I (アイ)


           1

 奇妙な夢で目が醒めた。夢の内容ははっき
りと思い出せなく、なにか得体の知れぬ不安
だけが小さなしこりとなって残っているよう
であった。
 ブラインドの隙間から差し込んでいる初
冬の光の中でチンダル現象を起こした埃が
きらきらと輝いてる。時計を見た。エッシャ
ーの騙し絵の上に長針と短針だけがついて
いるシンプルな掛け時計で、観崎陽子がヨー
ロッパ旅行(発掘)の土産に買ってきたもの
である。観崎陽子は同じ研究室の大学院生で
俊一の後輩で、艶やかな長い黒髪と大きな瞳
が魅力的な女性である。
 十時を少しまわっていた。いつもより早い
がすっかり目が醒めてしまっていたので起
きることにした。最近は夏に発掘した資料の
整理に忙しく、アパートに帰るのは午前三時
をまわるのが常になっていた。
 大きく伸びをして起き上がった。ブライン
ドを上げると比叡山がよく見える。雪の季節
には京都市内にも年に二、三回は雪が積もる。
妙に静かな朝にはブラインドを上げるのが
わくわくするものだ。故郷の冬の朝を思い出
させる。窓を開けると、うっすらと白く残っ
た比叡山の頂の雪で冷やされた空気が身に
しみた。眠い眼をこすりながら身仕度を始め
た。

 京都K大学考古学教室は文学部の第一研
究棟一階のフロア半分を占めており、地階は
自動温度・湿度調整装置のついた試料庫とな
っている。試料庫の天井高は約七メートル、
庫内の中央から半分は中二階になっている。
庫内には通常の防犯ビデオカメラのほか赤
外線ビデオカメラ、小型CCDカメラ、物体
感知器など最新の防犯設備が施されている。
 考古学教室には、教授室、助教授室、助手
室、第一研究室、第二研究室、第三研究室、
セミナー室(ゲストが来たときに簡単な講演
をしてもらうときに使うが、普段は教室員の
憩いの場)がある。第一研究室は六〇平方メ
ートル程の部屋で出入り口は北側と南側に
それぞれ一つずつあり、部屋の中央をスチー
ル性の棚で間仕切りしてある。間仕切りした
部屋の北側には、三次元ビデオ撮影装置と照
明装置が設置してある。南側には大きなドラ
フターが壁ぎわに設置され、中央部には実験
台が二台置かれている。三次元ビデオ撮影装
置では、資料を三次元方向から撮影し画像デ
ータをコンピュータに取り込データバンク
とすると共にコンピュータグラフィックス
で資料を復元する作業に使用される。南側の
部屋では主に資料の材質等についての化学
的な分析を行っている。第二研究室はエック
ス線撮影装置が設置してあり、脆弱な資料や
内部を露見できない資料などの分析に使用
される。第三研究室では主に資料の修繕や復
元、整理に使用されている。
 考古学教室の教室員は教授の滝谷孝治、助
教授の岬安文、助手の伊達真、大学院博士課
程3回生の柏木俊一、二回生の神崎陽子、大
学院修士課程2回生の高木京介、ゼミ生の香
川一、三谷勇介、山根優子の総勢九名である。
 俊一が助手室に入るとコーヒーの香りが
漂っていた。助手の伊達真が丁度お気に入り
のブルーマウンテンを煎れたところだった。
伊達は東北の国立大学の大学院をでて, 昨
年まで英国のオックスフォード大学に留学
していた。東北なまりのブリティッシュイン
グリッシュを話す新進気鋭の考古学者であ
る。英国留学していたくらいなので専門はケ
ルト民族で、特にケルト民族の使用していた
武器と戦史について研究している。
 一八〇センチの高身長で筋肉質、あまいマ
スクがちょっとした貴公子的雰囲気を醸し
出しているが、強度の近眼で縁の黒く分厚い
フレームの眼鏡をしており、せっかくの貴公
子然的雰囲気はそのために壊れてしまって
いる。
 伊達は英国留学時代から使っている陶器
のマグカップに波並みとブラックコーヒー
をそそいでいた。
 「おはようございます」俊一は自分の机の
上にバックを置きながら挨拶をした。
 「おはよう、コーヒーどうだい」
 「あ、どうも。いただきます」俊一は伊達
の差し出したコーヒーサーバーから自分の
カップに注いだ。考古学教室では、代々教室
員は自分専用のコーヒーカップ、コーヒーの
飲めない者はティーカップ、湯飲みなどを備
えることが習わしとなっている。OBなどが
たまに顔を見せたときに懐かしのカップで
お茶を出すと喜んでもらえた。そのため、教
室の食器棚はカップ類で飽和状態であった
が、この夏に神崎の提案でほとんど顔を見る
ことのないOBや逝去されたOBらのカッ
プを整理して地階の資料庫の一部に片付け
たのである。しかも、カップの持ち主につい
ての情報を集められるだけ集めてデータベ
ースを作成した。これは神崎陽子の性格と趣
味みたいなものであったが、この作業に付き
合わされた俊一は少し後悔していた。その作
業に費やした一週間がそのまま現在の仕事
の遅れとなっていたからである。
 「どう、資料の整理は進んでる」
 「そこそこは進んでいるんですが、やはり
夏にやったOBの資料整理で遅れた分がそ
のまま残ってしまって」
 「そうか、じゃ良い知らせが二つあるんだ。
一つは明日から資料整理のバイトがつくこ
とになった。もう一つは、今日ワークステー
ションが納入される。」
 「ほんとですか。やあ、よかった。ちょっ
と今のシステムでは力不足だったんです
よ。」
 「新しいのが入ったら、今の倍くらいの処
理速度があるの。」
 「いやあ、三倍はかたいですよ。で、何時
くらいに来るのでしょうね」
 「さっき業者から電話があって三時くら
いになるといってたけど」
 「ようし、気合がはいってきたぞ」俊一は
いっきに残りのコーヒを飲み干した。
 俊一は現在主に三次元撮影装置で入力し
たデータを元にコンピュータグラフィクス
で復元する仕事を行っていた。膨大な量のデ
ータを入力するため根気のいる仕事である。
そのためにデータを処理するための高速な
コンピュータが不可欠である。俊一は今日納
入されるワークステーションと今のシステ
ムを入れ替えるために現在のシステムのバ
ックアップをとり始めた。データ量が膨大な
ので、いったん学内の計算機センターにある
大型コンピュータのハードディスクにバッ
クアップをとり、その後で光磁気ディスクに
バックアップをとることにした。コンピュー
タが立ち上がると学内ネットにログインし
た。パスワードを入力して、大型計算機に確
保してあったハードディスクにファイルを
コピーした。ディスプレイ上ではファイルコ
ピーの進行状況がグラフィカルに描き出さ
れているが、コピー状況の残量はなかなか減
らなかった。
 ぼうっと、ディスプレイを眺めたまま、俊
一は昨日資料庫で見つけた頭蓋骨のことを
考えていた。それは、夏に発掘した資料の中
に紛れていた。夏に発掘した遺跡はおそらく
縄文中期の遺跡とされているが、その頭蓋骨
は妙に生々しく、これが千数百年の時を越え
てきたものとは考え難かった。まれに、極め
て保存状態のよい骨を発掘することもある
が、どこかしら破損したり、ねじ曲がったり
しているものだが、あの頭蓋骨は完璧な状態
であった。つい数日前まで生きていたような
そんな気がするのだ。
 「おはよ」ぽんと肩をたたかれた。びっく
りして、振り返ると、神崎陽子が立っていた。
 「なんだ、びっくりさせるなよ」
 「びっくりするほど何を考え込んでたの」
 腕を組んで、ちょっと身体を斜に構え、そ
して小首を少し傾けた姿勢で神崎が切り返
してきた。
 「別に神崎の考えているようなへんなこ
とは考えていないよ」
 「へえ、そうですか」と人差し指を顎にあ
ててとぼけたような仕草。
 「ところとで、今日ワークステーション納
入ですって」
 「ああ。三時くらいらしい」
 「バックアップはもう済んだの」
 「いや、まだまだだよ」といって後ろのモ
ニターを振り返る。やっと三十パーセントほ
ど済んだところだった。
 「まだまだね。わたしのデータ壊さないで
ね」と冗談を言って神崎は部屋を出ていった。
おそらくバックアップ一時くらいまでかか
るだろう。新しいシステムに入れ替えたらま
ず最初にあの頭蓋骨の復元を始めてみよう、
俊一はそんなことを考えながらモニターに
向き直った。

