アルキメデス(BC287〜BC212)

アルキメデスに関する資料`Greek Mathematical Works`Loeb Classicl Library、「ギリシアの科学」(中央公論社)よりなお、「プルタルコス英雄伝」(岩波文庫)、ウィトルーウィウス「建築書」(東海大学出版会)、「アルキメデス」(朝日出版)、「アルキメデス方法」(東海大学出版会)、「よみがえる天才アルキメデス」(岩波書店)、「アルキメデスを読む」(森北出版)も参照した。なお、アルキメデスについて語られている逸話の原典。後代の資料のためその信憑性については疑問

@アルキメデスの生涯について

資料 ツェツェ「歴史の書」・・・ツェツェ(1110〜1180)は、ビザンチンの文献学者、詩人。後にこの書物は「1000巻の書」と呼ばれ、神話、文学、歴史の広い分野にわたり、今日失われた多くの書物からの引用を含む。
 あの有名な機械の製作者である賢者アルキメデスは、シュラクサイに生まれ、老齢の幾何学者として、75年の生涯を保った。彼は多くの機械的な力を駆使し、ただ三段になった機械装置と左手だけでもって、5万メディムニ(穀量の単位)の重さの船を海に引き下ろした。そこで、マルケルスは味方の艦船をやや離れたところに引きあげさせたので、今度は老幾何学者はシュラクサイがたの全員に命じて車荷ほどの大きな岩石を吊りあげさせ、それをつぎからつぎへと投げつけて、艦船を沈めてしまった。そこで、マルケルスは味方の艦船を弓の射程ほど離れたところに引きあげさせたので、老幾何学者は一種の六角鏡えお組み立て、この鏡に適合した距離のところに同様な小さい四面鏡えお置き、薄板と一種の蝶番とでもって調節して、それに太陽の光線、それが夏のことであったか、冬の最中であったか、いずれにしても真昼の光線が集中するようにした。やがてしばらくののち、それに光線が反射するや、火のように恐るべき炎熱が艦船内に起こり、弓の射程ほどの距離を隔てた遠方からそれらも艦船を灰燼に帰してしまったのである。このようにして老幾何学者は、自分の工夫した武器でマルケルスがたを打ち負かしてしまった。そこで彼は、ドーリス方言のシュラクサイ訛でこう言った「わしの立つ場所さえありゃ、ハリスティオン(機械の名)を使って大地をそっくり動かしてみせようのに」と。ディオドロスによれば、シュラクサイがたが策略にかかり、全市民が残らずマルケルスめがけて出払ってしまったときというし、また(遺失した)ディオンの本によれば、シュラクサイの市民たちが、アルテミス神によるの祭礼を捧げているあいだのことだというが、いずれにしてもローマ軍によって壊滅させられ、アルキメデスはローマ兵の手にかかって殺害されてしまったのである。そのとき彼は、前にかがみこんで何か機械に関する図形を描いていたが、ローマ兵がこれを認めて捕虜にしようとして彼を引っぱった。ところが、彼のほうは図形にすっかり熱中していたので、引っ張っているのがだれかもわからずに、その男にこう言ったということである。「おい、あんた、わしの図形からどいてくれ」と。その男ほうはなおも引っ張ったので、彼はぐるりっと振りかえるや、その男がローマ兵であることを認め、「わしのもっているこれらの機械は、ある人がわしにくれたものだ」と叫んだ。しかいローマ兵は気を荒だてて、たちどころに彼アルキメデスをーーー老いぼれ弱っていたけれども、その発揮するはたらきにかけてはダイモンのようにすばらしいい人間をーーー斬り殺してしまったのである。

資料 プルタルコス(46頃〜120頃)「対比列伝」のマルケルス伝
アルキメデス自身は自分の家で図形を見ながら考えていた。心も顔もその研究に向けていたのでローマ軍が進入したことも町が陥落したことも気づかずにいたところが、突然一人の兵隊がそこに来てマルケルスのところへ随いて来いと命令したのに、その問題を解いて証明を得ないうちは行こうとしなかったので、兵隊は腹を立てて剣を抜いて刺し殺してしまった。

