THE SOUL AND ITS MECHANISM


目   次

フォワード 9

第一章
イントロダクション 13

第二章
腺と人類の行動についての現代理論 30

第三章
エーテルまたはヴァイタル体の理論 54

第四章
魂、エーテル、エネルギーについての東洋の教え 92

第五章
フォースの7センター 109

第七章
まとめ 128

参照 154
歴史 158
索引 163

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"肉体と魂の相互関係においては、他のどんな因果関係の例の中のものよりも大きな謎があり、私たちがある場合において何かを理解するというような間違った独断のみが、他者のなにものをも理解していないという驚きを起こさせるということを示すことはやさしいことである。"
ルドルフ ヘルマン ローツェ

"自己の中心の希望から減少する意義は肉体を覆う;それは単に独房の都市というのではなく意味のある都市となる。その器官は単なる事実ではなく、危険で深遠な象徴である。それは全体として、価値あるもの、美しいもの、または醜いもの、優雅であり、仕組みであり、暗黙の哲学となる;そして誇りと恥じの態度、芸術への尽きること無い興味、ダンスの万能の意義などがすべてわかるようになる。姿勢、身振り、色や緊張の百万もの精妙な表現に富む変化は内部作用の直接の自然な表明となる。詩、道徳、宗教、そして論理は私たちのマインドと同様に私たちのメンバーの中においてその座を回復し、その世界は私たちの分析が私たちを奪い取るために脅かした具体的な統合を回復する。"

自己、そのボディーと自由
WM.E.Hocking、p.97.

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FOREWORD

 東洋の哲学的、心理学的な考え方への私たちの態度は、大部分の者にとってあいまいな畏敬であり、同様にあいまいな疑惑である。これがその通りであることは残念である。崇拝者は不信者と同様に悪いものである。私たちのものとはたいへん異なっていて、さらにある者がしばらく後で発見していくにつれ、その本質においては根本的に同じものである東洋の考え方の大きな部分を公正に評価することに向けては、どちらも私たちを前進させない。
 私たちの哲学、心理学の本−−−この本ともう1つの別のものから東洋の思考のほとんど完全な脱落のせいにすることに疑いのないことは、この識別力のない態度である。東洋は西洋にとっては難しい独特の表現を持っている。翻訳されれば、彼らは東洋の書物を混乱した詩的につくられたものか、自己神秘化したもののどちらかの奇妙な訳のわからぬものとみる。
 Mrs.Baileyはこの本の中で、東洋の思考上で耐えるための批判的なマインド、すなわち正確な西洋の思考と同様に叡智の終局性に対して主張しないことに基礎を置くことができるものをもたらすことの大きな奉仕をなしている。彼女は畏れを吹き込む外観や身振り、西洋人にとって馬鹿げたものに思えるからかえってすばらしいものである神秘のドクトリンを受け入れることの力不足を断念することを宣言するためにやって来たのではない。彼女は実際に言っている:”東洋の思考は、より深い存在の問題への探求の意義を持つ。

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西洋よりも必ずしもよいものではない。それは異なっている。それはもう一方の角度のアプローチから始まる。東洋と西洋のどちらもそれらの思考を特別なものとしてきた。したがって、それぞれが独自の誠実さと独特の洞察力の長所を持っている。しかし特別化はそれが究極の統合を導いて行くときにのみその価値を持つ。東洋と西洋とでのそれぞれの生活のこの最も深遠な領域−−−領域、すなわち哲学的で心理学的な思考−−−でまとめるために十分に発達したときではないだろうか?”−−−と。
 他の理由がなければこの本は東洋から西洋に、そして西洋から東洋へと解釈することばかりでなく、2つの思考の手順を1つの観点の調和へともたらす試みとして意義のあるものである。彼女が幸運にも統合を成し遂げるかどうかは、結局その読者が決定することである。が、その試みは注目に値するものであり、その両方のタイプの思考へのより知的なアプローチで実を結ぶべきである。
 この本にその特別な意義を与えているものはしかしながら、著者が西洋の腺の研究と東洋の”センター”の研究との間で組み立てる独特の比較である。西洋の哲学者であるスピノザは大昔に私たちが固体と呼ぶ絶対的な生命の中で、彼が肉体とマインドと呼ぶものと絶対的なそれらの表現の生命におけるものの分離できない平行関係に注目した。もしそのような平行関係が存在すれば、あるものは見出すことを期待するだろう。というのは、すべての外部の表現、内部のもの、あるいはサイキックフォースはこうしてそれ自体を表明するからである。

