真理子は、姉の結婚式のために北海道へ行ってしまった。真理子の携帯は、もう何時間も繋がらない。香奈は青函トンネルの長さを思った。きっと、瀬戸大橋よりうんと長いのだわ。そして、今回は自力で作ってみようと心に決めたのだった。
 かれこれ二時間、香奈はパソコンと格闘している。襟の尖ったジャケット。首には首輪。ボリュームのあるフェイクレザーのミニスカートにはウォレットチェーンが光り、目の周りはパンダ状に真っ黒。ゴスロリ少女にはままあることだが、香奈は見た目に反して気弱で大人しく遠慮がちな性格である。コンピュータ支援センターのドアを叩きスタッフに助けを求めることは、わけもなく躊躇われてしまう。
「そろそろ閉めたいんだけど、終了してもらえませんか?」
後ろから低い声が聞こえて、香奈はビクリと震えた。気がつくと、周りに学生は一人もいなくなっていた。
「あ…、ごめんなさい。はい…」
香奈はフロッピーディスクを出そうと鞄の中を探った。無い。持ってきていたはずなのに。仕方がない。香奈はファイルをマイドキュメントに保存しようとした。
「君、FD無いの? このパソコン、毎朝初期化してるから保存しても無駄だよ?」
「そうなんですか!?……どうしよう…」
香奈は振り返ってスタッフの顔を見た。40前だろうか。疲れた顔で、苦笑している。
「作業、あと十分くらいで終わるなら、終わらせて行きなさい。待ってるから」
「いいです。打つの遅いから……」
「何ページ?」
「2ページです」
「手書きの原稿を打ち直すだけ?」
香奈は、こくんと頷いた。
「差し障り無いなら、俺が打つけど?」
香奈はもう一度こくんと頷いて、そのまま頭を下げた。

「クラブハウス西なる動物実験棟壁に書かれしGOLGOTHAの文字
 ……すごいじゃない。短歌でしょ? 君が作ったの?」
香奈はロイヤルオーダーの指輪をいじりながら、きまり悪く答えた。
「課題、なんです」
男は、しきりに感心しながら、しゃべるのと同じ速さで文字を打っていった。
短歌十首打つのに、二分かかっただろうか。少なくとも香奈には、神業のように思えた。
「縦書きにして…10.5フォント? 印刷、と」
プリントされた印刷を受け取って、香奈は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。ご迷惑をお掛けして、本当に…すいません」
「いいよ。おじさんたち暇だからさ。使い方がわかんないとき、いつでもおいで」
男は香奈の頭をぽんぽんと撫でて、教室の外まで送りだした。

2003/10/10



協力:処女航海 a virgin voyage