Aアルキメデスの有名な墓の話

アルキメデスの墓・・・アルキメデスは、その著書「球と円柱について」の第一巻の命題『球は、それに外接する円柱の三分の二倍の体積をもち、表面積も円柱の円柱の三分の二倍である』(「アルキメデス」朝日出版p441〜)が余程気に入っていたらしく、アルキメデス墓に円柱と内接する球の図が書かれていたとキケロは次のように証言している。

資料、キケロ「トゥスクム荘対談集」5巻64〜66(キケロ選集12「岩波書店」)
私は、財務官の折り(BC75年)シラクサの人々に知られていない彼の墓(シラクサの人はその存在すら全否定していた)が、四方を茨の茂みと藪に囲まれ、覆われたままになっているところを見つけ出したのだ。というのも、彼の墓石に刻まれていると聞いていた詩句を知っていたからである。その詩句は、墓の一番上に球と円柱が置かれていると言明していたのだ。・・・・藪からさほど離れていないところに柱があるのに気がついた。そこには、球と円柱の形をしたのもがあった。・・・わたしはシラクサの人々に、これこそわたしが探し求めているものだと言った。・・・われわれは目の前の土台の近づいた。下半分はすり減っていたが、墓碑銘の詩の半分ほどが見えてきた。したがって、かつては学問の中心でもあったギリシアのきわめて有名な都市が、もしもアルピーヌス出身の人間(キケロのこと)から知らされなかったら、自分たちの最も才能のある市民の墓標を知らないままだったわけである。

Bアルキメデスの逸話(実用的な機械の話題が多い、アルキメデスの現存する書物にはない話)

資料 プルタルコス(46頃〜120頃)「対比列伝」のマルケルス伝
ローマ軍が両方から攻め寄せて来たので、シュラクサイの人々はこれ程強大な兵力に対抗することはできないと考えて困惑に陥り、おそれのあまりひっそりとしていた。するとアルキメデスは様々な機械を引き出して、敵の歩兵にはあらゆる種類の投石機と途方もなく大きな石の塊えお以て対し、その石が信じられない速さと勢で落ちて来るとその重みには誰一人全く防ぐことができず、その下に来た者は束になって倒れて陣形を混乱させたし、それと同時に軍艦に対しては城壁の上から突然角のような機械が持ち上げられて、上から掛かって来る重みのために海底に沈没する船もあれば、鉄で出来た腕や鶴の嘴に似た物で船首を真っ先に釣り上げられ船尾が水に浸る船もあれば、城内から張った網の力でぐるぐると引き回された上、城壁の下から突き出ている崖や岩にぶつけられ、打ち砕かれるとともに乗務員の多くが死滅した。そうかと思うと船が海から空中持ち上げられ吊されあちこちと回転させられてぞっとする光景を演じ、仕舞いに人間があたりに投げ出されて空虚になってから城壁にぶっかったり掴まえたところから緩められて滑り落ちたりした。・・・結局ローマの兵たちはすっかり怖気が附いて城壁の上に少しでも網や木の道具が現れるのを見ると、あれだ、アルキメデスが自分たちに何か機械を動かしているのだと叫びながら向きを変えて逃げ出す始末に、マルケルスも戦闘や攻撃をすっかり止めてそのまま長期に亙る包囲を続けた。

