デロス問題(立方体倍積問題)

一般的には、次のように述べられている。

 例えば「数学物語」(矢野健太郎)によると「プラトンについては、次のようなひじょうに有名なおもしろい話が残っています。そのころギリシアのデロス島に、ひじょうに恐ろしい伝染病がはやったことがありましあた。毎日毎日なん十人という人がこの伝染病のために命を奪われていきました。町の人々はもう人間の力ではどうしてもこの伝染病を防ぐことはできないいと考えましたので、相談の上でデロス島の守護神アポロンの神霊にお伺いをたてました。そのときのアポロンのご神託は『祭壇の体積を立方体のままで二倍せよ。しからば悪疫はたちどころにやむだろう』というものでした。・・・そこでこの問題は、とうとうプラトンのところまでもってこられました。プラトンは島の人々のためにと思って、この問題を熱心に研究しましたが、最初は定規とコンパスだけで解こうとしましたので、どうしてもこれを解くことができませんでした。しかし、プラトンとそのお弟子さんたちは、難しい器械を使ってこの問題を解くことができました。でも、プラトンは『そのような方法は、幾何学の美しさをこわしてしまうものである。定規とコンパスだけで解くことが望ましい』といってさらに研究を続けましたが、どうしても成功することができませんでした。・・この問題を定規とコンパスだけで解くという難問が、数学の問題として残ったのです。この問題はデロスの問題ともよばれています。この当時の人々が研究した問題に、角の三等分、円の方形化という問題です。・・・当時の人々は、定規とコンパスだけで解こうとしましたが、難しいので器械を使ってこの問題を解いた人がいました。・・・当時の人々は、プラトンのいうように、そのような器械を使うことは幾何学の美しさをそこなうと考えたのでしょう。」

★さて、ギリシア数学史に関する一般向けの書籍には、時として原典資料を参照しないでいわゆる孫引きに頼ったり 歴史的事実とはとうてい考えられない記述がある。ここでは、デロス問題(この呼び方は不適切であるが)に関する原典資料(Knorr、THE ANCIENT TRDITION OF GEOMETRIC PROBKEM p.17-24参照)を検討していく。また、ギリシアには、作図は、定規とコンパスだけで用いるという制限があったという記述が、必ずといっていいほどあるが、この制限を裏付ける資料はギリシアにはない。さらにプラトンにもない(プラトンと数学の関係についてのサイトを作成する予定)これらは、資料5、資料6を根拠にしているが、ここからプラトンがコンパスと定規の制限をしたと結論づけるのは不可能である。この制限がギリシアで実際にあったということを広めたのはおそらく、カジョリ「初等数学史」思われるその部分を引用すると「ギリシア人はこの問題(角の三等分、立方体倍積問題、円積問題)を定規とコンパスに制限し」という記述である。(コンパスと定規の制限はギリシアにはなかった。このことについてもサイトを作成する予定です)もちろん、ヒースやファンデルベルデンにはこのような記述はない。さらに、コンパスと定規の規制よりも資料2〜4は、幾何学や数学の研究を促している。資料4〜6は定規とコンパスではなく、数学ないし幾何学は非物体、つまり理性をもって研究しなさいといっているように思われる。

★私の推測であるが、資料2のエラストテネス、資料3、4のプルタルコスは、プラトンが立体幾何学のおくれをのべている部分国家(528B)の章句「二次元の次は三次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは、立体の次元や、一般に深さをもつものであるはずだ・・・しかし、ソクラテス、まだ完全に発見されたとはいえないように思えますが」をもとにして述べているのではないかと思う。

★キオスのヒポクラテス(BC430頃活躍)が、立方体倍積問題を二数の間に二つの比例中項を求める問題に変形できることを発見した。つまりa:x=x:y=y:bとなるx,yを求めることに還元した。その典拠は、アルキメデスの「円と円柱について」のエウキトウスによる注釈におさめられている、次のエラトステネスからプトレマイオス宛の手紙である。なお、この手紙は偽作であるという説があったが、knorrは真作であるものとしている。

