日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 


             第1部  最初の日本人の系譜


11.大陸文化の縦断路−日本海文化圏−

  
  
縄文人の ファッションを彩った玦(ケツ)状耳飾
 
  長江中・下流域に、「黄河文明」に先行する「長江文明」があったことが、近年認知されてきた。その長江文明で、最も繁栄した良渚遺跡(5,500〜4,000年前)から実に4,000に上る多数の、且つ精緻で優美な玉器が出土した。次の写真はそのうちの優品である。
 
 これらの高度な玉製品の数々から、現代に続く中国人の玉信仰は、長江流域で誕生したと、これまで固く信じられてきた。

 一方、この列島に「玉」が現れるのは、大阪府藤井寺市の国府(こう)遺跡からである。ここからは100体に及ぶ人骨が発掘されているが、縄文前期の人骨の一部にケツ状耳飾りをつけ
て埋葬されていたものがあった。(右図)
 このケツ状耳飾りと同様のものは、古くから長江下流域で見られたものであったが、それが列島では突然、縄文早期末から前期に、北海道から九州にかけて一斉に出現したので
   
ある。
 玉は長江からという常識に沿えば、照葉樹林文化の一環として西日本地区に伝播した、というのならよく理解できるのだが、 このケツ状耳飾りに関する限りは、西日本地区というような偏りはなく、列島全体に一気に拡散した。
 この不自然さは、中国サイドの発掘発見で解決されつつある。すなわち、ここ十数年来俄かに、中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧省にかけて、8,000〜7,000年前の新石器時代に高度な玉文化が存在していたことが、明らかとなってきたのである。 
 その遼寧省西部の興隆窪(こうりゅうわ)文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ、査海遺跡(7,000年前)の墓地から、全く予想外のことだが、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。それだけではなく、玉匕(ぎょくひ)や玉斧などの玉製品が発見された。
 長江流域における最古の玉は、6,500年前
 
まで遡るのがせいぜいであり、7,000年前の査海遺跡の玉は、正しく中国最古の玉であることが明確となった。玉の起源は、中国南部ではなく、東北部であったのである。

 しかも、この査海遺跡の玉ケツ(ケツ状耳
飾り)や玉匕とよく似ている遺物が、福井県金津町の縄文早期末〜前期(6,000年前)の桑野遺跡から出土していた。
 桑野遺跡だけではない。類似したケツ状耳飾は、前節の鳥浜貝塚をはじめ、新潟県清水上遺跡、京都府浦入遺跡など日本海側の遺跡 
 
   
を中心に、日本全国に分布しているのである。 
 即ちこの玉ケツ(ケツ状耳飾)は、実は長江流域から照葉樹林文化の一つとして伝播したものではなく、中国東北部(旧満州)から日本海を縦断して伝播し、桑野遺跡を含む北陸地方を生産拠点として、全国的に拡がったと今では考えられている。
 また、こう考えることが、ケツ状耳飾りが地域の植生や、それが醸す文化とは関係なく、全国的広がりを見せたことを、無理なく説明できると思うのである。
  
 安田喜憲は、以上述べてきた文化の伝播や交流について、「龍の文明 太陽の文明」(PHP新書)のなかで、次のような図を提示して“中国東北部→長江流域”“中国東北部→日本列島”という文化の流れを想定している。
(なお、紅山文化は興隆窪に続く6,000年前の牛河梁遺跡を中心とする文化。)
  

 列島の縄文人と大陸の中国東北部の人々が日本海を挟んで、黒曜石などを通じて旧石器時代から続けてきた日本海圏の交流を、縄文時代に入っても途切れることなく続けていたことが、これで証明されたと言い切っていいだろう。
 そして、これは少々余談になるが、いろいろ描かれている縄文時代の生活の想像図やイラス
    トが、貧しく質素であるのに反し、実は、縄文早期末という極めて古い時代から、縄文人がファッションに拘る人々であり、流行にも敏感であったことがこれで明らかとなった。
 そして、縄文人の美への情念ともいえるものが、あの火焔土器などの類稀な装飾性の高い土器を生み出したのだと思う。
 縄文女性達(もちろん、何らかの意味で選ばれた)は、ハレの日には、きっと左の写真のように着飾って、近隣の部落から集まった若者たちを魅了したことだろう。

