田園コロシアム

  

 

アーカイス 〜過去のコラム

 


#14  三沢光晴に捧ぐ 

三沢光晴がリングの上で死んだ。死因は頸椎離断。バックドロップを受けて頭部を痛打し、帰らぬ人となった。46歳だった。まさか三沢がそんなことになろうなんて、誰も思わなかった。破天荒なイメージのプロレスラ―にあって、三沢は珍しく社会性(常識)のある男だった。日本のみならずアメリカマット界でも「約束を必ず守る男だ」と信用されていた、師匠ジャイアント馬場のように……。プロレスの世界は、会社の収益を別事業(なんとかハイセル)に回したり、後輩レスラーが家族の保険を解約してまで差し出したお金を「おれ個人の借金ではない」といって踏み倒したりするような男ばかりである。そんな無責任な連中がごろごろいる中、三沢は責任感が人一倍強かった。欠場したいのだけれど、おれが出ないわけにはいかない。そんな社長ゆえの責任感が今回の惨事を招いた気がしてならない。馬場さんよ、あなたの時代はよかった。インターネットもなければ、Jリーグも、カラオケBOXも、携帯電話もなかった。馬場や鶴田がNWAのベルトを賭けてハリー・レイスやリック・フレアーと戦い、世界最強タッグがありチャンピオン・カーニバルがあった。プロレスは楽しかった。日本テレビは巨人戦とプロレス中継を目玉のコンテンツとして、ばりばり稼いでいた。今は巨人戦ですらキラーコンテンツではない。大活躍の坂本隼人ですら、知名度は低い。30年前にこれだけの活躍をしたら若者のヒーローだったはずなのに……。三沢率いるノアは地上波のOA(深夜枠)も打ち切られた。プロレス中継というコンテンツそのものが巨人戦同様、時代のメインストリームから外れてしまったのだ。私は古い人間なのでプロレスが好きだ。まわりが夢中になっているK−1だのダイナマイトだのハッスルだのにはほとんど興味がないし、プロレスの枠を飛び出して行った前田や高田や佐山には露ほどのシンパシーもない。最後に、ミッキ・ローク主演の『ザ・レスラー』という映画を、三沢光晴とすべてのプロレスファンに捧げたい。合掌。2009.07)

 


#13   朝青龍、復活!!

場所前は最低でも10勝しないと即引退とさんざん騒がれていたが、横綱朝青龍(28)がよもや優勝するとは誰が予想しただろう。しかも、14戦全勝で千秋楽を迎え、結びの一番で13勝1敗の横綱白鵬(23)に敗れて14勝1敗同士の優勝決定戦にもつれ込むという願ってもないオイシイ展開である。 本割の一番で朝青龍は立ち合いをわざと失敗し、白鵬を受けるカタチで負けてみせた。これで白鵬はすっかり油断してしまった。そして、優勝決定戦で朝青龍は鋭い立ち合いから低く飛び込んで頭をつけ、左上手と右前みつを取って自分のカタチにした。こうなると白鵬は自分の相撲を取らせてもらえない。結局、朝青龍が白鵬を危なげなく寄り切って、5場所ぶり23回目の優勝を手にした。セレモニーのあとの優勝者インタビューでは「朝青龍、また帰ってきました」といって満員の館内を沸かせていたが、その前にも見せ場があった。麻生太郎首相自らが総理大臣杯を朝青龍に授与したのだ。しかも、「内閣総理大臣杯」の「杯」を読み飛ばして、「内閣総理大臣・朝青龍殿」といっちゃった。総理大臣はおめーだろ。かつて、小泉純一郎氏が貴乃花を相手に「足が痛いのによくがんばった。感動した!」という名言を残したが、我らが麻生太郎総理は、「横綱は強くなくちゃね!」などとのたまい、朝青龍の苦笑を買っていた。小泉元首相と同じくらい強烈な印象を残したかも!?  朝青龍が土俵に上がると、場内の空気がガラッと変わる。白鵬にその力はまだない。ここまでの存在感があるのは、プロレスラーでいうと馬場と猪木。武藤敬司には人を振り向かせる力があるが、馬場や猪木の領域には達していない。全盛期の長州力でも気持にムラがあった。永田や棚橋では望むべくもない。そうした観点からすると、朝青龍という男は真のスターだ。さらにうと、馬場や猪木ではなく力道山である。親分肌で、気分屋で、ファンに優しく、そして強い。その力道山が大相撲では小結までしか出世できなかったことを考えると、朝青龍はドエライ横綱なのかもしれない。だって、23回も優勝してるんだよ。2009.02)

 


#12   懲りない朝青龍

先場所優勝を飾った大関・琴欧州(25)の綱獲りに注目が集まった大相撲・七月名古屋場所。全勝か14勝をあげれば綱に手が届くと思われた今場所だが、蓋をあけてみれば琴欧州は初日に前頭筆頭・安美錦(押し出し)、3日目は小結・豊ノ島(掬い投げ)に土をつけられ、7日目には前頭二枚目・朝赤龍(上手出し投げ)に敗れた。中日前に3敗目を喫してしまう。綱獲りは絶望。心臓が強くないと横綱にはなれないのだ。一方、圧倒的な強さを見せ賜杯を手にした横綱・白鵬(23)。192センチ、156キロという恵まれた体躯とモンゴル相撲の横綱を父に持つ育ちのよさ。何より、強い精神力。しばらくは白鵬の時代が続くに違いない。今場所、日本人力士でひとり気を吐いたのは大関・琴光喜(32)。ただ、若手だとばかり思っていた琴光喜も今年32歳。今年が綱獲りのラストチャンスになりそうだ。こうなったら、誰でもいいから日本人横綱を待望したい。そして、モンゴルのあの男は、またも週刊誌をにぎわしてくれた。横綱・朝青龍(27)は初日の豊ノ島戦に敗れた「ひじが痛い」といって6日目から休場。場所前には、ボスボス給料を上げてくれボスと息巻いていた男が、ちょっとひじが痛くて休場。これじゃあ、給料は上げられねぇな。ぼうず!なんでもモンゴル場所の計画が頓挫しそうになったので気が気じゃなかったという報道もあった。モンゴル場所ではがっつり稼ぐつもりだったらしいのだ。そんなに大金がほしければ早々に大相撲を引退して、総合格闘技の世界へ移籍すればいい。曙(39)との横綱対決をはじめ、桜庭和志戦、田村潔戦などアリーナを満杯にできるカードはたくさんある。ヌルヌル男・秋山成勲戦なんてのも是非見てみたい一戦だ。それで秋山に勝ち、そのリベンジのため清原が球界から格闘技界入りなんて展開なら尚、面白い!  いっそのこと、亀田ブラザーズもボクシング界からさっさと足を洗って、総合格闘技に世界に入るといい。金子賢だって戦ってるんだから元ボクシングの世界チャンプや野球選手が総合格闘技のリングに上がったっておかしくない。亀田の初戦は柴田勝頼あたりに任せたい。ガチに狂犬対決ね。2008.08)