資料1 アルキメデスの「円と円柱について」のエウキトウスによる注釈(Netz,Works of Archimedes vo1.Cambridge UP p294-298、またはGM.p257) これが根本資料です

「古代の悲劇詩人の一人は、グラウコス王のために墓を建てさせたミノス王を舞台に登場させたといわれている。ミノス王は、その墓がどの方向にも100フィートの長さであると聞いて、『汝は王のすまいを小さく作りすぎた。その大きさは二倍にせねばならぬ。急ぎ、その麗しき形をそこなうことなく、その墓の各辺を二倍にせよ』と言った。しかし彼は間違っていたように思われる。というには、各辺を二倍にすれば面積は四倍なり、体積は八倍になるからである。幾何学者たちはそれから、与えられた立方体を、その形を変えっずに二倍にする方法を研究し始めた。そしてこの問題は立方体の倍積と呼ばれたのだが、それは、それは、幾何学者たちが立方体から始めてこれを二倍しようとしたからである。その後、彼らは長い間、空しくその解法を探し求めたが、やがキオスのヒポクラテスが長い線分が短い線分の二倍であるような二つの線分中間に、二つの比例中項を見つけることさえできれば、その立方体は二倍出来るだろうということに気がついた。このことは、一つの難問を、それと同じくらい厄介な別の難問に変形したものである。
 さらにまた、その後しばらく経って或るデロスの人々が祭壇を二倍にせよという神託を受け、同じ難問に出会ったということも伝えられている彼らはプラトンのアカデメイアにいる幾何学者たちのもとえ使者を送ってその解法をたずねた。このようなことが人々の心をとらえ、与えられた二つの線分の中間に比例中項を作図するという問題に、大いに精を出させたのである。アルキュタスは半円柱を使ってこれを解き、エウドクソスは、いわゆる曲線なるものを使ってこれを解いたといわれている彼らはすべて作図で証明することはできたが、実際に装置を作って役立てることは、メナイモスクが辛うじて、それも難解な方法で行った。」

★この手紙には、前半にミノス王、後半にデロス人の物語が描かれている。前半の物語の真偽は分からないが、前半の物語は、年代的につじつまが合う(注1、注2参照)。また、後半の物語は年代的につじつまがあわない(注4参照)さらに、「デロス問題」という用語は用いられず、「立方体の倍積」とされている。

★この手紙の他に、プトレマイオス王の奉納記念碑にエラトステネスの解法と次のエピグラムが描かれていたとエウトキスは述べている

エピグラム「よき友よ、汝もし小さい立方体よりその二倍の立方体を得ると思い、また任意の立体を他の立体に然るべく変えようと思うとき、その手だては汝の手中にあるなり。汝また、ひだの長さ、穴の深さ、あるいは空の井戸の広き底をも、この手段で測りうべし。すなわち、二個の定規の中間に中項を、両端の一致するがごとくに挿入できれば可なり。汝、アルキュタスの円柱のごとき困難なる業をなさむとすべからず。メナイクモスのごとく三種の円錐を切らむとすべからず。また敬虔なるエウドクソスの述べたごとく、曲がる線をはりめぐらさむともすべからず。否、むしろ汝これら盤上に、或る小さき底より始め、万もて数うる中項を容易に見出すべし。幸いなるかな、プトレマイオス王。青春の力なおその御子に劣らざる父として、御身は学芸の神ミューズ、はたまた地上の王の愛するもの一切を、その御子に授け給えり。されば、おお天なる神ゼウスよ、いつの日かその御子御身の手にせる王者の笏(こつ)を受け給わむことを。併せ願わくは、何人にもあれ、この奉納の品を見る者をして、これぞ、キュレネのエラトステネスの賜物なりと言わしめることを」