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 今まで、私たちは内部と外部の最も一般的なやり方における仮定を得てきた。この本は概してペースメーカーである、いわば”私たちのパーソナリティーの腺の研究を中心に置くことによって、さらなる個人の十分な訓練のための提案における予期せぬとんでもない方法のみではなく、さらなる探求の可能性を魅了することを開発する方法においても肉体とマインドの関係を提供する。西洋では私たちは甲状腺または副腎をまったく生理学的習性によって話をしている。この習性の霊的な写しと同様なものはないのだろうか?尋ねることが奇妙な質問に思え、一見して生理学の科学者にはもの笑いの種にされるだろう。そしていまだに私たちが19世紀の唯物主義の暗闇から現れたことのない無情の独断家でなければ、私たちが脳と呼ぶ生理学上の霊的な写しのことを話すだろう。それなら甲状腺、副腎、そして死の霊的な写しがあるのではないだろうか?
 私たちがこの論理的結末にこの質問を追求するならば、個人の霊的な生活が脳の中でそのような生活を単に中心に置くものとしてみている、かなり単純な知性偏重のポイント以上のものであるという私たちの考え方を疑いなく広げていくことを学ばなければならない。
 私はその本の著者によってなされた試験的結論のために是認はしていない。特定の結論は修正または拒否さえも必要であるかもしれない。しかしその著者は、私がどのような疑いも持ちようがない深い意義を持つような生理学的で心理学的な探求へとやがては導いてくれるかもしれない新しい可能性を開けてくれている。

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その本は挑戦するばかりではなく、まれにみる啓発でもある。西洋のマインドには驚きとしてやって来るだろうが、私が思うには、その驚きをもってそれは私たちの西洋において、まるで知られていない東洋の思考のプロセスへの本当の賞賛を混ぜ合わされることになるだろう。
H.A.OVERSTREET

New York City
May 1930

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魂とそのメカニズム

心理学の問題点

第1章

序章

3つの欲求がこの本を書くことに駆り立てる:唯物論あるいは外部の心理学、そして内省または内的な心理学を引き起こす欲求、そして第2に人種の思考と人種の心理学のより大きな分野に対して、過去の科学的な心理学に目を向けて物質的な西洋と内省的な東洋を調和することの欲求、そして最後にこれらすべての葛藤する相が1つの真実のほんの1面であって、いっしょにそれらは1つのリアリティーを構成しているものであることを示すことである。これらの欲求は世界中で現在の心理学的な教育の位置から成長している。今日心理の2つの支配的なタイプのものがあって、ウィル・デュラント( Will Durant )は”哲学のマンション( The Manshons of Philosophy )”という本の中で次のようにうまくまとめた:

 私たちが見たところ、人間を研究する2つの方法がある。1つは環境から始めるもので、人間を適合する機械と見るものである:

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それは物事への思考と'物質'への'マインド'を減少させ、スペンサー( Spencer )の隠された唯物論やワトソン( Watson )の行動主義の中に見られる...もう1つの方法は内面に始まる;それは人間を、環境を学び、使い、マスターするための必要性と推進力と欲求のシステムと見ることである;それはアリストテレス(彼は内的目的がすべての形態を決定するということを支持した)の'エンテレキー( entelechy )'から始まって、ベルグソン(Bergson)のバイタリズムとウィリアム・ジェームズ(William James)のプラグマティズムを生んだ”

 ドクター・ピルズベリー(Dr.W.B.Pillsbury)は重複を伴うこの二重のシステムを必要性のないものだと思っている:

”もし行動主義者的な理論が保持されるのであれば、我々は内面と外面の2つの心理学、すなわち外部から眺めた心理学と内部から眺めた心理学を持たなければならないことを意味する。これはいくらよく見ても必要のない複雑化に思えてしまう。”

 この二重の状況を認識し、ドクター・ピルズベリーの言う2つの線の解釈が必要ではないということに同意すれば、その2つを第3のもの、すなわち1つの統合体に融合する可能性を確信する。それゆえに私は機械論学派の正確さを証明するための仮説を提供することと、同様に内省の学派の正確な位置を提供することを求め、また両方の学派がすべての事実を説明するために必要であり、それぞれがお互いに補っているということを示すことを求める。こうして私たちは自己内省の東洋の智恵と西洋の正確な知識に基づく第3の、または混成の学派を確立するかもしれない。

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 これら2つの心理学の学派を考慮すると、現代の心理学がたいへん唯物論的なものであって、最も人気のある学派でも完全にそのとおりであることは明らかである。ヨーロッパとアメリカでの数多くの、そして様々な学派から出ている最新の心理学の本の研究は、大多数が行動主義的な学派の機械論の哲学を拒否するか、保証するかに関わっていることを示している。もし彼らがこのようなことに費やすことがなければ、彼らは唯物論の心理学の別の形態を提供している。ドクター・ヴォルフガング・ケーラーは形態心理学の中で言っている。例えば:


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