 


#11 問題児・朝青龍!

連日、新聞紙上やワイドショーを賑わせている朝青龍問題は、朝青龍(26)がモンゴルに帰国することで沈静化しそうだ。ことの発端は名古屋場所修了後、仮病の診断書を協会に提出して秋の巡業を休み帰国したことにある。ここまではよかったが、モンゴルで中田英寿氏らとサッカーに興じていた映像が日本国内で流れてしまい、一気に問題になった。これにより、日本相撲協会北の湖理事長(54)は、朝青龍の2場所連続出場停止という厳しい処分を下した。さらには、自宅と稽場と病院以外は出入り禁止。この処分で壊れてしまった朝青龍。「ストレス障害」だの「解離性障害」などと様々な医者が様々な診断を下すような状態に陥ったわけだが、モンゴル国内でファンがデモを起こすなど国際問題に発展しかねない状況になった。そんな中、横審(横綱審議委員会)の海老沢勝二委員長(73)や石橋義夫前委員長(73)が、モンゴル帰国を容認。そもそも、朝青龍は問題の多い横綱である。左手で手刀を切ったり、出稽古で若手力士にプロレスワザをかけて病院送りにしたりと素行の悪さは折り紙つき。某週刊誌によると八百長疑惑まである。まったく困った横綱である。さて困惑顔の協会側ではあるが、朝青龍が休場している間に新大関琴光喜(31)に綱取りをさせる絶好の機会と考えているフシがある。そうすれば、「朝青龍―白鵬」という二人横綱ではなく「琴光喜―白鵬」という金看板で来年から大相撲の興業を運営できるのだ。魁皇(大関=35)、栃東(引退=30)、千代大海(大関=31)といった日本人力士たちがことごとく綱取りに失敗し、琴欧州(大関=24)、安馬(元関脇=23)、時天空(元小結=27)といった外国人力士が三役に顔を出してきた今こそ、是が非でも琴光喜に綱取りをさせ、日本人横綱を誕生させたいわけだ。日本には「水が合わない」ということわざがある。朝青龍は角界とは水が合わなかったのだ。白鵬は朝青龍と同じモンゴル出身ながら、父親はモンゴル相撲の大横綱。朝青龍とは出自が違う。朝青龍よ、ここはすぱっと引退して、母国モンゴルでビジネスでもサッカーでも好きなことをやればいい。はい、ご苦労さん。2007.09)

 


10 白鵬が大関昇進!

先月、大阪で行われた春場所・千秋楽で大関・魁皇(33)が白鵬(21)を寄り切りでくだして勝ち越しを決め、大関・栃東(29)も横綱・朝青龍(25)を寄り切りでくだして12勝目を挙げた。これで、「負け越し=引退」を仄めかしていた魁皇も大関の地位を守り、栃東も来場所の綱取りに望みを残した。いつもは辛口の北の湖理事長も「栃東は来場所に13勝を挙げれば(横綱昇進という)話題にのぼるのではないか」というコメントを残した。しかし、そんなことで喜んでいる場合ではない。優勝決定戦に出たのはふたりとモンゴル人(朝青龍、白鵬)だし、春場所で三賞を独占したのもモンゴル人(白鵬→殊勲賞・技能賞、旭鷲山→敢闘賞)。13勝を挙げた白鵬は21歳で大関昇進を決め、今年中に横綱になる可能性も大きい。朝赤龍(24)、時天空(26)安馬(21)といったモンゴル勢も全員が勝ち越し、それぞれが三役を窺おうかという勢いである。千秋楽の表彰式で朝青龍が君が代を歌う姿を見て思ったのが、まるでMLBみたいなだということ。先のWBCで露呈したように、MLBでプレイしているのはアメリカ人だけではなく、ドミニカ、プエルトリコ、キューバ、メキシコ、日本、韓国と様々な国籍を持つ選手がプレイしている。彼らの存在がなければ、もはやMLBそのものが成立しないだろう。そして、わが国の大相撲もMLB同様にグローバル化している。春場所でいうと、42人中12人が外国人力士。とりわけ目立ってきているのが、モンゴル勢に対抗するように台頭してきたのがヨーロッパの力士たちだ。現在、大関の地位にある琴欧州(ブルガリア=23)を筆頭に、黒海(グルジア=25)、露鵬(ロシア=26)、白露山(ロシア=24)と個性的な力士が多い。さらには、43年ぶりに十両全勝優勝を果たした把瑠都(エストニア=21)も、来場所は新入幕を果たす。モンゴル勢と違い、もともと立派な体格とパワーのある彼らが相撲そのものを覚えてきたら、怖い存在になるに違いない。2006.03)

 


9 ど〜するど〜なる!? 大相撲!