注1キオスのヒポクラテスが、立方体の倍積を、二つの比例中項を見つけることに還元した。還元については、プロクロスが「ユークリッド原論第一巻注釈」(p212〜p213)で次のように述べ、この還元を初めてキオスのヒポクラテスが行ったとしている。(キオスのヒポクラテスはBC430頃活躍)
「還元とは、問題あるいは定理から、もしそれが知られたり得られたりすれば、元の命題が明らかになるような別のものに移行することである。たとえば立方体を二倍にするという問題を解くために、幾何学者たちはこの問題が依存する別の問題、すなわち、二つの中項を見いだすことへと探求を移行させた。そあいて、それ以降は、いかに与えられた二線分の間に二つの比例中項を見いだすかを探求したのである。幾何学の困難な問題の還元を最初に行ったのはキオスのヒポクラテスであると言われている。彼はまた図形に関することについては並ぶものなき才能の持ち主であったので月形の正方形化を行い、幾何学において他に多くの発見をした。

注2、ミノス王の物語は、アイキュロス、ソボクレス、エウリビデスの作品にはない。また現存しているギリシア悲劇いもない。なおギリシアにおいて、BC534に、最初の悲劇競演に優勝したという最古の記録が残っており、その後、悲劇はエウリビデス(〜BC406)以後急速に衰退していく(「ギリシア文学を学ぶ人のために」世界思想社より)。

資料2(GM.p257)(スミュルナのテオンがエラトステネスの『プラトニコス』を引用している箇所より)、「エラトステネスはその著『プラトニコス』の中でこう言っている.神がデロスの人たちに,ペストから逃れたければ,汝らは祭壇の2倍の大きさの祭壇を作らねばならぬという神託を下されたとき,工人たちは,一つの立体の2倍の立体がどうすれば作られるかを解こうとして大いに心を悩ました.結局,彼らはプラトンに相談に行き、プラトンはそれに答えて,神がその神託を下されたのは,2倍の祭壇を望まれたためではなく,ギリシア人が数学をおろそかにし,幾何学尊重の心に欠けるところがあるのをとがめるために告げられたのである、と言った」

★同じ物語は,これとほとんど同じ言葉で,プルタルコスにもある

資料3Plutarch.Moralia(386E)LCL
「デロスにある祭壇を二倍にせよという神託が下された時に、プラトンは、神がそれを命じているのではなく、ギリシア人が幾何学を学ぶことを促しているように・・・」

