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sample3.htm

 

 「鶴と亀があわせて13匹いる、ということですが、鶴は一羽二羽、亀は一匹二匹と数えます。ちゃんと正しい日本語で

『鶴と亀があわせて7羽と6匹いる』

というように設問していただかないと、私は解答する気になれません。」

 試験問題の鶴亀算

「鶴と亀があわせて13匹いて、足の数があわせて38本ある時、鶴と亀はそれぞれ何匹いるか」

に対してこんな解答が書いてあったら、あなたが採点者だったとして、一体何点を付けるだろうか。

 

 鶴と亀がいるときに、その頭数と足数の合計だけはわかるけれどもそれぞれの数は計算しないとわからない、という状況は極めて想像しにくい。そう考えてみると、この解答者の指摘ももっともである。

「鶴と亀があわせて13匹」

の13という数字は、鶴の数と亀の数というカテゴリーの異なる二つの数を足したものなので、数学的にはほとんど意味がない。計算が書いていないので単なるまぐれ当たりかもしれないが、結果的に答も合っているので、私などは気分次第では満点以上を付けてしまいそうだ。

 

 試験の採点の際には、私はいつもいやな思いをする。普通は各小問に点数を付け、後でそれを合計するのだが、その足し算にどれほどの意味があるか、と考えるのである。

 例えば、ある量(偏差値とか体積とか期待値とか、何でも構わない)についての試験で、前半はその量の意味について、後半はその量の計算方法についての設問だったとしよう。実用上、意味が分かっても計算できなければ役に立たない。逆に計算できるだけで意味が分かっていなければやはり役に立たない。

前半か後半か、どちらか一方が零点だったら、残り半分が満点でも全体としては無価値なのである。従って前半と後半の点数を足しあわせるよりは、それぞれを10点満点にして掛け算をして100点満点にする方が合理的かもしれない。そうすれば、片方が零点なら全体の得点も自動的に零点になるわけである。

 

 別の例を挙げると、前半が足し算の問題で、後半が掛け算の問題だったとする。足し算は掛け算の基礎になる計算であり、足し算の出来ていない生徒が掛け算だけ出来ても、それは空しい知識であり、評価したくない、という考え方がある。一方、足し算がちゃんと出来た上に掛け算も出来るなら、それには良い点数をあげたいというわけだ。その考え方を得点に反映させようとすると、ますます複雑な採点方法が要求される。各小問の点数を単に合計するやり方が如何に粗雑であるかがわかるだろう。

 

 入学試験などで、各科目の合計点を計算するときなど、もっと空しい気分になる。得点分布のまるで異なる数学の点数と英語の点数をただ単純に足した数字にどんな意味があるというのか。私たちは鶴と亀の数を数えるときのように、足してもまるで意味をなさないものを足しているのである。そしてその意味のない数字が受験生の人生を決定していくのだ。

 

 「りんごが158円に牛乳218円、数術師伝説のゲームが1624円であわせてちょうど2000円になります。」

この足し算は同種の量を足しているので、一見意味がありそうである。だが本当にそうなのだろうか。

 

 ここでは物の持つ価値が数値化されているわけだが、そもそも価値は数字で置き換えられるものなのであろうか。例えばりんごの持つ価値とゲームの持つ価値は、質的に全く異なるものである。りんごが2倍あれば栄養も2倍になるわけだが、同じゲームが2本あっても他の人にあげるあてがなければ使いようがない。りんごは一回食べてしまうとおしまいだが、ゲームは何度でも楽しむことが出来る。要するに、我々は又しても鶴と亀を足しているのである。

 

 電車で街に出たら切符が560円した。美術館に入ったら1000円した。レストランで食事をしたら1400円した。グラスを買ったら800円した。それぞれの価格が質的に全く異なる物であり、これらを全部足した額、3760円にほとんど意味がないことは明らかだろう。560円の切符より930円の切符の方が遠くまで行けるし、入場料が2500円の美術館の方が1000円の美術館よりいい絵が揃っているかもしれない。だが1000円の美術館と560円の電車の切符を比べようとしても、そもそも街に出なければ美術館には入れないのだから、比較そのものが意味を持たない。試験の点数を考えたときと同様の現象が起こっていることがおわかりだろう。しかし気がついてみると、財布からは現に3760円だけお金が減っている。

 

 「価値の足し算をしているのではない、支払う金額の足し算をしているのだ。」

と言う人もあろう。だがここまで考えてきた我々には、貨幣システムそのものに意味がない、という事実が見えてこないだろうか。本来足し算では評価できない「価値」をむりやり数値化して足し算をする羽目になっているのは、貨幣システムが原因だと。「価格」というのは社会が生み出した幻であって、その実体は何もないと。私はお金を支払う度に、試験の採点で点数を合計するときと同じようないやな気持ちになる。数学者のくせに意味のない計算をさせられる悲しさを味わうのである。

 

 阿佐田哲也氏や西原理恵子氏のを読んでいると、博打場の金は金ではないことを思い知らされる。麻雀の一ゲームに、サイコロの一振りに、百万・千万単位の金が動くとき、それは金ではなくただの記号に過ぎない。それが博打場を一歩出た途端に金はその実体を取り戻し、ギャンブラー達は気が付くと全財産を失ったり家を手に入れたりしているわけだ。しかし、本当の所は逆かもしれない。世の中すべてが虚構で、博打場でのみ金は、実体の無いただの記号、というその真の姿をあらわすのである。

 

 お金のやりとりで社会が運営される仕組みになっている以上は、物の価値は足し算的に測られざるを得ない。お金の計算は試験の点数以上に意味のない足し算でありながら、試験の点数以上に人々の生活を左右し、人々の思考方法までをも縛り付ける。

 

 私は貨幣によらずに運営される社会を夢想した。人々は今と同じように働き、食べ、買い物をし、電車に乗る。ただ金銭の受け渡しだけが行われない。人々は自分にふさわしい分だけ働いて生産し、自分にふさわしい分だけ受け取って消費する。例えば今の社会でも家庭の中ではそうであろう。料理を食べる人は料理を作った人にお金を支払ったりはしない。病気になった子供を病院に連れていくのに報酬を要求する人はいない。

 

 もちろん家庭でのやり方が社会全体でうまくいくはずはないから、各人にふさわしい役割と権利を計算する系統だった仕組みがなくてはならない。それは足し算的ではない、より精密な正しい方法で測定され、計算されなくてはならない。どういう基準で計算し、どういうシステムで社会を運営するべきか…。

 

 はっと現実の世界に戻ると、私は腹を空かせて高級レストランの前にたたずんでいた。ウィンドウにはふぐの刺身、焼き松茸、伊勢エビなどがずらっと並んでいる。夢の中の理想的な社会でならそのまますっとレストランに入って好きな料理を注文すればよいのだが(なぜそれが三流数学者にふさわしいか、ということはその時は考えもしなかった)、残念ながら現実の足し算的な社会システムでは、ここでこのレストランで食事をしてしまうと次の給料日前には困ったことになってしまう。私は仕方なくコンビニエンスストアに寄って、おにぎりを3個だけ買って帰った。

 

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