大関・魁皇(32)の“綱取り”の期待が高まった先月の初場所だが当の魁皇は序盤で3連敗を喫し、10日目で休場するという体たらくを演じて、結局、横綱・朝青龍の全勝優勝で初場所は幕を閉じた。場所前に朝青龍は、「稽古してないから不安っす!」などというコメントを発し魁皇ファンの期待を煽ったのにも関わらず、優勝後には「集中力(を持続できた事)がよかったっす」などと白々しいことをいう始末。横綱審議委員会の内舘牧子委員がかねてより苦言を呈していた「左手による手刀」も改善されたのは初日くらいで、千秋楽には左手で懸賞の束を摘むようにして受け取ったとなると、日本の大相撲をナメとんのんかといいたくなるが、それにしても迎え討つ日本人力士が情けない。幕内で10勝以上を挙げた力士は朝青龍以外でたったの3人。関脇・栃東(28)と小結・白鵬(19)が11勝、平幕(前頭6枚目)の旭天鵬(30)の10勝だが、3人のうち2人がモンゴル出身の力士とはいったいど〜ゆ〜ことだ!?もはや、32歳の魁皇にはゆっくり休んでもらうとしてもだ、大関・千代大海(28)なんて千秋楽結びの一番での朝青龍に背中を見せて負けていたし(あんなに絵に描いたような見事な「おくりだし」を初めて見た)、19場所連続で三役の座を守り安定感を見せていた関脇・若の里(28)も6勝9敗で三役転落。もうお手上げである。さて、次期横綱の最有力とされているのは、今場所小結の地位で11勝を挙げ技能賞を獲得した白鵬である。北の湖理事長(51)は、「今場所が大関獲りの起点となる」と明言。大関昇進の目安としては「三役で3場所連続10勝以上」と「3場所で33勝以上」という内規があるが、19歳の白鵬にはさほど高いハードルではない。となると「東西の横綱がモンゴル人」なんて事態になるのも時間の問題だ。かつての“ハワイアン・タイフーン”(小錦、曙、武蔵丸)には、日本人スター兄弟“若貴”がいた。しかし、今回の“モンゴリアン・ハリケーン”(旭鷲山、旭天鵬、朝青龍、朝赤龍、白鵬、安馬、時天空〜モンゴル出身の幕内力士は実に7人!)には対抗し得る日本人力士が見当たらない。これは、数世紀ぶりに襲ってきた“元寇”にほかならない。だとしたらだ、我々は指をくわえて神風が吹くのを待つしかないのか――。2005.01.31)

 


8 フランスのおっきな坊や〜フィリップ・トルシエ

2001年8月15日、静岡スタジアムにて行われたAFC/OFCチャレンジカップ2001“日本 VS オーストラリア”戦。試合が始まって間もなく、日本代表監督フィリップ・トルシエはディフェンスラインから左サイドの服部にパスを出した森岡をベンチから怒鳴りつけたという。「右サイドからも攻めろ!」「左サイドにスペースがあったんだ!」そう言い返す森岡に怒り、フィリップ・トルシエはベンチにいた宮本に早々とアップを命じた。自国開催のW杯を10ヶ月後に控えたこの時期に、彼はビルドアップの段階でのDFのパスに怒って控えのDFにアップを命じてプレッシャーをかけた。俺の言うことが聞けないなら交代させてやる、という意図なら単なる子供である(彼がもし浦和レッドダイヤモンズの監督だったら、決定的なミスをたびたび繰り返す元・日本代表のDFにすぐさまサテライト行きを命じるに違いない)。そんなことよりも、中村俊輔のコンディションの悪さを理由に左サイドに服部を起用したり、森島をアウトさせたあとのトップ下に奥を入れたりするという思いつきとしか考えられないような采配に対し猛省を求めたい。中村俊輔が力不足だというならトップ下のオプションとして小笠原を召集すべきだったし、中山を投入してファンサービスをしたり、森岡を怒鳴るよりほかにやるべきことは沢山あるのだ。繰り返すが、我々は自国開催のW杯を10ヶ月後に控えているのだから。フィリップ・トルシエ。1955年、フランス生まれ。プロサッカー選手としてのキャリアといえば、フランス2部リーグのでプレイしたことがあるという程度(フランス2部リーグ・アングレームの監督だったアンリ・スキバがたまたま見に行ったアマチュアチームの試合でプレイしていたトルシエに声をかけなければ、彼はプロのサッカー選手にすらなれなかったかも知れない)。1983年から1年間、U-15フランス代表の監督を経験。それ以降、コートジボワール、ナイジェリア、ブルキナファゾ、南アフリカの代表監督を務める。“白い呪術師”と呼ばれていたのはこの頃だが、実際にW杯本戦に出場したのは南アフリカ代表を率いた1998年のフランス大会のみ(戦績は2分1敗)。そのフランスW杯に初出場した日本代表は予選リーグを3連敗して敗退。W杯終了後の岡田武史が退いた日本代表監督に彼は迎えられた。現在、日本代表イレブンの約半数はヨーロッパ、南米のクラブチームに所属する選手だ。パルマ、アーセナル、フェイエノールト、ボカ・ジュニアーズ……トヨタ杯に名を連ねるような錚々たる名門チームばかりである。一方、フィリップ・トルシエはこれらの名門チームには選手としても指導者としても無縁だ。セリエAどころかフランス1部リーグでプレイしたこともなければ、監督の経験さえない。ただ、彼はアフリカとアジアというサッカー後進国の代表監督を何度か務めたに過ぎない。これは、「日本代表は経験不足だ」と言う本人にこそ充分なパラダイム(経験)がないことを意味する。彼はフランス人というだけで、プラティニのようにフランスサッカーを代表しているわけではないのだ。少なくとも、名波浩に対して「お前なんかセリエAでは通用しない」などと言える筋合いでは決してない。むしろ中田英寿や小野伸二をリスペクトすべきなのだ(実際、小野伸二にどのくらい才能があるのか、彼は理解できていない気がする)。さて、フィリップ・トルシエの日本代表における仕事で唯一の成果であると思われる“フラット3”は、アジアレベルでこそ通用しているが、ひとたびボールの支配率が高く攻撃力のある強豪チームと対戦するとほとんど機能しなくなる。厚みのある相手チームの攻撃に対してボランチかサイドの選手1人がディフェンスラインに吸収され、事実上の4バックになってしまうのだ。そして、ディフェンスラインがズルズルと下がり中盤にスペースができてしまえば、中盤のプレスをきつくしてラインコントロールによってオフサイドを取る、というシンプルな戦術が奏功していた“フラット3”そのものの意味がなくなる。4−4−2という伝統的なシステムにこだわりすぎたブラジル代表がW杯南米予選で苦戦を強いられているように、世界的なトレンド(主流)は3バックである。しかし、トレンドを取り入れるのは簡単だがチーム戦術として機能させるのはたやすいことではないのだ。また、先頃行われたキリン杯の試合に「バランスが崩れるから」という理由で廣山を投入しなかったことを考えると、フィリップ・トルシエがDFの視点からしかチーム戦術を発想できないことは自明である。いかにして点を取るか、というイメージが希薄だから、せいぜい「右サイドからも攻めろ!」程度のことしか言えないのだ(同じDFの視点からだとしても、コンサドーレ札幌というディフェンス一辺倒のチームにエメルソンやウィルという俊足FWを配して“勝つためのフォーメンション”を構築した岡田武史の方がよっぽど評価できる)。このように、わが日本代表チームの監督は貧しいパラダイム(経験)しか持ち合わせていない、DFの視点からしかチーム戦術を発想できない、ひどく子供っぽいフランス人なのだ。おまけに“フラット3”が強豪チーム相手には機能しないとなれば、2002年W杯の決勝トーナメントを勝ち進むのは至難の業と言わざるを得ない(アジア杯優勝だのコンフェデ杯準優勝だのと浮かれてはいるが、トルシエ自身はW杯未勝利なのだ)。ただ、幸いなことに我々のチームには才能溢れる若き選手が沢山いる。あまり褒められたことではないが、ぺぺ監督時代の読売クラブのように選手たち自身でゲームプランを立て、自らの多彩なイマジネーションによって勝利を拾っていくしかない。もちろん、フィリップ・トルシエ以上に貧しいパラダイムしか持たない日本サッカー協会に、彼を解任する知己と勇気があるというのなら話は別だが……。(2001.09.04)