資料4Plutarch.Moralia (579B-D)LCM
「われわれがエジプトから帰る途中、デロス人たちの一団にカリアで出会った。そして彼らは幾何学者のプラトンに、神託によって出された奇妙な問題を解くように依頼した。その神託とはデロスにある祭壇を二倍にすれば、デロス人とギリシア人がかかえている問題が解決するであろうというものであった。彼らは、その意味も見抜けないばかりか、祭壇を作ることにも失敗したので、プラトンにこの難しいについて助けを求めて訪ねたのであった。(四つの側面を二倍にすると、それは驚きであった。彼らの学問の進歩に対する無知のために、辺を二倍にすると、体積は八倍になってしまい驚きであった。)プラトンはエジプト人のことを思い出しながら、デロス人に次のように答えた。神はギリシア人が教育えおおろそかにし、無知とあざけ笑い、幾何学のうわべだけの研究にとどまっていると、そして、平凡でなく、視野の広い知性を奮い起こすためだと。しかし、このテーマに精通したる人が、二つの比例中項をみつける必要があるとした。それは立方体の体積を二倍にする唯一の方法であった。そして、この問題はエウドクソスとプラトンがその間題を解決した。彼らは(この問題の解決)は、神の意志だが、むしろ、ギリシア民族に戦争をやめ、窮乏をなくし、そして、ムーサの学問を奨励し、弁論術への情熱をさまし、数学の研究をしなさいという意志だ。そして、他者とともに生きることが害ではなく有意義であると。」
資料5プルタルコス「食卓歓談集」(29節)岩波文庫
「ディオゲニアノスがこう口火を切った「・・・プラトンが神はつねに幾何学をやっていると言っているのはどういうことなのか考えたりなどしてね。もっとも、この断言がほんとうにプラトンの言葉だと決めていいならばだけど」私が答えて、この言葉はプラトンの著作のどこにも明記されているわけではないが、十分信頼していい理由があるし、いかにもプラトンが言いそうな言葉でもあると言うとチュンダレスがすぐさまそれを受け手こう言った「すると、ディオゲニアノス、この言葉は何か通常のではない難解な意味をこめられた謎めいた言葉だと君は思うのかね。プラトンが何度も言ったり書いたりしていることとは違うと言うのか。だって彼は、幾何学を賞賛して、幾何学は我々を、我々がしがみついている感覚の世界から引き離し、思惟によってとらえられるべき永遠なものへと向かわしめると言っているだろう。・・・・ピロラオスも言っているように諸学の源であり母国であるから、我々の思考を引き上げ、方向を転じさせ、いわば思惟から感覚的なものを洗い清め、感覚的なものからそっと解放する。だからこそプラトンは、エウドクソスやアルキュタスやメナイモスクが立方体を二倍することを道具や機械をも用いる次元のことにしてしまったと非難したわけだ。二つの比例中項を見つけるのに理性を用いずに、手当たりしだいの感覚的なものをつかって何とかしようと試みるようなものだからさ。こうして幾何学の美点が失われ壊されてしまうとプラトンは考えたんだな。だってせっかくの幾何学がまた感覚世界へと逆戻りしてしまい、上へとむかって永遠にして物質から解放された形相、それに照らせば神はつねに神であるような、そういう形相をとらえることをしないことになるからだ」

資料6プルタルコス、「対比列伝」(マルケス伝)岩波文庫             
「この機械技術を初めて起こしたのはエウドクソス及びアルキュタスの一派で、幾何学に趣を加えて美しいものとし、論理や図形による証明がうまくいかない問題に感覚的な機械的な模型を当てはめて、二つの中項に関する問題で多くの図形に必要な要素となるものを二人とも機械的な装置に導き、曲線及び線分から一種の中線を作ることが出来た。しかしプラトンそれを不満としてこの二人に対し、幾何学の美点を破滅させて、非物体的な悟性的なものから感覚的なものに外れるようにし、様々な賤しい仕事を必要とする物体を又元のように用いるようになったと非難したために、機械学は幾何学から分離して排斥され、長い間哲学から侮辱されて、軍事的な技術の一つになった。

資料の検討

注3注2のようにミノス王の物語はギリシアの三大悲劇作家のものではなく、名もない悲劇作家のもであろう(Heath)。資料1では、下線部のように、伝えられている、言われているの部分は、エウキトスが確かな資料を持っていなっかった可能性がありこの問題を「デロス問題」と呼ぶのは疑問が残る。さらにアルキュタスへの書簡(第七書簡)よりアルキュタスはアカデメイアにいたわけでもなく、プラトンは晩年にタラスのアルキュタスを訪問している。、そのあとの部分は確かな資料からのものであろう。エラストテネスが他の所でアルキュタスの解法を述べている所でエウデモスがソースであると述べているところからも明らかなように、エラストテネスは、エウデモスがエウドクソス、メナイモコスを扱っている資料が利用できた可能性は高い。さらにアルキュタスが半円柱を使いエウドクソスが曲線を用いたのは明らかである。従って、エピグラムの言及に従って改ざんされこの一行が挿入されたのである(Knorr参照)

注4キオスのヒポクラテスは、5世紀後半活躍し(おそらくBC430年頃)、すでにデロス問題を二つの比例中項をみつける問題に還元しているのでこの問題をBC427/8頃生まれたプラトンに相談することは、年代的に合わないし不自然。推測だが、デロス人の問題の物語はアカデメイアで作られたものではないか(Knorr参照)。結局、立方体陪積問題を「デロス問題」と呼ぶのは資料から見て適切ではない。

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