赤い酒
 生前、母が植え込んでくれた「すぐり」の木が、実をつけるようになって五、六年になる。
 その熟れた実を枝ごと焼酎につけこみ、ゆらゆら揺れる赤い実を見るのが好きであった。ルビーのようであったり、珊瑚のようであったり、私はさまざまな思いをめぐらしながら、えもいわれぬ赤色の「すぐり酒」が熟成するのをまつのである。そして、ようやくまろやかな舌ざわりになる頃、折よく白い雪が舞いおりてくる。
 真白な雪景色を眺めながら、グラスに赤い「すぐり酒」を注ぎ、陽にかざして一気にのみほすと、やわらかなぬくもりは酔となり、暗くて長い冬の憂さをも忘れさせてくれた。
 だが、母が亡くなってからというものは、その気も失せて、赤い実は裏山の鳥たちがついばむにまかせてしまった。
 今年は、とうとう酒はつくらずじまいで、色のない冬を送ることになる。
「誰に似たのかねぇ。女だてらに酒などのんで…」
 夫の手ほどきを受けて、果実酒はもとより、日本酒から洋酒まで、少しはいけるようになった私に、母は嫌味とも羨望ともとれる嘆きをもらしていたものだ。もともと母は、五能線沿いの浜育ちで、祖父はニシン漁のヤン衆であったそうだから、小さい頃から酒とは縁が深かったらしい。
 家を守る叔父も、私の幼い頃の記憶では、いつも赤い顔をしていた。今頃になると、赤く燃える大きな囲炉端に、串にさした鰰をならべ、「だまっこもち」を肴に、終日、酒宴をはっていたのもである。
 その家の母が後年一滴の酒ものまず、晩年になってからも、夫が勧めるちょこ一杯の酒でさえ、「わたしが性格(たち)でないから」と拒みつづけた。
 しかし、酒好きの父に嫁し、禁じられていたドブロクを造ってはその出来具合を、一喜一憂して愉しんでいた母だから、あるいは私よりもいける「性格(たち)」だったかもしれない。その愉しみも、突然の父の死によってとざされ、それ以来、母は酒を口にしなくなった。
 四十の半ばで未亡人になった母は、八十の坂を、この世の憂いを背負いきれぬほど背負ってそのまま逝ってしまった。もしも、酒を愉しみ、憂さを消すすべを知っていたのなら、母の晩年も、少しは別の色をあやなしていたろうにと、哀れに思われる。
 丁寧に冬囲いされた「すぐり」の実は来年もまた沢山の赤い実をつけるだろう。その実を甘くつけこみ、写真の母と、ひとときの愉しみをもちたいものと思うのである。


雨の日のマック
 マックが、わが家へ来たのは、花にはまだ早い3月の終わりであった。底冷えのする曇り日の朝、生後3ヶ月の雄のスコッチテリアは、私の腕の中で、ブルブル震えながら親元を離れた。真っ黒な艶のある毛は充分のびきらず、テリア独特の風貌は少しばかり幼かったが、長い口ひげ、威嚇するような太い鳴き声は、イギリス産の番犬にふさわしい風格と威厳があつた。
 名前は、「マック」とつけられた。
「ロッキー、スコッチ、ジェ−ムス、マック」と、二転三転しながらようやく決まった名前だが、彼もひどく気にいったらしい。二日もすると、私の呼ぶ「マック」という声に、小首をかしげながら振り向くようになった。
 憂いを含んだ黒い瞳、ヒクヒク動く濡れた鼻先がなんともあいらしく、私はそのたびごとに強く抱きしめた。獣特有の小便くささも、埃っぽい臭いも苦にはならない。マックは、夜ごと私の寝床にもぐり込み、拗ねたり甘えたりして、忘れかけていた私の母性本能をやたらと擽りつづけるのである。
 花も散り、梅雨のはしりを思わせる霧雨が木々を濡らすと、むせるような若葉のにおいが我が家にたちこめる。その間に、五キロたらずだったマックも、七キロを超す子犬に成長した。
 