7 レッズサポーターの憂鬱

そう、僕らの憂鬱は一人の新人選手が浦和レッドダイアモンズに入団した時から始まっていたのだ。彼の名前は盛田剛平。駒沢大では、その高さを生かしたポストプレーで大型FWとして活躍した。それはそれでよかった。そして、そのまま彼のことは他人事で済ませることができれば、僕らはこんな憂鬱にさいなまれることはなかったのだ。彼が浦和レッドダイヤモンズに入団した1999年、ユース代表や五輪代表では“トルシエの子供たち”が世界を舞台にモダンなサッカーを展開していた。スタイリッシュな容姿の才能のある若い選手たちの速くて強い、イマジネーション溢れる魅力的なサッカーに僕らは夢中になっていた。そして、彼らとは対照的にいかにも魅力のない前近代的な選手として盛田剛平は僕らの前に現れた。彼の入団を最も望んだのは、浦和レッドダイヤモンズの前・監督である原博実だ。現役時代の原博実は日本代表でも活躍した大型FWである。それどころか、日本代表での37得点は、釜本、カズに続く歴代3位だ。しかし、彼が日本代表でプレーしていた時のことは正直いってあまり覚えていない。その頃のFWといえば、釜本(ヤンマー)、薄井(日立)、柱谷幸一と水沼(日産)、永井と奥寺(古河)……。同じ三菱から代表入りしてすぐにドイツへ渡った尾崎(寿)も覚えているが、原博実のことはまったく印象にない。盛田同様、原博実のパフォーマンスも僕らにとって他人事だったのかも知れない。そんな原博実が監督をしていた浦和レッドダイアモンズは、元・監督のオジェックとギド・ブッフバルトという2人のドイツ人がデザインしたチームだ。しっかり守って、福田、岡野、大柴という俊足FWがDFの裏のスペースに走り込むというスペクタクルなカウンターサッカーを得意としていた。そして、98年に入団した小野伸二は、このチームにワンタッチでパスを回していくスピードのあるスタイルを持ち込み完成させつつあった。ところが、盛田剛平が入団するやいなや、原博実はスタメンで盛田を使い始めた。盛田はゴール前に張りつくか、ボールがもらえない時などは中盤に下がって無理矢理ポストプレイーをするので、小野伸二が本来の仕事をできずに立ちつくすというシーンが目立ち始めた。それでも、原博実は小野がイメージするサッカーを否定してまで無得点のFW・盛田にこだわった。“一人の選手をがまんして使うことが監督の仕事だ”とでもいうように……。1999年11月27日、成績不振を理由にシーズン途中で解雇された原博実に代わる監督、ア・デモスに託された2ndステージも最終戦を迎えた。その大事なサンフレッチェ広島戦で、浦和レッドダイヤモンズは延長Vゴール勝ちを収めた。しかし、勝ち点ではアビスパ福岡、JEF市原に並んだものの得失点差でたった1点のアドバンテージを福岡につけられ、浦和レッドダイヤモンズのJ2降格が決まった。この試合に途中出場した盛田は、何本か決定的なシュートを外し無得点。この試合だけではない。彼はプロの公式戦(リーグ戦)で1点も取れないままシーズンを終えた(彼がことごとく外したシュートのうち、たった1本でもゴールネットを揺らしていれば……)。岡野や永井の不在(海外移籍)、小野や石井がユース代表や五輪代表にかり出されたこと、加えて小野をはじめとする主力選手の負傷欠場、そして、世界サッカーの趨勢から大きく外れる“延長Vゴール方式”などという馬鹿げたルールなど、J2降格の原因として様々なファクターが考えられるが、A級戦犯はいうまでもなく原博実である。戦力が整わない、という状況は何も浦和に限ったことではないのだ。(日本代表で歴代3位のゴール数を誇る)原博実が、“自分のような大型FWを育てたい”という貧しいセンチメンタリズムに拠るところなく冷静にチームを指揮さえしていれば、よもやJ2降格などという悲しい事件に発展することもなかったはずだ。サンフレッチェ広島戦でVゴールを決めた後、祝福する池田学の手をにべもなく振り払った福田正博の涙を、そして、選手がいなくなったスタジアムにいつまでも立ちつくし、“We are REDS!!”と叫び続けるサポーターたちを、原博実はいったいどんな気持ちで見ていたのだろうか。(1999.11.27)