 完全な機能を発揮するにはもう少しセッ
トアップをしなければならないが、一応シス
テムが稼動し始めたのは午後八時を過ぎて
いた。 納入業者の若いシステムエンジニア
は三時を少しまわったくらいにやって来た。
何やら大きな鞄を持って来ていたので、結構
大変そうだなと思っていたら。必要なのはビ
ニール性のCDキャリーから取り出したC
D−ROM二枚だけであった。大きな鞄の方
には本日発売の青少年向けの漫画雑誌が四
冊入っており。休憩時間にむさぼるように読
んでいた。ゼミ学生の山根優子がコーヒーを
煎れて持っていっても、どうもというだけで
結局一口も飲まずじまいであった。しかし、
仕事の方は熱心でわからないことには丁寧
に答えてくれて、帰社時間をだいぶまわった
七時くらいになって、しまったと口走ると慌
てて電話を借りて会社に電話していたが、そ
れから更に一時間ほどセットアップ続けて
くれた。おかげで八時にはほとんどの昨日が
使えるようになっていた。
 「どうも、遅くまでありがとうございまし
た。会社の方は大丈夫ですか」
 「ええ、毎度のことなので。今日はこのま
ま直帰しますので」といって研究室を出てい
きかけて戻ってくると。これ読みますかとい
って雑誌を四冊机の上に置いていった。
 俊一はさっそくバックアップをとってい
たデータを転送することにした。二時間ほど
して最後まで付き合っていた伊達が帰宅し
た。
 俊一はデータの転送を一旦中止して、例の
頭蓋骨の復元を行ってみることにした。どの
くらい処理速度が上がったか調べるのにも
丁度良かった。三次元グラフィックのソフト
を立ち上げて、データをロードした。データ
ロードの時間だけでも以前の半分くらいの
時間でロードできた。快適な環境は気分もよ
くするものだ。俊一は黙々と作業を続けてい
った。始めは三次元のワイヤーフレームだっ
たものが、夜が明け、七時を過ぎるころには
生々しい皮膚を纏いふっくらとしたやわら
かな唇と長いまつげに奇麗な二重の目、すっ
きりと通った鼻筋、そして優美な眉毛を備え
た美女へと変わっていた。鼻筋や顎の線や顔
の肉付きなどはもとの資料からかなり忠実
に復元できるのだが、目や瞳の感じなどは作
者の感性が大いに影響する。
 俊一は熱く充血した目をもみながら椅子
の背もたれにぐっと寄りかかると大きく伸
びをした。研究室一早出の岬助教授が来るま
でまだ二時間ほどあるので少し仮眠するこ
とにした。俊一はモニターの画面上に表示さ
れているグラフィカルユーザーインターフ
ェイスの一つをマウスでクッリクした。する
とモニターに映し出されていた美女の首は
左回りにゆっくりと回転し始めた。まだ髪の
毛は付けていないので尼さんのようだが、十
分美人である。自分で作っておきながら、い
やだからこそ自分の好みが反映されてしま
ったのかもしれないが、とにかく俊一はこの
美女の首を気に入っていた。俊一は少しの間
見つめていたが大きなあくびとともに備付
けのソファーの上に横になった。すぐに満足
感とともに心地のよい眠気が俊一の意識を
奪っていった。

        2

 彼は何度も通り慣れた道を、制限速度をオ
ーバーして走り抜けていた。その車内には、
古いジャズのスタンダードナンバーが低く
漂っていて、煙草の煙に混じって、僅かに酒
の匂いがした。デジタル・クロックは午後八
時五十分を示していたが、正確な時刻ではな
かった。
 彼は資源エネルギーの浪費の象徴である
オフィスに戻ってきた。社内には、この時刻
になってもまだ三分の一程の社員が残って
いる。彼らが何をしているのかはわからない。
それが必要性のあることなのか、何らかの存
在意義があってのことなのか、そんなことと
は無縁のものであるのか。しかし、ぼんやり
していると置き去りにされ、気にしていると
身動きが取れなくなる。そう、そんなことは
どうでもいいことだ。
「相馬君、戻ってきたのか?」
 上司があまり興味無さそうに声をかけた。
「ええ。でも、もう帰ります」
 彼はデスクのシートの下に挟み込まれた
メッセージ・カードを胸ポケットに素早く忍
ばせた。
 再び車に乗り込んだ彼は、迷いもせず自宅
とは反対方向に走りだした。
『今度はもっと凄いこと I』
 彼の頭の中は、メッセージの発信人に対す
る淫らな妄想で充たされていた。

 神崎陽子が男に抱きすくめられていた。
 その表情は、苦しみに歪んだようであり、
悦楽を噛みしめるようでもあった。しかしな
がら、なぜ、全く違う感情を表していながら、
その表情はこうも似ているのだろう。俊一は
ぼんやりとそう感じていた。
 彼女がそんなふうに男に抱かれていると
いうことが、彼を一種不思議な気持ちにさせ
るのだった。その男の顔よくは見えないが、
俊一にはそれが伊達であることが分かって
いた。やはりそうなのだ、そんな諦念にも似
た気持ちが、彼には心地よくもあった。
 彼が、自身で陽子を求めていることに気づ
いたのは、彼女がこの研究室に入って間もな
いころだった。誰もが彼女に好感を抱いてい
たし、自分もまた好感を抱いていることを隠
しもしなかった。それは、自然な感情の発露
であったし、特別な感情というわけではなか
った。けれども、それが愛情もしくは欲情に
変移するのは、そう難しいものではない。お
そらく、人間の感情は相反するものがなだら
かに交差しているのだ。そして、ある瞬間、
偶然に共鳴した感情が表出してくるのだろ
う。
 しかし、彼はそれを認めることを頑に拒否
した。それが伊達に対するコンプレックスで
あることに、彼は気づかずにいた。

 相馬はIを車に乗せ、ホテル街に向かって
いた。相変わらず車内にはジャズのスタンダ
ードが流れていた。Iはビールを煽りながら、
白痴のような笑顔を讃えて訊ねた。
「こんなだるそうな音楽が好きなの?」
 彼もまた、その問いに狂ったように笑いだ
して答えた。
「実は、大嫌いなんだ」
 そう言ってカセットデッキからテープを
抜き出すと、窓の外へ放り投げた。
「邪魔なものは全て捨てちまおう」
 Iは無邪気に喜んで、車内にあったカセッ
トテープを全て窓から放り出した。
 ホテルに入ると、彼は性急にIの肉体を求
めた。ところが、Iは彼を上手くかわしなが
らこう言った。
「いやあよ。そんなの興味ないもん。ベッド
でなんて、誰もがしてるみたいに」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
 当てが外れ、けれども心の底ではIと完全
に共鳴しながら彼は尋ねた。すると、Iはバ
スルームへ彼を連れて行きひざまづかせ、甘
い声で耳元へこう囁いた。
「ねえ、こんなのどう?」
 同時に、熱い魅惑的な液体が自分の胸にそ
って流れるのを彼は感じた。彼女がすむと、
こんどは彼が起き上がり彼女に小水を放出
した。軽やかな音を立てて肌の上に降りそそ
ぐ淫らな液体の前に彼女は進んで身体を差
し伸べるのだった。そんなぐあいに彼女の身
体を水浸しにしてから、最後に彼は彼女の顔
面を淫水でべとつかせた。汚物で充たされ、
彼女はまるで解放されたように夢中で汚物
を排泄するのだった。二人のえぐい幸せな匂
いを深々と吸い込みながら、「ピストルをぶ
っぱなした後って、こんな匂いがするのよ」、
排泄し終えると、彼のまだ乾ききらない尻の
下へ鼻を差しのべ、浮きうきとした口調でこ
う打ち明けるのだった。

 俊一は、奇妙な夢で目が醒めた。夢の内容
ははっきりと思い出せなく、なにか得体の知
れぬ不安だけが小さなしこりとなって残っ
ているようであった。モニターに映し出され
た美女の首は、僅かに微笑しているように見
えた。