資料 プルタルコス(46頃〜120頃)「対比列伝」のマルケルス伝
アルキメデスはきわめて高い賢慮と非常に深い精神とあのように広い理論的知識をもっていたので、人間というよりはむしろ、どこかダイモンを思わせる包括的な判断力をもっているという名声評判を発明のよって得たけれども、その発明に関する書物をあえて一冊も残そうとは思わず、機械学についての仕事や一般実利に結びついたあらゆる技術を卑しく俗なこととみなし、生活の必要ということから純化された、美しく洗練された事物だけをやりがいのある対象と考えたのであった。それらの事物はほかの何ものとも比較すべもなく、証明によって質量に対する闘いを挑ませ、その質量は大きさと美を生むが、証明は厳密さとすぐれた力をもたらす、と彼は考えていたのである。というのは、幾何学においていっそう困難でいっそう重大な論題を彼よりもいっそう単純にいっそう明白な基本でもって表現した者は、彼以外にいなかったからである。これをある人々はこの人の恵まれた自然的天賦にせいと考え、ほかの人々は何か途方もない労苦の結果一つ一つのことがなんの労苦もなくやすやすとなされたかのようにみせかけているのだと考えている。というのは、証明を求めながら自分自身ではそれを見出すことができなかったのに、それを彼に学ぶやいなや自分自身で見出したかのように思ってしまうものだからである。そのように滑らかでかつすみやかな道を通って、明らかな結論に、かれは導いてくれるのである。彼について語られているつぎのような話を信じないわけにはいかない。すなわち、身辺につきまとっているあるセイレーン(ホメロスに出てくる美声の海の神)によってたえず誘惑されて、彼は食事を忘れ、身体についての配慮を怠ったということや、身体に塗油したり入浴したりするためしばし力ずくで引ぱっていかれると、彼はかまどの上に図形を描いたり、油を塗られた自分の身体に指でもって線を引いたりして、大きな楽しみにふけり、真実、ムーサイ(九学芸女神)にとりつかれているのであった。彼は多くの立派なことわ発見したが、友人たちや親類たちに頼んで、自分の死後には墓に1つの球を中に包んだ円柱を置き、外接する立体の外接される立体に対する比率を書き添えてくれるように、といったことである

資料 ディオドロス(BC1世紀の歴史家)「歴史」第1巻
それ(ナイルのデルタ)は河川が運んできてのちに沈殿した土壌からなっているので、あらゆる種類の収穫物を豊かに生み出す。というのは、川が年々定期的に氾濫するため、たえず新たな泥土を上流から運んできてくれるし、人々はある種の機械ーーーそれはシュラクサイのアルキメデスにとって考案され、その形が似ているところから螺旋ないしスクリューと呼ばれているーーーを使って、耕地全体を容易に灌漑することができるからである。

資料 ディオドロス(BC1世紀の歴史家)「歴史」第5巻
なかんずく最も注目すべきことは、彼らが河川の流れを、エジプト人のいわゆるスクリュー(これはシュラクサイのアルキメデスがエジプトに渡来したときに発明したものであるが)でもって掻い出してしまうことである。

資料 パッポス(3世紀後半〜4世紀前半)「数学集成」第8巻
同じ種類の理論に属するものとしては、与えられた力でもって与えられた重量物を動かせ、という問題がある。これはすなわちアルキメデスの機械学に関する発見の一つであるが、彼はこれを発見した、こうさけんだということである。「私に立つ場所を与えてくれるなら、大地を動かしてみせよう。

資料 ウィトルーウィウス「建築書」 
アルキメデスはまことにさまざまの驚くべきことをたくさん発見したが、私がいま説明しようとしていることは、それらすべての中でもとりわけ限りない巧みさを示すもののように思われる。ヒエロンはシュラクサイで王権を大いに伸ばし、万事がうまく運んだので、黄金の冠を不滅の神々への捧げ物として、ある神殿に奉納することを思い定めたとき、王は労銀払い(材料もち)で制作することを契約し、請負者に金の重量正確に測って渡した。指定されたときに彼は非常に細かい手作りされた作品を王の認証を得るためにもってきたが、冠の重量は前もって定められたように正確になっていると思われた。あとになってから、その冠の制作中に金がぬき去られて、等量の銀が混入されているという知らせが入ってきた。ヒエロンは自分がばかにされたことに対して怒ったが、この泥棒を捕らえる口実がみつからないので、アルキメデスに、自分のためにこのことに考慮をめぐらしてくれるように依頼した。アルキメデスはこの問題に思いをめぐしているとき、たまたま浴場に行き、そこで浴槽に浸かったときに、その中に浸かった彼の身体の容量だけ水が浴槽からあふれでるということに気づいた。このことが、この問題を解明する理を示しているので、彼は躊躇するどころか喜びのあまり浴槽からとびだして、家に向かって裸のまま駆け出し、自分の求めていたことが発見されたことを大声で告げた。すなわち、彼は走りながら、くりかえし、くりかえしギリシア語で「ευρηκα、、エウレイカ、エウレイカ」(発見した)と叫んだのであった。それから、その発見に従って、彼は冠の重量に等しい同じ重量の塊を二つ、一つは金で、もう一つは銀でつくったといわれる。これができあがると、彼は大きな容器に上縁まで水をいっぱいに満たし、その中に銀の塊を沈めた。容器の中に沈められた銀の塊と同じ容量だけ、水があふれでた。そこで塊をとりだして、減ってしまっただけの量を、セクスタルウス(1パイントの六分の一、1パイントは英国では570ml)枡で測定しながら、前と同じように上縁に達するまで、再び注入した。こうして、このことから彼は、銀のどれだけの重量が水のある測度に対応するかを発見したのである。このテストがなされるや、同様に金の塊を同じく水を満たした容器に沈め、それを取り出して、同じやり方で測定しながら水を加えてみると、水の不足分が前と同じではなく、より少ないことを発見した。そのより少ない容量は、金の塊が同じ重量の銀の塊よりも小さいだけそれだけ少ない。ということがわかった。そのあとで、容器をまた同様に水で満たしてから、今度は冠そのものを水に沈めると、冠の場合には同じ重量の金の塊の場合よりもいっそう多くの水があふれでることを見出し、このようにして冠の場合には塊の場合よりも水が多く不足するという事実から、彼は銀が金に混入されていることを結論し、請負人が泥棒であることは明らかであると確認したのである