6 大仁田厚というトリックスター

プロレスを好きではない人、またはプロレスを楽しんで見ない人には、“プロレスは八百長”というステレオタイプが根強くある。そして、彼らの偏見を助長させるようなことを次々にリング上で行ってきたのが大仁田厚である。有刺鉄線電流爆破デスマッチ、試合後の過剰なパフォーマンス、涙……。何度も引退し、そしてまた、復帰……。彼のプロレスの原点はいったいどこなのか。70年代の終わり、藤波辰巳がニューヨークのマジソンスクエアガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダからWWF・Jヘビー選手権を奪取した。この藤波がもたらしたベルトは、それまでアントニオ猪木のNWFヘビー級選手権の防衛戦ひとつを中心にシリーズの日程が組まれ、『ワールドプロレスリング』というソフト(テレビ番組)を制作するしかなかった新日本プロレスのフロントに目玉となるコンテンツをふやした。すなわち、60分の番組内に2つのタイトルマッチを組むことができるようになったのだ。そして、新間寿(当時、新日本プロレス営業本部長/WWF副会長)が藤波を使って開拓したこの“Jヘビー級”というフィールドは、のちに軽量の佐山聡を初代タイガーマスクとしてブレイクさせる土壌となる。そして、対抗団体である全日本プロレスにも新しいスターを生んだ。大仁田厚である。その頃の全日本プロレスは、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組、ザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr、テリー・ファンク)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組などが参戦した“世界最強タッグ決定リーグ戦”(やはり70年代終わりにスタート)が人気を呼んでいた。そこでスターになっていたのは、元・NWA世界ヘビー級王者、テリー・ファンクである。彼のリング上で過剰なパフォーマンス(ブッチャーにフォークで腕を刺されたり、シークに火炎攻撃を受けたりしたシーンは覚えている人も多いと思う)は、とてもチープな大衆向けエンターテインメントそのものだった。見る側が成熟していない時代でこそ通用する“共同幻想”だったのである。そのテリー・ファンクをプロトタイプとして、大仁田厚はプロレスラーとして重要な時期のキャリアを重ねてしまった。彼のプロレスの原点は、ずばりテリー・ファンクなのだ。とはいうものの、全日本プロレス在籍時代の大仁田は短い期間ながらNWA世界Jヘビー級選手権のチャンピオンとしてチャボ・ゲレロらを相手に防衛戦を闘った。藤波や佐山ほどではないにしろ、いい選手だった。そして、ほどなくケガを理由に彼は引退する。数年後、大仁田厚はFMWを立ちあげた。その後の彼のパフォーマンスについてはここで書くまでもない。ただひとついえることは、彼のしていることは、20年も前、そうまだ僕たちプロレスファンが成熟をみない時代にテリー・ファンクが行っていた“エキサイティングで過剰なパフォーマンス”そのものだということだ。好むと好まざるに関わらず、僕たちプロレスファンは成熟してしまった。ただ、その古くさくて“チープな共同幻想”をも楽しんでしまえるほど成熟したファンもたくさんいることも事実。それについては僕がとやかくいうことではないが、ジャイアント馬場が黙殺した「最後に2つのメジャー団体のリングに上がりたい」という大仁田の要望に対して新日本プロレスが受け入を表明した、という事実にはまったく閉口せざるをえない。(1998.12.2)