  ボクは、雨の日が嫌いだ。大好きな散歩はできないし、せっかく仲良しになったシェルテ−のペロとも会わずじまいだ。それに、自慢の長い毛はベトベトになるし、主「あるじ」も、手入れが大変と一歩も外へは出してくれない。
クロ−バ−の甘い蜜の香りが、ボクの鼻をいやに刺激するけれど、今日はがまん、我慢。雨だれの音でも聞いて、主とのんびり昼寝でもするとしようか。


K氏 との 別れ
 あれは、7月の暑い日だった。
昼近く、犬のマックがけたたましく吠えたてた。「マック」「マック」という声がする。なにごとかと急いで外へ出てみると、そこに思いがけなくK氏のお姿があった。
「よし、よし、おまえがマックか、よし、よし」
 まるで、子供をあやすように身をかがめ、頭をなで、頬をすりよせて、マックをなだめている。
「うわあ、いらっしゃい。どうなさったのですか」
私は、思わず大きな声を出した。
「うん、学園からの帰りなんだ。近いので寄ってみた」
白いズックを履き、トレパン姿のK氏は、とても70才を越えたとは思えぬほど、お元気ではつらつとしていた。
 マックは、K氏の足下でじゃれつき、背中に飛びついた。町はずれの、日頃あまり訪れる客のいない我が家に、K氏の訪問はめずらしく、マックも私も、はしゃいだ。
K氏とは、文章講座とのご縁で何度かお会いしていた。ながねん、障害教育にたずさわっておられた氏の文章は、やさしさと誠実さにあふれ、そのお人柄をあらわしていた。マックとは初対面であったが、私が「雨の日のマック」を書いてから、「マックは元気ですか」と便りをくださるようになった。講座を欠席ばかりしている私に、そのつど会の模様を知らせてくださったが、無精な私はいつも礼を欠いていた。
 その日、「家内が待っているから」というK氏を、無理におひきとめして粗茶をさしあげたが、その間、K氏は余り多くを語らなかった。一とき、歩まれた道を話されたが、そのあとは縁先から見える一本杉を黙って眺めていた。
「あの杉はここの部落の守り神なんだそうです」
「ああ、そうか」
マックは、K氏の膝元で横たわり、沈黙が再び二人をつつんだ。
「なにか音楽でもかけましょうか」
「うん、シャンソンがいいな」
「そんな洒落たものはありませんよ。では、ム−ド歌謡にいたしましょう」
 私は、少しおどけて、ロス・インデオスの古いテ−プを回した。
「ああ、これはよい」
K氏は、たのしそうに笑った。
 二度目に訪れられたのは、九月に入ってからである。そろそろ、あたりの木々は色づきはじめ、風も秋のそれになっていた。マックは耳をたれ、シッポを振って出迎えた。私は、ありあわせの舞茸を急いで煮て、安物だが町春草の書がかかれた好みの器に盛って勧めると、ひどく喜んでくれた。
「秋だね」
K氏は、つぶやいた。
「こんど、紅葉がりにいきましょう」
「それはよい。みんなと一緒に行こう」
台風の余波か、時おり小雨がパラつき、木の葉が揺れた。
「あれは、マックの木ですよ」
私は、背丈がニメ−トルにも満たない桜の木を指さして言った。一昨年、マックが我が家へ来た記念に植えたものである。日当たりのよい場所をえらんだせいか、枝は四方に広がり、私たち家族を喜ばせていた。
「あの木が花をつけたら、ここで花見の会をやりましょう」
「ああ、それもよい」
K氏は、この日も、たのしそうに笑った。
 ほどなく、K氏から一通の手紙が届いた。「明日は、学園の十周年記念に行ってきます。あの子らにも会えるでしょう」としたためられ、お詠みになられた短歌二首が添えられてあった。