         3

 変な夢を見ちまったなあ。俊一はとろんと
した目を半開きにして、たった今まで見てい
た夢を反芻しようと試みた。夢の内容は定か
でないものの、不安感だけが意識の底でうず
くまっている。しかしあの夢の、あるひとつ
の断片だけは、覚醒後の彼の脳裏に刻み込ま
れていた。Iって誰のことなんだろう。おれ
の身辺にIで始まる名前を持つ人物なんて
いないしなあ。不安の中にひとつ芽生えた疑
問は更に俊一を不安の渦に巻き込もうとし
たが、それもディスプレイに映る女の美しさ
の前で溶解した。俊一は口許のよだれを拭っ
た手でマウスを掴んだ。クリックして美女の
顔を真正面に、あるいは斜めに向かせたりし
て、あらためてその美しさに感嘆した。
 〈ココハ、ドコ。ココハ、ドコナノ。ワタ
シハ、イマ、ドコニイルノ〉
 画面の上部に美女の画像を背景にして一
行のテキストが流れた。俊一は吃驚して一瞬
のけぞったが、好奇心が噴水のように吹き出
し、身を乗り出して画面に顔を近づけた。
 なんだこりゃ。「ココハ、ドコ。ココハ、
ドコナノ。ワタシハ、イマ、ドコニイルノ」
俊一はテキストを声に出して読んでみた。こ
れは一体どういうことなのだろうか。システ
ムにバグがあってプログラムが暴走したの
か。いま起動しているシステムにはテキスト
表示の機能は付属していない筈だが。それと
もセットアップにミスがあったのだろうか。
いずれにしてもシステムエンジニアの相馬
を呼ぶ必要がありそうだ。
 〈アノヒトハ、ドコ。ワタシノ、アノヒト
ハ、ドコニイルノ〉
 続いて表示されたテキストに俊一は身を
こわばらせた。システムのプログラムミスな
どという事態とはレベルの違う事件の匂い
を嗅ぎ取って彼は目を大きく見開いた。〈ワ
タシ〉って誰だろう。そして〈アノヒト〉と
は。
 俊一は恐るおそるキーボードに手を伸ば
した。それができるかどうかわからないが、
FEPを起動させて会話してみよう。そう思
って彼がキーにタッチしようとした瞬間、画
面に新たなテキストが流れた。
 〈ゴメンナサイ、オドロカセテシマッテ。
アナタハ、ナニモ、シナクテイイノ。アナタ
ノ、カンガエテイルコトハ、ソノママワタシ
ニ、ツウジルワ〉
 遠隔操作で誰かが悪戯しているのかもし
れない。俊一は辺りを見回した。腰を浮かせ
てディスプレイの背面側も覗き込んでみた。
無論誰もいない。そっと椅子から立ち上がっ
てパーティションの彼方をうかがい、さらに
ドア越しに廊下の様子をも探ってみたが怪
しげな気配は感じ取れなかった。時計を見れ
ばまだ午前八時をほんの少し回ったところ
だ。教室員にとっては早朝とも言えるこんな
時間にわざわざおれをからかいに研究室に
来る物好きもいるわけない。岬助教授が気ま
ぐれを起こして普段より若干早い時間に来
ることも考えられたが、気むづかしい彼がこ
んな手の込んだ悪戯を仕掛ける筈もない。俊
一は椅子に戻った。
 まさかこの美女が。そう思った途端、画面
にテキストが表示された。
 〈ソウヨ、ソウナノ。イマ、アナタガ、ム
カッテイルガメンニ、ウツッテイルノガ、ワ
タシナノ〉
 俊一の心の中で、混乱した思考が突然渦を
巻き始めた。精神感応能力者。テレパス。超
能力者。まさか。まさか。しかも三次元グラ
フィックスのこの美女が。そんな。おれの気
が狂ったか。寝不足。疲労が蓄積して。コン
ピュータ・ウイルスの侵入。ハッカーの悪戯。
でもおれの心まで読まれた。やっぱり気が狂
って。
 〈チガウワ。アナタハ、セイジョウヨ。シ
ンパイシナイデ〉
 また読まれた。なぜだ。なぜだ。なぜこの
美女がおれの思考を読み取れるんだ。
 〈ソレハ、ワタシニモ、ワカラナイ。アナ
タノカオガ、ワタシノココロニ、ウツッテ、
アナタノコエガ、ワタシノアタマノナカデ、
ヒビイテイル。ワタシハ、アナタノコエニ、
カンガエルコトデ、コタエテイルダケ。ワタ
シハ、ナニモシテイナイワ〉
 君は誰だ。誰だ。誰だ。誰だ。
 〈ワタシハ、〉
 まるで答えを躊躇しているかのような中
途半端さでテキストの表示が停止した。が、
次の瞬間、画面いっぱいにテキストが溢れ、
そこからこぼれ落ちるような勢いでスクロ
ールし始めた。
 〈ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシハ、ワタシ
ハ、ワタシハ、〉
 俊一は吃驚してディスプレイから顔を離
した。相手も混乱している。それがわかった
彼はいくらか正常な思考能力を取り戻した。
俊一はいぶかしげに美女を見つめた。君は誰
だ。自分でもわからないって言うのか。まさ
か、そんな。
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 〈ワタシハ、ダレ〉
 わかった、わかった。もう結構だ。
 〈ゴメンナサイ。ドウシテモ、ワカラナイ
ノ。ジブンガ、ダレナノカ。ソシテ、ドウシ
テ、ソレガワカラナイノカ〉
 俊一は深呼吸した。相手の混乱の度合いが
自分の予測を大きく上回っていることを知
って、彼は完全に自分を取り戻した。それど
ころか事態を優位に展開できる自信まで沸
いてきた。
 質問を変えよう。君にわかっていることは
何なんだ。俊一は頭の中でそう話しかけなが
ら、上着の内ポケットから煙草を取り出した。
 〈ダレカヲ、サガシテイルノ。ソノヒトハ、
ワタシニトッテ、トテモタイセツナヒトナン
ダケド、ワタシトソノヒトトノカンケイハ、
ヨクワカラナイ。デモ、ソノヒトトイッショ
ニイラレルコトヲ、ソウゾウスルト、トッテ
モ、アンシンデキルノ〉
 俊一はディスプレイを見つめながら煙を
吐き出した。紫煙は俊一と美女との間に薄い
幕を張った。
 君のその探している人に関する情報とし
て、君は何か持っているものがあるのか。例
えば、いつどこで生まれてどこに住んでいた
のかとか、仕事は何だったのかとか、何てい
う名前なのかとか。
 そう心の中で話しかけてから俊一は苦笑
した。彼女は縄文中期の遺跡から発掘された
のだ。その彼女のパートナーの、生い立ちや
名前を訊いて何になる。彼女だって馬鹿では
あるまい。〈ソンナコト、キイテ、ドウスル
ノ〉とでも即答されるに決まっている。
 しかし俊一のその問いに美女はなかなか
答えず、ようやく三十秒ほど経ってからテキ
ストが表示された。
 〈ゴメンナサイ。イマ、アナタ、ナンテカ
ンガエタノ。ウマク、キキトレナカッタワ〉
 俊一は意識の強さが足りなかったのだと
思って、同じ質問を念じるようにして繰り返
した。しかし、次のテキストが表示されたの
は、またもや数十秒の沈黙の後だった。
 〈ソノ、タバコヲ、ケシテクダサイ。ドウ
モ、ソノ、ケムリノセイデ、アナタノシコウ
ガ、キキトリヤスイヨウニハ、ヒビイテクレ
ナクナッテシマウヨウデス〉
 縄文時代に煙草があったのかなあ、それと
もこのシステムが彼女の思考をおれにとっ
てわかりやすく翻訳してくれているのかも
しれない。そんなことを意識の片隅で考えな
がら、俊一は慌てて煙草を揉み消して、周囲
に漂っている煙を手であおいで霧散させた。
すまない。煙草が良くないなんて気づかなか
った。
 〈イイノヨ、キニシナイデ。トコロデ、シ
ツモンハ、ナンダッタノ〉
 君の探している人はどんな人なんだい。
 〈ワタシノ、サガシテイルヒトハ〉
 突然ディスプレイの画面が二分割され、美
女の隣に男性の顔が現われた。ふたり並んで
釣り合いが取れるほどの美男子ぶりだった。
当たり前のことだが、おれの知っている人物
ではないね。
 〈ソウネ。キット、イマゴロハ、ガイコツ
トナッテ、ドコカチチュウニ、ウモレテイル
ハズヨ〉
 君におれと会話できる能力があるのなら、
この人の居所も君には簡単にわかるんじゃ
ないのかい。
 〈ソレハムリミタイ。ヅガイコツニ、フチ
ャクシテイル、イシキデハ、ビジャクスギテ、
きゃっちデキナイデショウ。アナタトカイワ
デキルノハ、ツヨイイシキヲホウシャシテイ
テ、ナオカツ、ワタシノソバニイルカラヨ。
ソレデモ、タバコノセイデ、アヤウクナルク
ライ、ナンダカラ〉
 君は自分の名前すら思い出せないみたい
だが。
 〈ワタシノ、ナマエ……。ワタシノ、ナマ
エ……。ナンダッタカシラ。アア、イライラ
スルワ〉
 すまん、すまん。やっぱり駄目なんだな。
じゃあ、これからおれは君のことをなんて呼
べばいいんだ。
 〈アナタノ、スキニシテイイワ。キニイッ
テイルナマエガ、アルノナラ、ナンデモカマ
ワナイ〉
 じゃあこうするよ。これからおれは君のこ
とをIと呼ばせてもらう。どうだろう、異論
はないかい。
 〈ベツニ。ソレデ、ケッコウヨ。デモ、I
ッテナンノコト。ダレカノナマエノ、カシラ
モジナノ〉
 おれの夢に出てきた記号のようなものさ。
なにか特別な意味を持ってはいるんだろう
けど、今のおれにはわからない。
 〈ジャア、コウイウワケネ。ワタシハ、ア
ノヒトヲサガシ、アナタハ、Iノナゾヲトク。
フタリノモンダイガ、ソロッテカイケツデキ
レバ、イウコトナシネ〉
 そういうことだ。
 〈ネエ。ココハ、ドコ。ココハ、ドコナノ。
ワタシハ、イマ、ドコニイルノ〉
 君は今、京都K大学考古学教室の。
 そこまで考えた時、突然ディスプレイのテ
キストと美男子の画像が消去された。それと
ほぼ同時に教室の南側のドアから岬助教授
が顔を覗かせた。
 「あれれ、柏木くん。今日は珍しいねえ、
一番乗りじゃないか」
 そう言って岬は部屋に入り、俊一の向かっ
ているディスプレイに近づいた。そして彼の
肩越しにディスプレイを覗き込んで初めて
気がついたかのように、ああ、と声を洩らし
た。
 「そうか、昨日新しいワークステーション
が納入されたんだったな。どうだい、使い心
地は」
 「なかなか快適です。処理速度も三倍はあ
るようですし」
 俊一はマウスを掴んだ。テキストが突然消
去されたのは、岬助教授におれたちの会話を
知られるのをIが嫌がったからに相違ない。
 岬はさっきまでこの美女とおれとが会話
していたことを信じるだろうか。まさか。と
んでもない。それでは岬がこのディスプレイ
に向かったらIと会話できるだろうか。Iの
態度から判断すれば、出来ないと断言しても
よい。
 そうだ。おれ以外の誰もIと接触すること
は出来ないのだ。Iとわかりあえるのはおれ
しかいない。Iもそう感じている筈だ。だか
らこそ、岬の登場で会話を打ち切ったのだ。
つまりこれはおれとIだけの秘密だ。Iとの
ことは誰にも言うまい。俊一はそう決心した。
 この夏に発掘した縄文中期の遺跡の中に、
Iの言う〈アノヒト〉がいるのではないか。
とりあえずは、そう仮定するしかなさそうだ
った。その仮定の下で推理を進めて行けば、
試料庫に〈アノヒト〉の頭蓋骨が紛れ込んで
いる可能性も大いに期待できる。
 なんとかしてIが〈アノヒト〉に再会でき
る手助けをしたい。彼女はおれに期待してい
る。その期待に応えて彼女を喜ばせてあげた
い。俊一はそう考えながらマウスをクリック
して、新しいワークステーションの使い心地
を岬に示してみせた。画面の美女は一番美し
く見える角度で表示されている。そして俊一
は自分がとんでもない厄介事に巻き込まれ
つつあることにまだ気づかないでいた。