5 UWFの残した負の遺産

UWFの出自が新日本プロレスの標榜する“ストロング・スタイル”にあることは自明だ。しかし、残念ながらUWFという団体、そしてそのリングに戦いの場を見出していたレスラーたちは、“ストロング・スタイル”を拡大解釈していただけだったようだ。それは、数年前に長州力と安生洋二が新日本プロレスリングのリング上で対峙した数分間で証明された。長州の前で安生は、“蛇に睨まれた蛙”だったのである。長州は安生に無言で“ストロング・スタイル”の何んたるか、を表現した。鼠をもてあそぶ猫のようにさんざん安生をいたぶった後、長州は安生からサソリ固めでギブアップを奪った。試合後、安生は控え室で涙を流したという。自分たちの“最強の格闘技”だと思われたスタイルが、よもや新日本プロレスのリング上で打ち砕かれるとは思ってもみなかったのだ。かつて、グレーシー道場に単身乗り込んで返り討ちにあった時よりもショックだったに違いない。最近では、前田日明の愛弟子・長井満也がフリーとして上がったK−1のリングで連敗し、ほぼ同じことが証明された。では、UWFが犯した過ちは何だったか。それは、簡単にいえば“自分たちで自分たちに都合のいいシステムを作ってしまった”ことだ。プロレス技の中の“蹴り”と“ザブミッション”をクローズアップし“ピンフォール”を否定した。最大の過ちは、このピンフォールを黙殺したことにある。プロレスとは、スリーカウントのピンフォールで勝負が決まる、という約束事から始まっている(ただ、このレフリーによるカウントの不公正さがプロレスが八百長よばわりされる一因でもある)。オフサイドもオブストラクションもない。両肩がついてスリーカウント入れられれば負け。それから、ギブアップをした方が負け。6秒以上、反則をカウントされたら負け。至極、シンプルである。男たちが半裸で闘い、3カウントで勝負が着く。子供にもおじさんにもすぐ理解できるルールだ。全日本プロレスの会場を見よ。観客がスリーカウントを大合唱し、返すと足を踏みならす。この“楽しさ”完全否定したところがらUWFは始めてしまったのだ。それでも僕たちプロレスファンは、東京ベイNKホールのあの広い会場で、ほんの数分間展開される“サブミッション合戦”に熱狂した時期もあった。三角締めで勝負が決まった瞬間、無理矢理、歓声をあげたりもした。だが、少なくとも僕は楽しくなかった。そう、UWFはプロレスではなかったのだ。少なくとも、東京ベイNKホールでパフォーマンスされるべきものではない(敢えていうなら後楽園ホールが最も似つかわしい)。高田延彦が二度までもヒクソン・グレーシーに敗れ、前田日明がさしたる仕事も残せぬまま引退する。かつてUWFを支えてきた選手たちが消え去ろうとしている今、UWFは何を残したのか。最後のUWF戦士である船木誠勝と鈴木みのるは、なおも迷走するつもりなのだろうか。(1998.12.2)


#4 小野伸二、右サイドのコーナーキック

 

98年3月25日、レッズとフリューゲルスのTV中継を見ている最中、他の競技場で行われている試合の速報が入った。ベルディ対ジュビロはカズのゴールでベルディが先制。それをきいた瞬間、ゾノか北澤がサイドを崩してキープしたボールを中央に折り返し、詰めてきたカズがボレーで決める、というイメージが頭に浮かんだ。ところが数時間後のスポーツニュースを見ると、カズが右サイドからの蹴ったコーナーキックがGKの大神の手をはじいて直接ゴールというものだった。コーナーキックを直接ゴールすることは容易なことではない。しかし、カズのボールは高木に合わせたのか直接ゴールを狙ったのかの意図がはっきりしな曖昧ないものだった。それに比べて、小野のコーナーキックは素晴らしかった。ある時は左にカーブをかけて(すなわちGKからどんどん逃げていくボールだからGKは前に出ていけない)ネーハイスに合わせ、またある時は、スピードのある低いボールをGKとディフェンスの間に蹴り大柴を突っ込ませた。デビュー戦ではショートコーナーを多用したが、それについて彼は試合後、「ショートコーナーもあるんだってことを見せておかなければいけないと思って」とコメントしたそうだ。すなわち、色々なオプションを提示してみせ、相手のGKを撹乱しようとする明確な意図が彼にはあるのだ。思えば、ついこないだまで日本代表のプレイスキックはカズが蹴っていた。特にコーナーキックでは、カズが直接ゴールを狙って大きくゴールマウスを外す、というシーンがしばしば見られたが、それでもファンは“カズが外したんだから仕方がない”と思っていた。相手チームのディフェンスにしてみれば、高木と井原をケアしていればよかったのだから日本のコーナーキックはそれほど恐ろしくはなかったに違いない。やがて、日本代表のコーナーキックは名波とヒデが蹴るようになる。いうまでもなく、カズより精度のいいボールを蹴るプレーヤーたちだ。さらに、相手チームのディフェンスはケアするべきプレーヤーが倍にふえた。秋田、井原、城、中山……。こうして、少なからず日本代表のコーナーキックは相手チームにとって脅威となった。98年3月1日のダイナスティ杯・対韓国戦における2得点がともにコーナーキックからのもだったことを考えれば明らかだ。そして、小野伸二というオプションの登場である。彼が代表入りするかは岡田監督次第だが、小野がコーナーキックを蹴ればヒデはペナルティエリアの外で2次攻撃の準備ができる。ディフェンス陣にはじかれたボールをヒデに戻し、ヒデはそこからサイドにふってよし、自分で切り崩してよし、城あたりとワンツーでペナルティエリア内に突っ込んでもよし。実に厚みのある攻撃布陣ではないか。もし小野の代表入りが実現したら、日本代表は、右サイドのコーナーキックから世界を切り崩していくことになるかも知れない。(1998.3.27)

●フランスW杯で小野がピッチに立ったのはジャマイカ戦での11分。たったの11分だが、小野はジャマイカのDFの股抜きをしてシュートを打ち、右サイドのペナルティエリア付近でゴールに向かってドリブルをしてDFを引きつけ、右サイドに空いたスペースに走ったロペスにラストパスを送った。だが、コーナーキックを蹴るチャンスには恵まれなかった。仕方ない。何しろ、たったの11分なのだ。この日11分とはいえピッチに立った小野とスタッフとしてベンチにいた市川は、とても貴重な経験をした。2002年の大会でこの2人がフランスでの経験を生かしてくれればジャマイカ戦の惨めな敗戦もクスリになる。ただし、彼らが凡庸なプレイをするようならば、フランスでの日本代表のすべては無駄になるが……。(1998.7.9)

●日本でいちばんサッカーのうまいやつは誰か。小野伸二である。テクニシャンの揃うオランダのサッカーにあれだけフィットする日本人選手なんてそう滅多にいない。ただ、2008年の今にあって伸二のプレイスタイルは世界のスタンダードからほど遠くなってしまった。ユーロ2008を思い出してほしい。どのチームの選手もポジションに関係なく走り回っていた。全員で攻め、全員で守る。これが世界の趨勢なのだ。レッズの後輩・長谷部誠は伸二に負けないポテンシャルを持ちながら、ドイツでは運動量の多いボランチのポジションを懸命にこなしている。長谷部にあって伸二にないものはホスピタリティ。チームのために自分を殺して走り回ること。いうまでもないが、今の代表に必要なのは長谷部のような選手なのだ。(2008.09.20)