  日本海を渡った北からの文化…ナラ林文化論

 前節で照葉樹林文化が日本人の心の故郷であるとしてきたが、この文化は、又、西日本地域に伝播した文化でもあった。
 縄文文化が“東日本を中心とする文化”であることを熟知する佐々木高明は、照葉樹林文化論の提唱者の一人として、逆に「ナラ林文化」という視点を提起した。
 ナラ林文化圏は、右図のように青線で囲まれた、東日本のミズナラやそれによく似た東北アジアのモンゴリナラの分布圏を指すと、
   
佐々木は定義している。右上図は原図を90°右回転させているが、こうしてみると、ナラ林文化圏が環日本海文化、すなわち直ぐ目の前の“海の向うの文化”であり、一方、照葉樹林文化圏は環東シナ海の文化であることが明瞭となる。
 現在、我々には、狩猟とサケマスの漁撈文化をベースとする、ナラ林文化の名残を見出すことはほとんど出来ない。むしろ、ナマハゲなどの特異な照葉樹林文化の一つが、東日本地域の奥深くまで浸透していることに驚く。
 おそらくこれは、後に詳しく調べる大和朝廷の、まつろわぬ土着民などに対する懐柔や殲滅政策の結果なのであろう。  
 しかし、ナラ林文化の痕跡は、何食わぬ顔で作物の品種や遺伝子の中に残っていた。
 日本の在来種のカブには、洋種系と和種系の二種類があり、洋種系は主として東日本に分布し、和種系は西日本に分布している。
 そして洋種系のカブの系統は、朝鮮半島北部、中国東北部からシベリアに連なるという。明らかに東日本から、日本海を挟んだ対岸、すなわち、 
   
ナラ林帯から渡来した作物であるということが出来る。
 また、栽培種のオオムギは、野生植物当時の脱粒性を防止する遺伝子の組合せから、W型とE型に分けられるという。
 そして、E型がインド東部、チベットから中国南部をへて西日本に分布し、W型は西アジア・ヨーロッパからシベリア・中国東北部・朝鮮半島北部をへて東日本に分布している。
 このようにこの列島の在来作物の中に、シベリア、中国東北部から、サハリン・北海道を経由し、あるいは日本海を縦断して直接に、乃至は朝鮮半島を経て入ってきたものがある。それはカブやオオムギだけでなく、ほかにもゴボウ、ネギ、カラシナなどや、アワやキビ、それに一部ソバも加えて、北方系作物群と呼ばれている。
 これらの作物群は、黄河流域の農耕地帯から中国東北部に入ってきたというより、もっと北の南シベリアから東北アジアのナラ林帯に伝わり、その地域にいわゆるナラ林型雑穀畑作文化を形成し、それが日本列島にまで達したと考えられる。

 このナラ林文化圏が、民族や一定規模以上の集団の移動・交流を伴っていたか、明らかではない。これは現在のところ、佐々木高明が掲げた仮説に止まっている。しかしそれは上記、興隆窪文化や、沿海州の遺跡の解明が進むことによって次第に明らかになると思われる。

   不思議な朝鮮半島の黎明期


 ケツ状耳飾りや北方系作物群の伝播は、中国東北部や沿海州との交流を通じてのことであった。日本海文化圏の一角である、より近しい朝鮮半島との交流はどうであったのだろうか。
 これまで筆者は、最初の日本人が〔華北(黄河)文化センター→朝鮮半島→日本列島〕という経路で渡来し、その後もこのルートが断続的な文化流入ルートであったことを調べ、且つ確認してきた。
 そして当然、半島の南端で、対馬海峡に乗り出すグループと渡海を断念するグループに分かれただろうと想定していた。
 断念したグループは、半島南部の照葉樹林帯か、少し戻って中部以北のナラ林帯で、旧石器時代以来、日本列島におけると同様に、各々の文化を発展させてきたはずだと筆者は迂闊にも信じていた。
 しかし、韓国の前国立中央博物館長、韓炳三(ハンビョンサム)が示す、右の図は衝撃的である。朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は、50ヵ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000〜5,000ヵ所に上るというのに、である。
 これはどうしたことであろうか。半島の厳しい気候が
   
一度、半島の南端まで達した人々を、また大陸まで引返させてしまったのであろうか。
 大陸の気候も決して厳しくないわけではないはずだが、次の表は更に衝撃的である。
     
 なんとB.C10,000〜5,000年の間(上表で赤で塗りつぶされた部分)、遺跡が、すなわちヒトの気配が、半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは、7,000年前、世界がヒプシサーマル期を迎えようとする時期からである。