         4

 年の瀬も迫った金曜日の昼時、相馬は出張
先の横浜から京都に帰る新幹線の車中の人と
なっていた。年末のしかも週末でもあり、乗
客の多さはある程度予測できた筈なのだが、
どうせ「新横浜」の次の次の駅で下りるのだ
から座れなくても構わしないやと軽く思っ
たのを後悔させるほど「ひかり」は混雑して
いた。おまけに次の停車駅である名古屋まで
の道のりはひと駅と呼ぶには余りにも遠く
かけ離れていた。腹が減っても通路に立ちっ
放しで飯を食うにはいかない。そんなことを
すれば他人の行為には無関心を装っている
かのような他の乗客からも眉をしかめられ
かねない。しかも人息れと煙草の煙で車内の
空気はひどく澱んでいた。かごやワゴンに載
せられて人ごみを掻き分けながら車内を行
き交う「崎陽軒のしゅうまい」も「小田原の
かまぼこ」も「安部川もち」も「浜松のうな
ぎパイ」も空腹と疲労で虚ろな目をした相馬
の前を虚しく過ぎ去ってしまい、東海道の名
物で彼の味覚を慰めてくれたものはわずか
にスチール缶に詰められた静岡産の「初摘み
茶」だけであった。 この列車の始発駅であ
る東京から乗車して幸運にも座席にありつ
いた人達は等しく押し黙った様に居眠りを
しているか週刊誌などの紙面を無表情に眺
めている。食べかけの「うなぎ弁当」が相馬
の目を捉えた。人前で大きな声を出さぬのが
坂東武者のたしなみなのか、みんな疲れ果て
ているのか、満員の車内は異様に静かだった。
後ろの方で家族を連れてでの帰省であろう、
子供が興じる卓上ゲームの電子音がピコピ
コキューンと鳴っていた。相馬は疲れ果てて
泣きたい気分だった。 「名古屋まであと一
時間もあるがな」途中の駅で下車をして新鮮
な空気を吸いたくとも、それは出来ぬ相談だ。
身体がだるくとも気分が悪くともじっと耐
え忍ばなくてはならない。「苦痛だね」そう
思った瞬間、彼の脳裏にはIという女の顔が
浮かんできた。  彼女の素性は今でも謎の
ままだ。分からないまま肉欲に任せるままラ
ンデブーを続け淫猥な行為を重ねてきたな
んて、何て不埒な野郎なんだと自分自信思わ
なくもなかったし、第一危険な行為ですらあ
る。恋は盲目と言うよりも若さとは無謀なも
ので眼前の情欲を満たすためには全てを賭
けても後悔しないでいられるエネルギーが
どこからか湧き続けているのが相馬自身感
じられずにはいられなかった。昔の英国国王
ではないが色恋のために王位すら失っても
構わないというロマン主義的な熱情を感じ
させる女の存在が王侯貴族から民百姓に至
るまで人を駆り立て、歴史を彩ってきた事は
紛れもない事実である。何もかもが管理され、
打算で動いているかのような現代ではそん
な自由も少なくなったが、稀にではあるが存
在する。「最も安全な投資手法は最も投機的
である」株屋の格言が普段はのんきではある
が理知的な筈の相馬をして大胆で、英雄的と
もとれる危険な行為へと走らせる。現に昨夜
だって、横浜でのパーティを終えた頃に宿泊
先のホテルの前にひょっこり現れてドライ
ブに付き合わされた。挙句の果てには大黒埠
頭の倉庫の前で野グソをたれて喜んでいた。
深夜の波止場でおいどを晒したまま「見て、
拭いて、舐めて」と哀願した。 これにはお
人好しの相馬もげんなりしたが、拒否できな
い何かがIにはあった。おかげで相馬は寝不
足と二日酔いという最悪のコンディション
で京都に戻らなくてはならなかった。しかし
後悔なんて全く無い。  Iはどことなく浮
世離れをした高貴な香りを持っていた。それ
は生活感の全く無い、貴族的な匂いと言って
いいだろう。街を歩いている何事にも関心を
持たず、食事や音楽やファッションの様な俗
事からもかけ離れてIの存在は植物的であ
ったともいえなくはない。戦前までの日本に
存在した旧華族の社会、三島由紀夫が「豊穰
の海」の冒頭で描き出したあの社会では「恥
じらい」は庶民の持つ感情と教えられて来た
ことを相馬自身何処かで読んだ覚えがある。
(おそらく前に居着いていた女友達の部屋に
あった女性週刊誌に書かれていた皇室関係
の記事からであろう)Iは確かにノーブルな
外観や雰囲気を持ち合わせそれが相馬を虜
にしたのではあるが、人前で脱糞しても排尿
しても恥じらいのかけらも見せず、しかもそ
れが下劣に感じさせられるどころか排泄行
為の爆音と異臭ですら人を引き付ける何か
を持っていた。「ウンコ姉ちゃん」と軽く呼
ばせない圧倒的な何か、相馬はうまく言い表
せないが、これこそが相馬を捉えて離さなか
った彼女の魅力であろう。相馬はおそらく他
の女のウンコには今でも興味を持っていな
いはずである。  その晩相馬は俊一と酒
を酌み交わした。二人の母校に近い銀閣寺に
ある地下のバーで二人は再開を祝して杯を
互いに傾けた。今では全く違う畠で禄を食ん
でいる二人ではあるが、大学の学部時代は驚
くことに二人とも法律を専攻していてO教
授の刑法のゼミナールで机を並べていた仲
であった。俊一は自らの研究テーマとして選
んだ古代のハムラビ法典を深く知る内にオ
リエント趣味が高じて考古学の研究に進路
を向け、一方の相馬は新時代のメディアと知
的犯罪の問題を追究するうちにコンピュー
タの世界にはまり込んでしまった。法学士に
なった直後の志は輝くばかりではあったが
現実の社会は彼等にとって望ましい道を与
えてくれたわけではなかった。世界的な技術
力を持ったメーカーに就職した相馬が最初
に配属された部署はカスタマー・アドバイザ
ー部門、つまりユーザーからの相談や要望に
応じる部門であったが、相馬の相手といえば
企業の廃棄物になりかけ寸前のオッサン連中
からの非常識きわまりない極初歩的な問い
合わせばかりであり、彼等も勿論真剣ではあ
るのだろうがワープロはおろかファクシミ
リですらさわった事の無い人達との児戯そ
のものの戯れであった。最近ではかなり高度
な技術を求める顧客との対話が増えたため
やり甲斐も出てきたが、新入社員の頃の自分
を思い返す度に笑いが込み上げてきてしか
たがない。 .一方、俊一の方はと云えば研究
室の閉鎖的で退屈な毎日に慣れるまでには
かなりの忍耐を要したことになる。酒飲みで
肝臓が悪いのか、顔が土色の老教授や、すれ
ちがうといちごの香りがするロリコンの助
教授、自分の才能はごますりだけだと胸を張
って、それだけで学界を渡っていこうと企み
るアルバイト漬けの助手など一見して学問
とはかけ離れたかのような風采の先輩諸氏
と人間関係を保つだけでも神経を相当すり
減らさねばならなかった。最初に来たときに
は俊一には変態の巣窟としか思えなかった。
唯一まともに見えるかの様な美人の院生だ
って、研究をお嬢様の習い事ぐらいにしか思
っていないだろうし、どうせそのうち親のコ
ネで医者のボンボンか成金のドラドラ息子
などとひっつくようになっているだろう。現
にこの研究所の神崎という院生は相撲部の
マネージャーも兼任しており、時々みんなに
ちゃんこ鍋を振る舞って得意げになってい
る。あくまで噂の話だが、彼女は密かにホモ
雑誌を定期購読しており、広告にある少年相
撲大会の写真集を局留めの通信販売で購入
しているらしい。六法全書では割り切れない
世間様の広さを俊一は見せつけられながら、
学者への長い道のりを歩き出したわけであ
る。 二人は杯を重ねる事に過ぎ去った学生
生活のバイブレーションに戻りつつある自
分達を感じていた。実社会に飼い馴らされた
今では口にも出すことがなくなった青臭い
正義感あふれる少壮法学生に戻りつつある
お互いを確認しながら小難かしい議論を交
し会う自分たちが世界から浮き上がった特
別な存在に感じられた。勿論、若さゆえの思
い上がりに他ならないが、京都の街はそこに
居る者をいつの間にか天下人の様な気分に
させてくれる。故に鼻持ちならぬ町衆が至る
ところ気炎を上げているのだが、彼等の淡い
願望もこの街を去るに当たり煙と消えてし
まう。賀茂の流れと変りはないのである。 
ふと顔を上げると、店内に設置されたスクリ
ーンに古めかしいモノクロの映画が映し出
されていた。 「この顔、どこかで見た様な
気がするんだよね」相馬が銀幕の上でじっと
たたずんでいる女優の顔を指して何気なく
つぶやいた。 「俺もあるよ」俊一が答える
と相馬は思わず目を丸くした。なぜなら相馬
の脳裏に浮かんでいたのはIの面影であっ
たからだ。この男も排泄するIとええことし
たんかいと一瞬相馬は思い、俊一に嫉妬の感
情が起こった。Iのウンコに独占欲が湧いた
のかも知れなかった。しかし俊一の次の言葉
に胸を撫で下ろした。 「おまえの調整して
くれたマシンにさ、毎日女の顔が映るんだよ
ね。じっと見つめられると背筋が凍り付くぐ
らいの美人なんだけど、俺がインプットした
覚えは全くないんだよ。だからずっと、おま
えが何か細工したのかと思って今度会った
ときにでも聞いてみようと思ってさ」どうや
ら俊一はIの存在を知らないようだ。勿論お
下劣ババたれ女としての素顔も。表情に安心
を取り戻した相馬は俊一に向かって研究室
の他の誰かがその事実を知っているのかと
尋ねた。 「誰も知らない筈だよ。俺のパス