3 前園真聖の迷走地図

ドーハの悲劇を体験した翌年、ファルカンは前園真聖や岩本輝雄といった才能のある若いプレーヤーを中心に日本代表を組織した。そのファルカンから代表監督を受け継いだ加茂周は、前園を中心に攻撃パターンを組み立てていくチームを作った。柔らかいトラップ、ドリブルの切れ、プレイス・キックの精度、そして自らゴール前に飛び出してゴールを狙う得点感覚、それらにおいて前園真聖は国内のどの選手よりも優れていたのだ。西野朗率いるアトランタオリンピック代表チームもまた、前園のチームといっていいだろう。中田英寿でさえ、ケガをした小倉や安永の代役として急遽呼ばれたのだから。フリーキックもコーナーキックも全て前園が蹴った。アトランタオリンピック予選リーグでの結果は2勝1敗。彼は最高のパフォーマンスをした。アトランタが終わると、前園はフル代表に復帰した。誰もが前園の復帰を望んでいたのだ。代表監督・加茂周は、左サイドの攻撃的MF・名波浩をボランチに下げ、前園にそのポジションを与えた。しかし、現実は加茂の思い通りには運ばなかった。そのフォーメーションがうまく機能しなかったのである。それまで運動量の豊富な本田泰人がカバーしていた広いスペースを名波はカバーしきれず、右サイドのボランチ・山口素弘の負担がふえた。そして、名波や山口からのパスが通らず、右サイドの攻撃的MF・森島寛晃が孤立してしまう場面がふえた。森島はボールを貰おうと少しずつポジションを下げ、結果的に彼の特長である前線へのドリブル突破ができなくなった。決定的なのは、カズと前園のコンビネーションの悪さである。このように、前園を左サイドの攻撃的MFに置いたばかりに、チーム全体のバランスが失われてしまったのだ。加茂周は焦っていたのかも知れない。前園を代表から外して名波を左サイドの攻撃的MFに戻し、成長した中田英寿を右サイドの攻撃的MFに据えた。これにより、日本代表は攻撃のオプションがふえ、予選を勝ち抜いていけるポテンシャルを獲得することができた。一方、代表を離れた前園はスペインリーグでプレイすることを強く望んだが、所属する横浜フリューゲルスが彼の望みを絶った。スペインリーグのセビリア、アトレチコ・マドリッド、CDグロニェス、セリエAのフィオレンティーナ、プレミアリーグのサンダーランドといったヨーロッパのクラブチームが彼の移籍の可能性を打診してきたが、横浜フリューゲルスは本人に伝えもせずこれらのオファーをことごとく断ったのだ。そのために彼はチームを移籍し、プレイそのものの精彩を欠きはじめたのもこの頃からだ。前園を必要としないまま予選を勝ち抜きフランスW杯出場を決めた日本代表は、2月に新メンバーを加えてオーストラリア合宿をした。前園とともにアトランタを戦った川口、城、中田、服部、鈴木(秀)もこの合宿のメンバー名を連ねた。しかし、前園の名前はなかった。それどころか、岡田監督は左サイドの攻撃的MFのオプションとし若い中村俊輔をオーストラリアに連れて行った。Jリーグ98年のシーズンを前に、前園のコンディションはいつになくいいという。しばらく代表を離れていた前園だが、彼本来のドリブルの切れやスルーパスが戻れば、名波や平野を脅かす存在になる得るだろう。もともと城や中田とのコンビも悪くない。しかし、残された時間は僅かしかない。アトランタ、スペイン、イタリアなどを迷走した前園の地図の上に、果たしてフランスという地名を示すことができるのだろうか。(1998.2.25)

●フランスW杯の日本代表に前園の名はなかった。日本代表の監督が岡田武史である限り、前園が代表のユニフォームを着る可能性はとても薄いようだ。しかし、監督が変わればまたチャンスはある。2002年の大会でクロアチアのボバンのように活躍する彼の姿を見てみたい。(1998.6.16)


2 原田雅彦のメンタリティ

リレハンメル五輪のジャンプ競技団体戦で、日本は金メダルをほぼ手中におさめていた。普通に飛べば勝てる、とみんなが思っていた2回目のジャンプで原田雅彦は失速した。しばらくその場にうずくまった後ようやく立ち上がった時、原田は笑っていた。その態度が見ていた人の神経を刺激したらしく、帰国後、「あの場面でなぜへらへら笑うのか?」という批判が自宅や会社に殺到したそうだ。原田はリレハンメルのオリンピックの後、自分のジャンプ・スタイルを失い、世界選手権のメンバーから外れた。そんなリレハンメルでの出来事を思い出させてしまった長野五輪ノーマルヒルの2本目のジャンプ(1本目で1位につけながら2本目の失敗で5位に終わった)で、着地からランに入った時も原田は笑っていた。数日後、ラージヒル(2本目の大ジャンプで銅メダルを獲得した)で136mを飛んだ時もやはり笑っていた。たとえば、欧米でエレベーターに乗り合わせるとみんな笑顔をつくる。ただ笑っているようだけど、それは“私とあなたは宗教もナショナリティもきっと違うけれど、少なくとも今の局面(エレベーターという密室)ではあなたとは友好的な関係をつくる用意がありますよ”という長い意志表示が込められたサインなのだ。このように、欧米で他人との摩擦をうまく避けるツールとして使われる“笑顔”が、日本人の目には“不真面目”に見えてしまう場面もある。そんな中、原田はどんなジャンプをしても微笑みつづけた。しかし、長野五輪のジャンプ団体戦の1回目で79.5mという失敗ジャンプをしてしまった原田の頬からは笑みが消えた。1回目を終わった時点で日本は4位。2本目に入ると、岡部が137mを飛んで日本の順位を1位に戻すと斉藤が124m、原田が137mを飛んで金メダルを確実にした。そして、船木がK点超えのジャンプをして金メダルを決めた。原田は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。原田はもう、いつものように強がって笑ってはいなかった。ともすれば押しつぶされそうになるプレッシャーから自分を守るために頬に浮かべ続けた笑みは、もう必要ないのだ。試合後のインタビューで原田は、1回目の失敗ジャンプについて質問され、「辛かった。またみんなに迷惑かけたのかと思った」と涙ながらに語った。こんなに人間味のあるスポーツ選手がかつていただろうか。リレハンメルの失敗を嘲笑気味にみていた人でも、彼のパフォーマンスには少なからずシンパシーを抱いたはずだ。もよやそんなことをいう人がいるとは思えないが、「あの場面でなぜわんわん泣くのか?」という見当違いな電話がもしかかってきたならこう答えてやるといい。「あの時の白馬で泣かないで、いつ泣けばいいのですか?」と。(1998.2.17)