マックという親しき犬の寄りてきてテ−ブルの下にもぐりて靜か
春草の文字美しき焼きものに舞茸の香たのしみにけり

 その次の日、入院されたことになる。
二月末日、新聞紙上でK氏の訃報に接した。寒い日の朝である。
その二日前、あの私と約束した「紅葉」も「花」も見ることなく、K氏は急いで旅に出てしまわれた。


結婚記念日
 燃えるように真っ赤にそまっていたどうだんも、夜来の雨で、すっかりその葉を落としてしまった。
晩秋の日暮れははやく、三時をまわると、陽は大きく西に傾く。長い陰を落とした庭先の僅かな日だまりの中に、生きながらえた赤トンボが小刻みに羽を震わせうづくまる姿は、やはり冬の近いことを思わせる。
この季節、三十五回目の結婚記念日を迎えることになるのだが、どうも日時がはっきりしない。十一月二十八日だったと私が言えば、いいや二十九日だったと夫は言う。良い天気に恵まれたと夫は言うが、私の記憶では、細い雨の降る寒い日だったようにおもはれる。 まあ、長い付き合いのすえ、共に三十をを越した晩婚であまり感激もなかったせいかもしれない。が、その朝、すでに亡くなった叔父の「雨は縁起がよい」と、空を仰いでいた姿を覚えているのだから、やはり二十八日の雨の日だったように思う。
 お互い金などあろうはずがなかったが、それでも夫の親戚筋にあたる古い料理屋で、五十人ほどの客が集まって祝福してくれた。年がいもなく赤い衣装を着て、なんとも気恥ずかしく、早く式場を抜け出したいと、そればかりを考えていた。
新婚旅行は、下田に行くことにした。駅で同僚から花束を贈られ、車中の人となったが、夜の急行は、さながら新婚列車であった。前も後ろもその横も、そしてまたその前も、若いカップルが頬を寄せ肩を抱き合う。その間を縫って、私たち二人は、まるで異端者のようにそうっと席に座ったものである。
この旅行のために、私はその頃はやりのアンゴラ毛の洋服を新調していた。黄色の柔らかな肌ざわりは、私を充分満足させてくれたが、夫にとっては災難であったらしい。触れもしないのにアンゴラ毛はフワフワ飛んで、これも新調したばかりの夫の背広につく。下田に着く頃には、夫の青い背広も黄色のアンゴラ毛でベッタリであった。
災難は、まだあった。式場にカメラを忘れてきたのに、気がついたのである。カメラなしの新婚旅行はさまにならないと、思案の末に、有り金の大半をはたいて伊東で買うことにした。しかし、折角のそのカメラも、期待していた熱帯植物園は雨のために素通りし、次の日泊まった修善寺温泉も土砂降りのため、いづれも必要とはしなかった。
ようやく旅行気分にひたったのは、天城峠をバスで越えた頃である。深い渓谷を見ながら、鬱蒼とした原生林をとうり抜けると、峠のあたりに宿屋が見えた。軒先には古い木の看板が吊るされていたが、はっきりとはしなかった。「木賃宿」とでも書かれてあったのだろうか。あの伊豆の踊り子が旅の疲れを癒し、紺がすりの学生が踊り子のあとを追う。雨上がりの天城路は、濡れた樹ぎと湿った大気に包まれて、太鼓の音をも吸い込んでいるかのようであった。
この古い宿と鄙びた情景は、つかの間、私を文学の世界に引き入れ、傍らの夫をも忘れさせるほど、せつなく旅情をそそったものである。
帰路、夫は私を上野の松阪屋へ連れて行った。
おびただしい数の華美な装身具は、どれもこれもが、これからの生活には似つかわしくなかったが、その中から、ヒスイ色をしたまがいものの大きな石に金の縁取りのあるブロ−チを選んでくれた。
以来、そのブロ−チは春といわず、秋といわず、私の胸元を燦然と飾るのである。

もしかして、私の記憶は、夫のそれとは大分異なるかもしれない。それほどに私たちの結婚生活も長く古くなったともいえるが、息子が離れ、共に白髪の二人にとっては、いとおしくも甘酸っぱい懐かしの日々ではある。  乾杯!

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