ワードを使ったときにしか映らないからね」
俊一はこう答え、そして加えた。 「よけれ
ば今から来て見てみないか。年末でも研究室
は入れるからさ」俊一の申し出に相馬は快く
うなずいた。自分がセッティングした機械の
ことが気に懸かったというよりも酒の勢い
に任せたスケベ心、いや好奇心から応じたの
かも知れない。斯くして深夜の都大路を酔っ
払いが二人、人気のないK大学の研究棟めざ
して歩いて行った。  二人は冷え込んだキ
ャンパスを息を吐きながら進んで行った。左
手に時計塔が高くそびえる法学部の学舎が
黒く大きく建っていた。かつて二人が国家論
のサブ・ゼミで何の正義のためか革命家気取
りで、机を叩きながら激論を交した思い出深
い場所である。その法学部の脇を通り抜けて
裏手の文学部、あぁお嬢様の芸事のメッカで
あるブンガクブ、カルチェのリングのかけら
と海外旅行のパンフレットでちりばめられ
た文学部。夕刻にはキャンパスから色街へ通
勤用のタクシーが行列を作っている文学部。
その片隅の農学部の厩舎に隣接したプレハ
ブ二階建ての飯場の様な考古学研究所があ
った。そこが俊一の仕事場である。毎日ここ
へ来る度に俊一は自分の専攻は農業ではな
いと自分に言い聞かせなければならないほ
ど色気のない、一日中家畜の香りが漂う、前
述した京都K大学の文学部のイメージとは
程遠い殺伐とした研究所の外観であった。
「そりゃあ、土いじりはするけどさ」誰かを
案内する度に俊一は苦笑いをしていた。最も、
この連載が始まった頃は文学部のキャンパ
ス正面に構える煉瓦色のタイルも堂々とし
た第一研究棟一階のフロア半分を占め、地下
には試料庫もあり、防犯カメラや物体感知器
まで最新の設備を誇っていた滝谷研究室で
はあったが、昨年の秋に北京で学会があった
ときに、教授が何を血迷ったか酒の勢いで勘
違いをして、故宮博物院から研究のために持
ち出された周代のものとされる国宝級の壷
を割ってしまい、その弁償のために研究室に
保存されていた貴重なコレクションをほと
んど手放してしまい、その結果、研究棟を追
い出されて仕方なく当時農学部の改修工事
の作業場として工事を請け負った業者が使
用していたプレハブに移ることとなった。主
が殆ど売られてしまった試料庫も工事の資
材置場として使われていた払い下げのコン
テナ・ボックスがあてがわれた。教授が大学
を追われずに済んだのは日中双方の彼の教
え子が必死に弁明に回ったからであり、現在
の姿はともかく、かつては気鋭の学者であっ
た遺産の賜物と云っていいだろう。事の重大
性を考えるとアル中教授の進退はおろか外
交問題にまで発展しかねなかった国際的ひ
んしゅく事件だったのである。  俊一はド
アに鍵を差し込み、ノブに手を掛けて振り返
ると、彼専用の郵便受けに英文のレターが差
し込まれているのが目に入った。隣の厩舎か
ら突然馬の鳴き声が響き渡り、相馬をぎょっ
とさせた。中に入ると俊一は湯を沸かし、相
馬はソファに腰を掛けて傍らに置いてあっ
た漫画本に目を通した。湯が沸くまでの間、
俊一はキッチンで黙って手紙を読んでいた
のだが、両手が段々と振るえてきて仕方がな
かった。  「おい、これさ」手紙を読み終
えた俊一は相馬に向かって上ずった声を上
げた。明らかに興奮している様で、便箋を持
った手が震えていた。 「俊一どん、なした
ーぎゃ」俊一の興奮が相馬に伝染したのか、
相馬は思わず故郷の訛が口をついた。 「で
でで、でーれーことやがな。わわわ、わーの
論文がえ、エゲレスのねねね、ネーチャンに
載るんげー。ほんまや、書いとんがー」俊一
はどこの出身なのか、妙な方言で相馬に手紙
を差し出した。相馬は尋常でない俊一の様子
にかなり動揺を見せながらも、出来るだけ冷
静に英文で書かれた文章に目を通して、もう
一度俊一に向かって目を見つめた。年末の深
夜、酔っ払った三十男が二人、音もない研究
室で黙ってじっと見つめ合っていた。王立ア
カデミーからの便りは紛れもなく俊一が書
き上げた論文、古代オリエントにおける宮廷
の女性達についての論文が英「ネイチャー」
誌に掲載されることについての確認を求め
るものであった。科学者としては最も名誉と
されている一つである。俊一の名前が世界的
になったと云っても過言ではない。今まで数
年間の地道な苦労が花咲くときが来たので
ある。それだけに俊一の歓びはただ事ではな
かった。旧友相馬の目を見つめながらうっす
らと涙を浮かべていた。「良かったのぉー」
相馬もうるうるしてきて俊一を見つめて頷
いた。  「ぶぁ、ぶぁんざーい」もろ手を
挙げて万歳を叫び、相馬は俊一を固く抱きし
めた。俊一は当たり構わずわんわん泣き出し
て相馬と包容し、二人は頬を重ね、唇を合わ
せた。好きにやってくれ、どうせ誰も見ちゃ
いないんだから。二人は教授の戸棚からジョ
ニー・ウォーカーの青ラベルを取り出して、
祝杯を上げた。英国からの便りの祝杯はスコ
ッチでなければいけない気分が二人をそう
させた。早くもアダム・スミスやダーウィン
の様なスコットランド出身の天才達の仲間
入りをしたかのような気分が込み上げてき
た。この馬糞臭い、アホの巣窟のような研究
室とももう、おさらばじゃ。そんな解放感も
俊一の胸に湧いてきた。二人はスコットラン
ド民謡のCDを見つけ、室内に甲高いバグ・
パイプの音を響かせた。遥か英国に思いを寄
せながら俊一はロッカーを勝手に開けて中
から神崎陽子のスカートを無断で拝借して
身にまとい、踊り出した。二人の熱気が冷え
込んだ京の夜を暖めていた。シャツを脱ぎ捨
てた俊一は相馬と二人でタータン・チェック
をひらひらさせながら上半身をあらわにし
て踊り狂っていた。   「ぶぁちーん」すさ
まじい音を立てて突然、最新のコンピュータ
ーが白煙を吐き出した。電源を入れてもいな
いのに。白い煙はもうもうと立て込み、部屋
中を覆った。二人は踊るのを止め、ほろ酔い
気分も一変で吹き飛んだ。 「まずいんじゃ
ない」相馬は唖然として立ちつくしてしまい、
俊一に声を掛けた。彼は「機械の故障じゃな
い」と相馬に答え、「こんなの初めてだ。全
く僕には何が何だか」と言った。 「あんた
たちね」煙の影から一人の女が歩いてきた。
「みっともないじゃない。あなたがたともあ
ろう人達が裸踊りだなんて」その姿はI、つ
まり相馬のウンコ姉ちゃんであり、俊一のモ
ニターに絶え間なく現れる古代の美女だっ
た。Iは呆れ返った表情を作り、明らかに侮
蔑のまなざしを二人に向けた。その表情はい
つものごとく高貴な威厳に満ち満ちていた
が、有頂天に立って踊り狂っていた二人には
通じなかった。相馬はIが突然現れてしかも
頭ごなしに言いつけたのが気に入らず、「ほ
っといてくれよ、俺達は嬉しいんだ。それよ
りも人前でババこぐ方がお下劣じゃないか」
と怒鳴りつけ、俊一は信じられない、という
顔をして言葉も出なかった。無理もない。I
の存在は相馬にとってはリアルな女として
実在していたが、俊一にとってはコンピュー
ターの画面を通してでしか知りえぬ、虚構の
世界の住人であったからだ。 Iは相馬の声
には全く反応せず、俊一に向かってのみ乾い
た声で話しかけた。「貴方の望みを全てかな
えてあげようと思ってたのよ。だけどこんな
ちっぽけな成功ぐらいで踊り出すなんて。し
かも私の一番嫌いな裸踊りだなんて。まるで
あの男みたいに」それだけいうと急に言葉を
詰まらせ、表情に一瞬曇りが走ったが、すぐ
相馬の方に向き直り、彼の手を取って歩き出
した。「いい?貴方には新しい世界で働いて
もらいたいの」「おいおい、ちょっと待って
よ」と言う暇もなく、相馬はIに手を引かれ
たまま進んで行った。目の前に彼の会社が納
入し、相馬自身がセットアップしたワークス
テーションが現れたが、Iはそのまま進み続
けた。コンピューターを蹴飛ばしそうな位置
まで近づいた時、相馬は全身が淡い静電気に
包まれるような感触を覚えた。回りが何だか
ぼやけてきて、プレハブの研究室とは全く異
次元の空間に吸い込まれるようだった。相馬
はしっかりIの手を握りしめた。それだけが
彼の存在を支えている気がしたからだ。どこ
まで行くのだろうか、そして何があるのだろ
うか。そんな思いが脳裏をよぎったが、すぐ
に考えるのを止めた。なぜなら相馬にとって
の今は手のひらを通して伝わってくるIの
温もりだけが彼の存在であり、他のものは一
切が無に等しかった。そして相馬はそれだけ
で十分だった。 研究室には俊一がただ一人
取り残されていた。彼の親友の相馬は信じら
れないことだが、コンピューターのモニター
の中に吸い込まれてしまったのである。この
現象の前には彼が青春の情熱を賭けて取り
組んだ学問、分けても実証に実証を重ねて解
決をはかる法学や考古学の思考手段は何の
役にも立たなかった。俊一は疲れていたのか
もしれないと自分を慰め、瓶に残っていた教
授のスコッチを飲み干した。 翌朝、なぜか
神崎陽子がボーイフレンドと研究室に顔を
出したとき、部屋の中では自分のスカートを
はき、ブラジャーを身につけただけの俊一が
右手に手紙を握りしめて大いびきをかいて
いた。