1 KING KAZUはもう死んだのか 

ピッチに立ってプレイをする選手をスタンドから見ると、TVで見るよりも選手の動きやクセがよくわかる。11人ずつの選手がひとつのゲームの中の“総体”として機能する様子がスタンドからはよく見えるからだ。そんな風にグランドから見ていて明らかに異彩を放っていた選手が2人いる。ラモス瑠偉とドゥンガだ。彼らが出場するゲームは彼らを中心に動く。それは、すなわち彼らがゲームを“デザインする”ということを意味する。そして、同時にそのチームのパフォーマンスをも左右するのだ。KING KAZUは、そんな日本においては稀有のプレヤー・ラモス瑠偉がデザインするゲームの中でこそ、彼の持つポテンシャル以上のパフォーマンスができたプレーヤーの一人だった。ラモス瑠偉は、三浦和良がKING KAZUとして存在たりうる必要条件だったのである。常勝を誇っていた頃のヴェルディ川崎にはそれこそタレントのある選手が揃っていた。ラモス、カズ、そして“狂気の左サイドバック”都並のいる左サイド。ポストプレーもしないクセにゴール前にはりついている武田の代わりに北澤が右サイドのスペースに走り込んだ。多少リスキーな攻撃をしてカウンターを喰らっても、柱谷、ペレイラが強固なディフェンスをしてくれる。彼らは、三浦和良がKINGKAZUとして存在たりうる充分条件でもあったのだ。そんな環境を捨て、カズはセリエAに行った。彼が所属したジェノアは、ポストプレーヤーのスクラビーにボールを集めなければ何も始まらないようなカウンター型のチーム。カズはそのチームで、左サイドにスペースをつくったり、スクラビーに預けたボールをもらって前線に切れ込んむ仕事を要求された。シーズン当初、ディフェンスに倒されるシーンもよく見られた。ディフェンス陣の強い当たりに負けないためにカズは過度のウエイトレーニングをし、そのためにスピードが落ちた、という指摘もあるが真偽は定かでない。セリエAでプレイしたのは94年-95年の1シーズン。得点はサンプドリア戦であげた1点のみ。KINGの座をなげうってまで手に入れたセリアAでのキャリアだが、あまりにも代償が大きかった。 そして、その2年後カズは再びKINGの座を手放さなければいけない局面を迎える。時の日本代表は名波、中田という2人の天才パサーを中心にフランスW杯アジア地区最終予選を戦っていた。カズは、初戦のウズベキスタン戦での4得点以来、ゴールに見放されていた。監督がカズ親派の加茂周から理論派の岡田武史に変わると、カズは新たな課題を要求された。前線での絶え間ないディフェンスである。いうまでもなく、この時点で彼には2つのオプションが用意されていた。ひとるはオレのスタイルじゃない、と代表を去ること、もうひとつはKINGの座を手放し要求された仕事をすることだ。かつて、フリットやビアッリも、監督のストラテジーに合わず代表のユニフォームを脱いでいる。W杯でプレイすることを捨ててまでも、自分のプレイスタイルを貫いたのだ。しかし、カズは後者を選択した。前線での絶え間ないディフェンスは多くのホスピタリティを必要とし、同時に得点する機会をチームメイトに譲る結果を生んだ。国民の誰もが最終予選突破が難しくなったと感じた10月11日のウズベキスタン戦のロスタイム、ディフェンスラインの井原から蹴られたロングボールをロペスが頭で落とした。そのボールに向かって猛ダッシュをかけるカズが視界に入ったキーパーは、イージーと思われたボールの処理をあやまり、ボールはそのままゴールマウスに吸い込まれた。三浦和良が、KINGKAZUを完全に捨て去った象徴的な瞬間だ。このロスタイムでの同点を機に日本代表は流れを変え、これ以降のタイトな試合を3勝1引き分けで乗り切ってアジア第3代表の座をつかんだ。三浦和良がKING KAZUであることを放棄してはじめて手に入れることのできたフランス行きのチケットである。この夏、11番をつけてフランスのピッチに三浦和良が立ったとしても、KING KAZUの復権はもはや望みようもない。しかもそれは、カズが自ら選択した結果だというのが皮肉ではないか。(1998.2.16)

●やはり、フランスW杯直前、三浦和良は北澤、市川とともに日本代表22人から漏れた。彼が日本代表に復帰することはもうないだろう。彼は、ブラジルのベベット、イタリアのバッジオなどが代表に復帰しフランスのピッチの上でプレイしている姿をどんな思いで見ているのだろうか。(1998.6.16)


 

 

 

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