C数奇な運命をたどった写本なんと200万ドル(2億円)で競売で落札された。1906年に再発見

アルキメデスの写本の一は、長い間エルサレムの南東の砂漠に中のマルサバ修道院にあった。この写本は10世紀に書かれたテクストが12世紀に消されて、祈祷書が上書きされたものであった。この祈祷書の下に数学の著作が書かれていることに最初に気づいたのは聖書研究者のティッシェンドルフ(1815〜1874)であり1846年のことだった。写本はイスタブールに運ばれ、ハイベア(1854〜1928)は、イスタンブールに二回出向き(1906、1908)アルキメデス著作集を完成した。この写本には、いままで発見されていない「エラストテネスに宛てた機械学定理に関する方法」略して「方法」が含まれていた。この写本は、第一次世界大戦の混乱に中、イスタンブールから姿を消してしまいます。さて、ウィルソンという教授は、パリの所有者を1970年代に知っていたそうですが、教授によると、所有者の一族は一切の学術調査を断っていたそうです。所有者はパリの国立図書館や大英博物館に売却を持ちかけたが、交渉はまとまらなかった。教授によると、パリの国立図書館は、この写本はフランス文化に関係ないという理由で購入しなかったということです。結局ニュヨークのクリスティーズの競売にかけられ200万ドル(2億円)で、IT産業のA氏(名前は公表していない)が落札した。A氏は、ボルティモアにある。博物館に寄贈したが、こんなエピソードが残されている。A氏はバッグと持って学芸員のところに訪ねて来て。学芸員のオフィスのデスクの上のそのバッグを置き、二人で昼食をとりにレストランに行った。その席で、学芸員が「写本を寄託することを考えていただけたことでも有り難いことです」と切り出すとA氏は、「もう、預けてありますや、あのバッグの中です」と。2億円の写本が自分のデスクの上にある学芸員は気が気でなかったに違いない。A氏はその後の研究に必要な経費も寄付してくれたそうです。

Dアルキメデスの著作の序文は、なんと手紙である。シュラクサイで研究活動を行っていたアルキメデは、その著作の序文として、手紙を書き。アレクサンドリアの学者たちに送っていた。宛先には、エラトステネス、ドシテウス、エラトステネス、ゲロン王とある。「方法」の序文にはエラトステネス宛ての序文(手紙)が書かれている。その一部であるが、明らかに皮肉っている。それは「拝啓、以前に私の発見しましたいくつかの定理をお手元にお送りいたしましたが、そのさいただ命題だけを記しましたのは、そのときはまだあなたにお知らせしていなかったその証明を、あなたご自身が発見なさるようにとお勧めしたかったからでございます。お送りしました定理の命題は、つぎのとおりでした。・・・(定理が書かれている)・・・そこで、これらの定理の証明をこの書に書き記して、いまあなたのおてもとにお送りいたすしだいでございます。なお、もとよりすぐれて有名な学者であられ、しかも機会あるごとに数学の探究を賛美しておらてますので、この同じ書の中にあなたのためにある種の独特な方法を書き記して、詳細に説明するのが適切かと存じました。」