         5

 あれ以来相馬には一度も会っていない。家
族からの捜索願を受けて何度か刑事が話を
聞きに来たこともあったが、彼はコンピュー
タの中に消えましたなどと言えるはずもな
く、酒を飲んで別れたので記憶が途切れてい
る、とあいまいに答えておいた。刑事は俊一
に何らかの疑いを持っているようだったが、
いかんせん証拠が一つもないために、監視し
つつ泳がせておく、と言った状況だった。
「I・・・どこへ行ったんだ」
ため息まじりにコンピュータを立ち上げる
と、機械の方もこちらの憂鬱な気分を反映す
るかのように、陰気な音を立てて動き始めた。
 この三ヶ月と言うもの、不愉快なことばか
りだった。犯人と言わんばかりの執拗な事情
聴取。研究室にまで刑事が押しかけてくるの
だからたまったもんじゃない。皆どうせろく
な噂をしていないだろう。おまけに神崎陽子
の冷たい態度。口をきかないどころか、目線
が合っただけで走って逃げてしまうのだ。ま
あ、自分のスカートとブラジャーを着た酔っ
払いに優しくしようなんて女はいるわけも
ないが・・・。それにしたって、今までのほ
のかな友情すらすべてチャラなのか? 俊
一はあらためて若い女の扱いにくさを実感
していたのだった。
「しゃあない、論文の校正でもするか・・・」
煙草をくわえてキーボードに触れた途端モ
ニターがチカチカと点滅し、次の瞬間、そこ
には懐かしいIの顔が映し出されていた。
 「Iじゃないか! おい、相馬をどこへや
ったんだ。早く言えよ!」
俊一はいらいらと机を叩いた。自分の作った
美女の顔も、今となっては自分をこのような
ややこしい状況に巻き込んだ、うとましい存
在でしかなかった。
〈チガウ・・・ワタシジャナイ・・・〉
「何言ってるんだ。相馬が行方不明になって、
こっちは大変だったんだぞ」
〈アレハワタシジャナイノ。アノモノガソウ
マトイウオトコヲタブラカシテ、ワタシトア
ナタガキョウリョクデキナイヨウニジャマ
ヲ・・・〉
ハードディスクがみしみしっと嫌な音を立
てた。
「あのものって何だ? おい!」
〈ケ・ム・リ・・・〉
「あ、そうか。ごめん!」
 俊一は慌てて煙草を灰皿に押しつけると、
今度は真剣な表情で椅子に座り直した。
〈ヤット・・・ヤットスベテオモイダシタ。
ワタシガシナケレバナラナイコトヲ・・・ソ
ウマヲツレテイッタオンナ・・・アノオンナ
ガワタシトアノヒトヲヒキサイタノ〉
「あの女って? あれは君じゃなかったの
か」
〈アレハ・・・・〉
〈アレハ・・・・〉
〈アレハ・・・・〉
〈アレハ・・・・〉
〈アレハ・・・・〉
〈アレハコノクニノジョオウコノクニデア
ノオンナニサカラエルモノハイナイオソロ
シイジョオウ・・・〉
 俊一は興奮のあまり全身に鳥肌が立つの
を感じた。ついさっきまでの怒りは嘘のよう
に消え、考古学者としての激しい好奇心と歓
喜の感情で、体中がわなわなと震えていた。
「女王か。君たちはもう国や支配者を持って
いたんだな!」
コンピュータがカタカタと音を立てた。それ
はまるで、生身の美女がまばたきをするよう
な、なまめかしい音だった。
〈アレハワタシノアネナノ・・・ソウ、オモ
イダシタワヤット・・・ワタシタチハオウケ
ニウマレシフタゴノシマイ・・・アネハジョ
オウトナッテゾクノケンリョクヲニギリ、ワ
タシハミコトナッテセイノケンリョクヲニ
ギッタ・・・ソレガウマレルマエカラノウン
メイ・・・〉
 俊一はごくりと唾を飲み込んだ。画面に流
れるテキストと、自分がコンピュータに打ち
込んだデータに過ぎない美女の顔。それらが
まるで俊一自身よりもリアルな存在となっ
て、数千年の時間を逆流しようとしているの
だ。俺は今、時空の淵とでも言えるような恐
ろしい空間に立たされているのではないだ
ろうか。切れ、切ってしまえ。コンピュータ
なんか電源を切ったらおしまいさ。そうして
家に帰って、ビールでも飲んで寝っころがっ
てるのが一番だ。
〈オネガイワタシノアノヒトヲサガシ
テ・・・キラナイデ〉
Iの瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。こんな
美女に泣かれて平静でいられる男がいるだ
ろうか。神崎陽子など足元にも及ばない古代
の美女だぞ。陽子は近々伊達と結婚して英国
に移住するらしいが、ネイチャーの論文とI
の存在が、このところの落ち込みをふっきっ
てくれるような気がして、俊一はキーボード
上の手を止めた。
 「あの人って誰? 恋人かい?」
〈・・・・・・〉
「どうしたの? 手がかりも何にもないん
じゃあ、調べようがないよ」
〈アノヒトハタイリクカラフネデナガレツ
イタ・・・カラダジュウキズダラケデ・・・
シニソウナアノヒトニワタシハクスリヲヌ
リ、ナンニチモネムラズニイノリツヅケタ
ワ・・ソシテツキノカミガイノリヲキキトド
ケテクダサッタノ〉
「大陸からだって? すごい! どんな男
だったんだい」
〈アノヒトハワタシノクニヨリハルカニオ
オキイクニノオウノムスコダッタトイッ
タ・・・イクサニヤブレオウモイチゾクモミ
ナコロサレテ、カシンニムリヤリフネニノセ
ラレコノクニヘナガレツイタト・・・〉
 俊一はうっとりと画面に流れるテキスト
を眺めていた。Iの話を独占している快感。
たった今死んだとしても、考古学者として俺
は最高に幸福だったと言えるだろう。
「その男は王子だったんだね。戦に敗れて落
ちのびてきたと言ったのか・・・」
〈アノヒトハワタシヲウツクシイトイッ
タ・・・タイリクノオンナヨリモシロク、ワ
タシノニクタイハタイヨウノヨウダトイッ
テナンドモナンドモダイテクレタ〉
縄文の女だけにIの表現はあけっぴろげだ
った。俊一は赤面しつつ彼女の顔を見つめた
が、そこにはためらいや恥じらいなどかけら
も存在せず、ただ高貴な美しさだけがあった。
〈デモジョオウガ・・・アネガアノヒトノコ
トヲシッテカラ、スベテハクルッテシマッタ
ノ〉
「相馬とつきあっていた女だな」
〈ジョオウハアノヒトノチシキトケンイニ
メヲツケタノ。アノヒトノコトスコシモアイ
シテイナイノニ、タイリクノオウノムスコト
ムスバレタラ、ワタシタチノクニ、モットツ
ヨク、モットオオキクナルトイッタ〉
「それでどうなったんだい?」
〈アノヒトハイッタ。カオハソックリデモジ
ョオウノココロハヨクトニクシミデイッパ
イダト。ジョオウデハナク、コノワタシトシ
ヌマデイッショニクラシタイト・・・〉
 画面が憂鬱な青色に染まっていった。俊一
は激しい喉の渇きを覚えて、すっかり冷え切
ってしまった傍らのコーヒーを流し込んだ。
〈ジョオウハオコッタワ・・・。オソロシ
イ・・・ワタシハオソロシイ・・・〉
〈アノヒトハコロサレタ・・・ダイチヲケガ
サヌヨウ・・・チヲイッテキモナガサヌヨウ
ニ・・・〉
俊一の声は、興奮のあまりうわずっていた。
「血を流さない? どんな風に殺されたん
だ」
〈ヌノノフクロニイレラレ、チカラノアルオ
トコガゼンシンノホネヲバラバラニオッテ
コロシタ・・・アア・・・ソシテジョオウハ
アノヒトノシニクヲワタシノリョウリニマ
ゼテタベサセタノ・・・〉
「なんてひどい」
〈ワタシハアノヒトヲタベテシマッタ・・・
シラナカッタトハイエタベテシマッタ・・・
コンナワタシヲアノヒトハニクムニチガイ
ナイ・・・ソノママワタシハナニモタベラレ
ナクナッテ、オナカニアカゴガイルノモシラ
ズニウエテシンデシマッタノ・・・〉
 ハードディスクのファンの音が、一瞬彼女
のため息のように聞こえた。長く辛い記憶を
語り終えたIの眼差しは、神にすがるかのよ
うな真剣さで俊一の心の中を覗き込んでい
た。人肉食・・・大陸からの船・・・古代の
死刑・・・生々しい声が激しい渦となってこ
の狭いプレハブの中にこだましていた。いつ
しか窓の外の空は白み始め、日の光でモニタ
ーのIの顔もよく見えなくなっていた。
「わかったよ。その人をさがそう。ここまで
事情がわかれば多分彼の骨は見つかるよ。君
と同じ遺跡から出た骨は試料庫にまだたく
さんある・・・。そんな殺され方をされたん
なら特徴だらけだ。すぐにわかるよ」
〈アリガトウ・・・ドウカワタシトアノヒト
ヲイッショニウミニナガシテホシイノ・・・
ジョオウノテノトドカナイウミノソコ
ヘ・・・〉
「わかったよ。その代わり、君は相馬を見つ
けてくれないか? 頼むよ」
〈イイワ・・・ジョオウハアノオトコヲリヨ
ウシヨウトシテル・・・。デモワタシトアナ
タガコウシテハナシアッタトシッタラ、モウ
ヨウズミダカラカレヲステテイルニチガイ
ナイ・・・サガシテミルワ〉
「頼んだよ、早くしてくれよお・・・!」
「何を頼むんだね、君」
「うわっ。滝谷先生!」
「研究熱心もいいが、ほどほどにしないと体
をこわすよ」
 いつの間にかIの姿は消え失せ、モニター
には、「ネイチャー」誌から依頼された論文
の校正原稿が映し出されていた。デスクの前
には、例の壷の一件以来すっかり老け込んで
しまった滝谷教授の姿があった。
「お、おはようございます」
慌てて立ち上がる彼を制して、教授は自分専
用のカップにコーヒーを注いでいた。
「いやあ、たまには早起きしてみるもんだね
え。・・・君のような熱心な研究者がいてく
れると、これからの考古学教室にも少しは希
望が持てそうだ」
 彼は昔から酒に目のない男だったが、今で
は昼日中から研究室で飲むほどのアル中と
なってしまった。こうして話していても視線
は定まらず、しきりと上唇を舐める仕草や、
小刻みに震える手の動きが、この上なく不快
な感じを与えた。
「・・・ふうん、この論文、いつ完成するの?」
「あ、あと最終校正だけですから、月末には
イギリスに送れると思いますが・・・」
「へええ・・・」