 全く不思議なことに、日本列島の最初の土器が隆起線文土器であったのと同様、5,000年以
上の年代格差があるにもかかわらず、朝鮮半島の新石器時代も、右写真のように同じく隆起線文土器で始まる。
 このような年代格差をもって、同じような文化が起こる現象は、河姆渡遺跡の環濠が
   
この日本列島では4,000年遅れで北九州の稲作集落(例えば平塚川添遺跡など)に出現するということに似ている。
 それにしても、国境のない時代とはいえ、7,000年前、ようやく朝鮮半島に現れた新石器文化の土器が、直ちに海峡を越えて対馬(上の写真の右の説明書き)に渡って来ていた事は、列島と半島の交流がいかに密であったかということを示す。

  西北九州と朝鮮半島の漁撈文化

 その後、時を経ずして、九州を大地変が襲った。6,300年前(7,300年前 較正年代?)

九州・大隈半島の南、鬼界カルデラが大噴火したのである。アカホヤ火山灰と呼ばれる膨大な
火山灰が遠く東北地方まで降った。
 当然、南九州の生態系は破壊され、ヒトの住めるところではなくなったであろう。中九州でも事情はそれほど大きく異なることはなかったであろう。
 そういう時、西北九州では生き残りをかけて、新たな漁撈文化が生まれた。
 
   
おそらく、アカホヤ火山灰の打撃の少なかった西北九州には、九州南部・中部からの避難民が押し寄せたに違いない。それは、堅果類、芋類の植物食をベースにし、タンパク質の供給を魚に求める、補完的な小規模漁業という旧来からの生業パターンの変更を迫ることになったと思われる。
 堅果類や芋類の自然の供給量は西北九州でも減少し、それを補うために漁業資源の比重を大幅に引き上げる必要性に迫られたに違いない。
     新たな漁撈文化は、そうした情況変化に対応して、必然的にこれまでの沿岸漁業から大型魚(マグロ、サワラ、シイラ、サメ)を対象にした、外洋性の大規模漁業が必要とされた。
 大型魚を釣るには当然大型の針が必要となる。そのとき導入されたのが、沿海
州辺りから朝鮮半島の東海岸まで南下していた、結合式釣り針(5〜10cmの大きさ)の技術
であった。
 この漁撈技術の交流は、生活物資である土器の意匠の共通性をも生み出した。
 右の土器は、アカホヤ降下直後に西北九州と朝鮮半島に現れたいずれも沈線の幾何学文様をもつ土器である。
   
考古学の江坂輝弥によれば、模様の共通性だけでなく、滑石や石綿を混ぜた土器生地にも共通性が認められ、櫛目文系土器が西北九州地方に波及して曽畑式土器が成立したと見做して差し支えないとしている。
 また、祭りの道具と考えられる“貝面”、文字通り貝殻製の面が、韓国東三洞貝塚と縄文中期の熊本県有明海沿岸で出土している。材料は違うものの、作り方には共通性が認められる。

この対馬海峡を挟む地域は、半島の東三洞貝塚に見るように、旧石器時代以来、黒曜石の供給で繋がっており、また、弥生時代以降の交流は説明を要しないであろう。
 すなわち、この地域は、国境のない時代、ほとんど継続的に交流のあった、日本海文化圏の主要な地域であり、遺伝子の混交、言語や文化・習俗の共通性などを視野に入れねばならぬ地域であったと言えるだろう。

注)較正年代・・・正式には暦年代較正と呼ばれる。筆者は暦年代という表現に違和感があり、単純
 に較正年代と言っている。従来の放射性炭素年代測定いわゆるC14年代が、いろいろな誤差を含んで
 いるので、年輪年代法などを使って補正しようという方向にある。ただ、統一して使わないと混乱
 を生じるだけなので、筆者は本稿では、縄文時代までは従来のC14年代で、弥生時代以降を較正年代
 で統一している。
 

 以上、人類学者や考古学者から、縄文時代を鎖国状態と規定された縄文人の真の姿を捉えようと、照葉樹林文化圏と日本海文化圏を調べてきた。本節に収めきれない部分は追って研究ノートに掲載したい。
 縄文人が実は行動的で、美に対する情念が激しく、先祖からの繋がりを大切にする、新しい文化にも閉鎖的ではない、そうした人々であったことは証明できたのではなかろうか。
 したがって、縄文時代が、日本人の形成という面からも、決して無視できる時代ではなかったと言っていいだろう。

     

         
         
         

 
 

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