滝谷はじろじろとモニターを覗き込み、いか
にも感心したように何度も頷いた。
「古代オリエントねえ・・・私も十年前に一
度論文を発表したことがあるんだ」
「そうですか」
 俊一は不思議な気持ちで滝谷を見ていた。
ほんの数カ月前まで学内で絶大な権力を握
り、自分の研究室に莫大な金をつぎ込ませる
ことのできた男。あんな失態さえなければ、
彼が俊一とこんなに親しく話すことなどな
かっただろう。それほど彼は近づきがたい存
在だったのだ。
「・・・どうだろう、君・・・。この論文、
私との共同研究と言うことにして、連名でネ
イチャーに発表させてもらえないだろうか」
「何ですって!」
 俊一の頬にぱっと赤みがさした。いくらア
ル中とは言え、自分の申し出が学者として恥
ずべき行為であることは、滝谷自信が一番わ
かっているのだろう。老教授は目を伏せてそ
ばのソファに腰を下ろした。
「ずうずうしいことは百も承知だ。・・・私
にもう一度、学会での権威を取り戻させて欲
しいんだ。頼む! この論文でネイチャーに
載れば、大学もまた我々の教室に金を出して
くれるだろう」
「そんな・・・」
「私自身はあと二年で退官だ。これまで好き
なだけ贅沢な発掘調査もやらせてもらった
し、もう思い残すこともない。ずっと以前か
ら、老後はイギリスで庭でも造って暮らそう
と思っていたんだ。だがこのまま引退してし
まえば、岬君や伊達君・・・それに君や他の
すべての学生たちが、学内どころか考古学の
世界で一生浮かばれんのだ。そんな無責任な
こと、私はしたくないんだよ」
 滝谷はポケットからウイスキーの小瓶を
取り出すと、蓋を取ってぐいっと一口ひっか
けていた。
「呆れてるだろう、こんな虫のいい頼みをし
て」
「い、いえ・・・」
「君は立派な考古学者になるよ。センスがい
いし、根気もある。だが覚えておいてほしい。
この国では特に、学者に最も必要なものは政
治力なんだ。自分の部下をどれだけ養ってや
れるかってことなんだよ・・・」
 俊一は迷っていた。自分一人が名誉を受け
て、英国に飛び出してやろうとばかり考えて
いた。こんな陰気な研究室に未練はない。神
崎陽子にもだ。・・・だが、京都の持つ独特
の雰囲気・・・田舎者の無知を冷たく嘲る、
都びとの傲岸不遜な雰囲気を彼は嫌いでは
なかった。むしろ、この知の連帯から離れて
異国に暮らす寂しさが、自分には耐え難いこ
とのように思われて来たのである。
「もし承知してくれるなら、君の望みも何だ
って聞いてあげよう。君を助手として・・・
いや、助教授に推薦してもかまわんよ」
「・・・」
「私の影響力が残っているうちに、せいぜい
私を利用してくれればいいんだ」
 俊一は教授から目をそらし、コンピュータ
の画面を見つめた。今の自分にとって最も大
切なものは何か。いや、学者として最優先さ
せるべき研究対象は何かと言い換えたほう
が良いかもしれない。・・・そうだ、古代オ
リエントのひからびた女なんかじゃない。さ
っきまで現実に言葉を交わしていた美しい
縄文の巫女。あれほど生々しい存在とはこれ
から先二度と出会うことはないだろう。「ネ
イチャー」の名誉なんぞ犬の糞だ。そんなも
の目の前の酔っ払いと英国かぶれの紅茶野
郎にくれてやる。
「わかりました」
「本当かね! いやあ、ありがとう、ありが
とう。・・・研究室のみんなのためだ。わか
ってくれて嬉しいよ」
 滝谷は俊一の手を握りしめて、上下に力強
く振り回した。
「そのかわりお願いがあるんですが」
「何だね。言ってみたまえ」
教授は安心しきった面持ちでソファに深く
座り直し、長い両足を鷹揚に組み替えた。
「今調査中の出土品の中で、私個人にいただ
きたい物があるんです」
「・・・何だね、それは。あまり貴重な物だ
と私の力でも難しいかもしれんが・・・」
「いえ、人骨を二体分だけです。他は何もい
りません。いまここにある頭蓋骨と、試料庫
の中の骨片が欲しいのです」
「それくらいなら何とかなるだろう。あの遺
跡からは無数の人骨が出ているし、特に目を
引くような物も出ていない。人骨が多少消え
たとしても、何の問題もないだろう」
「ありがとうございます」
 滝谷が鼻歌混じりで帰って行ったのを見
届けると、俊一はすぐさま試料庫の鍵を開け
て、あちこちひっくり返しながらIの恋人を
探し始めた。
「・・・おい、何やってんだ、そんなとこで」
「うわっ。相馬じゃないか!・・・無事だっ
たのか!」
試料庫に舞い上がる土埃の中から、三ヶ月も
行方不明になっていた友人が出てきたのだ。
驚くなと言う方が無理な話だろう。
「一体どこに行ってたんだ。こっちは大変だ
ったんだぞ」
相馬は行方不明になった晩の服装のままで、
周囲をきょろきょろと見回した。
「それがよく思い出せないんだ。あの女にき
れいな所に連れて行かれて・・・しばらく二
人で楽しく遊んで・・・。それがあの女、急
に機嫌が悪くなって俺に帰れって言うんだ
よ。ものすごい顔してさ、もう二度と会いた
くないとさ。まったく、勝手なもんだよ」
「ふうん」
「今までさんざ振り回しておいてだよ。ああ
やだやだ、もうしばらく若いお姉ちゃんはい
いや」
 相馬が単純な奴でよかった。縄文の女の恋
人探しなど、彼にとっては週刊誌の4コママ
ンガほどの意味すらないだろう。昔からロマ
ンのかけらもない男だった。
「しかし俺、本当にどうしちまってたんだろ
う。三カ月も無断欠勤して、クビだぞこりゃ」
さすがの相馬も不安になったらしい。俊一は
突然浮かんだ名案を口にしていた。
「・・・俺の知り合いに、脳の専門医がいる
んだ。うまく話して、記憶喪失だったとでも
診断書を書いてもらうよ。多分あの女と事故
にでも遭ったんだろう」
「俺は若人あきらか」
 何度も首をかしげながら、相馬は自分のア
パートに帰って行った。これでもううるさい
刑事に追いかけられることもない。あとはI
の望みをかなえ、彼女から聞いた話をもとに
最高の論文を書き上げるのだ。山と積まれた
段ボール箱の中から、茶色い骨や石ころのか
けらをひっくり返しながら、俊一は歓喜の声
をあげずにはいられなかった。
「これだ! 間違いない」
俊一は注意深く小さい段ボール箱を手に取
った。ラベルには「人骨・MALE・?」と
乱暴な文字で走り書きがしてあった。「?」
とは修復不可能なほどの砕片であり、死因ど
ころか一体分なのかすら判然としない、と言
う意味である。
「俺の勘よ、当たってくれよ・・・。I、も
うすぐだからな」
 柏木俊一は、かつて見せたことがないほど
の集中力をもって、その人骨の修復作業に取
りかかった。もしこの骨片を見事に修復し、
三次元グラフィックに再現できれば・・・あ
とは、以前Iが見せてくれた美男子の映像と
比較すればいいのだ。食事もとらず、便所に
も行かず、気の遠くなるような作業が続いた。
ようやく、三次元撮影装置でデータを読み込
めるまでになったのは、日付が変わった真夜
中の二時過ぎのことだった。
「頼む、うまく動いてくれよ」
祈るような想いで俊一はキーボードを叩い
た。彼がこれほどコンピュータの力を頼った
のは、まったく初めてのことだった。
 ゆっくりと画面上に現れた顔は、どことな
く憂鬱そうな細面の美男子だった。一昔前の
文学青年のようなその面差しは、古代人にし
ては少々華奢な感じがしないでもない。目で
見た印象では、Iの恋人にほぼ間違いなさそ
うだった。しかし俊一も考古学者のはしくれ
だ。自己本位の思い入れで物事を判断する愚
に陥ってはならない。さっそくIからもらっ
た映像データと比較してみる。骨格の形、眼
窩の大きさ、顎や歯の並び具合・・・。コン
ピュータの答えは「スベテイッチスル」であ
った。
「やった!」
 俊一の叫び声を聞いていたかのように、突
然画面が二分割された。青年の隣には、涙で
白目がしっとりと滲んだIの笑顔が浮かん
でいる。その微笑みは白木蓮の花のように凛
として、清楚な美しさに匂いたつようだった。
〈アア・・・アノヒトダワ・・・〉
「I、間違いないかい」
〈アリガトウ・・・アリガトウ・・・〉
「いや、大したことはなかったよ。君の話の
おかげで、すぐに彼を見つけだすことができ
たんだ」
〈アナタノソノケンキョサ・・・ダカラアナ
タニタノンダノ。カレヲサガスコトヲ〉
 俊一は照れくささと誇らしさの入り交じ
った、何とも言えない感情の波を味わってい
た。「ネイチャー」や学会での名誉を棒に振
っても、Iのためにしてやれたことの方が、
はるかに自分にとっては大切なことだった。
そしてそれは、これから先一生報われないか
も知れない、考古学と言う分野に進むことを、
彼にはっきりと指し示し、勇気づけているよ
うに思えてならなかった。
「I・・・。僕の方こそお礼を言うよ。とて
も楽しかった」
〈アナタハステキナヒトネ。・・・アノヒト
ガイナケレバ、ワタシ、アナタノコトヲスキ
ニナッテタ〉
「え?」
 その瞬間、まるで息絶えたかのようにコン
ピュータが停止した。引き止める間もなく、
本当に、あっと言う間の夢のような別れにな
ってしまった。あとはいくらキーボードを叩
こうと、カバーをはずして中をいじくろうと
も、うんともすんとも言わなくなってしまっ
たのだ。
「I・・・」
もう二度と君には会えないのか。静まり返っ
た研究室の中には、農学部の厩舎から漂う家
畜の匂いが充満していた。やがて農学部の学
生たちが、ぎゃあぎゃあ喚く家畜たちの世話
をしに、朝も早くから出かけて来ることだろ
う。
 俊一は椅子から立ち上がって大きく伸び
をした。そうして数千年前の恋人たちの骨を
丁寧に箱に納めると、小脇に抱えて夜明け前
の京都K大学を後にした。体中の疲労感も、
冷たく澄んだ空気の中へと優しく溶けて行
くようだった。

 「お客さん! こんな所に来たって何も
ないよ。・・・うまい魚を食べさせる民宿に
でも案内しようか?」
どんどんどん、と音を立てて漁船は激しくう
ねりながら太平洋の上を突き進んでいる。俊
一の尻は何度も宙に浮き、舟底に叩きつけら
れた。漁船の主は呆れたような大声を出して、
小さい船を器用に操っている。釣りのシーズ
ンでもないのに、高い金を払って四国の海に
漕ぎ出させる都会の青二才に、漁師の日に灼
けた顔が笑っていた。
「いえ、結構です。・・・あ、このへんで停
めてくれますか」
「いいけど、今日は潮の流れがきついから、
あんまりもたないよ!」
「・・・一瞬でいいんですよ」
ぐらり、と船が傾いたかと思ったその瞬間、
真っ白い波頭が砕け散って、俊一の額をぐっ
しょりと濡らしてしまった。
 俊一は鞄の中からビニール袋を取り出す
と、上下に揺れる船端から、あっと言う間に
中身をすべて海にぶちまけた。その茶色い粉
は、もちろん何の不思議な現象を起こすこと
もなく、風にひろがり、瞬く間に海の底へと
消えていった。
「さよなら、I。・・・約束は守ったよ」
真っ青に透き通った波間に、無数の小魚が銀
色の光を放った。それは夜空の星たちのよう
に、何の不平を言うこともなく、ただまっす
ぐに存在しているようだった。俊一が粉々に
砕いたIの骨は、もはやどんな考古学者にだ
って復元することはできないだろう。上空に
舞うカモメの声が、縄文の恋人たちを祝福し
ているように、俊一の耳に心地よく響いた。
 「さて、帰ってコンピュータの調整をしな
いとな。相馬の奴、いいかげんな仕事をし
て・・・。ただで修理させてやるからな」
俊一の心は、すでに京都へと飛んでいた。ま
だまだやるべき仕事は片づいていない。読ま
なければならない論文も山積みだ。滝谷教授
との打ち合わせも控えている。これからどん
どん忙しくなるだろう。自分の努力次第で、
再び滝谷研究室があの文学部第一研究棟に
帰れるかもしれないのだ。おかしな奴等ばか
りの研究室だが、こんな太平洋のど真ん中に
たった一人で浮かんでいると、彼らの顔が懐
かしく思い出されて仕方がなかった。

 柏木俊一は、この数カ月の出来事をすべて
文書に記録し、あくまでもフィクションとし
てとある文学賞に応募した。Iの証言を学術
論文として発表しなかったのは、考古学者と
して未熟な自分には、まだまだその資格がな
いと判断したからだった。いつの日か、プロ
の学者として認められるようになったなら、
その時こそ歴史に残る論文をものすること
ができるだろう。文学賞の方は見事に選外と
なってしまったが、俊一の知り合いの医者が、
趣味でやっている文芸同人誌に発表の場を
与えてくれることになった。その物語は、間
もなく皆さんのお手元に届けられるはずで
ある。
         〈了〉